第9話
市街地は背の高い煉瓦造りの建物に陽の光を遮られ、暗く殺風景だった。
巨大な王の城を取り囲むように市街地は形成され、城壁が木の年輪のように何層にも街を区分けしている。北には漁村へと、西は棄てられた旧市街地へと繋がる十字の大街道がこの市街地でかつて最も人通りの多かった場なのだという事が伺えた。
今や街の門はしっかと閉ざされ、旅人は城壁を越えて中に入るしか市街地に入る方法は無いようであった。
「…………クロ坊、あれさぁ…」
『目を合わすと連れていかれるぞ』
「いや、でもさぁ………あれ…」
『言いたいことはわかる。良くわかるぞ。』
2人は市街地の西側へ向かって進んでいたが、途中で奇妙な光景に足を止めたようだ。
「ぁあぁぁあ!ああぁあ!ぬわぁああんたること!今やクラウは世界で最も不幸な道化といえるだろう!こら、動けこのうすのろめが!クラウに牙を剥くとどうなるか知らないな?こうなるんだっ…いたた…はぁ…」
「困ってるみたいだ」
『英雄はこんな場所で倒れた馬車を蹴り上げているいかにも怪しい道化師に好きこのんで話しかける馬鹿なのか?』
面倒そうに帽子が声をあげたのを道化師は聞き逃しはしないようだった。
一瞬ぴたりと動きを止め、その後声のした方に出会った時より更に口角を釣り上げたにやけ笑いを向けたクラウに少女はややギョッとした。
「ぁあ!アンタ、アンタ希代の英雄じゃないか!しかも優しいマトモな英雄さんだろう?ここまで来たって事は俺を助けてくれるのかい?」
『帰るっていう手もあるぞ、お嬢さん』
「ま、まぁまぁ。話は一応聞いてあげよう…で、どうしたんだ?」
「どうした?こうなったのさ!可哀想に、クラウはこの馬車の下に落としものをしたんだよ。すぐに拾おうとしたさ。したんだよ…ぁあ、だけど!馬車の馬鹿ちんが倒れて、ずっと動かない!どうしようもないんだ!」
頭を抱え泣き喚く道化師の狼狽えようを少女は流石に気の毒に思ったのか、剣を持つ手を馬車にかけてそれを移動させるのを手伝ってやることにした。
目に涙をいっぱいに溜めていた道化師も、ほんの少し間を置いて少女と一緒に馬車を押し始め、しばらくすると馬車はすっかり奥の路地に押し込まれたようだった。
「なんと英雄らしいんだ!しかも素晴らしく優しい、クラウはアンタのことが大好きだよ!アンタは確かに英雄、英雄だ!クラウが言うからには間違いないよ!
本当、本当に大切な物を失った寂しさには頭がおかしくなりそうだった…でもアンタはその静寂を!虚無を破ってくれた!」
『で、その落としものとやらは拾えたのか?』
「ぁあ…ああ、もちろん!最高に輝いてる!感謝するしかないよお!」
「良かった良かった」
道化師は跳ねて手を叩きながら喜んだが、急に手を止めて少女の方に向き直った。
「そういや聞いてないことがあったんだけど、何故アンタここにいるんだい?」
「なんでって」
「英雄さんじゃないよ、その上!月の綺麗な色した帽子くん、アンタだよ。
知ってるだろう、“愚か者を臼に入れ、きねでこれを麦と一緒についても、その愚かさは彼から離れない”!!!!なのにまだアンタはそんな風に……」
『ただの道化に何がわかる!!』
「…………まだそんな風にできもしない事を?」
道化は初めて笑顔をやめ、首を傾げるようにして帽子を見た。ぽつりと言った言葉を帽子は無視して旧市街地に繋がる道へと向き直った。
『進むぞ、英雄』
「えっ、クロ坊、でも」
『早く進んでくれ』
懇願するような帽子の調子に、少女は面食らいながらも従って行く道へと足を踏み出した。
「英雄さん、アンタはなんで英雄になりたいんだ?」
少女の後ろ姿に道化師は問いかける。少女は振り返らずに一言、
「かっこいいからかなぁ」
と返すだけだった。
しばらく進むと、少女の身の丈より僅かに大きな獣が現れた。危なげなくそれを倒すと獣の腹が僅かに膨れている事に少女は気づいた。
剣を突き刺し、腹を裂いてみると獣は人を食べていた事がわかった。
哀れな亡者に死後の祀りを施す為に死体を引きずり出すと、黒いレースの布切れと蝶の髪どめが死者の身体にまとわりついていた。
「クロ坊、あのさ」
『孤児院の少女の母親だろうな』
「知ってたの」
少女は僅かに目を見開いたが、すぐにむっとする血の香りに顔を覆いまた目を伏せる。
「ごめんね」
『お前が悪い事をしたわけじゃない』
そうなんだけど、と呟きながら少女は立ち上がり、旧市街地へと移り変わりつつある古い廃墟群の中を歩き始めた。
気まずい沈黙が2人には流れたが、少女はそれでもここにいるのが自分1人ではなく帽子もいた事に救いのような物を感じていた。
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