Epilogue:宴の後

 ひどい戦いだった。本当に酷い――戦いだった。

 もしもこれがゲームだったら僕はこんな戦術絶対に使わなかっただろう。


「何が起こったのかは覚えていない。アビス・ドラゴンは想定していたより遥かに強大だった。――けど、マスターは本当に凄い人だ!」


 アグノスが翼をばたばた羽ばたかせて王国の兵士達に語りかけている。


 フラーとフィーの回復魔法により、HPが1で死にかけだった身体はほぼ完治していた。体表は白銀の輝きを取り戻し、その口調には無邪気さが戻っている。死にかけたのにすぐに立ち直るとは恐るべき竜だ。

 もしかしたら痛みも感じる間もなく強力な一撃で落とされたのが良かったのかもしれない。


 神殿の一部屋で設けられた宴の席には、その朝まで立ち込めていた暗い空気が欠片も残っていなかった。状況は何も変わっていないのだが、どうやら僕がダンジョンに挑んだことで門に変化があったらしい。


 ぼろぼろになった代わりに巫女から貰った焦げ茶色のローブは地味な色合いだが高級品らしく、肌触りが良すぎて落ち着かない。

 右隣に相変わらずニコニコ楽しそうに座っているフラー。その横ではサイレントがうじうじと地面にのの字を書いている。


「うぅ……わたしも、たたかいたかったのにぃ」


 余程ショックだったのか、食いしん坊のサイレントにしては珍しく、目の前のテーブルに並んだ湯気の上がる料理にも視線を向ける気配はない。


 無理である。サイレントにはこれからも働いてもらわなければならない。むざむざロストさせる訳にはいかないのだ。

 僕はいじけているサイレントの頭上に手を伸ばし、上から叩き潰した。サイレントがぱんと音を立てて風船のように破裂する。


 空気が凍った。こちらに近づこうとしていた巫女が目を見開き固まっている。

 液状化したサイレントが手の平の下で呻いた。


「ぐすっ……あるじ、さいていだぞ」


「そのパフォーマンスいる?」


 僕の評判を落とすなよ。


 上座からは全ての席を見ることができた。王国の兵とそれに囲まれたアグノスの姿。パトリック達竜討伐隊のメンバーに、フィー達一行。神殿に所属しているのだろう、他の巫女や法衣を着た神官の姿。


 戦わずに終わったことに対する戸惑いに、伝承に残る災厄が未然に防げたことに対する安堵。

 眩しそうに目を細めてそれを見て、巫女が言う。どこかいつも硬い雰囲気が和らいでいるのは今回の災厄で一番気を張っていたのが、竜神から言葉を受け取ったという巫女本人だったからなのかもしれない。


「全ては竜操士様――ブロガー様のおかげです。本当にありがとうございました」


「全然実感がないけどね」


 感極まったように頭を深々と下げる巫女に肩を竦めてみせる。僕が戦ったのは世界のためではなく、ナナシノのためである。そしてそれは戦いと呼べる程上等なものではなかった。


 巫女が珍しく表情を崩す。くすりと笑い、僕の前に透き通る液体の入った瓶を掲げる。僕が目の前に置かれた杯を持ち上げると、そっとそこに液体を注ぎ始める。

 水のように透き通った酒だった。これまで嗅いだことのない独特の甘い香りが鼻を擽る。


「ご冗談を……封印を破る程の力を蓄えたアビス・ドラゴンを討伐せしめたのは偉業にほかなりません。百年前、初代操竜士でさえ封印するに留まった邪竜を滅ぼすなど、誰もが不可能だったことです」


 勝利の美酒と呼ぶにはあまりにもチグハグだったが、何も言わず、ただ眉を顰めて、そっと舌先を酒に浸ける。脳が痺れるような甘さと強いアルコールの香りが伝わってきた。何年も前に成人している僕だが、あまりアルコールは嗜まない。

 それでも注がれたこの酒が高級品だということはわかる。


 巫女が表情を元に戻し、こちらを窺う。透明なトパーズのような瞳には心配そうな感情が滲んでいた。


「神酒はお口に合いませんでしたか? 料理の方も――もしも望みのものがあれば」


 初めはこんなに感情豊かではなかったはずだが、彼女にとってアビス・ドラゴンと戦う英雄は奉じる神の次に優先されるべき存在なのかもしれない。

 ただ、僕は飲まないし食べない。

 どこか不安げに見る巫女。僕は杯をテーブルに置くと、純白の法衣の上からでもわかる華奢な肩に腕を回し、抱き寄せた。


「あッ――」


 巫女が小さく年相応の可愛らしい悲鳴をあげる。そのまますっぽり僕の腕の中に収まった。

 法衣を一枚隔て密着したその肉体からは仄かな熱が伝わってくる。拳をぎゅっと握り、巫女が僕を見上げる。頬が染まり、その目が涙で潤んでいる。混乱しているようだが、拒絶している様子はない。


 さすがNPC、イベント終了間近のせいか即落ちである。随分と都合がいい。


 少しだけ手足や首元に装着された金属の装飾品の感触が邪魔だったが、腕に力を入れるとその身体の柔らかさは伝わってきた。

 至近から目と目を合わせればその顔が真っ赤になる。鼓動と緊張が接したからだから伝わってくる。


 そういえばこの巫女って……名前はあるのかな?

 ……まぁいいか。どうせNPCだ。


 とりあえず手始めに以前シャロにやったように首筋に唇を近づけようとしたその時、ふと背後からタックルを受けた。

 衝撃自体はそれほどでもなかったが、思わず巫女を解放する。


 振り向く前に後ろから肩を掴まれ、がくがくと揺さぶられる。呂律のおかしい声が耳元で響いた。


「ぶろがーさあああああああああんッ! わたしをおいてぇ、なにやってるんですかぁ!」


「こら、誰だ、ナナシノに酒を飲ませた奴は! ナナシノは未成年だぞ!」


 振り向く。ナナシノの目は完全に座っていた。眉が歪み、ジト目で僕を睨みつけている。

 いつもの明るく可愛いナナシノはどこに……。


 さっきまで竜討伐隊のメンバーと話していたはずだ。視線をそちらに向けるが、目と目が合うと顔を逸らされた。パトリックが両手を合わせ、拝むかのように頭を下げている。


 ナナシノが襟元を掴みさらにがくがく揺さぶってくる。遠慮が欠片もない。


「なんなんですか!? ねぇ、なんなんですか!? ぶろがーさん!?」


「いいえ」


「わたしを、おいて、ひとりで、たたかいにいくなんて、さいてーです! いっしょに、たたかうって、いったのに!」


 ナナシノの顔は頬も耳元も完全に朱に染まっていた。目の焦点が会っておらず、全身からアルコールの臭いが漂ってくる。

 完全に出来上がっている。まだ宴が始まってからそんなに経っていないのだが、どれだけ飲んだのか。

 熱いのか、額に汗の玉が浮いているが、それを拭う気配もない。


 そして、ナナシノと一緒に戦うとか言った覚えはない。


「いいえ」


「だいたい、ぶろがーさん、わたしのこと、すきっていったのに! もう! なんで、しゃろとか! すぐに、手、だそうとするんですか! もう!」


 更に身を寄せ、ナナシノがもぉもぉ鳴く。牛かな?


 巫女がぽかんと見ている。このシナリオ展開は予想外である。僕も似たような表情をしているかもしれない。身体もふらふらしているが、話の趣旨もふらふらしてるし。


 シャロはどうした。唯一今のナナシノを止められそうなシャロはどうした。探そうとするが、ナナシノが僕の頬を両手で挟み固定してくる。


 ナナシノの後ろでアイちゃんが綺麗な土下座をしているのが見えた。眷属が土下座するの初めて見たぞ。


「しかも、くびすじばっかりねらって! なんですか!? ぶろがーさん、きゅうけつき? なんですか!? もう!」


「……難しいこと知ってるね」


「ばかにしないでください! そのくらい、しってますー! もう!」


「今更だけど、酔いが覚めたら絶対後悔するよ、ナナシノ。冷静になったほうがいい」


 完全に割れを失っている。

 経験談からくる冷静にアドバイスに、ナナシノを唇をヘの字に曲げた。

 あ、これダメだ。 後悔するパターンである。本人の記憶がなくなったとしても目撃者が腐る程いる。


「もぉ、つぎにおいていったら、ぜったいに、ゆるさない、からッ! ひとりで、いっちゃ、だめッ! つぎに、おなじことしたら――」


 ほんの目と鼻の先。ナナシノの目はじんわり涙で潤んでいた。


 強く押され、後ろに倒される。気がついた時には肩が地面に押し付けられ、馬乗りになってきた。


 まさか押し倒す前にナナシノに押し倒されることになるとは。そんなくだらないことを考えている間もなく、ナナシノの顔がこちらに近づいた。

 整えられた眉、艶のある黒髪、桜色の唇が強く結ばれ、潤んだ目が急速に接近する。そして、そのまま――左にずれた。


 さらさらした髪が頬にあたる。首筋に湿ったものが押し付けられる。接触はほんの一瞬だった。すぐに頭があがる。


 真上に見えるナナシノの顔が先程とは比べ物にならないくらいに真っ赤になっていた。混濁した目でぶつぶつと呟く。


「ぜったい、だめです。わたしも……がんばるから――」


「…………おいおい、明日正気に戻った時の反応が楽しみだな」


 首筋にキスされた。なんだこれ、完全に誘ってるじゃないか。

 何が吸血鬼だ。淫魔サキュバスかな?


「あるじのコメントってあたまおかしいよね」


 主人が押し倒されるのを黙ってみていたサイレントが今更コメントする。君の役目ってそういうのじゃないんだけど。

 駄目なサイレントと違い、フラーがぺちぺちと青葉の膝を叩いている。残念ながら効果はないようだがフラーの方が主の危機に敏感のようだ。


「ああああああ青葉ちゃん!? な、なにやってるの!? すいません、師匠。師匠が……そこの巫女の人と――い、いや、なんでもないです。ほ、ほら、青葉ちゃんッ! 立って! しっかり立ってッ!!」


 そこでようやくシャロがやってきてナナシノを後ろから羽交い締めにして引き剥がしてくれた。そのまま、腕を掴み、身を捩るナナシノを連行していく。……破門はまた今度にしておいてやろう。


 起き上がり、着衣の乱れを直す。巫女が今更慌てた様子で近寄ってきた。


「だ、大丈夫ですか? まさか……いきなり、あんなこと――」


「ああ、問題ないよ」


 不完全燃焼ではあるが、こちらからすればサービスしてもらったような物だ。


 酔っ払った状態で暴れて調子を崩したのか、肩を抱えられながら宴の会場を出て行くナナシノを見送る。

 巫女がまるで敵を見るかのような目で今まさにナナシノが出ていった扉を睨みつけている。


「……しかし――いくらなんでもあの態度は命を賭けてアビス・ドラゴンを倒した英雄に対するものでは――」


「いいんだよ」


「……」


「いいんだ」


「……はい」


 二度繰り返すと、巫女がしぶしぶと小さく頷いた。

 いい。そもそも、大体根底からして間違えている。


 僕は――アビス・ドラゴンを倒してなんかいないのだから。




§





 惨敗だった。抵抗すら許されない惨敗だった。だがそれはやる前から分かっていたことだ。


 今の僕のパーティでアビス・ドラゴンに勝つすべは無い。ゲーム時代のアビコルを知り尽くし、攻略系ブログを経営していた僕でも無理だ。


 何故ならば、アビコルとは――召喚ガチャによりユニットを揃えそれを並べるだけ並べて戦うゲームだからだ。


 アビコルと他の似たようなソシャゲの最も大きな違いはパーティに編成出来るユニットの数にある。


 召喚超過ペナルティこそ存在しているものの、アビコルでは一つのパーティに編成出来るユニットの数に制限がない。

 もちろん、ユニットの数が多すぎると状況が管理仕切れないとか、片っ端から死にまくったらコンティニューに石がかかりすぎるだとか、そもそも味方の攻撃が味方にあたって勝手に死んでいくとか幾つかの問題点は存在するが、最終的にアビコルの戦闘は常時召喚可能枠なんて無視して眷属を並べ、魔導石を砕き、常時減り続けるスタミナを無理やり回復させながら物量で敵をぶち殺す色々な意味で酷いゲームになる。


 だが、手に入る石の数が極めて少ないこの世界ではその戦法が取れない。どうしようもないハンデだ。


 現時点でのアビス・ドラゴンに最大ダメージを与える方法はアグノスにありったけの魔導石を使って促成成長レベル・ブーストをかけ、アビス・ドラゴンにけしかけることだった。サイレントじゃ強化したとしてもアビスの持つダメージカットのせいでろくなダメージは与えられない。


 そして、それも焼け石に水だ。

 大器晩成型の境地の一体であるアグノスを石でアビスを倒せる程に強化するには大量の石が必要になる。今の石数で強化したところでアビスには手も足もでない。


 故に――今の僕には絶対に倒せない。

 だが、それでいいはずだった。何故ならば――これがゲームのイベントと同様なのならば、負けたところで世界が滅んだりアビス・ドラゴンがこちらの世界に出てくるわけがなかったからだ。


 ナナシノの心配も巫女の言葉も、王国の準備もただの杞憂だ。だが、彼女たちは言葉だけでは納得しなかった。だから僕は、少しでもナナシノ達を納得させるため――アビス・ドラゴンがダンジョン外に出てこないか確認するために、流儀に反する敗北前提の勝負を挑まねばならなかった。


 アビコルでは『召喚コール』している眷属のHPがゼロになった時点で全滅判定になり、町に戻される。だから、召喚する眷属を調整すれば様子見と言う戦術が可能になる。


 落とし穴はある。アビコルには無数の悪意が存在する。

 そんなに強くないように見えて途中から変身して強力な攻撃を放ってくる魔物や、こちらのパーティ編成によって強さが変わる魔物。エレナへの挑戦クエストのように一定眷属を召喚している状態でしか挑めない戦闘だってある。

 そしてもちろん、その戦術が成り立つのは眷属のロストを飲み込むことができるのならば、の話だ。

 が、こと今回に限って言えばそこは大きな問題はない。


 イベントユニットであるイノセント・ドラゴンは一般的な眷属と扱いが異なる。強制的にパーティに編成され『送還デポート』出来ないのもその内の一つだが、中でも特異なのは彼が――HPがゼロになっても消失ロストしないという点だ。

 イノセント・ドラゴンはその特性の一つ、『竜神王の加護』により、戦闘中にHPがゼロになった場合、戦闘後にHPが一の状態で復活するのだ。イノセント・ドラゴンに限らず、イベントユニットはクエスト進行の整合性のために似たような特性によりロストから保護されていることが多い。


 イノセント・ドラゴンだけ編成した状態でそれがやられれば全滅判定は発生するが、少なくともいなくなることだけはない。それは、僕が試練のダンジョンに最初に入った時にも、ろくにレベルの上がっていない雑魚なアグノスを前に出していた理由でもある。


 アグノスが起こったことを覚えていないのは当然だ。アグノスのHPはアビスの先制で放たれたブレスでゼロになったのだから。


 全て想定通りに進んだ。唯一想定外だったのは、アビスが僕にまで攻撃を仕掛けてきたことだ。僕はプレイヤーだったので当然ダメージは受けなかったが、アビスが諦めることなく延々と攻撃をしかけてきたおかげでダンジョンから出るまでに時間がかかったし、服がボロボロになってしまった。


 当然だが、アビス・ドラゴンは生きている。生きてるというか、たとえ一回倒したとところで奴はいなくならない。

 イベントに設定された達成報酬の一つはアビス・ドラゴンの討伐回数に応じたものなのだ。ゲーム時代には周回していた。千体倒せって頭おかしいわ、数増やせばいいってもんじゃないぞ。


 今もアビス・ドラゴンはダンジョンの中で挑戦者を、そして永遠に到達することのないダンジョンからの脱出の時を待っていることだろう。イベントキャラの悲しい運命である。


 ――そして同様に、アグノスが去る時もまた、一刻一刻と近づいていた。


 宴の終わりも近づき、ふと外の空気を浴びたくなって神殿の外に出る。


 先程まで詰めていた兵士達は大部分が既に帰っており、もう日が沈んでいることもあって神殿周辺には再び静けさが戻っていた。


 闇色の空には雲ひとつなく、浮かんだ七つの月がくっきりと見える。

 中でも目立つのは竜種を示す濃い黄色の月だ。だが、放っている光は以前と比べて弱まって見えた。


 竜神祭のイベントについて、巫女はこの世界が黃竜界と近づいているという表現をした。もしかしたら光が弱まっているのは、離れていること――イベントの終了が近づいていることを意味しているのかもしれない。


「マスター、いい夜だね」


 空を見上げ今後のことを考えていると後ろから声がかかった。振り向くまでもなく、その名で僕を呼ぶのはアグノスしかいない。

 伝説に謳われるイノセント・ドラゴンは僕よりも余程大人気の引っ張りだこだったが、なんとか抜け出してきたのか。

 アグノスが僕の隣に並ぶ。まだ進化ステージ・アップは半分もできていないんだが、初めの情けない卵姿とくらべて随分と立派になったものである。


 まぁ、もういなくなるけど。


「マスター、改めてお礼を言うよ。マスターには本当に感謝してる。アビスは僕の想像以上に成長していた。もしも僕がマスターを見つけられなかったらきっと止められなかっただろう」


 感慨深そうに、そしてどこか寂しそうにアグノスが言う。

 実態はどうあれ、イベントキャラに相応しい美しくも神々しい竜だ。一番初めの竜神祭――イノセント・ドラゴンが仲間に入った時の感動を僕は今でもよく覚えている。


 僕は隣に佇むアグノスの頭を撫で、きっぱりと返す。


「御託はいらないよ、スキップだ、アグノス。全てわかってる。別れを言いに来たんだろう」


 アグノスが目を細める。そして、僕の問いには答えず、首を上げて視線を空に向ける。


「……マスターは、本当に不思議な人だ。とっても大変だったけど、マスターと共に戦えたことを、僕は誇りに思う」


「やるべきことをやっただけだ。感謝する必要もない。僕にとっても実りのあるイベントだった」


 達成報酬の他にも収穫はあった。アビス・ドラゴンと相対し会話したことで得られた物もあった。

 イベントキャラは抜ける運命であり、もともとわかっていたことだ。だから、残念でもない。


 僕の表情を見て、アグノスが続ける。


「本当はもっと一緒に冒険したかった。だけど、僕はサイレント達とは違う。星の位置が変われば――黃竜界が遠ざかれば僕はこの地にはいられない。鱗の一枚も残さず消えてしまうだろう」


 まぁ……イベントキャラだしなぁ。

 アグノスの目がじんわりと滲む。その口調はまるで今生の別れを告げているかのようだ。 


 ――だが、これは今生の別れでもなんでもない。


 竜神祭はイベントの中では最も頻繁に開催される物のうちの一つである。

 ゲーム時代は年に二回ないし三回発生していた。

 イベントが発生する度に卵形態から育てなくてはならないイノセント・ドラゴンにはみんな辟易していたものだ。

 どうしてそんなイベントキャラのくせにしんみりした雰囲気なんて出しているのか。


 そのことを指摘するかどうか迷ったが、空気を読むことにする。

 微笑みを浮かべ、アグノスの首元を撫でてやった。


「きっとまた共に戦う日が来る。それは運命だ、だからさよならは言わないよ。またね、アグノス」


 アグノスが言葉の代わりに小さく鳴く。


 初めてのイベント。得るものはあった。ゲーム時代とは違うこの世界特有の仕様も見えてきた。

 僕のアビコル世界攻略は新たな局面に入りつつある。


 そして――他のプレイヤーの影。

 どこにいるのか、残念ながらイベント中に見かけることはなかったが、ナナシノ以外の他のプレイヤーの気配を感じる。気の所為ではない。確かにいる。しかも、ナナシノのような初心者じゃない。

 まだ眷属の育成を優先すべきだが、いずれ出会うこともあるだろう。


 黙り込んでしまったアグノスと共に、空を見上げる。

 天上には変わらずこの世界が異なる世界であることを示す七色の月が輝いていた。


 サイレントにアルラウネ。リビング・ストーンにおにぎりにメリーシープ。まだまだ僕はスタート地点に立ってすらいない。


 僕のアビス・コーリングはまだ始まったばかりだ。




§ § §




 神殿地下。整然と並ぶ五つの門の前。念のために見張りを頼まれた兵士が大きく欠伸をする。


 今朝方まで、その中の一つの門は鎖で縛られ、禍々しいエネルギーが漏れ出していたが、今の五つの門の違いは境界で揺らめく光の色だけだ。


 例年、竜神の試練に挑む召喚士は何人もいるが、アビス復活の兆しにより今年の門に挑んだ召喚士はほとんどいなかった。

 黃竜界が遠ざかれば異界へのゲートは閉ざされ、再び黃竜界が近づく一年後まで門は眠りにつくだろう。それは大自然の摂理によるものであり、人の手でコントロールできる事象ではない。


 階上では門を鎮めた操竜士を讃える宴が催されているはずだ。


 任務を受けてしまったことを残念に思いつつ、変化のない門を眺めているとふと足音が聞こえた。

 兵士が緩みかけていた姿勢を正し、真っ直ぐ立つ。階上から降りてきたのは細身の人影だった。厚手の黒いローブ。深く被った黒いフードの隙間から黒髪が見える。

 すらっと伸びた指先には如何にも曰く有りげな古びた指輪が嵌められていた。一人らしく周囲に他に影はない。


 明らかに怪しいその姿に、兵士が眉を顰める。


「何か用か?」


「まだ、竜神祭終わってないか?」


 答えの代わりに返ってきたのは問いだった。その見た目からは予想できない涼やかで中性的な声に、兵士が目を見開く。

 門のある試練の間には貴重品などはなく、常に開かれている。竜神の力により守られた門を破壊するのも不可能だ。


 ここにやって来るものの目的はただ一つ、試練を受けるためにほかならない。

 兵士がちらりと門の境界を見る。境界は相変わらず水面の如く揺れており、その向こう側に存在するとされる異界の風景は見えない。


「あ、ああ……まだ終わって、ないはずだが――もう間もなく閉じるはずだ」


「ギリギリセーフか……よかった」


 ほっと息をつくと、黒フードは迷いない足どりで黒色の門――アビス・ドラゴンが封印されていた門に近づく。


 竜神の試練を受ける権利は万人に存在する。念のため監視を任された兵士に止める権利はない。いや、そもそも今更誰かが試練に挑むなど想定されていなかったのだが――。


 兵士が慌てて腕を伸ばし制止する。


「ま、待った。その門は――かのアビスが封じられていた門で――い、いや、そもそも、門には召喚士コーラーしか――」


「わかってる。腕試しに――来たんだ。というか、命令されたんだけど――久しぶりの――本当に久しぶりの――『イベント』だから。アビドラは……HPが多いし、軽減もあるからあまり好きじゃないんだけど、そんなに――強くないはず――だし」


「うで……だめし? 軽……減……?」


 国一つを容易く滅ぼしうる最悪の邪竜の封印された門に挑もうと言うにはあまりにも軽い動機。日常会話でもするかのような声色に強い異常と嫌悪を感じ、兵士が思わず一步後退る。


 それを追うことなく、黒フードが身体を門に向ける。手を伸ばすと、小さく唱えた。






「『召喚コール』」





*****作者あとがき*****

ここまでお読み頂きありがとうございました!

12時にキャラ紹介を投稿して、これにて第五章終幕になります。

そして、次章は最終章になる予定です。日程は未定ですが、それほど遠くないうちに投稿したいと思っています。今しばらくお待ちください。

Web版、書籍版ともに、引き続きアビコルをよろしくお願いします。

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