第17話





太陽が完全に沈み、空の月明かりすら入らないようなくらやみに孤児院は包まれていた。

少女が広間を出て、奥の寝室に駆け込むと部屋の奥から肉の焦げるような匂いが鼻をついた。

少女は状況に追いつけず明らかに狼狽していたが、なにか恐ろしい事が起こったという事だけは理解できていた。

「アンタか」

酷く掠れた声が少女の耳に入った。少女の見開いた目の端に道化師が映る。

暗い部屋の中でもわかる程鮮やかな赤い血が流れていた。道化師は背を酷く折り曲げた状態で、苦しそうに何かを抱えてしゃがみこんでいるようだった。

「なにがあった」

少女は震える声で必死に言葉を紡いだ。クラウはそれに対する返事はせずにただ一言、水が欲しいといった内容の事を話した。

少女は震えるまま水のある場所へと向かった。道化師が何を抱えていたのか。


あれは孤児院の幼い少女だった。


酷く悍ましい夢であって欲しいと思った。彼の抱えていた物は灰色の光を写さない濁った瞳に黒く乾いた血が飛び散り、頬には粘土のように血の流れを失った肉が張り付いていたが、それでも確かに茶色のくりくりとした瞳に、ほんのりと赤く染まった頬をした、あの小さな友人だった。


頭の中に2人の姿が浮かんでは消えた。アリアナの煙管を取り出す、細い指が。少女の笑う口から覗く、白い歯が。月の光を僅かに反射して映る髪の束が。

2人の声が頭の中を反響して、何時迄も奥底から離れなかった。


道化師に水を渡すと、彼は僅かに自分の身体を起こし、水の半分を口に含むともう半分を焼け爛れた背中にかけた。

少女はその間天井を見上げて、しゃがみ込み動かずにいる。背中が無残に甚振られ、端整な顔から血の気を失った道化師を見るのは耐えられなかったし、床に転がる肉塊や友人だった物をこれ以上視界に入れる事も出来なかった。

随分と長い間3人は話さずにいたが、少女が呆然とした呟きをした事で沈黙は破られた。

「盲目のおじさんはどれ」

「彼は死んでない」

床に転がる肉塊のどれかだという考え以外持てずにいたからこそ、少女はクラウの言葉に息を止め、目を見開いて驚愕した。

「いや、死んだかもしれないしわからない。でも外に出ていったってだけは言える」

「ここで何があったんだ」

「アンタ、光の娘を殺したろう?」

身体中に呼吸の止まったような感覚が打ち付けられた。舌が痺れたように動かなくなる。心臓が氷になったかのように冷え切り、足が思い出したように震えだした。

「血族が蘇った。」

予測できた事だった。しかし、どうしようもなく取り返しのつかない事をしたのだという実感だけが少女の理性に、感情に振り下ろされた。

「あの子はそれを封じる為だけに生かされてきた存在だから当たり前だけどね。いや、まさか彼がそうだったとは思ってもなかったんだ。認めるよ、てへへ。慰めになるかはわからないけど、アンタが光の娘を殺したのは凄く英雄的だと思ったよ。」

「その結果がこれだとしても?」

少女は殆ど悲鳴のような声を上げようと道化師は動じない。彼女の目には今迄以上に灰がかかり、心は完全に折れてしまっているようにさえ聞こえる声だった。

「彼がそうだったってどうゆうことだよ」

「盲目の彼。光の娘に力を封じられた血族、最後の一人!の…なんだろう、わからないな。でも人っぽく取り繕って、王やクラウ達の目を欺いて、亡者を動けなくなる位の肉塊に変えた。怖いね。」

もうどうでもいいとすら思った。少女は未だに笑いながら事の顛末を語る道化を見上げて、ただその話を静かに聞いていた。






道化師は孤児院の窓傍に置かれた帽子かけの隣に座っていた。手には燭台を抱えているようで、それが黒い帽子を下から頼りなく照らしていた。

「小さな英雄さんは?」

『向こうの部屋にいる。1人になりたいらしい』

道化師は僅かに口を開くのを躊躇ったが、小さな声で「アンタはどうなんだ」と問いかけた。帽子がその問いの真意を理解しようと目を細めたのを見た道化師は抱えた燭台を床に置いて帽子に視線を向けた。

「コフィンの孤児院はズタボロだよ、見ればわかるだろ?あの子はそれにもの凄く傷ついてる」

『だろうな。あのまま狂気に呑まれるのではないかと時折不安になる』

「でもアンタはいつもと変わらないね」

帽子の動きが止まった。道化師は言葉を静かに繰り返す。

「何も変わらない。そうだ……まるで、こうなるとわかってたみたいに」

『光の娘が死ねば血族が現れるのは当然の事だったからな』

道化師は首を振る。瞳は窓の外を眺める帽子の背を見つめたまま動かない。

「でもそれが孤児院を襲うなんて誰が予測できた?あの盲目の彼が血族だと聞いた時。あの子は殆ど聞き流していたけれど、アンタまで無反応なのは可笑しくないか?

面白いね、クラウはなんとなくだけどその答えを知っているんだ」

『なんだって?』

「君、アヴィオールで王の祝福を受けたあの帽子だろう。聖剣の導き。クラウは城にいたから、その時の事もよく覚えてた」

甘く囁くような道化の声に記憶の中の冷たい光が闇を突き抜けるように帽子の瞳に蘇った。


王城の中で受けた祝福。聖剣の導き。瑠璃色の瞳。

目の前にいる男の顔。

『何処かで会った気がすると思ってはいた』

自分の声が震えないように冷静に言葉を紡ぐ。

『だからお前は私を知っていたのか』

「アンタの話をして欲しいんだけど、いいかな」

帽子はため息をつき、畏れにも似た感情でクラウを見ると静かに語り出した。

『かつて、王がアヴィオールに現れ、地を律した時よりも遥かに昔の事だ。ただ知性を持つだけの私の傍に、とある英雄と聖剣の話が届いた。

……英雄だから、聖剣に選ばれたのか。聖剣に選ばれたから、英雄になれたのか。はたまた、英雄が持ったから聖剣となったのか?

そんな事はどうでもいい。ただ、私はその聖剣に酷く惹かれた。』

帽子の言葉は淡々としていたが、それでも注意深くその声色を聞くと話の奥底に熱がくすぶっているように感じられる声だった。

『英雄を導き、その力になり、英雄を英雄たらしめる為のこの世に一つしかない力。人が英雄に焦がれるように、私も力を、他者からの視線を、物語の中心に立つ、叡智の光と奇跡の技を欲した。

私の主人は元は灯をともす魔女だったが、城には世界の理すらも捻じ曲げる強大な者がいると知った時、かの者に祝福を受ける為森を離れていくことにした』

「この地に生きる人々総てを守り、時に選ばれし民へと祝福を授ける者!」

クラウは笑う。帽子は細めた目を開き、道化師を見据える。

『ああ。…私達の王だ』

突如、大きく何かの割れたような音が奇妙な静けさを掻き消した。

2人は僅かに身体を強張らせ、お互いに相手の内心を探るかのように一瞬視線が交錯したがそれは僅かな間の事で、すぐに道化師は帽子かけにかけられた帽子をひったくり、燭台を持って少女のいる部屋へと向かった。


暗く長い廊下を早足に進む間、道化は僅かに口を歪めて帽子に声をかけた。

「王から受けた祝福ってなんだった?」

『私自身には叡智を。立ち向かう者が善か悪か、英雄が見定める為に。そして私の主が英雄になるその時まで、永遠に屈する事のないように遡行の呪いを。』

「呪いなの?」

『それに気づかない間は呪い以外の何物でもない』

扉を開くと、少女が倒れているのが2人の目に映った。帽子は少女を見下ろしながら掠れた声を上げた。

『だが………………屈する理由が、英雄を目指した事そのものだったなら。

聖剣への憧れそのものが間違いなら、私達はどこまで過去へと向かうのだろう』

帽子の声は淡々としていたが、憔悴しきっていた。深く、何かを後悔している人間の表情が瞳には宿っていた。

『右手に薬瓶を持ってる』

「知ってたのか」

『そんな気がするんだ』

道化師が少女の前に跪き、そっと右手をとると確かに何かを握っているようだった。指をひとつひとつ広げ、持たれた物を確かめるとそれは緑色の硝子で出来た小さな薬瓶だった。

『やっぱり』

悲嘆に満ちた声。道化は当惑の表情を見せながらも帽子に声をかけた。

「主を変えてもいいんじゃないかな。彼女を苦しめたくないなら。遡行が苦痛なら過ちを犯さない別の誰かを英雄にすればいい」

『私の主は彼女だけだ。唯一私を聖剣として認めた、苦しみ、悩みながらも共に歩んだ、彼女だけが!


彼女だけが私の英雄なんだ!』


帽子は少女の手に縋り付くように身体を折り曲げた。

『化物だろうと、亡者だろうと私は構わない。だから血を巡らせて、その目を開いて…もう一度旅を始めてくれ。

お前が動かないなら、このままなら私はどうなるんだ?また始めからやり直さなければならないのか。


…やり直したくなければどうすればいいんだ!?今迄の旅は白紙に戻されるのか…聖剣への憧れが、過ちであったから……?たった、それだけで…』

悲嘆と絶望に染められたような帽子の言葉が虚しく部屋に響く。不意に道化が口を開いた。

「祝福を棄ててしまえばいい」

その声は奇妙な程静まり返った部屋の中で凛と響いた。帽子が目を見開き道化の方を見る。

「アンタの言うことが正しいなら、この子は挫けたって狂ったってきっとまた目覚めるだろう、我等の王の定めた理すらも捻じ曲げて」

クラウは微笑すら湛えていた。響きは深く、どこか懐かしい声。


遡行も、導きの叡智も棄て給えよ。

道化師の口が動き、そう呟いた。

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