第5話 冬の子どもたち(前編)

(1)

 私と冬子が初めて出会ったのは私たちがまだ保育園に預けられていた頃でした。出会った、という言い方は正確でないかも知れません。きっと多くの方がそうであるように私たちも気付けば二人で遊ぶようになっていました。私の母と柊のおばさまが元々とても仲の良い友人同士だったのです。互いの家へ遊びに行くはもちろん、母が仕事のときはおばさまが、おばさまが仕事のときは母が、私たち二人を家で預かるということも頻繁にあったそうです。ですから私たちが仲良くなるのも自然なことでした。

 小さい頃から冬子はとても面倒見の良い女の子でした。私はご覧のとおりどんくさい人間です。かけっこではいつも他の子の背中を追いかけていましたし、みんなが登れるような場所でも足が竦んで動けないなんてことがよくありました。でも、そんなときはいつも冬子が手を引っ張ってくれるのです。私のせいでみんなに置いて行かれても、泥の中に足を浸しても、文句一つも言わずに。私は私の手を握ってくれる冬子のことが大好きで、姉のように思っていました。

 こんなことがありました。あれは小学一年生の頃です。私の家で視ていた動物番組がきっかけだったと今でもよく覚えています。ご存知かも知れませんが、渡り鳥の中には越冬の際にヒマラヤ山脈を越えていくものがいるのだそうです。映っていたのは連なる山々の遥か上空を飛んでいく鳥たちの姿でした。地球の屋根とも呼ばれる、剥き出しの山峰へ向かって小さな羽が舞い上がっていく。まるで神話のような光景に私の目は釘づけになりました。ですが、ただ綺麗に想ったのとは少し違います。雪に彩られた山の頂や、その色が大気に溶け込んだような白い雲。純白の世界を羽ばたく鳥の影。……私は、そんな光景をずっと眺めていたくて、そんな光景そのものになってみたいと、そう願ったのです。

 ですが、それも今だから言えることです。当時7歳そこそこの私には自分の気持ちを言葉に表すことなどできませんでした。ただどきどきして、時間が過ぎていくことがもどかしくて、ようやく口から絞り出せたのは「人間もあんなふうに空を飛べたらいいのに」と、そんなふうな言葉でした。すると隣にいた冬子が「人間だって翼があれば飛べる。私が飛んで見せてあげる」とこともなげに言ったんです。私は冬子がそう言うのならきっとそうなんだろうと他愛なく嬉しくなり、深く考えもせず「見たい」と言いました。冬子のすごいところはそれから一日もたたずグライダーの製作に取り掛かったことです。どこから持ち出してきたのかグライダーの教本のようなものを読んでいました。材料を買うお金なんてありませんから家の物置から勝手に工具を持ち出してきたり、二人で廃材を集めたりして……。今でも昨日のことのように思い出すことができます。私たちはまるで旅に出る準備をしていたのです。

 グライダーは一月ほどで完成しました。私たちは……馬鹿な話なのですが、わざわざ台風の日を選んであの丘の休憩所へ向かいました。風が強ければ強いほど高く飛べるだろうというとても単純な理由です。今考えると本当に恐ろしいことをしたものです。飛ばされてくる枝や木に当たってどんな怪我をしてもおかしくない状況でした。でも、そんなときでも私たちはグライダーが壊れやしないかと、ただそれのみを心配していたのです。幸いと言ってよいのか、私たちは目的の丘まで傷一つなくグライダーを運ぶことができました。

 台風の空を眺めていると無性に心がざわざわします。今でもそうです。その日の空も濁流のように雲が流れていて胸が高鳴りました。そんな暴れる空を真正面に翼を背負った冬子が立つのです。もう心臓が口から溢れてしまうんじゃないかって、それくらいどきどきしました。

 子どもが作った手製のグライダーです。年月を経て美化もされているでしょう。ですが、私の目に冬子の翼は完璧なものとして映りました。高度何千メートルもの山々すら越えられる本物の翼に見えたのです。私の心は成功の確信で満ち溢れていました。冬子もまた自信の目を私に向けました。そこには崖下へ落ちる恐怖など微塵も感じられませんでした。

 冬子が飛び立つまでにさほど時間はかかりませんでした。冬子はやると決めてからが本当に早いんです。冬子は登ったと思った途端に柵を蹴って地面を離れました。

 これもやはり実際はどうだったか分かりません。ですが、記憶の中にある冬子の翼は、強い風に煽られ何メートル、何十メートルもの天空へと舞い上がりました。人が翼を以って空を飛ぶ。その光景がどれほど幻想的で、どれほど圧倒的だったか。膨れ上がった感情が炭酸のように弾け、気が付けば自分でも何か分からないことをひたすら叫んでいました。冬子は確かに空を飛んだのです。

 しかし、その飛翔も、当然長くは続きませんでした。台風の風に耐えられるグライダーを小学生に作れるはずもありません。翼はすぐに折れ、冬子は崖下へと一直線に落下しました。下は山木が生い茂っています。幸いなことに冬子は軽い切り傷を負う程度の怪我で済みました。私の家の近くまで自力で帰ってきたほどです。冬子は私の姿を認めるなり「どうだ。確かに飛んだだろう」と得意気に言い放ちましたが、私は冬子にしがみついて泣くことしかできませんでした。

 私たちは親たちからそれはもうきつく叱られました。母があれほどまでに怒ったのはあとにも先にもあの一度きりです。それに、泣きながらおばさまに謝る母の姿は今でも記憶に焼き付いています。何度も何度も頭を下げる母を見て、私はようやく自分がとんでもないことをしてしまったのだと理解しました。ですが、冬子は飽くまで自分一人でやったことだと言い張りました。私たちが二人で何かを作っていたことは親たちも承知しています。私にせがまれてやったと打ち明けることもできたはずです。でも、冬子はそうはしませんでした。最後まで私は無関係だと庇ってくれたのです。

 この一件があってから私は冬子のことが前よりもっと好きになりました。前よりもっと憧れるようになったのです。


 冬子が絵を始めたのもちょうどその頃です。思い返すと私の父の影響もあったのではないかと思います。父は今でこそ会社勤めをしていますが、昔は絵画の勉強をしたことがあったようです。画業を志したことがある、のではないかと思います。詳しく聞いたことはありません。ただ、父の部屋や物置には父の描いた油絵が何点も残されています。幼い頃から当たり前にあったものですから、私にとっては特別面白いものではありません。ですが、冬子にとっては違ったようで、折を見ては父の部屋に入って絵を眺めていました。取り分け、若い頃の母とおばさまを描いた作品が気に入っていたようです。長いときは絵の前に半日以上座っていることもありました。やがて冬子は自分でも絵を描くようになりました。はじめは描いたものを私に見せる程度でしたが、直に子ども向けの絵画教室にも通うようになりました。冬子の上達は目覚ましく、一年もたたないうちに上級生顔負けの絵が描けるようになっていました。そして、私がそれを喜ぶと誇らしいような、照れるような、そんな顔をするのです。町外れの廃墟や古びた工場。錆道路標識。丘から見える町並み。冬子は色々なものを描いて私に見せてくれました。


 その頃の私は自分で絵を描こうなんて思いもしませんでした。父や冬子の真似など到底できないと思っていたのです。絵を描く冬子の傍にいられる。それだけで十分でした。

 きっかけは、母の死でした。

 母は、私が中学二年の冬に交通事故で他界しました。母の運転していた車が道路を飛び出して電信柱にぶつかったのです。目撃者もおらず事故原因は未だによく分かっていません。警察の方は猫でも避けようとしたのではないかと仰っていました。母が誰も巻き込まずに逝ったことは……不幸中の幸いだと思っています。

 電話で報せを受けたときは詐欺の電話だろうかと思いました。実感がなかったのです。病院で母の死に顔を見てもそれは変わりませんでした。葬儀の最中も、斎場で骨を集めたときも、この面倒で重苦しいイベントが終われば、また家には母がいて、いつもの日常が始まるのだと本気で考えていたほどです。母の死はそれほどまでに唐突で、自分とは無関係な出来事のように感じられました。しかし、その瞬間は不意におとずれます。くたびれて家に帰り、ふと炊事場に目をやったときです。母がいない、と思ったのです。まな板を叩く音も、水を流す音も聞こえなくて、ただひっそりとしていました。私は家中を回って母の姿を探しました。化粧台を見て、寝室を覗きました。縁側へ向かい、母が水やりをしていた庭に出ました。父に一緒に描いて貰った桜の前に立ちました。母の影は、どこにもありませんでした。そこで私はようやく理解したのです。母にはもう二度と会えないのだと。

 それからしばらくは沈んだ気持ちで毎日を過ごしていました。学校から帰っても迎えてくれる母はいない。そのことを考えると洪水のように感情が溢れて止まらないのです。それをせき止める術を私は知りませんでした。

 冬子が絵を描いてみないかと言ってくれたのはそんなときです。気分転換になるからと道具一式を貸してくれました。冬子が私を元気づけようとしてくれたことは嬉しかったのですが、反面少し悪いような気もしました。とても筆を取る気になどはなれなかったからです。そもそも私には描きたいものなど何もありませんでした。

 そうして、母の死から一月がたち、二月がたった頃です。ふと顔を上げると庭の桜が白い花を付けていたのです。花はいつになく見事に咲いていて私は何もかも忘れて見惚れてしまいました。桜はしばらく咲き誇ってから散り今度は青々とした若葉が茂りました。春をたっぷりと吸い込んだ瑞々しい葉桜でした。陽の光を内に巡らせるようなその葉脈を眺めているうちに、上手くは言えないのですが……そんなに悲しまなくてもいい気がしたのです。視界が開け、心が軽くなるのを感じました。私は塞がってゆく胸の穴を平静と見つめながら不思議に思いました。私の心を癒したものは一体なんなのだろうと。気が付くと私は冬子から貰ったスケッチブックを持ち出してきてその若葉を一心不乱に描き写しました。自分でもよく分からないまま、必死に。それが何だったのか今でもよく分かっていません。捉えようとはしているのですが中々難しいのです。ただ、代わりに絵を描くことはとても好きになりました。それは、朝に起きて夜に眠るように自然なことで、今までどうして描かなかったのか過去の自分をいぶかしんだほどです。三年生になった私は高校受験を控えていましたが、勉強の合間を縫って絵を描き続けました。私は私の悲しみを癒したものが何だったのか、どうしても知りたかったのです。

 冬子は私が絵を描き始めたこと、そして母の死から立ち直ったことを喜んでくれ、道具の使い方や技法など絵に関する様々なことを教えてくれました。美術部に入らないかとまで言ってくれましたが、三年生の引退も間近に迫っていたのでさすがにそれは断りました。ただ、冬子も私と同じく西高を目指していましたから受験に合格すればそのときは一緒に入部しようと約束を交わしました。

 そして一年後の春、私たちは共に西高に進学し、共に美術部に入部することができました。庭の桜は眩しく咲き誇っていて、母も喜んでくれているように感じました。

 でも、今考えるとそれがいけなかったのです。


(2) 

 そのときの美術部は私たち二人を含め全部で十三名の部員がいました。全員が女生徒でおおよそ二つのグループに分かれていました。一つは二年の月見里やまなし先輩、西原先輩という部長・副部長を中心としたグループ5名。もう一つは二年の姫川先輩を中心としたグループ5名です。月見里部長は温厚な方で、新しく部長を決めるときも自然に役が回ってきたとお聞きしています。ひとに話しかけるとき必ずぺこりと頭を下げられる癖が印象的でした。西原先輩は月見里部長とは親しいご友人でしたが、性格は正反対でとても活動的な方でした。ひとが集まればいつの間にかその中心で話題を牽引し、最後に手を叩いて行動を促す。そんな方です。お二人とも真面目に活動をなさっていて、高校から美術を始めるという一年生にも熱心に指導をなされていました。

 一方の姫川先輩は少し不良っぽい雰囲気のある方でした。雰囲気があるというだけで実際に何か悪いことをなさっていたわけではないでしょう。生活態度に問題はなく、成績も良かったそうです。ただ、美術部の活動に対しては決して積極的とは言えませんでした。神坂さんも姫川先輩のグループに属していましたが、彼女たちは美術室に集まってもお喋りをしたり、粘土で適当なものを作って遊んだりするだけでした。姫川先輩は西原先輩とそりが合わなかったようで、そういうところが振る舞いに表れていたのかも知れません。

 とは言え、別に表立って何か衝突があったわけではありません。大別すれば何となくそういうふうに分かれているだけで普段はお互いに会話もありましたし、両グループの生徒と仲の良い方もいらっしゃいました。中山さんなどは冬子と同じくらい油彩歴が長くお上手でしたが、やはり親友の神坂さんと一緒に姫川先輩のグループと一緒にいることが多かったようです。

 私自身あまり派閥のようなものを意識したことはありませんでした。冬子と、もう一人柚木崎ゆきざきさんという一年生も同じだったと思います。月見里部長とも姫川先輩とも交流がありましたし、用がなければ美術室の隅や屋外で黙々と課題をこなしていました。でも、特段それで問題はなかったんです。

 一緒に美術部に入ってから、冬子とは絵について話す時間が多くなりました。いざ自分が描く立場になってみるとそれまで漠然と眺めていた冬子の絵がどれだけの技術に支えられているのかを知れて新鮮でしたし、勉強にもなりました。反対に冬子が私の絵を批評してくれることもありました。中学のときは描くだけで褒めてくれたのですが、この頃になると、良いところと悪いところ、修正すべきところと伸ばすべきところを子細に挙げて評価してくれるようになっていました。ときに厳しい言葉もありましたが、それでも成程と納得できるものばかりで、私は冬子の指摘を大変ありがたく思っていました。

 冬子と二人で同じ時間を過ごし、同じものに向き合える。朝に見る夢のように充実した日々を過ごせたと思っています。

 そんなふうに何事もなく春が終わり、梅雨が明け、熱い日を過ごしていた頃でした。夏休みのある日、市内で花火大会を観た帰りに冬子がこんなことを言ってきたのです。

『一緒に霧代美術展に出展してみないか』

 霧代美術展のことはもちろん知っていました。冬子が通う画塾の先生が運営委員をなされているということで毎年一緒に観に行っていたからです。でも、まさか自分がそれに応募するなんて考えもしませんでした。自信もありません。初めは断ろうとしたのですが、冬子が、お前の絵でも十分通用する、ステップアップが必要だ、と熱心に薦めてくるものですから、冬子がそう言うのならと半信半疑で承諾しました。冬子はさらに「どうせならどちらがより高い評価を得られるか勝負をしよう」と持ちかけてきました。私はその提案についても冗談や軽口を聞くつもりで受け入れました。冬子は小学生の頃からちゃんとした指導者の下で学び続けていて、西高の美術部でも肩を並べられるのは西原先輩くらいのものでした。ですので、冬子との勝負に関しては展覧会に応募することよりもずっと気楽に承諾することができたのです。だって勝敗は分かり切っているんですから。私が冬子に勝てるはずないんですから。勝てるはずないと……そう考えていました。

 でも、そうはなりませんでした。

 霧代美術展の開催数日前、私の応募した絵が大賞を受賞したと主催者の方から連絡が入ったのです。庭の葉桜を描いた絵でした。一方、冬子が応募した自画像は……本選には残ったものの賞が与えられることはなかったのです。

 私にはその受賞に一体どれほどの価値があるのかよく分かりませんでした。今もよく分かっていません。聞くところによると随分と分不相応な評価を頂いたようです。ただ、受賞をしたこと、私の絵を好きだと仰ってくださる方がいたことは素直に嬉しく思いました。本当に……嫌になるほど、馬鹿素直に嬉しかったのです。だから、ついつい舞い上がってしまって、冬子に、冬子の気持ちを考えもせずに、つい、こう口走ってしまったのです。

「私の勝ちね」

 ……と。

 他意はなかった、と言うのはあまりに卑劣でしょうか。嬉しさを口にしただけとするのは弁解に過ぎるでしょうか。私の中に、冬子に対して勝ち誇る気持ちが本当になかったと言えるのでしょうか。私は、あの冬子が私に及ばなかった事実に確かな優越感を抱いていたのではないでしょうか。勝ったのだから多少敗者を痛めつけたって構わないと!

 私の卑しい一言に冬子は大袈裟な反応を見せませんでした。それどころか「良い絵なのだから評価されて当然だ」と共に喜んでくれたのです。ですから、私は冬子の気持ちを慮ろうという発想にすら至りませんでした。受賞を喜び、勝利を宣言し、何事もなかったように元の二人に戻ろうとしたのです。実際、表向きは何の変化もありませんでした。冬子の態度も以前と一つも変わりありません。ですから、気付かなくても仕方がなかったと、そんなふうに考えてしまう自分が嫌になります。

 霧代美術展はその年も盛況に終わったとお聞きしています。

 

 美術展が終わった十一月四日、冬子は十六歳の誕生日を迎えました。昔から私たちは互いの誕生日にプレゼントを渡し合うのが習慣になっていて、その年、私は坂吾通りの雑貨屋で見かけたとんぼ玉の根付を贈ることに決めました。多少は私の趣味も入っていましたが、冬子も可愛い物は好きなのです。

 冬子は手渡した袋を開封すると、桜模様が施されたそれをしげしげと眺めました。そして、短く礼を言ったあと、決まり悪げにこう尋ねてきたのです。

「でも、どうやって使えばいいかな?」

 単純に冬子が喜ぶ顔を想像していた私はその問いかけにすぐには答えられませんでした。

「着物の帯飾りにしたり……でも、冬子は普段着物を着ないよね。あとはカバンに付けたりとか」

 冬子は「じゃあそうする」と翌日にはバッグに付けて登校してくれました。事件が起きたのはさらに翌日、冬子の誕生日から二日後のことでした。


 薄い雲が空を覆う寂しげな朝だったと記憶しています。普段どおりに登校して下駄箱から上履きを取り出そうとしたときでした。美術部顧問の新里先生が慌てた様子で玄関に現れ、すぐに美術室に来て欲しいと仰ったのです。

 新里先生は二十代半ばの男性教師です。まだお若いのに、私たちが居残って作業をしたいと言えば何時間でも付き合ってくださり、それでいて不平一つ仰らないような方でした。生徒の冗談に同じ目線で笑い、からかえば大袈裟に狼狽して見せる。そんな対応ができるところを含めて大人な方だったと思います。私たちは新里先生のことを齢の離れた兄のように親しみを感じていました。

 私は新里先生に何があったのか尋ねましたが、とにかく急いでくれ、他の部員も集まっているからと手を引っ張られました。

 異変には、特別教室棟に上がってすぐに気が付きました。美術室の前の廊下に窓ガラスの破片が散乱していたからです。割れた窓から室内を覗けば冬子を含む部員全員と教頭先生がいらっしゃいました。私と同じく登校途中に直接呼び出された人もたくさんいたようです。学校指定のバッグが机や足元にいくつか無造作に置かれているのが目に付きました。

 皆の顔は一様に青ざめていました。ですが、私もすぐに同じ顔色になっていたはずです。理由は一目瞭然でした。

 美術室が、ひどく荒らされていたのです。

 棚から落ちた石膏像が割れた頭部を哀れに曝していました。モチーフにしていた愛らしい花瓶が床の上で破片を撒き散らしていました。牛骨は打ち捨てられ、乾燥棚は引き倒されていました。まるで巨大な地震や台風に見舞われたような、そんな有様でした。

「こっちもだ。来てくれ」

 先生に連れられ準備室へ入るとそこもまた惨憺たるものでした。先生が使っていた机やロッカーは開け放しにされ空き巣にでも入られたかのようです。棚にある道具類も美術室と同じようにされていましたが、取り分け乱雑に投げ捨てられた幾枚かのキャンバスが目を引きました。準備室に保管していた、仕上がった作品たちです。私はキャンバスの一枚に駆け寄りました。

「……ひどい」

 西原先輩の作品だったと思います。先輩のお婆さまを描いた絵画が鋭利なものでズタズタに切り刻まれていたのです。画布が、裂けた皮膚のようにぺらりと垂れ下がっていました。他にも、月見里部長や中山さんの作品、柚木崎さんの作品。状態は一様ではありませんが、いずれのキャンバスも何らかの形で疵を付けられていました。そして、私のものも。

 私が学校に残していたのは一枚だけで冬子の立ち姿を描いたものでした。当時の美術部では部員から一人モデルを選んでクロッキー……対象を素早く描くことをそう言いますが、そのクロッキーを行うことがよくありました。モデルは一年生で回していて、私も何度か皆さんの前に立ったことがあります。冬子がモデルになると西原先輩が『柊は表情が動かないから面白くない』と口をとがらせるのですが、私から見れば冬子が照れているだけだということがよく分かりました。私が笑いを堪えていると冬子はポーズを取ったままじろりと睨んできます。でも、その様子がまた可笑しくて笑いそうになるんです。私はクロッキーの中から気に入った一枚を選びタブローに仕上げました。冬子は『私はそんな顔してない』と素っ気なく言うのですが、やはり私には照れているだけだと分かりました。そうやって描いた冬子の姿が、顔が、爪を突き立てられたようにぱっくりと切り裂かれていたのです。唇が震えました。十六年生きてきた中でそれほどまでに露骨な悪意を向けられたことは一度もありませんでした。何より、冬子との思い出が喪われてしまったようで、自分の胸まで切り裂かれるように痛みました。

 美術室へ戻ると誰もがうつむいて一言も発しませんでしたが、ややあって西原先輩が新里先生に尋ねました。

「いつからこうなってたんですか」

 先生はびくりと肩を振るわせました。まるで教師と生徒の立場が入れ替わったように。

「俺が、今朝覗いたときにはもうこうなっていた。恐らくは夜のうちに」

「昨日、最後まで居残ってたのは」

「……私です」

 震える手を挙げたのは中山さんです。

「そこにある花の絵を仕上げていて……」

 西原先輩の鋭い目が彼女を射抜きました。

「他の教室で残ってた部は?」

「私が最後です。他の教室の灯りは全て消えていました。特別教室棟から本校舎に行くまでの間にも誰かを見たとかそういうことはありません」

「ふうん? ま、隠れられるとこなんていくらでもあるしね」

 特別教室棟で施錠されるのは玄関のみで各教室に鍵はかけられていません。教室の灯りさえ消しておけば誰もいないように見せかけることもできる。西原先輩はそういうことを仰りたかったのだと思います。

「だが、新里先生。警報装置はどうなってたんだ?」

 尋ねたのは教頭先生です。西高は校舎の警備を全て機械に任せています。人のいない夜間は警報システムが作動していてセンサーに引っかかるものがあれば警備会社に通報される仕組みになっています。特別教室棟で活動している部は、各教室に残った最後の生徒が、顧問ないし他の部の顧問に全員の下校を報告することが義務付けられていました。

「……昨晩は私一人が職員室で残業をしておりました。8時半頃に中山さんから下校の報告を受けたあと特別教室棟の施錠に出向き、本校舎に戻ってからシステムのスイッチを……。ですが」

「何だ」

「……副担任の業務が溜まっていたものですから、その、特別教室棟へ行くまでに三十分、いや、四十分ほど時間が……」

「馬鹿かお前は!」

 新里先生が上擦った声を上げました。

「何のための警備システムだ! 生徒の下校を確認したエリアから順次システムを作動させる! マニュアルにもそう書いてあるだろうが!」

「申し訳ありませんっ」

「見回りは!? 中は確認しなかったのか!」

「外から目視で確認するのみで……。まさか、ここでこのようなことが起こるとは思いもしなかったのです」

「お前の認識なんぞどうでもいい! 被害はこれだけなのか? 何か盗られたりはしてないのか!?」

「い、いえ! 実は」

 新里先生が、部費がなくなっていたことを切り出すと教頭先生はさらに怒りを爆発させました。部費は準備室のロッカーに保管されていて、鍵は同じく準備室にある先生の机の引き出し、その奥に置いてありました。

「じゃあ、これって泥棒の仕業ってこと?」

「そう、なるのかな……?」

「でもさ、ただお金を盗るためだけにこんなことする……?」

「わかんない。部費を盗るついでに遊び半分でやったのかも」

 雀のような囁き声が次第に美術室を満たしていきました。騒がしくなるでもなく、かと言って静かに控えるでもなく。上から布を被せたような喧騒の中、ひときわ通る声を発したのは姫川先輩でした。

「お金が欲しい奴がわざわざこんなとこ入ったりしないでしょ。ここって特別教室棟でも三階の奥の奥だよ? 空き巣やるなら下にいくらでも入りやすい教室があるじゃん」

「じゃあやっぱり犯人は美術室を荒らすのが目的だったってことですか?」

「あたしはそう思うけどね。部屋を荒らしたのも部費を盗んだのも全部ウチらを困らせるため。ったくあたしの彫刻どうしてくれんのよ……。誰か身に覚えないの? 人の恨みを買ったような覚え。サチ、あんたこの前彼氏と別れたって言ってたよね。それとも神坂? あることないこと色々言い触らしてるらしいじゃん」

 姫川先輩が口火を切ると皆が次々に憶測を立て始めました。友達の好きな男子と親しく話しているところをその子に見られたとか、女子グループのリーダーに生意気な態度を取ってしまったとか、ほとんどは美術部とは無関係な些細な話ばかりです。でも、皆気持ちが昂ぶっているようでした。一人が心当たりを口にすれば一人が大袈裟に反応し、違う誰かに向けてまた自分の体験を披露する。ときに不安を、ときに怒りを織り交ぜながら語るのですが、私には皆がどこかその状況を楽しんでいるようにも見えました。教頭先生が静かにするよう仰っても誰も聞く耳を持ちません。ですが、それも最初のうちだけでした。あるいは当然の流れだったのかも知れませんが、めいめいに考えを述べるだけでも、自然と結論が収束しつつあることに皆気が付き始めたのです。室内にまとわりつくような空気が漂い始めた頃、西原先輩がはっきりと告げました。

「ねえ、これってさ、私たちの中に犯人がいるんじゃない?」

「ちょっと、絵理っ」

 月見里部長が慌てて西原先輩を諫めました。先輩は平然と応じました。

「だってそうでしょう? 美術室を荒らすだけならまだしも、施錠したロッカーから部費が盗まれてたんだよ? 犯人はロッカーに部費があること、そして鍵の在処を知っている人間ということになるわ」

「それは……別に鍵だって本当に隠してあるわけじゃないもの。見えにくい場所に置いてはいるけど、これだけ中を荒らされていれば偶然見つけられたって不思議じゃないわ」

「そうね、不思議じゃない。でもね広美、考えてみて? 犯人は美術室を荒らす目的で侵入した可能性が高いのよ。いつ誰に見つかるかも分からないのに何が入っているかも知らないロッカーの鍵を探そうとするかしら。他に手に取りやすいものはいくらでもあるわ。それよりは最初から部費の在処を知っている人間、つまり私たちの誰かの犯行と考えるほうが話は簡単なのよ」

「でも、だからって……」

「それとも、部費は準備室のロッカーに保管してありますなんてつまんない話題を部外の人間に話した人とかいる? いたら遠慮せずに名乗り出てくれていいのよ。別に怒ったりなんかしないから」

「西原くん、やめなさい!」

 教頭先生が西原先輩を制しました。ですが、全員助けを求めるように互いの顔を見合わせるばかりです。私も自然と冬子に目を向けていました。冬子は私の真正面、廊下側の窓辺に立ってじっとしていました。私は少し違和感を覚えました。冬子の態度は、落ち着いていると言うより、憔悴しているように見えたからです。

 西原先輩はほらねと話を続けます。

「誰もいないでしょ? 私たち以外に部費の保管場所を知ってる人間なんていないの」

「強引よ。話したことを忘れてるだけかも知れない。それに、偶然見つけられた可能性だってなくなったわけじゃないわ。すぐに決めつけるのは絵理の悪い癖よ」

「ごめんなさい。広美の言うとおりね。でも、可能性のあるところから潰していかなきゃいけない。それは分かってくれるでしょう? ねえ、姫川さん?」

 唐突に話を振られ、姫川先輩がぴくりと眉を上げました。

「昨晩あなたはどこで何をしていたの?」

「……あ?」

「聞こえなかった? 昨晩あなたがどこで何をしていたのかと尋ねたの」

「……あんた、あたしが犯人だって言いたいの……?」

 姫川先輩が唸るように言いました。自分に向けられたものではないと理解していても思わず身を竦めてしまうような、そんな声です。でも西原先輩は涼しげなものでした。

「やっぱり聞こえてないんじゃない。可能性を潰すだけだと言っているでしょう。あなたが犯人だなんて一言も言ってないわ」

「言ったも同然だろうが。なんであたしなんだよ」

「そうよ、絵理、もうやめなよ……」

 西原先輩は嘆息しました。いかにも辛抱強そうに。

「私たちが手間暇かけて描き上げた作品が疵付けられているのは厳然たる事実。困るのはであってじゃない。被害者としての行動を確認しておきたかったの。みんなの不安を拭うためにもね」

 一瞬、姫川先輩の髪が逆立つように見えました。瞳の奥で煮え滾っているものが今にも爆発しそうでした。全員に緊張が走りましたが、姫川先輩は一旦堪えたようでした。

「……昨日は市内のショップをぶらついたあと6時に家に帰った。ご飯食べてお風呂入ってあとは部屋でずっとスマホ見てた。どこにも出かけてないし何も知らない。これで満足かよ」

「それを証明するものは?」

「あたしが作ったもんも壊されてんだよ!」

 姫川先輩が指差したのは柚木崎さんの足元でした。落ちていたのは小指の折れた左手の彫刻です。そんな彫刻がロッカー棚にあったことは知っていましたが、姫川先輩が作ったものだとは私も知りませんでした。

「そ、そうよ。いくら絵理でもあんまりじゃない!?」

 二年生の佐治先輩が姫川先輩に加勢しました。ですが西原先輩は一笑しました。

「作品って……。あれのこと? あんな不細工なの素材を無駄にしただけのゴミじゃない。あれを壊されたから私も被害者ですなんて臆面もなくよく言えたわね。を私たちの作品と同列に扱うなんて侮辱以外の何物でもないわ。芸術に対する冒涜よ」

「西原、お前なァ!」

 掴みかかろうとする姫川先輩を新里先生と他の部員が必死に抑えて、あとは……酷い罵り合いでした。美術室が荒らされていたことや部費が盗まれたことは脇に追いやられ、普段のお互いの態度や作品のこと、果ては交友関係や、家庭のことまで……。最初は他の部員たちもどうしてよいか分からず言い争う二人を見ていることしかできませんでしたが、やがて一年生の水戸部さんが西原先輩を支持する声を上げました。西原先輩や月見里部長と親しくなされていた彼女もまた姫川先輩のことを快く思っていなかったようです。水戸部さんは部活動に対する姫川先輩の態度を厳しい口調で非難しました。しかし、水戸部さんが西原先輩の味方につくと、今度は姫川先輩を擁護する意見が出始めます。佐治先輩のように、日ごろから姫川先輩と仲良くされていた方たちです。水戸部さんは佐治先輩らの反論を受けるとさらに反論し、その反論がまた反論を呼びました。そうして、お二人の争いは美術部全体にまで発展していったのです。

 月見里部長が指摘したように西原先輩の主張はとても乱暴なものでした。でも、きっと彼女も不安だったのだと思います。だから目に見える敵を欲したのです。しかし、姫川先輩を槍玉に挙げたのは普段から彼女に対して不信感を抱いていたからです。それは姫川先輩も同じでした。彼女の怒りは当然のものですが、根底にはやはり西原先輩や月見里部長に対する日々の不満があったのだと思います。

 西原先輩が姫川先輩を疎ましく思っていたのは部活動に非協力的だったからでしょう。姫川先輩は姫川先輩で西原先輩たちに見下されているように感じていたのかも知れません。結局、西原先輩も姫川先輩も普段は何事もなく過ごしているように見えて、心の底では互いを嫌い合っていたのです。

 私は彼女たちの争いを前に膝を震わせることしかできませんでした。止めに入る勇気などありません。ガラスを引き裂くような罵声が響くたびに頭が朦朧として、授業中なのにどうしてこんなところにいるんだろうと、そんな考えばかりがぐるぐると巡っていました。新里先生や教頭先生ですら場の雰囲気に呑まれているようでした。しかし、ヒステリックな状況の中でも、やはり冬子だけは何の反応も示していませんでした。さすがにおかしいと思いました。いくら冬子でもそこまで無関心でいられるはずがありません。まるで心ここにあらずといったような、一人だけ違うものを見ているかのような……。事実、冬子の目は眼前の争いではなく、どこか別の一点へ向けられていました。私は言い知れない不安に駆られ、冬子の視線を追いました。辿った先には準備室の入口があり、半開きになった扉から二つの人影が出てくるところでした。神坂さんと中山さんです。私はお二人の姿が見えなくなっていることにそのときになってようやく気が付きました。

「あの、ちょっといいですか」

 神坂さんが皆に呼びかけましたが振り向いたひとはいませんでした。神坂さんは両手を口に添えてさらに大きく声を張りました。

「ちょっといいですかあー!?」

 二度目はさすがに聞こえたようで示し合わせたように全員の視線が神坂さんに向きました。神坂さんは一身に注目を浴びて緊張しているようでしたが、震える手を真っ直ぐ伸ばし、皆に見えるよう開きました。

「準備室で、こんなの見つけたんですけど」

 を見たときの冬子の顔は今でも忘れられません。蜘蛛の巣に絡めとられた蝶に表情があるとするなら、きっとあんな顔になるのでしょう。私もまた制服の下に汗が滲むのを感じていました。

「はあ……!? ? それがなんなのよ?」

 佐治先輩が神坂さんに詰め寄りました。

「その、。何か手がかりがないか美星ちゃんと準備室を探してて……」

「床に落ちてたんです。鍵が保管されてる机の下くらいに。これって先生の持ち物ですか?」

 新里先生は自分への問いかけだとは思わなかったようです。神坂さんの掌をしばらく呆然と眺めていましたが、皆が自分の答えを待っていることに気が付くと慌てて首を振りました。

「いや、違う。見たこともない」

 神坂さんが質問を重ねました。

「昨日、準備室に入ったときもなかったんですよね?」

目立つものなら気付くだろう。……なかったはずだ」

 皆が一斉にどよめきました。

「じゃあ、って犯人が落としたものってこと!?」

「うそー!?」

「誰か見覚えないの?」

「私どっかで見たことあるかも」

 皆、先ほどまで喧嘩していたことなどすっかり忘れてしまったかのようでした。西原先輩と姫川先輩すら無言で記憶を辿っていました。教頭先生は結論を急ぎ過ぎないよう皆を諫めましたが、どう捉えるべきかご自身も判断に迷われているようでした。神坂さんがタイミングを見計らって言いました。

「私もつい最近どこかで見た覚えがあるんです。教室か、この美術室で。確か誰かのバッグについていたと思います。ここ見てください」

 神坂さんが摘まんだを指差しました。

「ここで紐が切れてるでしょう? 多分机の角に引っかけて先だけ取れたんじゃないかと思うんです。犯人がこのことに気付いていなければ、もしかしたら犯人のバッグにはまだ元の部分が残っているかも知れません」

 神坂さんの一言に皆がギラギラと辺りを見回しました。教室へ向かわず直接美術室に来た方たちのバッグが多くあったからです。犯人を吊し上げる役にはなりたくないのか誰も動き出そうとはしません。ですが、それも時間の問題のように思われました。

 冬子は、ずっと下を向いていました。室内は寒く暖房なんかもかかっていないのに、汗を流し、唇を震わせて……。冬子もまた美術室にバッグを持ち込んでいた一人でした。私の位置からも冬子の足元にあるそれが確認できました。

 ……もうお分かりでしょう。神坂さんが準備室で見つけた『犯人の手がかり』こそ私が冬子の誕生日に贈ったとんぼ玉の根付だったのです。


 小春さんはそこまで話すと沈むように沈黙した。足元に伸びた枝葉の影はこの世界の恐るべき秘密を知っているかのように神秘的で複雑な形をしていた。

 今日もまた今日が終わろうとしている。

 少女の肌は夕陽で照らされ、唇は赤く艶めいている。細い身体を流れる髪だけが果てまで深く、音のない色をしていた。

 彼女の瞳は小箱に横たわるとんぼ玉に注がれていた。半年前、荒らされた美術室で見つかったという、親友へ贈ったプレゼント。つまり、

「あなたは冬子先輩をかばったんだ」


(3)

 なぜ冬子がこんなことをしなければならなかったのか。そんな疑問は冷静になってから浮かんでくることです。当時の私に余裕などありませんでした。何とかしなければ、何とかしなければ冬子が犯人扱いされてしまうと、ひたすらそれのみを恐れたのです。ですが、興奮した皆が納得する理由などすぐには思い浮かびません。下手に話を切り出せば冬子の立場が危うくなってしまうだけでしょう。何よりも沈黙する冬子がいつどのように動き出すのか私には全く判断が付かなかったのです。私は冬子が堂々と名乗りを上げて自ら疑惑を晴らしてくれることを期待しました。確かに自分が落としたものだが美術部荒らしの件とは何も関係はないと、そう断言してくれることを願ったのです。しかし、いくら待てども冬子はうつむき、貝のように口をつぐんだままでした。裁きの時をじっと待っているようにすら見えました。ですから……私にできる最善のことは、皆の注目が冬子に向く前に私が罪を被る以外にないと、そう考えたのです。

 私は結論付けるなり……右腕を振るい、手近にあった窓を叩き割りました。ガラスの割れる大きな音と、何人かの悲鳴が響きました。冬子も、先生方も、誰も何が起こったのか理解できない顔をしていました。私は皆が呆気に取られている隙に神坂さんに詰め寄り彼女を突き飛ばしました。血の滴る手で落ちたとんぼ玉を拾い上げ制服のポケットに入れると、あとは……室内にあるものを掴んで投げたり、叩き付けて壊したりしました。私はすぐに先生方や他の生徒に抑え込まれましたが、それでも力いっぱい抵抗しました。完全に身動きが取れなくなったあとも、皆のことを思い付く限りの言葉で罵倒しました。夜中に教室を荒らしたのは私だということ。部費を盗んで泥棒の仕業に見せかけようとしたこと。日頃から部員たちの態度が気に喰わなかったこと。上手く絵が描けずに苛々していたこと。何もかも壊してしまいたい衝動に駆られたこと。……聞くに堪えない雑言の数々が滑るように口から溢れました。……ふふ、嫌になりますね。私、月見里部長や西原先輩のこと、姫川先輩や神坂さんのことだって嫌いじゃないと思っていたんです。なのに彼女たちを罵る言葉が止まらなくて……、止まらなかった。結局、私も憎しみをぶつけ合う他の皆と何一つ変わりはなかったんです。


 幸い、私のバッグに根付が付いていないことには誰も気が付きませんでした。あれだけ暴れたのですから失念してしまうのも無理はありません。私は、保健室で傷の手当てを受けたあと生徒指導室で先生方から聴取を受けました。私は何を何度訊かれても先ほど言ったようなことを繰り返し、部費も既に使ってしまったと主張しました。先生方に確かめる術はありません。本来は保護者が呼び出される場面なのでしょうが生憎唯一の肉親は海外です。7時を過ぎる頃には先生の尋問からも解放されました。

 外はもうすっかり暗くなっていました。手の傷は浅く跡も残らない程度のものでしたが、じくじくと痛みが収まらないのはとても不快でした。包帯を巻いた手でとぼとぼと自転車を押していると道の前方に冬子が立っていることに気が付きました。冬子は私を見るなり足元に茶封筒を投げつけてきました。

「お前が盗んだ金だ」

「冬子」

「まったく、随分な言い草だったな。自分の絵に満足できなかった? 美術部が低レベル過ぎてムカついてたって? その低レベルな連中の中には当然私も含まれているんだよな。確かに、お前の絵で満足できなければ私の作品なんて落書きにもならないだろうよ」

「冬子、違うの。私、そんなつもりで言ったんじゃない」

 冬子は私との距離を大股で詰めました。

「無価値な私を哀れんでかばってくれたんだろ? ありがとう。図に乗るなよのどか。お前なんかずっと私の後ろを追いかけてきた鈍間のくせに」

「本当に、冬子がやったことなの? どうして、あんなことを」

「それが分からないほどの間抜けか?」

 冬子は私の制服の襟を掴み、ぐっと引き寄せました。勢いでサドルから手が離れ、自転車が地面に倒れました。

「嫌いだからだ。ずっと嫌いだった。大した絵も描けないくせに偉そうな口を利く西原も、能無しも姫川も、月見里も……、お前に劣る自分も、自分の不甲斐なさも! 嫌いで嫌いでどうにかなりそうだった!」

 冬子は口の端を歪めました。自らの胸をナイフで刺し貫くような、痛々しい笑みでした。

「美術展の審査員が私の絵を見てなんて言ったか教えてやろうか? 。お前の絵は言葉が出ないと絶賛したのに私の絵はただの一瞥をくれただけで一言の評価もなかったんだ。はは! 笑えるだろ? 笑えよ。私の十年には言葉一つの価値もなかった」

「……偶然よ。たまたま上手く描けただけで、私が冬子に敵うはずなんてない」

「それが侮辱だと言ってるんだ!」

 叫びが叩きつけられました。

「一年半だぞ!? たった一年半でお前は私の十年を無意味なものにしたんだ。培ってきた技術も、先生から叱られたくやしさも、やっと得られた評価も! お前の絵の前では何の意味もなかった。どうして許せる? どうやって認めろと言うんだ!?」

 冬子は背を丸め、懇願するように声を震わせました。

「教えてくれ、のどか。私はこれからどうすればいい……?」

 言葉に詰まりました。

 冬子が、どれほど絵が好きか。どれほど努力を続けてきたか。誰よりも近くで見てきた私が誰よりも深く知っています。だからこそ、分からなかったのです。分かるはずもありません。私は、冬子が積み重ねてきたことを、何一つ経験してこなかったのですから。

「私は、描きたいものを描いてきただけだから」

 瞬間、襟を掴む冬子の手から力が抜けていくのを感じました。絡まっていた指がするりと離れ、腕がだらりと垂れ下がりました。まるで、糸が切れた人形のように。

 冬子は後ろへ一つ二つよろめき、怯えた瞳をこちらに向けました。冬子はさっと背を向けると「もういい」と吐き捨てました。私は去ろうとする冬子を呼び止めました。

「冬子は充分に上手よ。これからだってもっと上手くなる。だから一度認められなかったからって、そんな気に病む必要ないじゃない。また来年がんばればきっと……」

 冬子は、心臓がきりりと痛むほど無言で立ち尽くしていました。やがてその崩れそうな後ろ姿から冷淡な声が返ってきました。

「お前はもう喋るな」

「ふゆこ……」

「嫌いだ。お前も、お前の絵も。二度と見たくない。二度と私の前に現れないで。お願い。これ以上……、私を辱めるのはやめて」

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