夜間飛行
小練さんの白い手が、カサをにぎっている。ちいさな
「いこう、きっと楽しいよ」
にっこり笑顔をむけられて、ぐっとのどがこわばる。
小練さんがなにをするつもりなのかわからないけど、ぼくは朝のことを思い出していた。
彼女がさし出してくれた手を、ぼくはにぎれなかった。かえり道でも、小練さんが助けようとしてくれていたのに、ぼくはそれをつっぱねた。
これで、三回目。
三回もぼくをたすけようとしてくれたんだ。
大きく深呼吸してから、ぼくはそのカサを……にぎった。
「しっかりつかまっててね」
小練さんが窓枠から体をおこし……ぴょん、と窓の外へ飛び出した。
「わ、っ!」
ぼくはおもわず目を閉じた。でも、どうしてかカサを握る手を離せなかった。
その瞬間、いきなり体がかるくなった。まるで浮き上がりそうなくらいに自分の体重が感じられなくなって……そして、足が床から離れた。
顔に空気が吹きつけてくる。
「お、ち……てない……」
ゆっくり、目を開ける。
ぼくはカサをにぎった右手に引っ張られて、空を飛んでいた。
たとえ話じゃない。ほんとうに、飛んでいた。
小練さんがまたがった
ロケットみたいにまっすぐに、ぼくたちは夜の空へと、ふつうとは逆むきに吸い込まれていく。
「う、わ、わっ……!」
おもわず、右手に力をこめる。
でも、引っ張られているというよりは、ぼくの体も一緒に浮かんでいるみたいだ。ふつうなら肩がいたくなりそうだけど、今はそんなことはない。
でも、風がびゅうびゅうと顔に吹き付けてきて、両手足のすそをまくったパジャマがばたばたと音を立てていた。
小練さんのながい髪が風のなかで旗みたいにたなびく。
「見て、勇生くん。いい景色」
頭の上から、小練さんの声。ぼくはおそるおそる、顔を下に向けた。
街の明かりがいくつも並んでいるのがみえた。いくつも並んだ家々の窓から白いあかりがもれている。それがいくつもつらなって、まるでクリスマスツリーの飾りみたいにみえた。
みるみる、ぼくたちは上にむかっていく。街はどんどん遠ざかっていく。教室のうしろに貼ってある地図とよく似た形になってきた。大通りを走る色とりどりの車も、まるでおもちゃのように見えた。
打ち上げ花火に心があったら、こんな気もちなんだろうか? まさか、小練さんは空で爆発したりしないと思うけど。
「すごい、こんなに……高いところからみたの、初めてだ」
何年も、ずっと住んでる街だけど。
地面に立ってみるのと、空を飛んでみるのと、まるで景色が違っていた。夜の街を歩く人影がときおりみえて、手を振ってみたい気分だった。むこうは、空なんか見上げていないけど。
「もっと、スピード出すよ!」
カサを腿に挟んだ小練さんが、気持ちよさそうに声をあげる。体を前にかたむかせて、自転車で坂を下るみたいに速くなっていく。
「わ、う、わわっ!」
しっかりとカサをにぎる。さいわい、速度が上がってもひっぱられる感じではないのだけど。
「あははっ! 楽しいね!」
小練さんは笑いながら、住宅街の上を飛び回る。いろんな形の屋根がぼくの下を次々に通り抜けて、そのひとつひとつに誰かが住んでるんだって思える。
そのひとりひとりがぼくと同じように悩んでるんだよって、教えたかったのかな?
……と、いうふうに、もっと感傷にひたりたいんだけど。
「ちょ、ちょっと、スピード出しすぎ!」
ぐんぐん、カサは速度を増している。飛ぶ高さもだんだん低くなってきている。これじゃあまるで、というか、ジェットコースターそのものだ!
「だいじょうぶ、飛ぶのにスピード違反はないから!」
進む先には、今度は高いビルが立ち並んでいる。ビルの電気はほとんど消えてるみたいだけど……
「いっくよー!」
「うわわわわわっ!」
ビルとビルのあいだに猛スピードでつっこんでいく。右に左に、大きく曲がって建物の間を飛ぶ。レースゲームみたいだ。ただし、ぼくはそのうしろにつかまっていて、まがるたびに体ごとふりまわされているから、気が気じゃない。
「ちょ、ちょっと、ゆっくり……!」
「へいき、へいき!」
ぐん、と体が上むいて、また高くなっていく。
「ほら、上も見てみよう、よっ!」
小練さんがカサに乗ったまま、体を横に大きくたおして……それどころか、くるん、っと体が上下さかさまになる。鉄棒に下からしがみついてるみたいな格好だ。
「う、わ、わわっ!」
それにあわせて、ぼくも体がさかさまに。背およぎするみたいに、顔が空に向けられる。
「こ、こんな状況で上なんて……」
そう言いかけて、おもわず言葉がとぎれた。
うすぐもがいくつもかかった空に、星がたくさんかがやいている。高いところにいるせいか、いつもよりもよく見える気がした。
街の電気の明かりとはちょっと違った、キラキラした星の色。さすがに満天の星空とはいかなかったけど、こうして星のでてる空を見るのは、ずっと久しぶりな気がした。
いつのまにか、ぼくは笑っていた。たぶん、小練さんみたいに目を輝かせて空をみている。
ベッドの上でふさぎこんでいたときより、ずっと気もちがらくになっていた。
小練さんと一緒にいるのが、たのしい。ぼくのためにしてくれているのが、うれしい。
「小練さん!」
ぼくはさかさまになったまま、お礼を言おうと思った。でも……
「マシュマロでいいよ!」
風のおとにさえぎられないように、彼女は首を振り向かせて……
顔をみて、ちゃんとお礼を言おうと思ってたんだけど。
そのとき、ぼくは気づいてしまった。
上下さかさまになって、しかも猛スピードで飛んでいるせいで、カサにまたがった小練さんのスカートがまきあげられて……
「ちょ、わ……っ!」
思わず、ぼくはおどろいて目を閉じて。それだけじゃなくて、カサを握っていた手をはなしてしまった。
とたん、空を飛んでるスピードがなくなって、かわりに猛スピードで下へと落ちていく。
「落ちるー……っ!」
まるで、ニュートンがみていたりんごになったみたいだ。
手足をばたばたうごかしたって、つかまるものがあるわけじゃない。
風がびゅうびゅうと耳元で音をたてている。すそをまくったパジャマがばたばたとからみついてくる。
おとうさん、おかあさん、いままでありがとう。
それから、ちょっとだけ、お兄ちゃんも。
住みなれた街を、考えたことがないくらいの高さからみおろして、これがぼくが最後にみる景色になるんだって、そう思った。
その景色が、どんどん近づいてきて……
「勇生くん!」
小練さんもそれに気づいて、猛スピードでUターン。落ちる途中のぼくに向かって、手を差し出す。
「手をのばして!」
落下していくぼくのほうへ、女の子が手をのばす。ぼくは、夢中で彼女のほうへ手をのばす。
手がふれるまで、あと10センチ。
指と指のあいだを風がすりぬけていくのを感じながら、今日いちにちのできごとが、いっぺんに思いだされた。
あと5センチ。
まるで夢みたいな一日。でも、これは現実に起きたことなんだ。
あと3センチ。
ぼくは夢中で、手をのばして……
あと7センチ。
「……あれ?」
小練さんの声が聞こえた。
あと15センチ。
手が届かないまま、どんどん離れていく。
体の下には、どこかのビルの屋上。屋上に落ちるなんて!
「あれ? じゃないよぉぉー!」
ぼくはほかにどうしようもなくて、おもわず叫んでいた。
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