第4話 珊瑚の海
(1)
「今日は画材を買いに行くぞ」
いつもの唐突な口調で告げられたのは昼休みのことだった。ぶどうパンとクリームパンを片手に日野と渡り廊下を移動していると向かいの校舎から歩いてくる冬子先輩の姿が見えた。すれ違いざまに頭ぐらいは下げておこうかと歩みを進め、次の一歩で頸椎を傾けんとしたところで、ひたと立ち止まった先輩がそう言ってきた。俺は鳩みたいに首を出して引っ込めてから応答した。
「……行けばいいじゃないですか」
と返したのは何も反抗心からではない。至極単純に先輩であれば俺の都合に構うことなく一人で勝手に出かけてしまうだろうと思ったからだ。
「ホワイトが少なくなっていてな。他に不足気味のものがあれば買い足そうかと考えている」
「美術室に顔を出さないって話ですか?」
「折角だから、
「へえ、展覧会。そんなのやってるんですね」
「正門で待っていろ。16時45分には学校を出るぞ」
「はあ」
先輩は最低限の情報だけ残すと回れ右をして元来た校舎へ姿を消してしまった。
廊下に立ち尽くしたまま日野に問うた。
「……なあ、日野。あれはもしかして俺に付き合えと言っていたのか?」
「もしかしなくてもそうだと思うよ」
先輩のAIに不具合でも生じているのではないだろうか。やりたいことがあれば一人で勝手にやってしまうのが冬子先輩だ。買い物をしたければ買い物をするし、宇宙に行きたければ宇宙を目指す。自らの行動に俺を付き添わせるなど考えられない。
「十中八九荷物持ちでしょ。色々買うものがあるから持てってことだよ」
「ああ、なんだ」
そういう傍若無人さなら納得ができた。
「まあ、彼女が君に気がある可能性もゼロではないかもね」
UFOの存在を信じるかと問われたような顔で日野が肩をすくめた。俺も特に信じているわけではなかった。
「でも、展覧会を観てから買い物をするんでしょ? 客観的に見ればまさしくデートと言えるんじゃないかな。羨ましいよ。あんな美貌の女剣士みたいな先輩と二人きりの時間を過ごせるなんて」
「暗殺者の間違いだろ。感情のない殺戮機械として育てられたとかそういう設定の」
「だったら主人公の愛で失われた感情を取り戻してあげないと」
全然上手くねえよと、日野の肩を肘で小突いた。
そんなわけで放課後、正門の隅で冬子先輩が現れるのを待っていた。俺とは違ってルーズな人ではないので約束の時刻には顔を見せてくれるだろう。
下校する生徒の流れをぼんやり眺める。授業が終わってすぐ帰るのは帰宅部の連中ばかりで、風船みたいにふらふらと校舎から浮き出てくるが、中には会話を弾ませる男女の姿もなくはなかった。充実した高校生活。結構なことだ。
見るからに待ち合わせをしている俺もそういう目で見られているのだろうか。日野がたわけた口を利くからデートという単語をまるで意識していないと言えば嘘になる。だが、相手はあの冬子先輩だと思うと浮き立つ心が途端に冷え込むのも紛れもない本心だった。今日の目的は画材の買い出し。それ以上でもそれ以下でもない。
気分が上向かないのにはもう一つ理由があった。小春さんのことだ。
『冬子も私には会いたくないのだと思います』
寂しげな声が耳から離れなかった。
俺は、小春さんと冬子先輩は仲が良いのだと思っていた。先輩のことを話す小春さんの口ぶりには親しみがこもっていた。先輩は先輩で転校した友達の様子を知りたがっているように見えた。だから、神坂たちと違い小春さんと先輩の関係は悪くないのだろうと、勝手にそう思っていた。だが、小春さんは、冬子先輩もまた自分のことを倦厭しているのだと言う。
(だったらどうして先輩は小春さんの求めに応じたんだ? 感情を抜きにしても協力し合わなければならない利害があるってことか?)
状況を整理するとこうだ。去年の冬に美術部で何らかのトラブルが起こり、退部者が続出した。トラブルに関わりのあった小春さんは神坂たちから疎まれ、冬子先輩もまた彼女とは疎遠になっている。しかし、冬子先輩と神坂の立場も違っていて、先輩と小春さんの間には共通する利害があるらしい。
いや、利害関係と言い切ってしまってよいのだろうか? 感情という点においてすら俺は二人がいがみ合っているとは思えないのだ。
本当のことは当事者でなければ分からない。小春さんが話したがらないから、冬子先輩からも事情を訊けずにいた。
そもそも最近は先輩と話す機会自体があまりなかった。一緒に嵐山さんと会ってからもう二週間近くがたつが、あれから先輩は美術室には幾日も顔を出していない。来ることがあっても三十分程キャンバスの前で座ると黙って独りで帰ってしまう。製作中の画も連休前の状態からほとんど進んでいないようだった。
スランプに陥っているのではないか。
先輩は何も言わないし、見た目普段と変わりはないが、難しい想像ではなかった。まさか絵具不足で作業がはかどらないわけではないだろう。
腕を組んで悶々としていると下校する連中の中に見知った顔が混じっていた。相手もこちらを認めると眼鏡の奥を柔らかくする。
元美術部員の中山先輩だ。
「こんにちは、藤宮くん。誰かと待ち合わせ?」
「……ええ、これから冬子先輩とデートなんですよ」
「ふふ、美術部も男子一人だと大変ね」
冬子先輩を知っているからだろう。中山先輩は俺のジョークを察してくれた。
「この間はごめんなさい。せっかくのお話なのに断ってしまって。藤宮くんの顔に泥を塗ってしまったんじゃないかしら」
「別に泥なんて。根付の持ち主を見つけることが俺の仕事でしたから」
嵐山さんから根付を返して貰ったのが五月三日の土曜。中山先輩には六日の火曜に会って貰うことになり、俺と冬子先輩も仲介役として同席した。中山先輩を呼び出したのは冬子先輩だったが、事情を一切話していなかったらしく、嵐山さんがプロポーズのような勢いで迫ると顔を真っ赤に染めて混乱していた。
「恥ずかしいというのもあったんだけど私も来年は受験でしょう? 時間も中々取れそうになくて」
「二年になるとやっぱ色々大変なんすね」
「藤宮くんもすぐよ。一年なんて小テストに追われているうちにいつの間にか終わっちゃうんだから」
先輩が校舎を見上げる。
「この分だとあっという間に卒業かもね」
光陰矢の如し。送る月日に関守なしか。
言わんとしていることは分からないでもないが、
「そりゃあ先輩。終わっちまえば何もかもむかしの一言ですよ。俺なんか三限目の物理が永遠に続くんじゃないかって不安になってたくらいなんすから」
中山先輩はきょとんとしたあと、くすぐられたみたいに笑った。
「そうだよね。飯塚先生はもう少し喋り方に抑揚を付けて欲しいよね」
「昼飯のあとだと最高なんですけどね」
中山先輩はまた可笑しそうにする。豊かな表情を見せてくれる人だなと思った。同じ先輩でも小春さんや冬子先輩とはまたタイプが違っている。もっともあの人たちが大人びているだけで同年代の女子は大体こんなものだろうが。
「それで、今日は冬ちゃんとどこへ行くの?」
「ああ、絵具を買いに行くそうなんですよ。あと坂吾通りのほうで何かの展覧会を観るとか」
中山先輩は弾むように手を合わせた。
「逆吾通りのギャラリーって言ったらマリオンだよね? その展覧会、私の友達も出展してるんだよ。梅女の美術部の子なんだけど」
「梅女の人、ですか」
心臓が高鳴った。
「うん、主催の『好文木の会』が梅女のOGで構成される団体なの。学校との繋がりが深いから希望すれば在校生の作品も出してくれるそうよ。成沢伊吹って子だから行くなら彼女のも観てあげてね」
成沢伊吹か。
俺が期待していた名前ではない。無論、彼女と中山先輩らは仲違いしているのだから友達などとして紹介されるはずもない。期待だけがどこからか湧いてどこかへと消えた。
そして、改めて不思議に思った。目の前の優しそうな人と、穏和な小春さんとの間に一体どんな確執があるのだろうと。
「あの、中山先輩」
先輩は「なあに?」と首を傾げた。
続きを口にするのが躊躇われた。他人の敷地に許可なく踏み入るようなものだ。喉に息が張り付く。
「先輩は美術部員だったんですよね? 神坂先輩と一緒に」
先輩の整ったまつ毛がほんのわずかに揺れた。
「うん、去年までね。冬ちゃんから聞いたの?」
俺は小春さんからだと返した。彼女の名を出すことにも躊躇を覚えたが、そんなところで足踏みをしていたら話が進まない。核心は次だ。
「良ければ教えてくれませんか。お二人がどうして美術部を辞めてしまったのか」
伏し目がちに問いかけた。機嫌を損ねてしまうかも知れない質問だ。正面から相手を見据えられるほど俺の神経は太くない。
先輩の反応を待った。が、先輩の顔に表れたのは不快でも怒りでもなく上級生らしい鷹揚な笑みだった。緩やかな唇が控えめに動いた。
「藤宮くんって意外と大胆なんだね」
「だ、大胆?」
「だって、普通は上級生のいざこざに首は突っ込まないよ?」
「……すみません」
やはり無神経な質問だったかと肩をすぼめる。と先輩は俺を安心させるように首を振った。
「ううん、そうじゃないの。それでも人に関わろうとするのはとても勇気がいることだから。凄いなって驚いちゃった」
はあ、と気の抜けるような声が出た。
皮肉とも取れる言い回しだったが先輩の口調に非難の響きはなかった。どうやら本当に感心しているらしい。何だか調子が狂う。
先輩が続けた。
「でも、私に訊くってことは小春さんは教えてくれなかったんでしょう? そういう、人が言いたくないことを本人がいないところでこっそり話すのはどうかと思うし、それにフェアじゃないと思うの」
「フェア、ですか」
中山先輩は頷いた。
「私は別に隠すようなことじゃないと思ってるのよ。言い難いことではあるけどね。でも、私は、私と美星ちゃんが見たことしか教えてあげられないわ。小春さんはきっと私たちとは違うものを見ている。それが何なのか最後まで知ることはできなかったけれど……でも、片方の話だけで物事を判断するのはやっぱり違うと思うの。だから、ね」
中山先輩は「分かるでしょう」という顔で俺を見た。駄々をこねる弟をあやすかのような表情に頬が熱くなるのを感じた。
同時に先輩の人柄に誠実さも覚えていた。そして、それゆえに湧き上がる疑問もあった。
「中山先輩は、小春さんのことをどう思ってるんですか?」
神坂は頭から嫌っていた。だが、中山先輩は小春さんの声にも耳を傾けるべきだと言う。
先輩は眼鏡のつるを中指で撫でた。
「……そうね。私は好きだったよ。彼女も、彼女の描く絵も。だから、去年のことは本当に残念に思ってる」
鏡面の奥の双眸に記憶と愛惜が入り混じる。とても触れがたいと思った。
俺は深く息を吸い込む。
「ありがとうございます。色々と不躾なことを言ってすみませんでした」
「ううん、藤宮くんが謝ることじゃないよ。私のほうこそ何も教えてあげられなくてごめんなさい。もし、藤宮くんがどうしても納得できないと思ったら、そのときはまた相談して。私も考えてみるから……あら?」
中山先輩が腿のあたりに手を当てる。俺には、耳慣れない古風な音が聴こえた。琴の音色だ。どうやら先輩の携帯が鳴っているらしい。先輩は俺に一言断りを入れるとスカートからスマホを取り出し耳に当てた。
「はい、もしもし。……うん、学校出るとこ。……うん。え、そうなの?」
中山先輩のスマホは真っ黒なカバーで覆われていて表面に金色の装飾が施されていた。持つ手に隠れて全体像は見えないが、端から覗く形からするにウサギの図柄らしい。
ウサギと言っても、女子が好みそうな可愛い絵柄ではなく、何かのエンブレムのような洗練されたデザインだ。シンプルで趣味は悪くないが、琴の音を着信音にするような先輩には似合っていないようにも思えた。他人から貰ったものなのかも知れない。
「うん……うん、気にしないで。場所は? ……うん、わかった。7時ね。うん、大丈夫。じゃあね」
先輩は一分ほどうんうんと頷いたあと、スマホをスカートに仕舞った。
「ごめんね話の途中に。友達からだった。今日は塾に遅れるって」
先輩の友人のことはともかく、引き留めてしまった手前、先輩自身の都合は気にかかった。
「先輩は時間大丈夫なんですか?」
「うん、始まるまでにはまだ時間あるから。でも、今日はここまでにしておこうかな。そろそろ藤宮くんを冬ちゃんに返してあげないといけないし」
「欲しいのなら持って帰っても構わないぞ」
冷気を帯びた声は背後から届いた。声のほうを向くと冬子先輩が校舎から出てきたところだった。
中山先輩がやれやれといった顔をする。
「そういうわけにもいかないでしょ。藤宮くんがいなくなったら冬ちゃん一人になっちゃうじゃない。美術部がなくなっちゃう」
「ならお前が戻ってくればいいだろう」
冬子先輩は飾り気なく続けた。
「私は別に気にしていない」
その言葉は中山先輩にとっても意外ものだったらしい。先輩は大きな瞳をぱちくりさせた。そして、ふわりと瞼を閉じて開いたあと、折り紙を水で濡らしたような笑顔を見せた。
「ふふ、ありがと冬ちゃん。考えておくわ」
冬子先輩は気鬱そうに首を振る。中山先輩の中では既に答えが出ている。そういう類の返答だった。
中山先輩は俺に向き直ると小さく片手を上げてにこりとした。
「それじゃあね、藤宮くん。冬ちゃんとのデート楽しんできてね」
「あ、はい。色々ありがとうございました」
「冬ちゃんも」
冬子先輩はおざなりに応じる。
そうして中山先輩は下校する生徒の流れに戻って行った。歩道を遠ざかっていく後ろ姿を見送りながら俺は冬子先輩に話しかけた。
「先輩、中山先輩と仲良いんですか」
「別に。元美術部のよしみで会えば話す程度の仲だ。特別どうという間柄でもない」
普段どおりの先輩だった。普段どおり、感情が読めない。嘘とも。真とも。
冬子先輩に訊きたいことはたくさんあった。でも、中山先輩にああ言われてしまった以上、訊くわけにもいかなかった。蒸し返したい気分でもない。また次の機会でいいだろう。
「じゃあ行きましょうか冬ちゃん」
「誰が冬ちゃんだ」
先輩と一緒に買い物に行く。今日はそれで充分だ。
(2)
ギャラリーマリオンは西高から徒歩で十数分の坂吾通りにある、ということを先輩に教わり初めて知った。服屋や雑貨屋が軒を連ねた通りで俺たちのような学生の姿も目立つ。俺自身、通りの書店で買った参考書によって受験を合格させて貰った身であり、全く縁のない土地でもなかったが、マリオンなどというギャラリーは聞いたこともなかった。もっとも見知らぬ場所というものはそれを認知した途端、泉が湧き出るように突然姿を現すとしたものだろう。マリオンで展覧会を見学したあと、安木通りの文具店で画材を買いに行くというのが今日の予定コースだ。
休日に会ったとき、冬子先輩はそれなりに小遣いをつぎ込んでそうな私服を着ていた。だからファッションに興味がないわけではないのだろうし、街を歩けば目移りするものもあるはずなのだが、先輩はそうした店には目もくれず、通りの端を黙々と進んでいた。線を引いたように直進する背中からは逸る心のようなものが感じられた。俺は先輩の斜め後ろをカモの雛みたいに付いていった。
マリオンには先輩の予測より5分ほど早く到着した。着いてみると「なんだここか」と腑に落ちるような場所にあったのだが、中へ入ったことはやはり一度もなく、見覚えあるその建物をずっとカフェか何かだと勘違いしていたことに俺は気が付いた。
「いや、間違っていない。1階がカフェで2階と3階が貸画廊になっている」
階段の手すりを掴みながら先輩が言った。2階と3階へは道路から直接上がれるようになっている。上り口の看板には展覧会のポスターが張られていた。
「貸画廊は読んで字のごとく有料で展示スペースを提供する画廊の一形態だ。借り手はオーナーに賃料と作品の売上に応じた手数料を納めるのが一般的だが、マリオンでは売買の発生しない趣味や同好会活動への貸し出しも認めている。今から観るグループ展もそんな一つだ。まあ、霧代みたいな地方で作家を厳選していたら借り手がいなくなってしまうからな」
先輩に続いて階段を上がる。
「貸画廊があるってことは貸さない画廊もあるってことですか?」
「そういうものは企画画廊とかコマーシャルギャラリーと呼ぶ。展示されるのは画廊主が売れると見込んだ作家の作品だけだ。つまりディーラーの御眼鏡に適わなければ相手にもされない。企画画廊の場合、展示に関する費用の一切を画廊主が負担する代わりに売上の半分以上を手数料として徴収されることになる」
五割! それはまた阿漕な数字だ。
「振興や育成の機能は果たしていても慈善事業ではないからな。それに、作家にとっても負担なく個展を開けるメリットは大きい。何より世間の認知を得られる好機になる。日本では貸画廊と企画画廊を通じて作品を発表していくことが作家として世に知られるためのメソッドなんだよ」
「へえ」
県展みたいなとこで賞を取ることが画家として実績になるのだと漠然と思っていた。実際の仕組みは少し違うらしい。
「もっともマスコミや批評家が目を付ける貸画廊は都市部に集中しているから、こんな田舎で個展を開いたところで地方局が喜ぶだけだがな」
「じゃあ、この『好文木の会』って何のために借賃払ってまで展覧会なんぞ開いてるんです?」
「注目されなきゃ芸術を楽しんじゃいけない決まりなんてないだろう」
慣れているのだろう。先輩は2階の踊り場まで上がり切ると、部室に入るのと変わらない気軽さで入口のガラス戸を手で押した。画廊に馴染みのない俺には先輩の存在が何とも心強い。
室内へ入ると声を立てることが犯罪であるかのような空気が口内にぴたりと張り付いてくる。喧騒。走行音。鳩の鳴き声。青嵐。遠くから響く余分なものが一切途絶え、空間が隔絶される。欠けた聴覚を埋め合わせるのはゆったりとしたジャズナンバーだ。
広さは教室二つ分ぐらいだろうか。フロア全体が暖色のライトで照らされ、クリーム色の壁一面に作品が展示されていた。手で抱えられる程度のコンパクトな作品が多く、それらがずらりと並ぶさまは列車か船舶の小窓を連想させた。客は俺たち二人だけらしい。
冬子先輩は、受付で受け取った目録を切りつけるようにじっと眺めた。が、やがておもむろに顔を上げると反時計回りの順路に従って作品の鑑賞を始めた。その後ろ姿からは、それまで身に纏っていた緊張感がすっかり緩んで失われていた。
理由は俺にも察しが付いた。俺もまた目録に目を通し、自分の想像が間違っていないことを確認すると、あとは適当に丸めてバッグに突っ込んだ。
俺も展覧会に来るのは初めてではない。親に連れられて県外の美術展を巡ったことは何度かあるし、小学校の遠足だって県立美術館だった。ただ、芸術から何か学ぶことがあったかと問われれば、申し訳ないと頭を下げる他なかった。
今回は人生で初めて美術部という立場で絵画を鑑賞する。なので漫然と額縁に向き合うのではなく、初心者なりに作品の魅力や伝えんとするところを掴み取ろうとちょっとばかり意気込んでいた。
風景画や人物画といった形のはっきりした作品の場合、俺の試みを果たすことはさほど難しくなかった。心から綺麗だと言える色使い。溜息の漏れる緻密さ。刹那の躍動感。口元が緩んでしまう幸福な表情。懐かしい山郷。哀しく錆びた鉄屑。幻想の海。中には趣味を疑うグロテスクな絵画もあったが、それゆえに刺激的だった。
一方、どういうふうに捉えればいいのか解釈が困難な絵画も散見された。
たとえば、あるものはキャンバス一杯に複数の色を薄く塗り伸ばしているだけの作品だった。波形に塗られたそれは色の付いたもやにしか見えず、さりとてもやを描いているとも思えず、只々俺を困惑させた。またある作品は精一杯好意的に見ても濁ったペンキをぶち撒けているだけだった。
作者の心象を表現したものなのか、何かの象徴なのか。良いものなのか、悪いものなのか。困惑はやがて思考の停止を招き入れる。
赤線を二本引いたキャンバスを見せられて俺は何を言えばいいのだろう?
「わからないか?」
多分引かれた線と同じような顔をしていたのだろう。並んで観ていた冬子先輩が声をかけてくれた。
「……わかりません」
否定する理由は見当たらなかった。先輩は横顔のまま「だろうな」と相槌を打つ。
「私にもわからない」
「先輩にもわからないんですか?」
「わかると思うのか?」
いや、それがわからない。
なので解説を期待したのだが、先輩はそこで口を閉ざしてしまった。俺は宙ぶらりんのまま鑑賞を再開する。と何点かの作品の前を過ぎたところで、
「写真の登場によって写実絵画が主流ではいられなくなったところまではこの前に話したな」
と先輩がまたぽつりと語り始めた。いつものように、唐突に。
戸惑いつつも、ええと頷いた。
「写実の次に現れたのは印象派だった。印象派というのは、端的に言えば事象を見たときの印象をそのまま描き出そうとするスタイルのことだ。マネやモネと言えば聞いたことぐらいはあるだろう」
さすがの俺でもその程度なら。中学の授業でも習った気がする。
「彼らは写実の流れに立ちながら光や水の一瞬の表情に感心を抱いた。陽光を映し出す泉を描こうにも太陽は刻一刻と位置を変え水面は揺らぎ移ろいでいく。変化し続ける風景を一枚の画面に『再現』するにはどのような表現が相応しいのか。それにはもはや伝統的な写実画の手法では不十分だった。そこで彼らが編み出しのが断続的な荒々しいタッチで風景のエッセンスを抽出する印象派の技法だった。彼らの斬新な筆使いは従来の様式を重んじる批評家や権威者からは酷評されたが、のちにポスト印象派、新印象派と呼ばれるゴッホやスーラのような画家たちに絵画の新たな可能性を提示した」
俺たちの前には林檎とオレンジを奇抜な色使いで描いた静物画が展示されている。
「そんな印象派から始まり近代絵画は角度や色使い、そして形状を事物のまま『再現』する行為から離れていく。そもそも現実そのままに色を置く必要があるのか。一枚の絵の中で物の角度を揃える必要があるのか。物体を物体として描く必要があるのか。花は花の、人は人の形をしていなくてもいいのではないか。私は私の感じたままに世界の姿を描き出していいのではないか。そんな模索の潮流で生まれたのが抽象絵画だ」
何だかインフレし過ぎて収拾が付かなくなったバトル漫画みたいだな。
「一般的にはワシリー・カンディンスキーが創始者とされているが、彼が抽象絵画を生み出したきっかけとして有名な逸話が残されている。ある日帰宅したカンディンスキーが自分のアトリエに入ったところイーゼルの上に『光り輝く美しい絵画』が立てかけられていることに気が付いた。何が描かれてあるのかさっぱり判別できなかったが、彼はその絵の神秘的なまでの美しさにすっかり魅了され、見入ってしまった。しかし、しばらく眺めているうちにふと気が付いた。これは自分が描いた馬の絵が横倒しになっているだけではないか」
「ふっ」
何のネタ話だ、それは。
「一度馬の絵だと認識してしまうと、以降横向きにしても逆さにしても、『神々しいまでの美しさ』は二度と感じられなかったという。……カンディンスキーの非凡なところはな、その経験を単なる笑い話として済まさず、なぜ自分は形の分からない横倒しの絵を美しいと感じたのか極致まで突き詰めたことだ。彼はこう考えた。『描く対象とは絵画の真の美を表現するためにはむしろ邪魔なだけなのではないか?』 つまり、具象を離れてこそ真の美は現れると結論付けたわけだ。カンディンスキーは抽象絵画という新たな境地を切り開いた革命性によって今も高く評価されている」
先輩は息を継ぐように一拍置いてから、さてと発した。
「そんな抽象画を私が見て理解できるのかという話だったな? 先に話したとおり美術の経験者だからと言って見ただけで分かるというものではない。何しろ作者自身が形を判別できないように描いている。カンディンスキーは色彩と形態によって精神を表現していると言ったそうだが、それも数あるスタンスの一つに過ぎない。抽象によって摂理を表現しようとした画家もいるし、鑑賞者に解釈を委ねるという作家もいる。作者の思想やスタンスを全て把握することが困難な以上、見えるものが同じならば分からないのもまた同じだ。
ただ一つ言えるのは抽象画を含む現代アートにはある種の知識や情報を得ることによって初めて評価できる作品があるということ。そして、私とお前の違いもまたそこにあるということだ。私はそれらが世に現れた経緯を知っている。評価される背景を知っている。見て分からずともそこに許容が生まれる。こういうものがあっても構わない。そういうふうに考えることができる」
先輩はとある作品の前で足を止めた。
「抽象画を前にして戸惑う気持ちも理解できる。きっとお前の中にある『絵画のイメージ』とあまりにかけ離れているからだろう。見慣れないものを目にすれば誰だって困惑する。だが一度その固定観念を捨て、自由な感性で眺めれば、こういう作品だって面白い。そんなふうに思えてこないか?」
見上げたのは展示場の中でも数少ない大型の作品だった。先輩はおろか俺の背丈すら超えているかも知れない。縦長のキャンバス一杯にカラフルな縞模様を描いただけの作品で、まるで色鉛筆だった。タイトルにはこう記されていた。
『世界』
(3)
2階の展示を見終わり、3階も半ばを過ぎた頃だった。
気付けば、小春さんとの取り留めのない会話を思い出していた。コーヒーのこと。預けた絵のこと。根付のこと。先輩のこと。脈絡のない情報が浮かんでは消え、はて俺は何をやっているのだろうと我に返り、絵画を前にしていることを思い出す。集中力が切れかけているのだ。
これではいかんと額に指を当て、再び顔を上げるが、数分もたてばまた日中の記憶を辿っている自分がいた。どんな作品の前を通り過ぎたのかも覚えていなかった。
それから何分かたつと今度は不意に中山先輩の言葉が頭に響いた。
『友達の作品が展示してあるから見てあげて』
そう言えばそうだったと目録を取り出し、教えて貰った名前を目で拾う。確か成沢伊吹だ。
こういうのは不思議なもので目を凝らすほど見つからない。全ての行に目を通しても目的の名前を拾うことができず、俺はもう一度初めからやり直す。苛々する程度に手間取ったが、成沢の名前は確かに目録の中に存在した。
展示番号44・成沢伊吹。タイトルは『見える景色』 目前にある絵の展示番号が76だから大分前に通り過ぎてしまったことになる。先を行く冬子先輩の肩をちょいちょいと指でつついた。
「先輩、この成沢って人の絵見ました?」
「さあ、見てるんじゃないか。知り合いか?」
「中山先輩の友達らしいんですけど」
先輩は番号からして2階に展示されている作品だろうと教えてくれた。今から戻って確認するより帰りに立ち寄ったほうが効率的だろうとも。
そうして3階の展示も見終わり、俺たちは2階に引き返した。多少興味はあったのだろう。先輩も特に面倒臭がりはしなかった。
成沢の絵の展示番号は44番なので後ろから追いかけたほうが早かろうと順路とは逆に時計回りで番号を確認していく。47、46と番号を数え、次が成沢の作品だと45番の右隣を見たときだった。奇妙なものが目に入った。
「あれ?」
「43番、だな」
番号が一つ飛ばされていた。
作者は土本信子。戯れる数匹の猫を描いた絵でタイトルはそのまま『戯れ』 もちろん成沢の作品ではない。
『戯れ』の左隣りを再度確認する。榊原由美の『時空~100年の孤独~』 番号は何度確認しても45番。目録に従うならばこの間に成沢伊吹の『見える景色』が挟まれているはずなのだ。
「不吉な数字だから飛ばされちゃったんですかね」
「病院じゃあるまいに」
では番号順に並べられているわけではないのだろうかとも考えたが、両隣の作品は番号に従っているし、記憶にある限り他の作品もそうだったはずだ。マラソンのゼッケンではないのだから順番どおりでなければ目録も展示番号も意味がない。
冬子先輩は腕を組んだまま45番の先に視線を向けた。つられて俺も首を回す。辿っていく先にあるのは会場の出入口だ。
「見てみろ」
先輩がガラス戸を指差した。
「違う。その右の壁だ。やけにスペースが空いてないか」
「……空いてますね」
最初に回ったときは気にも留めていなかったが、2階に展示してある最後の作品の左隣、つまり出入口の右側の壁に不自然な空白があった。もう一枚絵を展示するには十分なスペースだ。
「成沢さんの絵を外して全体の間隔を一枚分手前に詰めてる?」
「そうらしいな」
「どういうことなんですかね?」
販売はされていないと聞いたが。
「知るわけがない。だが、推測はできる」
先輩は左手を右肘に添えた格好で、人差し指を立てた。
「一つは本人が撤去を申し出た可能性だ。とても衆目に晒せないほどの大きなミスに気付いたか、もしくは作品の完成度そのものに不満があったかだな」
それは俺も真っ先に考えた。と言うよりそのぐらいしか思い浮かばなかった。冬子先輩は間を置かずに二本目の指を立てる。
「もう一つは違反行為の指摘があり強制的に撤去させられた可能性。模写や盗作、あるいは他人が描いたものを自分のものと偽って展示していたケースが考えられる」
さらに親指が開いた。
「三つめは内容が公序良俗に反するものだった場合だな。差別や誹謗中傷、過度に性的な描写がそれに該当するだろう」
「そんな絵だったら最初から展示されないでしょう」
「一見気付かない場所に暗示的に配置されている例はある。もっとも表現の自由との兼ね合いがあるから余程悪質なものでない限り芸術の一言で済ませられそうなものだが。まあ、大まかに挙げればそんなところだ。他にも盗難や紛失、運搬時の破損といったケースも考えられなくもないが、どうだろうな」
成沢本人を知らない俺にはどの理由があり得るのか見当も付かなかった。ただ、盗作や誹謗中傷といった悪質な行為は、人が人である以上は当然起こり得ることだとしても、どこか現実味の感じられない話だった。やはりミスだろうか。
「係員に訊けば分かる」
と先輩はすたすたと受付へ歩いていく。
先輩が尋ねると、受付のお姉さんは今まで小声で話していたのが馬鹿らしくなるような声量(と言っても大声ではない。普通の声だ)で成沢の絵が撤去されたことを認めた。
「お昼ぐらいに会長から連絡があって言われるままに外したんだよねー。だから具体的なことはなーんも聞いてなくってさ。私も理由は知らないのよ。暇してたからやることできて助かったんだけど。いやあ、毎年ながらお客さん来ないのなんのって。今日なんか君たち入れても両手をちょっと超えるくらい? あ、そう言や目録も直さなきゃ」
元々お喋りなのか、話し相手が欲しかったのか、あるいはその両方なのか、お姉さんはやけにテンションが高かった。
「ただ、なんでも梅女のほうから撤去してくれって話があったらしいよ?」
「学校から? 本人ではなく?」
「そ、学校から」
ということはミスの類ではないのだろうか。学校を通じて取り下げを願い出ただけかも知れないが。
お姉さんがうーんと唸った。
「何てことない風俗画だったんだけどねえ。問題になりそうなものは描かれてなかったし、本人もちょっと変わったとこあるけどパクリとかするような子じゃないしさー。あ、ところで君たち伊吹ちゃんの友達?」
俺が言い淀んでいると先輩が「そうです」と断言した。堂々たるその態度には呆れを越えて尊敬すら覚える。
「OGの私が言うのもなんだけど、あの学校って変にお高くとまってるとこあるからね。伝統だか格式だか知んないけど、ま、なんか教師の気に障ることがあったんだと思うよ」
でも、描かれている内容に問題はなかったと言う。矛盾しているようですっきりとしない。
「絵はまだここにあるんですか」
先輩の質問にお姉さんは肩をすくめた。
「残念、二時半くらいに顧問の先生が持って帰っちゃった。理由聞いとけばよかったね」
成沢本人を知らず現物すら確認できないとなれば事情を推し量ることもできない。奇妙な話ではあるが、学校にまで問い合わせるほどのことでもない。あとで中山先輩に訊けば何か教えてくれるだろう。
礼を言って立ち去ろうとするとお姉さんが「そう言えば」と独り言のように呟いた。
「昨日お客さんに伊吹ちゃんの絵のこと訊かれたんだったわ。これは在校生が描いたものなんですかって。何か関係あるのかしらね」
在校生も出展できる以上、ごく普通に尋ねられそうなことではある。関係があるかどうかは微妙なところだ。
「あのおじさん、弥栄企画の社長だったんじゃないかなあ」
「弥栄企画?」
「イベント企画会社って言うの? 会場設営とか照明の設置とか請け負ってくれるとこ。何年か前にお店畳んじゃってねー。昔は景気良かったらしいけど、今は何をやってんのかしら」
それもまた俺には答えようのないことだった。
(4)
結局、何だったんだろうと首を捻りながらマリオンを出た数分後、気持ちもそろそろ次の買い出しに移りかけていたところで先輩が俺にスマホを差し出してきた。
画面には一枚の絵が映し出されていた。
「中山からだ。何か知らないか訊いてみたが、あいつも初耳らしい。成沢とも連絡が取れんそうだ。ただ出展前に映した写真があるからとそれを寄越してきた」
成沢の絵。それはとある公園の一区画を広域的かつ俯瞰的に描いたものだった。季節は秋頃だろう。樹木が紅葉し、地面が黄金色に塗られていた。キャンバスの中央にはコンクリートで囲われた正円の池があり、反射する陽光と水面の揺らぎが滑らかなタッチで表現されていた。池の縁の正面には二人の男女が指を触れ合わせて座っていて、他にも、犬を散歩させている女性や手を繋いで歩く親子、花壇を鑑賞する帽子姿の男などが描かれていた。
目を引くのは池の中心に鎮座した風変わりなオブジェだ。メタリックな銀の羽を放射状に複数伸ばしたそれはウニのようにも毬栗のようにも見え、一体どういった代物なのか見た目だけでは判断付きかねる。さりとてそれはそういうものが公園の中にあるというだけの話で、全体としては長閑な秋の風景を描いた一枚と捉えて良さそうだった。
絵画の巧拙は判らないが決して下手ではないと思う。むしろ高校生の絵だとは思えないほど上手い。上手いのだが……。
「思ってた以上に何てことないですね」
先輩が腑に落ちない声で同意してくれる。
「……そうだな。私も見れば何かわかるかと思っていたが、過信だったようだ。とても問題があるようには見えない」
問題どころか、授業の課題なら模範として賞賛されてもおかしくないほど優等生的な作品に見える。健全かつ普遍的で解りやすい。しかし、この作品が撤去された事実を知った今では抽象画よりも不可解な代物に思えて仕方がない、というのはさすがに言い過ぎだろうか。
証拠に一つだけ分かることもあった。
「これ、
「だろうな」
と先輩が左腕を差し出してきたので、スマホを返却した。
南針野公園は、その名のとおり霧代市針野地区にある大きな公園だ。普段あまり足を運ぶような場所ではないが、描かれている特徴的なオブジェには見覚えがあった。
「彫刻家の
「蓮ですかそれ」
「蓮だそうだ。タイトルは確か『完全なもの』」
RPGの裏ボスみたいな名前だ。言われてみれば四方へ突き出る尖った羽が蓮の花弁に見えなくもないが、こんな金属の花を『完全なもの』とは皮肉めいたジョークにしか聞こえない。まあ、いわゆる現代アートというやつか。
「もっとも成沢の件とはさすがに無関係だろう。公共のものだ。たとえ美術的な価値があったとしても自由利用は認められている。クレームを付ける余地がない」
「やっぱり何か苦情があったと考えてるんですか?」
「本人が取り下げを希望したのなら回収に来るのも本人だろう。昼過ぎに教師が取りに来たのはなるだけ早く苦情に対応しなければならなかったからだ」
放課後まで待てなかったということか。だったらなおさら分からない。この絵の何がそこまで問題だと言うのだろう。
成沢のミスではない。本人を知る人も盗作をするような人間ではないと言う。
「他人の作品を出展した可能性も低いだろうな。何しろ中山が見ている。友人が描いたものかどうかくらいは見分けられるやつだ」
なら残るは名誉棄損の類ということになるが、絵の内容に問題がないのは先述のとおりだ。それとも先輩が言うように一見気付かないところに醜悪な悪意が隠されているのだろうか。
「いずれにせよ昨日この絵について尋ねたというどこぞの元社長が怪しいな」
役所も学校も外部からのクレームには滅法弱い。大きな声で怒鳴り散らされ下っ端の教師が右往左往。いかにもあり得そうな話だ。
先輩はディスプレイに指を這わせながら、こともなげに言った。
「行ってみるか、南針野公園」
そんなわけで俺たちは南針野公園までやって来た。マリオンから徒歩で約二十分。今日の放課後は冬子先輩に付き合うつもりでいたので回り道に異論はない。ただ同伴の俺に断りも入れず予定を変えてしまうあたりがどうしようもなく先輩らしかった。
時刻は午後6時前。南針野公園は市内の中心部からは離れているため中央公園ほど人通りはない。しかし、広さは倍以上あり外周は恐らくキロ単位になる。敷地の内部も複数のエリアに別れていて、多様な年代が多様な時間を過ごしていた。
「つっても何か不自然なとこありますかね?」
俺たちが立っているのは公園の南側、成沢の絵のモチーフになっている池の正面付近だ。絵の内容からは判らないことだが、池は南の出入口のすぐ傍にある。脇には車道が走り、道路を挟んだ向こう側では墓場みたいにビルが並んでいた。地方はどこも景気が悪い。正面のビルなどは見るからに廃ビルと化しており、公園の内と外で白昼夢のようなギャップを生み出している。まあ、市街地にある公園なんてどこもそんなものだろう。
公園のレイアウトは概ね絵に描かれているとおりだ。どこぞの芸術家が造ったとされる銀色の蓮。それを奉るように囲むコンクリートの池。ジョギング中のスポーツマン。散歩する老人。麦わら帽子の女の子。登場人物は多少違えど本質的には絵の中の風景と変わりがない。瑞々しい葉色と、花壇の色彩だけが時間の経過を実感させたが、その変化もまた普遍的だった。
先輩はオブジェを見上げながら答えた。
「分からない。だが一つ気付いたことがある」
「なんです?」
「犬の連れ込みは禁止だ」
先輩が示す先には公園の利用に関する注意書きがあった。自転車等の乗り入れ、火気の使用禁止に続き、三項目目にペットの連れ込みを禁じる内容が書かれていた。つまり、
「絵に描かれている犬を連れたおばさんはマナー違反だってことだ」
「犬の連れ込みって……」
マナーにもとる行為を描くのは鑑賞者に悪影響を及ぼすから展示すべきではないとでも? 犬を連れた利用者なんて今も目の前を歩いているのだが。
「ここに来るまでに考えたんだが」
と先輩は無邪気な尻尾を目で追いながら言った。
「公園の構造や景観に問題があるのなら文句を付ける先は役所であって学校じゃない。つまり問題はそれ以外の描写。描かれている人物にあるんじゃないかと私は考える」
「それで犬の連れ込みですか?」
「例として挙げたまでだ。他に気付いたことは?」
俺は自分のスマホに目を落とす。作品の写真は既に先輩から転送して貰っていた。
絵に描かれている人物は全部で6人だ。池の正面に座るカップル。犬を散歩させる女性。手を繋いで歩く親子。花壇の前に立つ帽子姿の男性。改めて観察しても格別問題があるようには見えない。そもそも広域的に描いた作品であるため、人物一人ひとりの特徴が掴めるほど細かく描き込まれていないのだ。せいぜい体格や服装、髪型から、性別や年齢の判別が付く程度。それにしたって町を歩けば当たり前に目に付きそうなものばかりだ。仮に6人の中に指名手配犯が紛れ込んでいたとしても見分けることは不可能だろう。冬子先輩も当然その点は理解している。人物描写に問題があると指摘しておきながら渋い表情は渋いままだ。
あるいは、描かれている中身に問題があるという、その前提が間違っているのだろうか。
「やっぱり……、そうですね。その元社長とやらは苦情を入れたんじゃなくて、成沢さんの絵が気に入ったんじゃないですか? とても欲しくなった。だから急いで学校に連絡を入れて」
「回収して持ち帰った? 高校生の絵を?」
無理があるだろうか。
冬子先輩は「いや」と前髪をかき上げる。
「絵画に価値を与えるのは鑑賞者だ。アマチュアの絵を手元に置きたがる人間がいても別におかしくはない。このグループ展では売買は行われていないが、それも本人との交渉次第だろう。だが」
先輩は頭から手を放す。砂のような髪がさらりと額を撫でた。
「取引がないということは他者に買われる心配もないということだ。ましてや学生の作品。会期が終わるまで待ったところで普通はなくなったりはしない。男のほうとしても、学校側としても、取り立てて焦る理由はなかったはずだ。それをわざわざ急ぎで外したということは……やはり私はクレームのほうを連想してしまうがな」
もっともな言い分だった。仮に元社長が俺たちには知り得ない理由で成沢の絵を今日中に手に入れたかったのだとしても、学校へ直接交渉に出向いたりはせず、まずは主催者である『好文木の会』に、係員のお姉さんに相談するのが順当ではないだろうか。
どちらともなく唸った。気付けば俺たちはまた公園の中を見回していた。だが、漫然と視線を滑らせたところで、至る結論に変わりはない。遊ぶ子どもの影ばかりが伸びていく。
見えるものが同じならば分からないのもまた同じ。一体どんな背景を知ればこの絵の裏側が見えてくるというのだろう。
「その男の言ったことにもう少し注意を払うべきかも知れないな」
冬子先輩は握る手を口元に当てた。
「この絵が在校生のものかどうか確認したってだけでしょう?」
「改めて考えるとそれが不自然だ。お前は知らんだろうが『好文木の会』は梅女のOGで構成されている。在校生も希望者すれば出展することは可能だが作品の全体数から見れば数は限られている。お前、この絵を見て在校生が描いたものかどうか分かるか?」
俺は首を振った。
「私にも分からん。目録には名前しか記載されていない。だから普通ならそう考えないはずだ。だが、その男はこの絵のどこかでそれを判断している。判断する材料があったんだ。それが何か分かれば撤去された理由も自ずと明らかになるはずだ」
でも、結局それは男が問題視した描写を見つけなければ話にならないということだ。そして、それが分からないからこそ難渋している。
先輩は指を組んで背を反らした。
「何か、見落としているだけのはずなんだがな」
そのときだった。
ぽつと池の中に何かが落ちた。気配のほうへ向くと小麦色の影が帆船のように波紋を連ねていた。麦わら帽子だった。池から少し離れた場所では小学校低学年くらいの女の子が虚空に腕を伸ばして固まっていた。細腕の先には水面に漂う帽子。俺はそこで初めて青嵐が吹き抜けたことに気が付いた。
女の子は慌てて縁石に駆け寄るが、帽子は池の中心付近、蓮のオブジェの真下あたりでさざ波に曝されていた。縁からの距離は5メートル、深さは50センチくらいだろうか。女の子はどうすることもできず、世界の終りみたいな貌で口を開けている。
(まあ)
どうにかしなきゃいけない場面なんだろうなと義務にも似た心理が働いた。植樹の下、それから花壇のほうを見やる。届きそうなものは転がっていない。
「いいよ、私が行く」
と冬子先輩が縁石に腰を下ろした。俺は驚きに声を上げた。
「ちょっ……中入るんですか?」
「ああ」
先輩は構わず靴を脱ぎ始める。
「濡れますよ?」
「お前がズボン脱ぐよりはマシだろ」
やり取りを交している間にも先輩は靴下をスルと脱ぎ、スカートを腿のあたりで短く結んだ。そして、露わになった猫のような脚を躊躇いなく水へ滑らせると、さぷさぷと波を立てて歩み始めた。脚は膝の上のあたりまで浸かっている。
池の中もコンクリートで固められているから足を取られる心配はない。でも、ガラス片か何かを踏んで怪我をする危険はあるかも知れない。何より、この池は景観を美化するためにあるのであって水遊びをするためのものではない。小学生の男子が他愛なくはしゃぐのならともかく、高校生の、しかも女子が中に入るのはさすがに目立つと言うか、見ていて恥ずかしいものがある。公園を通り抜けていく老人が、水に立つ素足の女子高生に好奇の目を向けていった。女の子のほうは状況が掴めないのか、自分の帽子に近付いていく見知らぬ女をただぽかんと眺めていた。俺は俺で気が気ではなかった。
先輩は何事もなく池の中心まで辿り着くと波に揺れる帽子をひょいと拾い上げ、くるりと身体を反転させた。すぐに引き返してくるのかと思いきや、蓮の下でぴたりと動きを止めた。
「? どうしたんですか?」
反応はない。冬子先輩はゆっくりと公園の景色を見回し、黒い瞳で天を仰いだ。そして、そこに映画でも映し出されているかのように、夕空に見入って動かなくなってしまった。
銀色の花の前で立ち尽くす先輩。白い指。セピア色の麦わら帽子。言葉はなく、緑の音だけがサアと彼女の黒髪を梳かしていく。吹かれる水面は歌うように煌めいていて、何だか夢を見ているようだった。俺はシャツの胸元を掴んだ。その下の下で動いているものを鷲掴みにして停めてしまいたかった。いつまでも眺めていたい光景だった。
そして、ふと……、理解できたような気がした。金属で造られた不出来な花がなぜ『完全なもの』と名付けられたのか。
先輩が感慨深げに呟いた。
「……池の中から見える景色ってこんななんだな」
俺は静かに息を吐く。
「……早く戻ってきてください」
そうして先輩はようやく岸まで戻ってきた。先輩は池から出ると女の子に近付き帽子を渡した。女の子はぺたぺたと裸足で近寄ってきた女に戸惑いを隠せずにいたが助けてくれたことだけは理解していたらしい。受け取った帽子で口元を隠しながら蚊の鳴くような声で「ごめんなさい」と謝った。先輩は女の子の前にしゃがむと、彼女の頭に手を乗せ、
「こういうときはありがとうでいいんだよ」
穏やかにそう添えた。
叱られると思っていたのかも知れない。女の子は意外そうに目を丸め、それから気恥ずかしげに俯いた。
「ありがとう、ございます」
「うん、どういたしまして。次からは気をつけてね」
女の子はこくりと頷いた。
ちょうどそのとき北の広場から声が響いた。
「莉子ー! 何やってんのよー。あたしもう帰るよー」
声のほうを見やると、麦わら帽子の子よりも少しだけ背の高い女の子が大股で仁王立ちしていた。
「うん、お姉ちゃん、すぐ行くー!」
女の子は姉に向けてそう叫ぶ。そして、先輩の顔を窺うようにちらと見たあと、目一杯頭を下げて駆け出していった。
「早くしなさいよー!」
やがて合流した二人は小さな手を握り合って広場の向こう側へ姿を消した。冬子先輩は池の縁石に座り彼女たちの背を見つめていた。まるで暮れる陽でも眺めるように。
水辺に座る素足の少女。何だか絵になる。
「タオル」
「え?」
「カバンの中に突っ込んでる。あと靴と靴下」
先輩は瞬きする間にいつもの先輩に戻っていた。俺は慌てて先輩のバッグに駆け寄る。その間、先輩は縛っていたスカートを解き、濡れた裾を手で絞っていた。白い太腿が際どいラインまで露わになっていた。
「下衆な目で私を見るな、変態野郎」
「不可抗力ですッ」
冬子先輩はタオルを受け取ってからもしばらくは姉妹のいなくなったほうを眺めていた。懐かしむように。ふと浮かんだ疑問を口にする。
「先輩、姉妹とかいるんですか」
冬子先輩は「ああ」と応えた。
「とびきり優秀な妹が一人」
「妹さん」
「……みたいなものかな」
妹ではなく、妹みたいな人。
何となく分かるような気がした。誰のことを指しているのか。
「いや、どうだろうな。今思えばどちらが姉でどちらが妹だったのか……。懐かしいよ。叱られるようなこともたくさんやった。行くなと言われている場所には大抵行ったし……」
「今も池ん中に入りましたしね」
「ふ、そうだな」
先輩は薄桃のタオルでふくらはぎを拭き始める。あまりじろじろ観察しても罵られるだけだ。終わるまでは目を逸らしていよう。そう思っていた矢先、先輩の右手がはたと止まった。
「……行ってはいけない場所。違って見える風景」
ぼそりと呟き、さっと上体を起こす。
「先輩?」
冬子先輩は遠くを、南の出入口の向こう側を見つめていた。
「なんだ。そういうことか」
(5)
先輩が買い物をしている間、俺は文具店の中を気ままに見て回っていた。と言っても俺には目的もなければ知識もない。陳列された商品を風景として眺めるだけだ。リンシードオイル。ポピーオイル。テレビン。ぺトロール。サンシックンド。ワニス。画用液一つを取ってもその種類は豊富にある。絵の具ともなれば倍以上だ。いくら品名を睨んだとこで使い道が分かるはずもなく、途方もなさが頭を重くするだけだった。
「それは一度に全部を理解しようとするからだ。簡単なことから順に積み上げていけばやり方は自然と見えてくる。編み物みたいにな」
目当ての物が買えたらしい。冬子先輩は片手に白いレジ袋を提げていた。
「荷物、少ないですね」
「多いなんて言ったか?」
今日の俺は荷物持ちじゃなかったっけ。いや、日野が勝手に言っていただけか?
昼休みの記憶を辿っていると先輩がスマホを差し出してきた。
「返信があった。間違いないようだ」
メッセージの送信者は中山先輩。内容は成沢伊吹の件について。
成沢の絵が撤去された理由。それは、
「不法侵入だ」
ふくらはぎに靴下を履かせながら冬子先輩が断言した。一瞬何の話題だか解らなかった。
「成沢の絵が撤去された理由だよ。不法侵入だ」
「ここ公園ですよ?」
立ち入りに許可が必要だなんて看板のどこにも書かれていない。書かれているはずもない。絵画の中のどこを切り取っても入ってはいけない場所など描かれてはいなかった。侵入なんて物騒な単語が一体どこから湧いてくる?
「藤宮。お前、絵のタイトルを覚えているか?」
「……『見える景色』?」
「そう。そこでお前への質問はこうだ。成沢はどこからその景色を見た?」
「え?」
……あ、そうか。
先輩がこくりと頭を動かす。
「俯瞰で描かれている時点で気付くべきだった。絵は高所から見下ろす構図で描かれている。だが、公園内にそんな場所はない。成沢は木の上でこの絵を描いたのか? 違う。なら当てはまる場所は一つしかない」
成沢本人が立っていた場所。南口の正面から公園内が窺え、池全体を見渡せる位置。
「車道を挟んだ向こう側、あのビルの内側から、ですね?」
俺は眼前の建物を指差した。今はもう使われていない廃ビルだ。壁面はくすみ、取り外された看板の跡だけが侘しく過去を主張している。高さは4階建て。感じからすると描かれたのは3階からだろうか。あそこからなら池の周辺が一望できるし、あそこからでなければそれは望めそうにない。
「でも、許可を取って中に入っていたのかも知れないじゃないですか」
「そんなことはあのビルの所有者を確認すれば分かることだ。確か弥栄企画だったな?」
先輩はスカートのポケットからスマホを取り出し検索を始めた。たとえ倒産した会社でも過去の住所くらいはすぐに出てくる。弥栄企画の社長は成沢のことを知らなかったのだから、つまり、
「見てみろ」
株式会社弥栄企画。地図の検索結果は眼前のビルを示していた。
まとめるとこうだ。成沢は弥栄企画の廃ビルに無断で侵入していた。絵を描くために恐らくは複数回。近付いてみると入口のガラス戸にはしっかりと鍵がかけられていたので当時は鍵のかけ忘れでもあったのかも知れない。池を一望できる場所を探していた成沢は偶然それに気付き内部へと立ち入った。入ってしまえば邪魔する者は誰もいない。求めた景色が望める窓辺で成沢は悠々と作業に取り組んでいたはずだ。
成沢はそうして完成させた作品を『好文木の会』に出展する。在校生の出展は希望者だけだと言うから自信があったのだろう。実際、成沢の絵はOGの作品と比べても遜色ない出来栄えだった。しかし、彼女にとって予想外のことが起きる。無断で侵入していた廃ビルの所有者が会の展覧会に客として現れたのだ。弥栄企画の元社長は成沢の絵を見て驚く。描かれていた風景が、所有するビルからの景色と一致したからだ。
「もっとも誰かがビルに入っていると気付いたのはそれよりも前の話だろうな」
「絵を見て気付いたのではなく?」
「絵を見るだけでは在校生とは判断できないって話はしただろ。事前に情報はあったんだよ。たとえば目撃情報とかな」
おたくが持ってるビルの中に制服の女の子が入っていくの見たんですけど鍵とかかけてないんですか? そんな感じだろうか。
「絵の中の季節は秋だから既に卒業している可能性もある。苦情を言うからには確認はしときたかったんだろう」
経緯はどうあれ成沢という女生徒が侵入者だと分かった男は梅女側に抗議を入れる。即刻絵を撤去しろと強く迫ったかどうかは分からない。ひょっとしたら軽く注意を促しただけかも知れない。いずれにせよ在校生が犯罪に関わっていると分かった学校側としては誠意を見せなければならなかった。作品は撤去され、今頃、成沢もこってりと絞られていることだろう。
「成沢も自分だけの秘密基地でも見つけたつもりになっていたのかも知れんな」
文具店を後にした俺たちは夜を迎えつつある歩道を、肩を並べて歩いていた。買い足したものを美術室に置きに行くのだ。県道では帰宅する車が遊園地みたいに列を作っていた。
「まったく。馬鹿なやつだ。他人の敷地に踏み入るなら所有者の許可を得るべきだった」
冬子先輩はつくづくまったくと吐き捨てた。
住居侵入罪は立派な犯罪だ。そうでなくとも万が一事故が起きれば所有者は管理責任を問われることになる。社長の苦情も学校側の対応も当然と言えば当然なのだ。それでも俺は先輩の口振りを意外に感じた。
「辛辣ですね。先輩なら芸術のためなら身内を生贄にするぐらいは容認するかと思ってましたが」
「地獄を描いた男のようにか?」
俺が理解できない反応をしても先輩は特に気にする様子はなかった。
「作家の作品、あるいは活動そのものが犯罪に至る例は確かにある。社会問題として広く知られているもので言えばグラフィティ、エアロゾールアートとも呼ばれるストリートアート。前衛芸術においては千円札裁判などが有名だ。それらの中には確かに芸術的価値の高いもの、あるいは行為そのものが評価されているものも存在する。しかし、だからと言って芸術が犯罪の免罪符になるわけじゃない。いくら芸術が観念や感覚のうえに成り立つものであっても社会の中で表現する以上は法や倫理の制約を受けるし、他人の権利を侵害することは許されない。犯した罪はやはり裁かれるべきだ。たとえその芸術が美術史に残る傑作であったとしてもな」
先輩はこう締めくくった。
「社会は芸術とは異なるレギュレーションで動いている」
先輩の瞳の先で無数のヘッドライトが信号待ちをしていた。赤が青に切り替わっても道路の流れは緩慢で、気だるそうに止まったり動いたりしていた。徒歩で車を追い抜くことに子供じみた優越感を覚えたが、やがて大きな交差点を過ぎると、開いた差など初めからなかったかのように白のワンボックスが俺たちを置き去りにしていった。
いつの間にか街灯が灯っていた。紫の空はまだまだ明るく、照明なんか必要ないのにと思ってしまう。でも、あと数分もたてば暖色が馴染む景色になるだろう。
先輩が「ところで」と話を変えた。
「お前、ゆいちゃんに返事はしたのか」
ゆいちゃんへの返事。霧代美術展に応募しないかという話。厳密に言えば、絵を始めないかという誘い。
「いえ、そのままにしています」
バスケ部の指導で手一杯なのだろう。最近ゆいちゃんは美術部に顔を出さない。美術の授業では頻繁に会うが話をする時間はない。俺も機会を作ろうとはしていない。相手からの催促がないのをいいことに俺は受け取ったボールを片隅に放置していた。先輩は雑多な音で掻き消されるような声で「そうか」と呟き、それっきりだった。沈黙に水を流し込むように今度は俺が問い返した。
「先輩は何も言わないんですね」
「お前は何か言って欲しいのか」
訊きたいことが上手く伝わらなかったようだ。質問の形を変える。
「今日はどうして俺を連れてきたんですか」
県道を走る車が波のように近付き離れていく。走行音がとてもクリアに聞こえた。最後まで言わなければならないのならと俺は息を吸い込む。
「先輩に目的があったことは分かります。でも、別に俺を連れ歩く必要はなかったですよね? 買い出しがあるから荷物持ちかと思ったんですけど、それも違うでしょう」
先輩の提げた袋がカサカサと揺れた。中身は知らない。
「本当は、見学させてくれたんじゃないですか? 絵ってどういうものかとか、用意しなきゃいけない道具だとか。そういうものに興味が持てるように、俺に見せてくれたんじゃないですか」
先輩は、さあなと突き放した。
「好きなように受け取ればいい」
「散々解説までしておいて今さらですよ。回りくどい真似なんかしないで一言やれと言えばいいじゃないですか」
「前にも言っただろう。人に言われてするようなことじゃない」
「でも先輩は部長で、俺は部員だ」
「名ばかりの役だ。私も。お前も」
下手な弁解だ。どう考えても先輩は俺が絵を始めるように誘導している。なのにはっきりそれと薦めたりはしない。先輩の性格がそうさせるのか? 俺には別の心理が働いているように思えた。
「躊躇っているんですか? だとしたら、一体何を」
呼吸を止めるような間を置いたあと、先輩は溜息を吐いた。観念をしたように。
「……お前が抱えているものは絵を始めたところで消えたりはしないからだ。それどころか目に見える形でお前を苛むかも知れない。そんな道をお前に薦めることが正しいのか。確信が持てないでいる」
「先輩」
「卑怯だろ? つまりは責任を取りたくないのさ。それに」
冬子先輩はまた口をつぐんだ。今度の沈黙は少しばかり長かった。先輩の靴音がかつかつと時を刻んだ。孤独な響きだと思った。
「……怖いんだろうな」
「怖い?」
「私は、また同じことを繰り返すんじゃないかって……それが」
深い藍色の空に月が浮かんでいる。それももう違和感のない時刻だ。先輩の表情は薄暗がりでよく見えなかったが、多分いつもと同じ冷ややかな貌をしていた。ただバッグの肩紐を握る手だけが震えていた。凍えるように。
「先輩、それってどういう」
意味なんですか、と尋ねようとした矢先だった。先輩がぴたりと歩みを止めた。俺も数歩進んだところで立ち止まる。
「先輩?」
肩越しに振り返り、ぎょっとした。
立ち竦む先輩が、氷彫刻のようなその表情が、割れんばかりに揺らいでいた。先輩は俺を……、いや、俺のさらに向こう側にある一点を凝視していた。自然と俺も先輩の視線を追ってしまう。
月明かりの下にいたのは一人の女性だった。先輩と同じように身体を強張らせ、先輩以上に目を見開いていた。
誰だろうと思った。一瞬それが分からなかった。彼女の生活からすれば、それもまた日常の姿であるはずなのに、いつもの服装とあまりにかけ離れていたから。
先輩の喉から締め上げるような声が漏れた。
「のどか」
梅穂女子の黒い制服を身に纏った小春さんが、道の真ん中で立ち尽くしていた。
「冬子」
小春さんが先輩の名を口にした瞬間だった。放たれた矢のように先輩が足を踏み出した。俺の脇を抜け、小春さんとの距離を縮め、そのまま彼女をすり抜けていった。無言で、目を伏せ、存在自体を無視するように。小春さんは頬を平手で打ち据えられたような顔をした。
先輩はすたすたと早足で去ってしまう。俺が「ちょっと」と声を上げようとしたとき、
「冬子!」
小春さんが叫んだ。いつもの穏やかさからは想像もできないような声量だった。さすがの冬子先輩も動きを止めた。背を向ける先輩に小春さんはまた声を張った。
「冬子、待って」
すがるようだった。
「冬子、ごめんなさい。私ずっと……冬子に謝りたかった。ずっと……。ごめんなさい。私が……私のせいで」
ごめんなさい。
小春さんは謝罪の言葉を吐露する。消え入りそうな言葉を、何度も。何度も。
俺は何も言えなかった。口を挟めなかった。事情も分からなかった。懇願する彼女を只々哀れに想った。胃が捻じ切れるような数秒が過ぎた。背を向けたまま先輩が言った。
「のどか、お前は何を謝っているんだ?」
先輩の声はいつもと変わらないように聴こえた。きっとそのような声だった。でも、なぜだかその問いかけには計り知れないものが込められていると感じた。
小春さんが答えた。
「私は、あなたを傷付けた」
先輩は振り返ろうとしない。いつもの鉄面皮以上に感情の読めない背中で沈黙を続け、そして、
「もう一度訊く。お前は何に対して謝っているんだ?」
同じ質問を繰り返した。今度こそ小春さんは何も言えなかった。ただ途方に暮れていた。
「お前は何も分かっちゃいない。それが証左だ」
冬子先輩は吐き捨て、最後まで小春さんを見ることなく、また歩み出した。
「先輩!」
俺も遅れて駆け出した。小春さんの脇を通り抜けていくとき、くしゃくしゃの折り紙みたいな貌が目に映った。小春さんの傍にいるべきだろうか。逡巡したが、その一瞬にも先輩はどんどん先へと進んでしまう。
「小春さん、すみません!」
今は1メートルでも先輩と小春さんを離すべきではないと思った。俺は冬子先輩を追いかける。
俺が背後から迫っていると分かると先輩はさらに足を速め、やがて駆けるほどの速度になった。たつたつとコンクリートを蹴りつける音が響く。俺もまた歩幅を大にして追走する。
俺はあまり運動神経が良くない。トラックでの全速力なら先輩のほうが上かも知れない。しかし、今この場においては服装と荷物の差で俺のほうが速かった。
俺は先輩の右肩を掴む。すると先輩はくるりと時計回りに反転し、勢いに任せて俺を左手で突き放した。
「お前には関係ないだろう!」
先輩の手から袋が落ち、歩道に中身が散乱した。
冬子先輩とはまだ長い付き合いとは言えない。でも、この人がここまで感情を露わにするとは思わなかった。虎のような眼光でふうふうとこちらを威嚇してくる。
結局、小春さんとは姿が見えなくなるほど離れてしまった。息が乱れていた。俺も、先輩も。それを整える時間が必要だった。呼吸が深くなるにつれて思考も整理されていく。
「……かも知れません。事情も分からない。何が何だか……。でも、先輩だって小春さんとこれっきりでいいだなんて思っちゃいないでしょう」
「何様のつもりだ。お前が私の心を決めるな」
「だったら!」
今度は、俺が吼える。
「だったら、どうして小春さんのことを絵に描いてるんですか!?」
何様も糞もあるか。毎日毎日小春さんの写真を見ながら、あんな、幸せそうなあの人の姿を描いておいて。
「誤魔化すならもっとマシなこと言えよ! 今日の展覧会に来たのだって小春さんの絵を見たかったからじゃないんですか。俺が、あの人が絵を仕上げてるって言ったから。『好文木の会』は梅女の生徒も出展できるから!」
会場で目録を確認した途端、先輩の緊張感が緩んだ。あれは目当ての作品がなかったことに対する落胆の反応だ。確証はない。だが、俺の言葉を沈黙で受け入れる先輩の態度こそが推測の正しさを証明していた。
「妹みたいな人っていうのも小春さんのことなんでしょう? なのにどうして向き合ってあげないんです。どうして気持ちに逆らうような態度を取るんです。先輩も本心じゃあ小春さんと一緒にいたいと思ってるんじゃないんですか!?」
そこまで言って、ふと、我に返った。
俺はどこまで馬鹿なのだろう。拒絶する先輩を捕え、心を暴き、正論をねじ込む。それで先輩がお前の言うとおりだと、そう認めてくれると、本気で信じているのだろうか。
目の前の現実はどうだ。傷付き、苦痛に耐える女の子が身体を抱いて立ち尽くしているだけだ。頼りなく、とても小さかった。
先輩は溢れ出るものを堪えるようにぎゅっと目をつぶった。そして、再び瞼を上げる頃には、もう普段の先輩に戻っていた。感情を圧し殺した、普段の先輩に。
「まったく、知った風なことをべらべらと」
もう怒ってはいない。呆れてもいない。ただ乾いていた。先輩は散らばった道具を淡々と拾い上げたあと、凍て付く瞳を俺に向けた。
「お前はもう帰れ。買ったものは私が美術室に運んでおく。これ以上私たちに関わるな」
「先輩」
「これ以上」
先輩は踵を返した。
「惨めな気持ちにさせないでくれ」
「それでこのカツ丼大盛りってわけ?」
翌日の昼休み。俺が差し出したカツ丼を前に神坂が腕組みをした。
「まあ、私も当事者だから訊かれりゃ答えんでもないけどねえ」
「お願いできませんか。釘を刺されたばかりで中山先輩には悪いと思ってます。けど……。偏った見方でも構わないんです。あとは自分で判断しますから」
「だってさ。どーする?」
神坂は隣の中山先輩に話を振る。
中山先輩は困ったような……いや、事実困っているのだろう。力のない笑みを見せた。
「藤宮くんがそこまで知りたいって言うのなら……。私に止める権利なんてないよ。隠すようなことでもないし」
「私は別に隠す気なんてないけどね」
話の流れに俺は胸を撫で下ろす。忠告を無視する形になってしまうのは心苦しいが一刻も早く先輩と小春さんの関係が知りたかった。
「ったく、冬子は会いたくないって言ってんでしょ? 好きにさせときゃいいじゃない。あんたのそれを余計なお世話って言うの。ご存じ?」
神坂は不快そうに俺の目を覗いてから、「まあいいわ」とどんぶりを手元に引き寄せた。
「去年の十一月よ。あの女……小春のどかは美術部であるトラブルを起こしたの。それで部の雰囲気がサイアクになって冬子以外全員が退部。私もこの子もあの女の被害者よ」
中山先輩は気まずそうに俯いている。
「大体想像は付いてたでしょ? だからここまでは前置き」
「ええ、俺が知りたいのはその先です。小春さんが起こした事件って一体何なんですか?」
そもそも、俺はその事件の存在自体に疑念を持っていた。俺の知る小春さんはトラブルを起こすような人ではない。絶対に誤解や間違いがあるはずだ。
そんな俺の考えを見透かしたのだろうか。神坂が口の端を歪めた。表れているのは侮蔑と嘲り。そして加虐心。ぎらつく眼が雄弁に語っていた。『バカなガキ。あの女の外面にすっかり騙されているのね』
神坂は鼻で笑い、そして宣告した。
「窃盗と器物損壊」
「は?」
……なんて?
「泥棒よ泥棒。あの女はね。準備室に置いてあったみんなの部費を盗んだ。それがバレそうになるや自棄を起こしてメチャメチャに暴れたのよ。この私たちの目の前でね」
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