第2話 風の花、嵐の山(前編)
(1)
生年月日で仕分けられている俺たち高校生が学年の垣根を越えて交流できる場は、全校集会や学校行事を除けば主に二つしかない。一つは放課後のクラブ活動。もう一つは昼休みの学食だ。
調味料の匂いで満たされた霧代西高の食堂は本日も大勢の生徒で賑わい、喧騒に呑み込まれそうになる。食券販売機の前でジャラジャラと小銭を漁っている男子。カウンターに並び、食事より駄弁りを楽しんでいる女子。グループでふざけ合って食べるやつ。一人黙々と箸を進めているやつ。学年も性別もスタイルも異なる俺たちに共通することは皆腹が減っていること。そして、さして美味くもない学食程度で満足を得られる幸せ者だということだ。
でも、中には腹を満たすことだけが目的でないやつも紛れている。俺は購買部で買ったサンドイッチとクリームパンを手に食堂の隅にあるテーブルへと近付いた。白いテーブルには先客がいた。待ち構えるように並んで座った二人の女子。うちポニーテールに髪を結ったほうがこちらを見るなり間の抜けた声を上げた。
「え、昼飯そんだけ?」
「ええ、まあ」
「男のくせにダイエットでもしてんの? そうでなけりゃ不健康なんじゃない?」
「そんなに少ないですかね」
俺は大体いつもこんなものだ。もっとも健康優良児であるかと問われればどうだろう。体育は苦手なのだ。
ポニーテールは人の食事に文句を付けてくるだけあって大皿一杯のカレーを頼んでいる。しかもカツ付き。むしろそちらのほうが女子としては食い過ぎではないか?
「まあまあ、いいじゃない。とりあえず座って。お食事しながら話ししましょう?」
ポニーテールの隣に座ったメガネの女子に促され椅子を引いた。ちなみに彼女は上品な手作り弁当を持参していて、不健康児の俺から見ても実に美味そうだった。
ポニーテールはスプーン片手にもごもごと口を動かしながら名乗った。
「はじめまして。知ってるから来たんでしょうけど私が
「中山です。今日は美星ちゃんの付き添いできました。よろしくね」
「どうも、一年の藤宮です」
カツカレーを食ってるポニーテールが神坂で、手作り弁当のメガネが中山だ。
神坂は小動物を連想させる小柄な女子で肩の半ばまで届きそうな髪を赤いリボンで一つにまとめていた。あけすけな性格が口調だけでなく顔全体に広がっていて、釣り気味の瞳が快活に笑っている。クラス活動でも率先して動くタイプの人間だろう。そして少々品が足りない。
一方の中山は神坂よりも頭ひとつ分ほど背が高かった。髪は肩を越える程度のセミロングだが、神坂と並んでいるせいか、やや短めな印象を受ける。神坂とは正反対に育ちの良さとでも言うべきものが自然と振る舞いに表れているような人で、先日出会った和装の少女に負けず劣らずおっとりとした雰囲気を醸し出していた。派手さはないが中々の器量よしだ。
「地味な見た目に騙されないでね? この娘、こう見えて結構な猫かぶりだから」
「なあに美星ちゃん? その言い方」
「だってそうでしょー? うりうり」
神坂は中山がかけた眼鏡のフレームを指で掴み上下に揺らした。中山は笑って抗議をする。その様子から見ても二人が気の置けない仲だということが分かった。
頃合いを見て俺は切り出した。
「急にすいません。今日は先輩たちに訊きたいことがあって来て貰いました。さっそく本題に入りたいんですが」
「んー、サンドイッチ食ったら?」
俺はポケットから二枚の写真を取り出しテーブルに置いた。写真には赤く輝くとんぼ玉が一つ映し出されていた。玉の上部からは根付の紐が伸びフレームの中で斜めに横たわっていた。神坂と中山の二人を交互に見比べながら尋ねた。
「このストラップが誰のものかご存じないですか?」
始まりは二日前だった。
月曜日の放課後、俺はいつものように特別教室棟の籠の中で単行本のページをめくる作業に勤しんでいた。教室の真ん中にはキャンバスと向き合う冬子先輩の姿。日暮れ前の美術室は少しだけ暗く、その薄暗さにまた言い知れない落ち着きを感じてしまう。開け放した窓からは合唱部の歌が流れ、長々と耳を傾けてしまうこともしばしばだ。美術部における日常の光景だった。
とは言え教室の時間が止まっているわけでもない。眺めている漫画は微妙に面白くない長編シリーズが終わって新章に突入したし、下書きを終えた冬子先輩は白衣を纏って色塗りに着手していた。
思えば油絵の作業を近くで見るのはこれが初めてだった。溶き油と呼ばれる小瓶は話に聞くほどの悪臭はせず、むしろ芳香剤のような香りがして嫌いではないと思った。先輩もこの匂いは好きらしい。ただ長く嗅いでいると気分が悪くなることもあるそうなので、忠告に従い窓の側まで退避していた。
机の上には目にしたことはあるが使い道のわからない道具が並べられていて壺やらナイフやら全体的に銀色だった。先輩はたわしでこすりたくなるほど濁ったパレットの上へ絵具を複数捻り出し、それらを溶いて作った水色をキャンバスにベタ塗りしていた。輪郭は全く無視されていた。せっかく描いた下書きを塗り潰してしまうのかと尋ねると、インプリなんたらという答えが返ってきた。
「インプリミトゥーラ。有色下地。単に下塗りとも言う。あらかじめ背景の暗さと同程度の中間色を置き、その色を基準に、より明るい色、もしくは、より暗い色を重ねることで効率的に立体感を表現する技法だ。下地の発色によって色に深みを出す効果もある」
とのことだが何のことだか俺にはさっぱり分からなかった。キャンバス全体を単色で染めてしまっては後々色が滲んでしまうのではなかろうかと疑問に感じたが、きっとそうはならないのだろう。それより気になったのは先輩の手元にある写真だった。
「人物画って写真を見ながら描くんですね。てっきりモデルさんにお願いするもんだとばかり思ってました」
先輩は写真を一瞥した。
「そうすべきだという人もいるし、必ずしもそうではないという人もいる。写実画家の中には写真を使って描く人が多いかもな」
写真のように本物そっくりに描くことを写実画と呼ぶらしい。先日見て驚かされたスケッチの数々もそれに分類される。彼女も写真を見ながら絵を描くことがあるのだろうか。
「だが写真をそのまま写せばいいというものじゃない。写真は一見現実を在りのままに写し取っているかのように思えるが実際の人間の視覚とは大きく異なっているし、どうしてもやはり平面的だ。実物を見て感じ取った質感や触感、色彩や空間、作者が思い描く理想のイメージ。それらを再現し表現しなければ中身のない表面的な絵になってしまう。存在を描き出すことが重要なんだ。
できることなら私もモデルを前にして描きたい。だがモデルを承諾してくれる人間は中々いない」
「恥ずかしいからですか?」
「それもあるだろうが、何より作品が完成するまでの間、長期に渡って拘束されることになる。専属のモデルや身内を別にすれば、他人のために私生活を犠牲にしてくれる人間は稀だし、作者の眼鏡に適うモデルとなればさらに一握りだ。静物画や風景画を選ぶ人の中には人物画が描けないから仕方なくという人も少なくない。私も去年は部員同士で互いを描いたりしてたんだがな。ところで」
先輩は滑るように話題を変えた。
「お前、小春には会ってきたのか」
「ああ! そう言えば!」
思い出した勢いのままに椅子を蹴って立ち上がった。
「先輩、あの絵、全然小春さんのじゃないじゃないですか! 人をあんなとこまでパシらせといてひどいですよ!」
糾弾の声を浴びせかけても先輩は他人事のような顔で筆を振った。
「そうだったのか?」
「そうですよ! あの険しい山を登るのに太腿の筋繊維がどれだけ犠牲になったことか」
「お前がひ弱なだけだろう。小春はその山を毎日登り下りしてるんだぞ」
それを指摘されるとぐうの音も出なかった。大人しく座り直した。
俺の抗議など端から聞く耳を持っていないのだろう。先輩は呆れるでも悪びれるでもなく話を先に進めた。
「それで、あの絵はお前が持っているのか?」
「いえ、小春さんが預かってくれました。なんでも友達の絵だとかで」
先輩はふうんと素っ気ない反応を見せた。誰のものとも分からない絵の行方には興味がないらしかった。またさらりと話題を移した。
「で、小春は何か言ってたか」
「何かって、何をですか?」
「話くらいはしたんだろう」
人に譲り渡した花を巡って一幕あったが報告するほどのことではないと思った。あとは小春さんの両親について教えて貰い、着物の理由を教えて貰った。つまりは世間話だ。
「ああ、そう言えば何枚か絵を見せて貰いました」
「絵?」
先輩はキャンバスを塗る手を止めこちらを向いた。久しぶりに横顔以外の先輩を見た気がした。
「どんな絵だ?」
「どんなって言われても口じゃ説明できませんが……ええと、スケッチです。花とか、虫とか。あと描いてる途中の風景画があるとか言ってたかな。そっちは見せて貰えませんでした」
「風景画……」
「……小春さんの絵、とんでもないすよね」
存在を描き出すことが絵画にとって重要ならば小春さんこそその肝を掴んでいると言っても過言ではない。存在だけでなく、存在を包み込む世界すら想像させる描写力。見せて貰ったのはスケッチだけだったが、話からするに彼女の本分は油絵だ。モノクロですら魅了されるあの世界が色彩で満たされたとしたら、それは一体どれほどの……。
「何ニヤニヤしてるんだ気持ち悪い」
冷めた声で現実に引き戻された。頬杖を付いている間に先輩は既に作業に戻っていた。だが、顔が綻ぶのも仕方がないというものだ。小春さんの絵は観る人を幸せにする。
もしかしたらどこかの展覧会に出展するつもりなのかも知れない。時と場所が分かれば観に行ってみるのも良いだろう。それは、きっと有意義なことだ。
芽生えた楽しみに胸を弾ませていたら、建物全体がズシンと揺れた。玄関の開閉音だ。
「ゆいちゃんですかね」
「ゆいちゃんだろうな」
程なくしてペタペタとサンダルの音が聞こえ教室の引き戸が勢いよく開いた。
「おっす、柊。今日も頑張ってるな」
と現れたゆいちゃんは軽快に言い放った。手に一枚のプリントを持っていて、あれは何だろうと目を凝らしているうちに先輩の後ろにある空いた丸椅子にどかりと腰を下ろした。机に両肘を突いて足を投げ出す姿には慎みも何もあったものではない。ゆいちゃんは先輩の背中に視線を投げた。
「今日は下塗りやってんのか」
「粗描きまでは済ませておこうかと思っています」
「根は詰めるなよ。私は新里先生みたく遅くまで付き合ってやれんからな」
新里とははじめて聞く名前だった。西高の教師を全員覚えているわけではないので確信は持てなかったが、会話の流れから察するに三月に転勤したという美術教師のことではないだろうか。想像を巡らせていると、机越しにゆいちゃんと目が合った。
「藤宮、先週はすまなかったな。絵のほうはちゃんと持ち主に届けてくれたか?」
「んー、届けたような届けなかったような」
「どっちだよ」
「先生こそ試合はどうだったんすか?」
ゆいちゃんは、机に背を預けたまま後頭部を後ろに反らし、へそ丸出しのだらしない格好で投げやりに声を張った。
「負けた負けた! 大負けだった。弱えーなあ、うちのバスケ部。育て甲斐あるわ」
ゆいちゃんは大口を開けてからからと笑った。でも、口振りや態度とは裏腹に声にはどこか気鬱な響きがあった。機嫌が悪いとはまではいかずとも、試合の結果を軽く受け止めてはいないような調子。天井に向けて溜息を吐いた。
「インハイの予選が来月からだがちょっと間に合わんだろうなあ……。三年には申し訳ないが本番は来年になるだろう。せめて引退までに後輩に示しがつくような姿を見せて欲しいところだが」
負けては示しがつかないだろう。そう言ってやると、ゆいちゃんは身体を起こし「そうでもないさ」と口の端を釣り上げた。
「まあ、いずれにしろ今まで以上にこっちに顔を見せる時間がなくなるかも知れん。お前たちを蔑ろにするつもりはないが、迷惑をかけることにはなると思う」
そんなことは初めから分かり切っていたことだった。もっとも先輩は先輩で勝手に活動しているし、俺は俺で勝手に活動していないので顧問が来ようが来まいが影響があるわけではない。どうぞご自由にと漫画に目を戻すと、
「そんなわけで藤宮。今日はこんなん持ってきた」
と先ほどから手に持っていたプリントを俺に向けてぺらりと示した。表には、何を伝えたいのかさっぱり分からないが、とにかくカラフルでポップにデザインされたアルファベットのロゴが印刷されていた。字体がかなり崩されていたので、すぐに読むことができなかった。
「む、し……むしろ、ある、て?」
「mushiro art exhibition.霧代美術展、のチラシ。ここに書いてあるだろ?」
ロゴの下に明朝体で併記されていた。霧代美術展。
「ってなんですか?」
「霧代近辺に在住する美術愛好家たちが毎年十一月に開催している公募展だ。主催者の一人に市出身の某芸大教授がいるから、その人脈で審査員にも実績ある芸術家や美術評論家が名を連ねている。霧代の名を冠してはいるが参加資格に在住要件はなく全国どこに住んでいても作品を応募することが可能。年齢要件もなし。募集期間は四月の初旬から。この地方で開かれる美術展としては年々規模を拡大させつつある」
「解説ご苦労。よくある話なんだが、元々は県展の運営に反発した県内芸術家たちが独自の美術振興と若手育成を掲げて立ち上げたものでな。確か柊は去年出展したんだよな?」
「画塾の師が実行委員会のメンバーですから。入賞などはできませんでしたが」
「なに、公募展の審査なんざ長老どものさじ加減だよ。どうってことないさ」
俺からすればそんな展覧会に出展できるだけでも大したものだ。考えてみれば俺は完成した冬子先輩の絵を一度も観たことがなかった。感情の起伏をローラーで均したようなこの人が一体どんな絵を描くのか。少し気になった。
「で、その霧代美術展がどうかしたんですか?」
「藤宮、お前この公募展に出展しろ」
そう言われたとき最初はゆいちゃんの提案を自然に受け入れていた。直前まで先輩の出展について考えていたからだろう。ああ先輩今年も出展するんだなあ、すごいなあと他人事に思っていたところでようやく違和感を覚えた。ゆいちゃんが真正面から俺のことを見ていたからだ。額に手を当てしばし黙考した。
「あの、もう一回言って貰えませんか?」
「だから霧代美術展に出展しろと言ったんだ」
「誰が?」
「お前が」
「バカですかあんた」
「教師に向かって馬鹿とはなんだ、馬鹿とは」
俺は思わず手で机を叩いていた。
「できるわけないでしょうが! 十一月つったらもう半年しかないんですよ。そんな玄人の展覧会に授業でしか絵を描いたことがない俺が? 馬鹿らしい!」
「開催が十一月ってだけで締切は九月末だけどな」
「余計無理だわ!」
ゆいちゃんは腕と足を組んで背筋を直ぐと伸ばした。その顔が存外に真面目だったので俺は息を呑んだ。ゆいちゃんは俺を落ち着かせるように声を抑えた。
「何も今年そうしろと言ってるんじゃない。バスケ部の連中と同じだ。来年に向けてゆっくりと学んでいけばいいんだ。それが無理なら再来年だって構わない。そのペースなら私だって付き合ってやれる」
そして、人差し指を立て、
「とにかくまずは始めることだ。そのためには目標を定めておいたほうがわかりやすい」
「だから、どうして俺がそんなこと……」
「自分でもわかってるだろ?」
こともなげに言った。
俺は反論をしようとした。しかし口を開こうとした途端、自分が何を言おうとしていたのか忘れてしまった。俺はその場で沈黙した。舌を置く位置がすっかり分からなくなっていた。
ゆいちゃんは丸椅子から立ち上がると、机越しにパンフレットを差し出してきた。安っぽい木机の上で楽しげなデザインが参加者を手招いていた。霧代美術展。
何も言えず、動くこともできず、蛙のようにパンフレットを凝視する俺を見てゆいちゃんがふっと笑った。
「別に今すぐじゃなくても構わない。時間はある。考えてみろ。あとで悔いることがないように。それに入賞者には部門毎に賞金も出る。想像しにくいのならそれを目当てにやってみるのもいいさ。最低ラインでも十万円。欲の出る数字だろ?」
パンフレットに手を伸ばさず、一言「考えてみます」とだけ答えた。
(2)
「答えが出たら教えてくれ。期限は設けない。だが始めるのなら早いほうがいいぞ」
ゆいちゃんはそう言い残してバスケ部が待つ体育館へ移動していった。
俺は一体どうするべきか。冬子先輩に話を振ったが、反応は淡泊なものだった。
「私の知ったことか。自分で決めろ」
それは予想したとおりの答えだった。先輩ならきっとそう言って突き放すだろうと思っていた。そして、俺はこの人のそんなところにどうしようもなく安心を覚えるのだ。ただ、先輩は一つだけ予想しないことも言った。
「自分の意思に従うことが悔いのない選択だとは限らない。自分の意思で決めたからこそ、後悔に苛まれることだってある」
何が最善かなんて私にはわからない。
呟く横顔はただ静かにキャンバスを見つめていた。
その日の作業が終わったのか、先輩はそれから少しして白衣を脱いだ。無口に見えて無駄話が好きな人だが無駄話だけの時間を好む人ではない。製作に区切りが付くと一人でさっさと帰ってしまう。俺のほうとて居残る理由は一つもないので空のカバンを提げて先輩と一緒に薄暗い教室を後にした。
だだっ広い運動場ではサッカー部のシルエットがいつもと変わらず必死そうに走っていた。閑散とした空はそろそろ色を変えようとしていた。
校門を出て先輩と別れた俺は近くにあるゲーセンへと足を運び、対戦型ゲームの筐体に百円を入れた。中学の頃から霧代市内に来たときにはよく立ち寄っていた店で、西高に入学して以降、通う頻度が高くなった。
店内は相も変わらず同じ穴の狢が背を丸めて座っていた。画面の中のキャラクターを意のままに操る彼らの姿はとても楽しそうに映った。人工光に照らされた顔は大量生産品みたいに均一なのに、それでも彼らは楽しそうだった。百円の享楽に身を委ねていた。
俺はどうだろう。居心地が良いとは思わない。玩具箱を混ぜ繰り返したようなBGMも耳に触る。でも、画面の前で単調に手を動かしている間はクリアでいられた。結局俺も百円で充足を得られる人間の一人に過ぎないのだ。それで大丈夫なのだ。そう自分に言い聞かせながらレバーを回すことに神経を注いだ。
三戦ほどCPU戦をこなしたときのことだった。反対側の台に人の座る気配があり、間を置かずして対人戦の告知がゲーム画面に映し出された。乱入だ。拒否できる設定になっていないらしい。別に構いはしないのだが、一人の時間を邪魔され若干の煩わしさを覚えた。
俺の操作キャラクターは、性能に癖があってやや扱いにくい。でも備えている技に派手なものが多いので好んで使用していた。対する乱入者が選択したのはゲームの主役に相当するキャラで、初心者向けのその性能は俺の持ちキャラよりも遥かに単純で使いやすかった。俺のプレイを観察したうえで乱入してきたのだとすれば少々分が悪いかも知れない。
そう警戒して勝負に臨んだのだが結果は俺のストレート勝ちだった。相手も決して下手なわけではなく、操作は滑らかで素早かった。だが攻める動きにパターンがあり、リズムを乱してやるとあっさり崩れた。
その後も相手は同じキャラを使って再戦を挑んできたが勝敗は変わらなかった。ささやかな勝利の余韻に浸っていると向かいの台で相手の立ち上がる気配がし、筐体の影から二人の男女が現れた。男のほうがすれ違いざまに小さく、それでいて、はっきりとささやいた。
「話がある。それが終わったら顏貸してくれないか」
「は?」
「後ろで待ってるから」
相手の顔は見えなかった。見れなかった。背中につららを刺し込まれたかのような悪寒が走り、次いで、脇の下にじわりと汗がにじんだ。
リアルファイト。……ケンカだ。
昔はそういうトラブルも多かったと聞いたことはあるが実際に遭遇するのは初めてだった。声の調子から上級生どころか、もっと上の年齢だろう。そんな大人がゲームで負けたくらいで高校生相手にケンカを売ろうとしている。とても信じられなかった。
ボタンを押す指が震えた。炙られたように顔が火照り、口の中がカラカラに渇いた。背後にある休憩用の長椅子から、後頭部に刺さる確かな視線を感じていた。
CPU戦に勝ち続ければ、その分だけ暴力の瞬間を引き延ばすことができる。時間を稼いで突破口を見出さなければ。そのためにもまずはゲームに集中する必要があるが、同時に打開策も考えなければならない。しかし、まずはゲームに集中して……。
いつまでも整わない思考の粘土。脳内をぐるぐると掻き乱す矛盾と恐怖。混乱した頭で光明を見出せるはずもなく、普段なら負けるはずのないCPU相手にも敗北を喫した。運命のときが来たのだと、背後を振り返った。
長椅子に座っていたのは明らかに高校生ではなく、大学生、もしくはそれと同じ程度の年頃の二人だった。男のほうは緩くパーマをかけた茶髪で整った顔立ちをしていた。女のほうもショートヘアの茶髪で、裾の短いパンツからすらりと伸びた脚に一瞬目を奪われた。二人とも小奇麗な格好をしており粗暴な印象は受けなかったが、外見の判断など意味を成さないと思った。
彼女の前で恰好を付けられなかったという幼稚な逆恨みで因縁を付けてきた男。そんな男を諫めようともせずニヤニヤ笑っているクソ女。二人ともろくでもない人格破綻者だと心中で毒吐いた。そうでもしなければ恐怖で心臓が飛び出しそうだった。
二人の前で震える足を揃えると男のほうがにやりと笑った。
「案外早かったな。もう少しかかると思っていたが」
と立ち上がり、
「場所変えよう。ここはうるさいからな」
ついて来るよう俺に促した。
俺は店の出口へ向かう二人の背に「あの!」と声をかけた。完全に裏返っていた。
「俺、ちょっとしか金持ってないんスけど、それ渡すんで勘弁して貰えませんか」
殴り合いのケンカなんぞ生まれてこの方したことがない。人の殴り方なんて分からないし殴られたいとも思わない。財布の中身を空にして済むのならそれが最善だと思った。
二人は顔を見合わせた。
金を渡すだけで済むのか、暴力というセレモニーが必要なのか。俺は相手の裁定を待った。が、二人の反応は予想に反するものだった。
「なあ、ばなな? 金を渡すってのは一体なんの話だ?」
男が女に問いかけた。ばななと呼ばれた女が大げさに顔をしかめた。
「げっ、ラシヤマ先輩マジで気付いてなかったんですか? マジで?」
男はきょとんとした。本当に、不思議そうに。
「え、何が?」
「うわあ、正真正銘のバカだよこの人。よくそれで十九年も生き永らえてきましたね。今年成人とか悪夢じゃないですか。同年代に友達とかいました?」
「てめえ、ばなな! 先輩には敬意を払えっつってんだろ! いっぱいいたわ、友達くらい!」
「嘘っぽいんだよなあ」
「哀しいだろそんな嘘は! 言え! 俺の何が間違っていた!?」
「誤解されてるんですよ、あの子に」
「誤解ィ?」
「言い方が悪いってさっきも言ったじゃないですか。からまれてると思われてますよ、あたしたち」
「え、うそ!? ごめん!」
てきぱきとした動作で頭を下げてくる男に「はあ」と生返事をするしかなかった。
「怖がらせてすまなかったね。まずはこれでも飲んで落ち着いてくれ」
「はあ……、どうも」
男が差し出してきた缶コーヒーを受け取った。缶の装飾は夜空と同じで真っ黒だった。
(ブラックは飲めないんだけどなあ……)
二人に連れられてやって来たのはゲーセンから程近い霧代中央公園だった。俺と茶髪がベンチに座り、ばななと呼ばれた女は離れた位置で植木を眺めていた。どうやら枝に止まるバッタが気になっていたらしい。男も同じ缶コーヒーを持っていて、俺より先に口を付けていた。諦めて缶の蓋に指をかけた。
時刻は午後七時に差し掛かろうとしていた。霧代中央公園はその名のとおり市内のど真ん中に位置する大きな公園で、夜になってもたむろする人影が目立つ。近道として広場を抜けていく背広姿も多く、近くには交番もある。万が一トラブルが起きたとしても助けを求めることは可能だろう。そう思うと少しだけ気持ちが軽くなった。とは言え、
「あれ!? でも、こんな遅くまで高校生を連れ回すのって公序良俗的にまずいかな、ばなな!?」
「おまわりさんに見つかったらかどわかしの罪に問われるかも知れないっスねえ。ラシヤマ先輩、網走に行っても手紙書きますから」
「是非面会に来てくれ、ばなな!」
二人のやり取りを見る限り助けを求める必要はなさそうだった。自然と苦笑していた。
「俺は別に構わないですよ。うちの親、門限はかなり緩いほうなんで」
「そうか、可哀想に。親の愛情に飢えた十代を過ごしているのだな」
実際はただの放任主義なのだが、口元を押さえて同情してくれる男を見ると否定するのも悪い気がした。
「ええと、それで、俺に話ってなんなんですか?」
男は「おおそうだ」と缶をベンチに置いた。
「一つ確認したいんだが君は」
「藤宮です」
「藤宮くん、君は霧代西高の男子生徒で間違いないか?」
「ええ、今年入学したばかりです」
そして、間違っても女子生徒ではない。
「ならばよし。俺の名前は嵐山。こっちは後輩の
「あたしが一年で、ラシヤマ先輩が二年ね」
霧代大学は市内にある国立大で、通学時に大学名を冠した駅を通り過ぎていく。
男……嵐山さんは値の張りそうな長財布から学生証を取り出しわざわざ俺に見せてくれた。名前は嵐山康介。確かに霧代大学経済学部所属と書かれていた。
だがその霧代大生が俺に、霧代高の生徒に一体何の用があると言うのか。話の行く先はまだ見えなかった。
「実は折り入って頼みたいことがあってね。……ばなな」
はーいと返事をした風花さんが肩掛けのバッグからクリアファイルらしきものを取り出した。大きさはA4程度。ぱらぱらとページをめくり、中から紙切れのようなものを二枚抜き取った。
「さすがラシヤマ先輩。カリッカリですね」
嵐山さんは「ガチピンだガチピン」と紙切れを受け取ると、大仰な仕草で俺に見せてきた。
「君にはこれの持ち主を探して貰いたい」
示された紙切れは写真だった。横向きの構図で映し出されていたのは赤い玉が一つ付いたストラップ……とんぼ玉の根付だった。二枚とも同じ被写体を撮影したものらしく、一枚には紐まで含めた根付の全体像が、もう一枚には玉の部分がアップで映し出されていた。光沢を放つ赤い玉の表面には桜模様の装飾が施され、上品と言うより可愛らしいという印象を抱いた。
根付は白いテーブルの上で撮影されており、商品カタログの切り抜きのように見えたが、よくよく細部を観察しているとどうやらそうではないらしいということに気が付いた。
根付紐はとんぼ玉の少し上の部分で二股に分かれていた。にも関わらずとんぼ玉が付いているのは片方の紐の先端のみで、つまり本来あるべきもう一つの玉が無くなっているのだ。こんな不完全な商品画像などあり得ない。つまり、
「これ、落し物ですか?」
嵐山さんの頷く気配がした。
「俺がそれを拾ったのは半年前、去年の十一月上旬のことだ。確か……祝日の翌日か、その次ぐらいだったかな? 正確な日付は覚えていないが、家に帰れば調べることはできると思う。時刻は夜の8時半過ぎだった。
その夜、俺はある目的のために霧代市内を散策していてね。南針野公園を回り、向居神社を巡り、並木通りを通って西高の外周を歩いていた。そして、ちょうど敷地の角に差し掛かろうとしたときだ。出会い頭に向こうからきた人にぶつかってしまったんだ」
嵐山さんは缶コーヒーを煽った。
「相手は二人の女子高生だった。俺は並んで歩いていた彼女たちを割るようにぶつかってしまったらしく転倒こそしなかったものの三人とも大きく体勢を崩した。景色を見ながら歩いていた俺も悪かったんだが、相手の二人も相当慌てていたようでね。謝罪もそこそこに俺が来たほうへと早足で去って行ってしまった。多分電車の時間に遅れそうになってたんだろうな。そして、二人が去ったあと、俺は、街灯の光が足元で何かに反射していることに気が付いたんだ」
「それが、この根付だった?」
嵐山さんが首肯した。
「振り返ったが二人の姿はもうそこにはなかった。俺は仕方なくそれを拾って家に持って帰ることにした。この写真は俺が自宅で撮影したものだ」
よく撮れているなと感心した。
「彼女たちが西高の生徒であることは間違いない。制服がそうだったからな。俺はそれをその子に返してあげたいと思っている」
それで同じ西高生の俺に声をかけてきたのか。得心しつつ缶コーヒーに口を付けた。ブラックだということを忘れていたので不意な苦みに舌が驚いた。
「さっき君に乱入したのは……悪いとは思ったが君を負かせば話が早くできると思ったからだ。もっとも結果は返り討ちだったし、君にも怖い思いをさせてしまったようだ。その点については本当にすまないと思っている」
嵐山さんはぺこりと詫びを入れてきた。年上の人に謝られ俺は恐縮してしまった。
「どうだろう藤宮くん。俺の頼み、引き受けては貰えないだろうか」
顔を上げた嵐山さんは真っ直ぐに俺の協力を求めた。軽薄な見た目に反し誠実さと実直さがうかがえる態度だった。だが、話の内容そのものに全く疑問を感じないわけではなかった。
「いくつか質問があります」
「聞こう」
「まず一つ、どうして学校に届け出ないんです? 学校に預けて置けば、落とし主が見つかるかどうかは別にしても嵐山さんとしては誠意を尽くしたと言えるんじゃないですか」
「もっともな疑問だが俺の答えは君の質問の中に既に含まれている。持ち主の元に届かないかも知れない。その一点がまさに俺が学校に届け出をしない理由だよ」
「確実に本人の元へ届ける必要がどこに?」
「教師の引き出しの中に放置されては路上に落とした状態と何ら変わりはない。半分は俺の責任でもあるし動くからには間違いなく本人に手渡したい。そんなに不思議なことかい?」
「……二つ目、なぜ俺に声をかけたんですか」
「君だけじゃないよ。先輩は他にも何人かの生徒に声をかけてる」
と答えたのはベンチから離れて腕組みをしていた風花さんだった。嵐山さんが「そのとおり」と認めた。
「だが、ちゃんと話を聞いてくれたのは君が初めてだ。今の高校生は随分と人見知りが増えたものだと嘆いていたが、まさかからまれていると思われていたとは……」
「今さら気づく察しの悪さが嘆かわしいですよ、先輩」
教えてあげない風花さんも風花さんだが。
気を取り直して話を進めた。
「三つ目、二人の特徴は? 背丈。髪の長さ。学年。分かるならなんでも構わないんですが」
「その質問は俺の頼みを引き受けてくれると受け取っていいのかな?」
「難度がどうかという話です。全く当てのない状態で安請け合いはできません」
嵐山さんは「しっかりしている」とくつくつと笑った。
「心配には及ばないよ。もし仮に藤宮くんが持ち主を見つけられずとも君を責めるなんてことはしない。もっと言えば六月いっぱい探して持ち主が見つけられなければ俺はこの件から手を引こうかと考えている」
「先輩、期限それで大丈夫ですか」
そう問いかけたのは風花さんだった。嵐山さんは「三か月もあれば余裕だろ」と応じた。この日は四月二十八日だったから実質的には二か月しか猶予はなかった。もっとも一週間、二週間と探して手がかりが得られなければ、それ以上は俺にできることなど何もないだろうとも思った。
「それを踏まえたうえで聞いて貰いたいが、本人を特定するための決定的な手がかりは顔を見たという俺の記憶以外何一つない。確実なのは去年の出来事だから二人は二年生以上の学年であること。あれほど遅くまで居残っていたことを鑑みるに何らかの部活動に所属していること。その程度だ」
つまり、もう西高を卒業している可能性もあるというわけだ。部活についてはどうだろう。帰宅部の生徒が午後8時過ぎまで教室に居残っている可能性は確かに低いかも知れない。
嵐山さんは顎に手を添え、記憶を引き出すように目線を宙に浮かせた。
「あとは……そうだな。背は二人とも高くはなかったかな? 確か、髪も短くて縛ったりはしていなかった。眼鏡なんかもかけていなかったように思う。それと……そうだね」
嵐山さんが空を仰いだ。つられて俺も同じ方向を見上げた。夜空には細く折れそうな三日月が寄る辺なく浮かんでいた。嵐山さんが独り言のように呟いた。
「一人は、とても、雰囲気のある女の子だったよ。あの月のように儚げで、まるで夢の中にいるような、そんな少女だった」
月のように、儚げな少女。
「先輩の比喩表現キモイでしょ? 藤宮くん」
「そうですね」
「同意しないでくれたまえよ藤宮くん!」
嵐山さんは全力で抗議の声を上げた。風花さんが腕を組みうーんと唸った。
「先輩のハニーとは全っ然正反対のタイプなんだけどなあ。どうしてこう恥ずかしげもなくキモイ台詞で褒められるんだろ。あんまりキモイと真莉姐さんに捨てられますよ?」
「真莉のことは関係ねえだろ! つか捨てられるとか言ってんじゃねえよ、ばなな! なんかすげー不安になるだろうが!」
「安心してください先輩。姐さんにアパート追い出されてもあたしが拾って立派な犬小屋に繋いであげますから!」
「ふざけんなてめえ!」
ぎゃあぎゃあと言い合う嵐山さんと風花さん。そんな彼らを帰宅途中のOLが「痴話喧嘩は部屋でやれ」と言わんばかりの迫力で睨んでいったが、二人とも気付かず、無関係な俺だけが居心地の悪い思いをした。
でも、会話の中身を聞く限り嵐山さんと風花さんは別に付き合っているわけでもなさそうだった。
嵐山さんがわざとらしく咳払いした。
「それで藤宮くん、返答はいかに?」
二人の素性は確かなものらしい。期限は2か月。持ち主を見つけられなくても責任を負う必要はない。手がかりは少なく気になる点は多々あるが条件自体は緩い。俺にとってのマイナスは特にないと思った。
「その写真はお借りしてもいいんですか?」
「必要なら後日データも送信しよう」
「ひとまずはこれで十分です」
嵐山さんは満足気ににこりと笑い、俺は彼から写真を受け取った。
「了解です。ご期待に添えるかは分かりませんが知り合いを当たってみましょう」
「ありがとう。成功すればささやかながら礼を約束しよう」
美術展で入賞を目指すよりもこうして気楽に使われているほうがきっと俺には似合っている。早足で広場を抜けていく人々の群れを眺めながらぼんやりとそう思うのだった。
(3)
「些細なことでも構わない。何か情報があれば連絡してくれ」
「面倒かけてごめんねえ藤宮くん」
そう言い残して嵐山さんと風花さんは街の景色に溶け込んでいった。
翌日は祝日だったので、本格的に落とし主を探し始めたのは三十日の水曜日、つまり今朝になってからだった。知り合いに当たってみるとは言ってみたものの、心当たりがあるわけでもない。そもそも俺は交友関係が狭いのだ。女子の持ち物だから女子に訊けばいいかと名前も覚えていない何人かのクラスメイトに尋ねてみたが、大抵は目を丸くして口をパクパクさせるだけだった。俺が喋るのがそんなに珍しいか。
「藤宮くん、いっつもむすっとしてるからねえ。遅刻も多いし、女子にはちょっと怖い人に思われてるんじゃないかな」
前の席の日野が背もたれに肘をかけ、あははと笑った。俺は頬杖を突いたまま窓のほうに目をやった。校庭の景色に間の抜けた顔が透けて見えた。
「怖いものかよ。人畜無害とは俺のことだ。風評被害も甚だしいぞ」
「だったらもうちょっと愛想良くしなよ」
「お前は黙ってても愛嬌があるからな」
「チビの童顔は舐められるんだよ」
日野は、別にいいんだけどと肩をすくめ、ところでと会話の流れを修正した。
「話を聞くとそのストラップは二年か三年の持ち物なんだろ? 一年の女子に訊いたって分からないんじゃないかい?」
そんなことは俺も承知していた。だからと言って上級生に知人がいないのだから仕方がないのだ。
「美術部は? 二年の先輩がいるって言ってたじゃないか」
「放課後にでも訊いてみるつもりだよ。でも、多分知らないだろうな。あの人、友達少なさそうだし」
それに、また適当なことを言われて無駄足を踏まされるのもたまらない。
「日野は誰か心当たりがないか?」
日野は、そうだねえと天井を見上げた。
「剣道部の先輩が言ってたんだけどね」
「なんだお前。結局剣道部に入ったのか」
まあねと日野は頬を掻いた。日野は中学でも剣道部に所属していたが、高校で続けるかどうかは悩んでいると話していた。
「西高は結構レベルが高いからさ。中学でも補欠だった僕が入っても、って思ってたんだけど……。朝ね、稽古に通ってた時間になると勝手に身体が起きちゃうんだよ。もう朝練行かなくてもいいんだってまた布団に入っても寝られやしない。帰ったって家で夕方のテレビを観ている自分が不思議で堪らないんだ。それで、なんか落ち着かなくなってね」
「……ふうん。難儀なもんだな」
「難儀なもんなんだよ」
そう言う日野の頬は水を吸ったみたいに緩んでいた。
「それで? 剣道部がなんだって」
「ああ、そうそう。先輩が言ってたんだけど、二年の先輩に色々と噂に詳しい人がいるらしいんだよ」
「女子か?」
「女子とは言ってなかったかな。でも多分そうだよ」
中学でも人の噂話ばかりしている女子がいた。高校でも同じようなやつはいるらしい。もっとも女子という生き物は大抵どの年代でもそういう性質を持っているとしたものだろうが。
「僕の母親なんか最たるものだよ。ただ、その人は噂を集めるだけじゃなくて、話の売り買い、つまり情報屋紛いのこともしてるらしくてね」
「そこらの噂好きより突っ込んだ情報を持っているかも知れないってことか」
噂話を売り買いする情報屋の女子高生の噂。字面からして既に爆発的な胡散臭さだ。日野は違いないねと苦笑した。
「でも実在はしてるんだよ。先輩に頼んで連絡つけてあげようか?」
「頼めるか」
日野は了解と言って携帯を取り出した。
「しかし、見ず知らずの他人のために藤宮くんも親切なもんだねえ。そういう優しさを見せてあげれば怖い人じゃないって女子にも分かって貰えるんだろうけど」
そういう人間じゃないから分かって貰えないんだ。心のつぶやきは日野には届いていないようだった。
そうして紹介して貰ったのが二年C組の女子生徒、神坂美星だった。
神坂はカレーを口に掻き込みながら嵐山さんから預かった写真をじいっと覗き込んでいる。神坂の反応からは何をどこまで知っているのかよく分からない。ただよく食べる人だなあと感心した。
一方で神坂の友人であるという中山。彼女は何か知っているのだろうか? 神坂と同じように平然と箸を運びつつも、視線を写真から離そうとしない。ただ、明確な反応を見せてくれるわけでもないので、やはりその態度をどう捉えてよいのか判断付きかねた。
ふと彼女たちのどちらかが根付の持ち主なのではないかという考えが浮かんだが、すぐさま打ち消した。二人が自分のものだと名乗り出ない時点でそうではないのだろう。
「何か分かりますか?」
神坂は質問に答えず黙々とスプーンを動かしていたが、やがて一皿綺麗に平らげると、ごちそうさまと静かに手を合わせ、そして、
「偶然って怖いわね」
ぼそりと言葉を皿の中に落とした。
意図を測りかねる俺を差し置き、神坂はさてと本題に踏み込んだ。
「藤宮くんだっけ? 私が知ってることを教えてあげてもいいんだけど」
神坂は俺の背後に向けてわざとらしく首を伸ばした。
「私、炒飯食べたくなってきちゃったな」
「は?」
一瞬、聞き間違いかと思った。
神坂はただ願望を口にしているのではない。もちろん暗に奢れと言っているのだ。神坂美星は情報屋紛いのことをしている。日野の話は本当らしい。
だが、別に見返りを要求されたことに驚いたわけではない。俺が驚いたのは、つまり、
「まだ食べるんですか!?」
カツカレーを一皿食い尽したあとで炒飯を追加注文しようとする神坂の胃袋だ。
神坂は不機嫌そうに睨んできた。
「なによ? 悪い」
「いや、腹に悪いでしょ」
「悪くないから食べるのよ」
本気なのだろうか。両メニューとも体育会系の男子が食べても満足できる量がある。それを神坂のような小さな女子が二品も。
隣の中山も頬に手を当て不思議そうに呟いた。
「美星ちゃん、そんなに食べるのにどうして大きくなれないのかしらねえ」
「チビで悪かったわね。私からすりゃあんたの無駄な発育のほうが余程不可思議だわ」
中山はシャツの胸元を押さえて、まあと赤面した。神坂がふんと鼻を鳴らした。
「で、どうなの藤宮クン。私の口は開きそうなのかしら?」
神坂は直接的な言い回しはしない。俺は後方にある食券販売機を肩越しにちらと見た。炒飯の値段は三百八十円。貧乏学生にはちと苦しいが払えない値段ではない。ないが、
「……俺が炒飯を買ってきてこの席に置くくらいのことは構いませんがね。でも、先輩が俺の欲しい情報を持っているとは限らないでしょ?」
「なに? 一丁前にネタを確かめてからってわけ?」
「当然のことかと思いますが」
金銭を要求されたうえに何にも知りませんではたまったものではない。たとえそれがワンコインに満たない炒飯でもだ。
神坂はそれもそうねと、制服のポケットからスマホを取り出し、伸ばした指でディスプレイを跳ねた。デコレーションされた派手なスマホだった。
「嵐山康介と風花奈々」
二人の名前を唐突に出され俺はぎょっとした。
「でしょ? 藤宮くんに話を持ちかけてきた二人組って」
「知ってたんですか」
「奇特な人たちよね。誰かを探してるとは聞いてたけれど、まさかこんなストラップの落とし主だったなんて」
俺は根付の落とし主を探しているとしか言っていない。仲介を頼んだ日野にも校外の人間に頼まれたとしか説明していなかった。神坂に期待したのも純粋に落とし主の情報だった。まさか背景まで掴まれているとは。
「ま、その人たちがこそこそ動き出したのももう二週間以上も前のことだし? 素性くらいはさすがにね。何なら二人が所属してるサークルと行きつけの飲み屋さんくらいは教えてあげられるけど?」
「いえ、十分です。先輩がこの件に詳しいことはよく分かりました」
神坂の情報は確かなようだ。そして、何も難事件を捜査しているわけでもない。有力な手がかりなどというものがあるとすれば、それはもう落とし主に直結するもの以外にないはずだ。
「でも、気乗りはしない。そうよね、美星ちゃん?」
中山が神坂に水を向けた。神坂は腕を組んでぶすりとした。
「? なぜです」
落し物がある。所有者を知っている。だったら取るべき行動は一つしかないではないか。
「君の言いたいことはわかるわよ」
神坂がうるさげに片手を振った。
「正直言うとね。この件には関わりたくないの。本当は君にだって話したくないんだから」
「それは、嵐山さんにですか? それとも持ち主のほう?」
持ち主のほうだと神坂は答えた。根付の持ち主と関わりたくないから話さなかったのだと、話題にするのも御免だと言わんばかりの口調で。
「下手に首を突っ込んで巻き込まれちゃたまんないからね。訊かれたからには教えるけど、教えるまでよ。仲介の類は一切しないからそのつもりで」
「そんなに、ヤバい人なんですか?」
嵐山さんの話からは、雰囲気のある女生徒だという彼の感想以外に特別な印象は受けなかった。根付の趣味も可愛らしいものだ。しかし、ここまで露骨に嫌悪感を示されると段々と不安になってくる。危ない人間なのだろうか。
「さあ……どうなのかしらね」
中山は意味ありげに苦笑をした。神坂はテーブルに肘を突いてそっぽを向くと、兎のような舌をべえと突き出した。余程その人物のことが嫌いらしい。
「けど、藤宮くんがその娘に会うのはちょっと面倒かも知れないよ? その娘、もうこの学校にはいないから」
「卒業生なんですか?」
中山は首を左右に振った。
「同級生。でも転校したの。去年の十二月に」
同級。転校。去年の冬。
同じようなやり取りをほんの数日前にした気がする。具体的には特別教室棟の美術準備室の中で。
「女子高よ。そいつ今は梅女に通ってんの」
神坂が中山の言葉を引き継いだ。
去年の冬に梅女に転校した女生徒。それって、つまり、
「小春のどかって女よ。そのストラップの持ち主」
教えたんだから奢りなさいよ。
神坂はぶっきらぼうに言い放ったが、その声はどこか遠く聞こえた。空の食器を重ねる音が食堂の中で響いていた。昼休みはもう半ばを過ぎようとしていた。
小春さんは根付の写真を見るなり、少し待っていてくださいと暗い居間へと姿を消した。きしきしと床を踏み締める音が縁側に座る俺の耳から遠ざかる。軋む音は水平の位置から斜め上に移動し、今度は天井の向こうから落ちてきた。ことりと何かを開閉する音が階下まで響くと、やがてまた同じルートを辿って床の軋みが下のほうへと降りてくる。振り返ると居間の柱に手を添えて立つ小春さんの姿があった。小春さんは今日も着物を着ていた。派手さはないが明るい色の柄で、まだ電気を灯していない部屋の中で小春さんの周囲だけが陽に照らされているように見えた。彼女の片手には和風の小箱が収められている。
小春さんは俺の側で膝を着いて、その中身を示した。
「これは……」
小箱の中で転がっていたのは写真と同じ赤いとんぼ玉だった。色合いも、形も、桜模様も全く同じ。一つだけ写真と違うのは玉から数センチ上の部分で根付紐が短く千切れていることだった。それはつまり、小春さんの持つ玉が写真の根付の二股の先、失われた片割れであるという事実を意味していた。
小春さんはすっと目を細めると、動揺する俺の心中を見透かすように言い添えた。
「私のものではありません」
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