第19話





 少女は口の中に滲んだ血を吐き出し、キッと目の前の巨大な獣を睨みつけた。

「こんなの聞いていないぞ」碌に受け身も取らずに夜霧に冷やされた地面に手をつき起き上がる。

 瓦礫が見境なく浴びせられる獣の爪によって崩れるのが視界の端に映った。

 次いで懐に滑りこもうと地面を蹴った瞬間、少女は静かな声を聞いた。

 遠くから、囁くように。だが、言葉の一節一節は少女の頭の中に染み入り、確かにそこにある物と錯覚するような声。

 視界がぼやけた。獣も、頭上に置かれた帽子さえも歪み、滲んで溶ける。ふと隣を見ると自分の隣に誰かが立っているのを見た。


「ずっとずっと、昔の話をしよう」

 少女は、今はもう元に戻った傷を混乱したように撫ぜる。隣に立つ人物の声が滲んだ世界の中に落ちる。

 少女が目を溢れんばかりに見開き、自分より背の高い誰かを見上げるが、人影はそれを気にする事もなく話を続ける。


「この地は過去、王でなく人と魔女の住む場所だった。 ある日、人の中に王が現れ、呪われたくらやみを作り出した。

 民に力を与え、その地を、空を服す為の暗黒を。

 王は【禊】と名を変え、闇は姿を王の冠とした。」

「待て、誰だお前は?それに僕はそんな話聞いた事無いぞ。コフィンの孤児院でみんなから聞いた話も、漁村の傍や旧市街地に向かった時も、いつも王は神聖で絶対的な存在だった。呪われたくらやみだって?」

 突然話に割り込む少女に人影は僅かにその視線を投げて寄越した。身を屈め、男とも女ともつかない整った顔が覗く。頰には緑色の刺青が彫られ、瞳は深い海の底のように静かだった。

「闇も呪いも、世界の理のひとつ。悪ではない」

 薄い唇から囁くように声が漏れる。

 少女は身体の芯を固めるようにして目の前の人物の言葉を繰り返す。


「呪いは悪ではない?」

「禍を招くのはいつだって呪いを扱う者達だ。闇は光と対を成す物。ただそこに当たり前のようにあるだけ」

 扱う者。その言葉は少女は胸の内に重く沈み込むように響いた。


「王は世界から危機を取り去った。雲は割れず、不幸な化物は秘匿され、民に与えられた祝福は永遠に身体に根付く。闇は世界の痛みを全て消し去った。」

「死者の呪いはどうなる」

 掠れたような声が問いを紡ぐ。僅かに微笑した誰かは少女の首に触れる。少女は身体を強張らせたが触れた手に力がこもることは無く、ただ慈しむように撫ぜられただけだった。

「私達は棒切れを持つだけで空が飛べるか?」

「何が言いたい」


「王は全能ではない」












『ずっとずっと昔の話を、終わらせる話をしよう。』


『王の禊は守るべき者のいない地にて無為となり、その祝福を棄てた一人の亡者がいた事を。

 ただ、それだけの話。終わりのひとつの話。だがいつかそれは、きっと』














「………あの帽子のお気に入りか。英雄のなり損ない」

 英雄という言葉を聞いた瞬間少女は眉間に皺を寄せ目を逸らす。

「お前には関係ない。クロ坊の知り合いだな?道理で言い回しが回りくどいな」

 少女は吐き捨てるように口を開いた。伸ばされた手を後ずさるように退け、関わるなと呟く。

 少女のそんな姿を見ても身体を屈めていた誰かは特にその態度を気にかけることはなかった。

「英雄にはなれたか?」

 目の前の人物から発せられた言葉が耳を打ち、少女の頭にみるみるうちに血が上った。自嘲めいた笑いを上げると少女は眼前を睨みつける。

「英雄に見えるか?!」

 目の前の人物の腕を振り払い、唸るように叫ぶ。

「英雄に見えるのか、この姿が!今迄も、これからだってそうだ!僕は英雄じゃない、英雄にはなれない、ただの亡者じゃないか!!」

 少女は裏返る程に声を張り上げ、膝を地面につける。何度も何度も地面に握り拳を叩きつけ、身体中に満ちた理不尽さに意味を成さない叫びを上げて目を強く閉じた。

「殺してばかりなんだ、僕は!」

 それを聞いた人影は、動きを止めて少女を見つめた。

「わかったら放っておいてくれ」

「なら何故苦しんでいる」

 少女は言葉をかき消すようにもう一度強く地面を叩き顔を上げて目の前を睨みつけた。

 身体を更に折り曲げるようにして誰かは姿を変える。青い髪はより暗い瑠璃色に変わり長く伸び、瞳は長い睫毛に縁取られ、暖かな微笑が表情に浮かぶ。

「君に大切な物を取り戻して貰った道化はなんと言う?彼は君を英雄だと称えていたな」

 驚き、敵意を込めた表情をする事すら忘れ少女は道化の顔をまじまじと見つめる。道化は目を細めて笑い、身体を翻す。

「そうだな、仲間の魂を救済された剣士は今の君を見てなんと言うだろう。残忍な血で汚れた人殺しと君を罵るか?彼女はそんな事は言わない。」

 目の前にはアリアナの姿。灰色のかかった金の瞳が少女を見据える。

「人を殺したくて殺す英雄などいない」

 少女は言葉を失った。

「君は狂ったただの亡者とは違う」

 少女はふと、自分の頭上にあった重さを懐かしく思った。突然、倒れた自分のすぐ横に帽子が寄り添う姿が脳裏に浮かぶ。

「英雄の素質を持った、優しい人間に見える」



 目の前の人物は元の中性的な姿に戻っていた。

「騙るなら、騙り続けろ。それはいつか真になり、路を照らす君の力になる」

 少女は差し出された手に躊躇い、然し覚悟を決めたようにそれを掴み立ち上がった。

「英雄だと、最期まで見栄を張り続けた者だけが英雄になれるのだから」



「……英雄になりたいんだ。誰よりもかっこいい英雄に」

 掠れた声で呟く。

「見栄だって?騙るだって?馬鹿にしやがって。いいさ、それなら見栄を張ってやる。嘘でも英雄だと騙り続けて、本当の英雄になってやる」


 少女を取り巻くように一陣の風が吹いた。歪み、滲んだ景色は風が取り去った。ただ、深い闇とその奥から刺すような白い光が見えた。


「だって、僕はきっとーーーーーー



 ーーーーーー!」







 闇の中から消えた少女を人影は見送っていた。

「君が特別扱いする理由がなんとなくわかったな。親子共々、ああいう真っ直ぐな人間が好きらしい」

 黒帽子と同じ、赤い月の色をした瞳がゆっくりと閉じられた。








 少女は窓から差し込む光に眉を顰め、僅かに時間を置いてから意識を取り戻した。

 どうやら、ここに戻るまでに何日も日を跨いだようで髪は僅かに伸びて目の前にちらついた。

 黒い帽子が赤い目を一度大きく見開き、そして僅かに震わすと力強く笑いかけた。

 少女はここに来て初めて、帽子の暖かな笑顔を目にした。



『………嗚呼、いつか未来の英雄よ』


『待っていたんだ。お前だけを、ずっと』


 ゆっくりと身体を起こし、帽子を手に取って頷く。窓から差し込んだ陽が2人の背を照らしていた。

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