第五章 折れた剣と英雄譚

第20話




 その日の夜、少女は道化師の座る孤児院の屋根の上へと続く梯子を登り何も言わずに彼と反対側の屋根の縁に膝を抱えて座った。少女は無意識に夢の中で触れられた首をそっと手でなぞる。

 あれから、夢を見ることは無かった。

 冷ややかな枯れた木々の葉を飛ばす風に髪を靡かせ、孤児院から市街地を何も言わずに見下ろしているといつの間にか後ろに立っていた道化師が突然「まだ落ち込んでいるのか、英雄様ぁ」と語りかける。

「んん、いや…いや、そうだ。それは当たり前だ。僕達は仲間をやられた。そうだろう?アンタは優しいからね、悲しいんだね」

「僕のせいでもあるからな」

 少女は投げやりに返した。

「守りきれなかった。僕等のせいだ」

 クラウが言い直す。棟の上に器用に立ち、月を見上げる彼に目もくれず、少女は軒先に足をかけた。


「…血族。血族ねぇ。自分達がよっぽど恐ろしいと思っているらしい。誰が本当に恐ろしいかクラウが見せてやる、馬鹿な血族め…」

 頭上から意外な程に低く脅かすような道化師の呟きが耳に飛び込んだ。

「なにかする気なのか」

「あんなことをされてクラウは怒っている。そしてこの後もだ。酷い事が起こる…殺しにいくよ、あれの首を折る。ナイフをお腹に突き立てるのだ。裏切りの代償は償わせなければいけない。違うかい」

 少女は黙りこんだ。深い悲しみと悲嘆、それでも諦めることができないでいる友人達への想いにただただ混乱していたのだった。

 また意味もなく手を血で汚すつもりなのだろうか、と少女は思った。自分自身の手に染みた剣士の血が、光の娘の血が、旅の中で奪ってきた者たちの血が自分を責めているような気持ちだった。

「意味がないと思ってるだろ?」

 道化師は顔を僅かに歪ませる。

 少女は息を詰まらせ、そして軒先から道化師の方へと振り返った。どこか平坦にさえ聞こえる道化師の声が続く。

「剣士様は死んだ。クラウの友達も死んだ。クラウの友達は裏切った。守る人がいないから敵を殺す理由は無いと思ってる」

「わかってるのなら!」

 少女が立ち上がろうとした瞬間、道化師は言った。

「死んだみんなの代わりに僕達がやらなきゃ」

 今にも泣きだしてしまいそうで、それでいて笑いを堪え切れないような声だった。少女は道化が戯けた様子で、まるで歌うように月を背にして話すのを見た。

「死。いつまで経っても聞き慣れない言葉だ!クラウもアンタも、死者の呪いにかかったがいつかは塵になる。心を失い、地に帰る時が来るのだ。人は死を克服できやしない」

 道化は夜の闇の中で語る。

「悲しい事もあれば、救いとなることもあるがそれは僕達が勝手にそう受け取っただけの事。死はただ、そこにあるだけ。蕾が開くように。墓石の字がかすれて読めなくなるように。太陽が毎朝登るように。廻り巡る事象の一つだ。それでも僕等は死者を踏みしめて生きなければ」

 少女は消え入りそうな声で言った。

「生きる…?」

「死体だけどね」

 道化は手を広げて無邪気に笑ってみせた。

「それでも今、クラウは思考せずにはいられない!きっと我等に終わりはないのだと!


 


 …必ず残るのだ英雄よ、私達の土が!意志の欠けらが…骨の一片すら形を残さなくなった未来においても、私達の動かした〈何か〉が私達の存在を証明し、存続させていく!」

「…死の、先」

 ひとつ息を吐き、クラウは大きく声をあげるのを一度止めて屋根の棟から軒先へと飛び降りた。

「それはどうしようもなく当たり前で…然し、美しいことだ。私達に流れる血の一筋一筋が、別の誰かの命だったのなら」


 自分の掌を見つめて、次に道化師に向き直ると少女は掠れた声で言った。

「…僕にできることなんて、少ないよ」

「だがクラウは英雄ではない。クラウは違う。英雄は…アンタだ。だから、従うよ」

 クラウはいつものように笑っていた。

「アンタができないことを、僕がやればいい」

 道化師が少女の手を掴んだ。自分よりも細いように見える程に痩せた指が月の光を浴びて白く光っている。少女は手を振りほどくと道化師から視線を逸らした。

「血族に会いたい」

「もちろん!さ、始めよう。殺しは上手に、復讐は計画的に。…あ、そうだ。そうだった」

 道化は突然はね起きるように身体を浮かせ、直後少女を脇に抱えて屋根の上から飛び降りた。少女は口から小さな悲鳴をあげたが道化師が向かう場所に気づくと表情を曇らせた。

 広間には倒れたアリアナがいた。

 道化がアリアナの死体からそっと帽子を取って少女に持たせる。

「アンタ、元老院の剣士の帽子は血族の魔力を弾く石が嵌められてるらしいよ。これだって彼女の残り香だろう?」

「…僕が使っていいのかな」

「嫌ならクラウが使う!

 それにさ、どうやらアンタには別のが味方してくれるみたいだし」

 次の瞬間、少女は自分の目に飛び込んできた物に息が止まりそうになった。

 アリアナの身体から黒い靄が浮き出ている。

「影?!」

「それも強い憎しみを持ってる!余程あいつらに一泡吹かせたいらしいね。どうする?」

 ざわり、と闇が浮き立った。少女は逡巡したが、剣を引き抜くと静かに靄の前へと翳した。






 月の光が強くなった気がして少女が帽子を被り、孤児院の扉を開くと道化師が出かける支度をしていた。

「今夜は本当なら特別な日だったんだ。漁村が数年に一度、潮が完全に満ちて海に沈む日」綺麗だよ、と言うクラウの案内に従い少女は帽子と共に市街地を出て漁村を見に向かった。

 道化師の言った事は真実だった。月が空の頂上で青々と輝くその日は珍しく赤月でない夜の事で、漁村は幻想的な青い光で満たされていた。

「月の光で輝く海水が吊るされたランタンに入るとね、中で丸まっていた海螢かいけいが海に沈んだ漁村中を照らすんだ」

 家々の窓や小さな通りにまで青い光は満ち、波によってそれがちらちらとさざめく様子に少女は思わず立ち止まる。狗を作り出した漁村が目の前に広がるものだという事実は少女が完全に納得するには少し難しく思えるような、それほどまでに美しい景色だった。

『昔はここから漁村の皆や市街地の仲間達とこれからも月の加護があるように祈りを捧げたって話だ。』

 ふと頭上の声を聞くと、帽子の声もいつもより静かで、それでいて暖かみのある声に変わっていた。横で座って漁村を眺める道化師の瞳に青い光が映り込んで複雑に煌めいているのが見えた。

 漁村の波から飛んできたのか、1匹の海螢が少女の目の前を横切り夜の闇へと消えていった。海螢は薄く青白い羽根をぱたぱたと動かし滑るように飛んでいく。光の尾を追うように視線を移動させると城壁の見張り台へと続く階段が目に入った。

「ねぇクロ坊、もっと景色が良く見える場所に行こうよ。高い所ならきっと全体が見渡せる」

『ああ』

 帽子を落とさないように胸に抱えて階段を駆け上がる。道化師は気がつくと孤児院に戻る道へと姿を消していた。階段を登りながら反対側にある市街地を眺めると、此方には橙色のガス灯が灯されていた。時折海螢が少女の傍に飛んできては、また漁村の方へと消えていった。下を向くと帽子と目が合った。黒帽子の赤い瞳にも漁村の幻想的な灯は静かに映し出されていた。

 長く高い螺旋階段を上がり、見張り台にたどり着くと2人は言葉も無く漁村を見下ろした。

 肌を撫ぜる海風は潮の香りを強く含み、少女の髪を靡かせている。普段は黒々とした海も、今夜だけは青い輝きと月の明かりで青く色のつけられた硝子やアイオライトのように村を煌めかせた。


 黒帽子がふと、目を細めて少女に語りかけた。

『彼女は人を愛し、人を憎んだ』

 アリアナの事だと少女はすぐさま気づいた。胸に抱えた帽子に視線を向ける。

『私達を守りたかったんだろう。…なぁ、英雄志望』

「…うん」

『憎しみが、人を救うのはいけない事なのだろうか?』

 少女は眉を寄せて、漁村の明かりへ目を向ける。

「アリアナさんは辛くなかったかな」

『もう私にはわからない。…できるだけのことをしてやれ』

「…うん。僕だって、ちゃんとやらなきゃいけないんだ。辛いけど、英雄になれないのはもっと嫌だ。」

『そうか』

 帽子は何かを考えるように暫く黙り込んでいたが、頭を持ち上げるかのような動きで少女に視線を寄越すと絞り出すように小さな声で言った。

『お前が主で良かったと思う』

 意表を突かれたように帽子を見た少女に瞳だけで微笑する。

「僕は…」

 その時、市街地から時計台の鐘の音が響いてきた。少女と帽子がはっとしたように顔を見合わせ、それから眼下の漁村へと視線を向ける。

 月が僅かに傾き、海螢が波の底から水面へと向かって一斉に浮かび上がっていくのが見えた。

『潮が』

 海の潮がゆっくりと引いていく。青白い小さな光達は僅かに水面でさざめき、揺らぐとひとつの光が月のある空へと向かって一条の光を残し飛んでいった。それを追うようにひとつ、ふたつ、みっつと光の筋は増えていく。空が青い光の線で埋め尽くされ、星のように煌めいては月の明かりの中へと消えていく。

 海が元の暗闇へと戻っていく様子を眺めながら、少女は小さくため息をこぼす。胸に抱えた友人と視線を合わせると、帽子と同じように微笑んでみせた。


「綺麗だね」

『ああ』


 少女は黒々とした闇へ姿を戻した海を眺めた。潮風は冷たく、市街地のガス灯も消えていたが、それでもそこには確かに、さっきまで、美しい光が灯されていた。

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