第1話 小さな春
(1)
しょせん世の中は才能である。
持つべきものを持たない人間が努力を重ねたところで報われることは永劫ない。報われないやつは何を捧げても報われない。努力は成功を保証しない。生まれたときから1%を持つ一握りの才覚だけが努力によって栄光を手にすることができるのだ。
そのようなことをネットの暇人たちと深夜まで議論を交していたら案の定寝坊した。うちの親も難しいことを言わず起こしてくれればよいものを。通学時間帯の過ぎた電車にゆったりと揺られながら身勝手な不平を自嘲する。
くたびれたロングシートに身を預けて一息吐いた途端、停車を告げるアナウンスが頭の中に響いた。身体を震わせ窓を見やると高架からの見慣れた景色がゆっくりと後方に流れていた。さっき乗車したばかりだというのに、外はもう降車駅近くの風景に変わっていた。少しのつもりで瞼を閉じていたら、たっぷり三十分以上眠ってしまっていたらしい。シートに座らせていた空のカバンを肩に担いで席を立った。
一時限目、佐々木が巻き舌で英文を読み上げる最中に教室のドアを開けた俺を担任の合田は職員室に呼び出した。昼休みのことだ。
「藤宮、お前入学早々もう何回目や。四月からそれでええと思うとるんか」
本音では俺のような人種を叱っても仕方がないと分かっているだろうに、月に何度も声を荒げさせてしまうのは申し訳がない気もした。一つ反論をするなら、先々週にやらかした遅刻は、踏切事故が原因でダイヤが乱れたせいだ。決して俺の責任ではない。手前の西日駅で足止めを食らっていたので、どこぞの駅近くとしか覚えてないが、あのときは他にも大勢のやつらが遅刻したと記憶している。もっとも残る三回の遅刻を引き合いに出されたら何の言い訳もできないが。
人に指摘されずとも生活態度に難があることぐらい重々承知している。でも別に反抗期ではないので授業自体は真面目に受ける。五限目で睡魔に負けるのは俺に限った話ではないし、六限目の体育は運動部のやつらが過剰にエネルギーをまき散らすから活躍しようがない。目立たず静かにしていればあっという間に放課後だ。
いくらかケチは付いたものの金曜日を無事乗り切った俺は中身のない鞄を肩にかけて特別教室棟へと足を運ぶ。本校舎から切り離されたそこへ向かうには運動場の脇を通らなければならない。一時間ほど前まで授業でサッカーをやっていた連中がまたサッカーで走り込む準備を始めていてその意欲はどこから湧いてくるのだろうとぼんやり眺めてしまう。
建物に近付くと運動部のかけ声とはまた別の声が聞こえてくる。合唱部だ。数名の女子たちが奏でるカゲロウのような声が窓から飛び立ち空に溶け込んでいく。俺は建物を仰ぎ見た。
特別教室棟。見上げたところで風情もない、古臭いだけの建物だ。先輩は刑務所のようだと言った。言われるとそんなふうにも見える。人をただ箱詰めにするためだけに造られた灰色。中で活動している科学部や天文部は懲役刑を科せられていることになるのか。
馬鹿馬鹿しい。少なくとも彼らは活動を楽しんでいる。誰かと同じではないのだ。
鉄扉を押す手に力を込める。なぜ開き戸になっているのだろう。重量があるから閉めるときに音がうるさくて敵わない。そうならないよう慎重に扉を閉め、階段に足をかける。目的はこの辺境の中でもさらに辺境。特別教室棟の三階最奥に位置する教室。我らが
「たとえば虫だ」
丸椅子に座り漫画を読みふけっていた俺に先輩は言った。沈黙を破る唐突さに何の話だったかと中空を仰ぐ。汚い天井が見えた。挫折から這い上がってきた主人公が難敵に勝利する感動の場面だったのだが。
「虫」
聞こえたままに復唱する。問い返したわけではない。そもそも言葉の意味が呑み込めていなかった。俺の無理解をよそに先輩は会話を繋ぐ。
「花でもいいさ。生きているものなら」
「生きていることが大切なんですか」
美術室には木製の大机が全部で6つ並んでいる。先輩は机の隙間にイーゼルを組み立てて作業に取り組んでいた。
キャンバスに向き合う彼女は俺を見ようとはしない。表情も動かない。木炭を摘まむ手を静かに揺らしていた。
「生きていたら物を食べる。大抵の生き物は幼体のとき何をどれだけ摂取したかによってその後の体格が決まる。わずかしか食べられなかった個体は小さく弱く、大量に栄養を取り込めた個体は大きく強く」
「たまに成虫になっても小振りなクワガタとかいますもんね」
「体格が決まると筋力が決まる。体力と瞬発力が決まる。行使できる能力が決まる」
なるほど、話の行き先が見えてきた。
「才能や努力という言葉を使うと概念的な議論になりがちだ。ともすれば精神や倫理の問題にすら陥ってしまう。だが個々の能力というものはもっと具体的で物理的な結果だ。羽のない生き物は空を飛ぶことはできない。努力とは本来備わった能力をコントロールするための訓練に過ぎない」
先輩が腕を動かすたびに黒い木の棒がシャラシャラと音を立てる。軽やかな響きが耳に心地良い。先輩は続けた。
「自然界の場合、体格に恵まれてさえいれば概ねの状況には対応できる。誰の目にも明らかなほど単純な才能だからだ。だが人間は違う。幸か不幸か私たちは野生で必要とされる以上の技術にまで才能を求めるようになってしまった。そこは蔦と木々で覆い隠された未踏の地だ。何が眠っているのか計り知れない。価値のあるものが見つけ出せるのなら幸運と言えるだろうが、生涯を賭して何もない奥地へ踏み入ろうとしているのなら」
キャンバスを撫でる音がぴたりと止まる。
「賽の河原で石を積みあげているようなものだ。つまりお前の言うことは正しいということになる」
はあと生返事が漏れた。その話題を口にしたのはもう15分以上も前になる。俺が知らないだけでこの教室には時差でも発生しているのだろうか。相変わらず変な人だと先輩を見やる。
背はさほど高くない。女子の平均よりも少し低いと聞いたことがある。しかし、泰然とした態度がそう見せるのか、背筋に芯を通したその姿勢はちっとも小柄さを感じさせない。うなじが見える短めの髪は活発さよりも機能的な印象を受けた。
柊冬子。霧代西高二年。美術部部長にして唯一のまともな部員。名は体を表すとの言葉どおり周囲との温度が数度は違っていそうな女だ。先ほどまでまともでない部員が漫画に耽っている傍らで黙々とデッサンに取り組んでいたが、突如沈黙を破り自説を披露し始めた。作業に落ち着きがあったのかも知れないが、絵の描けない俺には何とも判断しようがない。つららのような瞳で見つめるキャンバスには碁盤目状に黒い線が引かれ、その上に対象の形が落とされていく。下書きの段階なので全体像は明確ではないものの手元に置いた写真を基に描かれるそれはどうやら女性の全身像らしかった。
冬子先輩はキャンバスと写真をしばらく無言で見比べていたが、やがてまた思い出したように木炭を振り始めた。俺は先輩の横顔に話しかける。
「先輩」
「なんだ」
「だったら先輩は……」
先輩の意識は白いキャンバスに引き戻されつつある。伸ばした手があの音を奏でる。シャラシャラ、シャラシャラと。
俺は再び漫画に目を落とした。
「いえ、なんでもありません」
先輩はそうかと頷いたりはしなかった。先ほどまでそうしていたようにまた独りの世界に没入していく。俺も中断していた感動を味わうために薄いページをめくった。
「しかし、天才というものは卓越した能力だけでは成立し得ないものでもある」
雑談は続いていたらしい。再度顔を上げた。
「天才は才能以外にあるものを必要とする。それがあって初めて天才は天才たり得る。何だと思う?」
「さあ……やる気とかですか」
「社会の認知だよ。社会に知られ認められることだ。天才はどんな類稀なる能力を持っていたとしても人に認められなければ凡人と変わりがない。現在では百億の値で取り引きされるゴッホの絵画も彼の存命中にはたったの一枚しか売れなかった」
だから今人に認められないからと言って自分を卑下する必要はどこにもない。 淡々と締めくくる先輩に俺は曖昧な相づちを打つしかなかった。
と靴底のさらに底のほうでバタリと鉄の音が響いた。心なしか教室が揺れたように感じる。建物の出入口を誰かが開閉したのだ。
「ゆいちゃんですかね」
「かもな。少し早い気もするが」
即席ラーメンができるほどの時間ののち、美術室の引き戸がガラリと開いた。現れた赤いジャージに座ったまま頭を下げる。
「おう柊、頑張っているようだな」
ゆいちゃんこと
「藤宮、お前も美術部なら何か描いてみたらどうだ? 打ち込めるものが一つでもできれば遅刻もなくなるかも知れんぞ」
「合田先生から聞いたんですか」
「何とかならんかだとさ。実際どうなんだ。数ある部活から美術部を選んだんだ。芸術に興味がないわけじゃないんだろ」
「だからって先生もド素人に一から教えてる暇なんてないでしょう」
ゆいちゃんは美術部の他にバスケ部の顧問を兼任している。
昨年度末で冬子先輩しか残っていなかった美術部は廃部するかどうかの瀬戸際にあった。そのため新しく赴任してくる教師には原則として運動部の顧問を任せ、美術部に関してはよほど部員が増えない限り兼務で対応するという方針が事前に定められていたらしい。俺が入部したことで廃部の話は立ち消えになったが、当初の予定どおりゆいちゃんはバスケ部と美術部の両方を受け持たねばならなくなった。部活の規模や経緯からすればむしろバスケ部のほうが主担当だと言っても差し支えない。要するに暇人の相手をしている余裕などないのだ。
「それに関してはお前らにも申し訳なく思っている。だが、やろうと思えば柊に習うことだってできるはずだ」
「私は未熟です。人に何かを指南する資格はありません」
「お前は部長じゃないか」
「名ばかりの役です。それに」
先輩は手を休めず淡泊に続けた。
「こればかりは本人の意思ですから」
ゆいちゃんは「入部がその意思表明だろう」と反論し、それはそうだと他人事のように俺は納得した。ゆいちゃんはまあいいさと嘆息する。
「藤宮の話は今度ゆっくりしよう。柊、今日はお前に訊きたいことがあってな。手を止めて貰って構わないか」
ゆいちゃんは返事を待たずに黒板を横切ると教室の奥にある扉を開いた。先輩も木炭を置いてゆいちゃんに従う。呼ばれはしなかったが俺も何となく後に続いた。
大抵の学校がそうであるように西校の美術室にも美術準備室と呼ばれる部屋が隣接している。特別教室棟の中央を貫く階段を基準にすれば美術室よりも手前に位置し、廊下に面した出入口の他、使用者の移動に利するよう美術室とも内部で繋がっている。しかし、これと言って用のない俺は一度も中を覗いたことがなかった。
実際に入ってみても、準備室は外から想像していたぐらいの広さしかなかった。概ね美術室の三分の一をナイフでさくりと切り取った程度の小部屋だ。廊下側は木製の引き戸で閉ざされていてその反対側が窓になっている。昼間はさぞかし暗いと思われるが、今は眩しいほどの西日が差し込んでいた。
室内には教師が待機するための机が設けられていた。壁際にはロッカー、そして道具類を保管するための棚があり、中には幾枚かのキャンバスと石膏像が収められていた。倉庫のような乱雑な場所を想像していたが意外と整理が行き届いている。整理が行き届いていると言うより、
「何もないだろ?」
「ええ、ずいぶんと殺風景ですね」
片付いているのではない。物がないのだ。中学の美術室にも似たような部屋があったがここよりは色々置いてあった気がする。ゆいちゃんが頭を掻いた。
「何か知らんが去年の暮れに備品を一斉処分したらしくてな。最低限の教材しか残ってないんだ。おかげで買い足す手間が面倒で敵わん。まあ、一から好きにできると思えば悪くないんだが」
ゆいちゃんは並べられたキャンバスの一枚に手を伸ばした。
「で、見て欲しいのはこれだ」
引っ張り出してきたのは彼女の下半身がすっぽり隠れるほどのキャンバスだった。
「この絵が誰のものか分からないか? 作者を示すものが何もなくてな」
瞬間、ぞくりと粟立った。
そこには一人の女が描かれていた。
どこか、暗い部屋の中だ。
壁も床も黒く塗り潰され内装が読み取れるものは何もない。実際は部屋ではなく黒い空間なのかも知れない。だが自然と牢獄のような石造りの部屋が頭に浮かんだ。画面の右側には白い筋が斜めに切り込まれ、角度や高さから扉の隙間から差し込む光が表現されているのではないかと思えた。しかし、やはりドアそのものはキャンバスに収められていなかった。
女は外の光から目を背けるように、あるいは逃れるように暗い隅に身を置き、背を丸めてうずくまっていた。顔は髪に隠れてはっきりとしない。純白のワンピースを身にまとってはいるものの、そこから伸びる剥き出しの手足は枯れて痩せ細り、服のたゆみからは魚にも似たあばらが覗いていた。少女のような衣服に老女のような肢体。アンバランスで気味が悪かった。
女はその骨張った腕に薔薇の花を抱えていて、交差させた細腕の隙間から赤い花弁が首をもたげていた。しかし、薔薇を抱きしめる皺だらけの皮膚は棘によって破られ鮮やかな赤色が腕を滴っている。傷付く彼女の傍らには光のほうへ首を向ける一匹のトカゲが描かれていた。
薔薇を抱く女。気付けば手に汗が滲んでいた。技術的なことは分からないが、喉を締め上げられるような、心臓を鷲掴みにされるような息苦しさがあった。
なぜ女は光から逃れようとしているのか。なぜ傷を厭わず薔薇を抱きしめているのか。その醜い姿に込められた意味は。作者が伝えたいメッセージとは。
分からない。分かるはずもない。分かるのは、女が暗鬱に蝕まれている事実。苦痛に苛まれる痛々しさだけだ。
でも不思議と不愉快な印象は受けなかった。それは抱かれた薔薇が明らかに美しく描かれているからではないか。あるいは女も花の美しさに救いを求めているのかも知れない。そんな想像が脳裏を過るほどに。
ゆいちゃんがキャンバスに目を落としたまま言った。
「棚にある他の絵は今の三年が授業で描いたもんだが、これだけはどうも違うらしい。まあ、見るからに素人が描いたもんじゃないしな」
冬子先輩に視線を移す。
「どうだ柊。なんか知らんか?」
先輩はじっと絵を見据えていた。いつも以上に感情が読み取れなかった。やがて左手で髪を掻き上げ静かに口を開いた。
「作者が分かったとして、この絵をどうするつもりですか」
「残しといても仕方ないからな。返せるものは本人に引き取って貰おうと思ってる。その口ぶりは作者を知っているな。誰なんだ?」
先輩は回答を拒むように瞳を閉じたが、ややあってゆいちゃんの問いに応じた。
「去年まで美術部にいた小春という女子が描いたものだと思います。既に退部していて籍はありません。正確にはこの学校にもいませんが」
「卒業生か」
「転校です。私と同級でしたが去年の冬に」
「そうか。遠くへ行ったのなら面倒だな」
「いえ、転校先は梅女ですから。家も市内から変わっていないはずです」
梅穂女子中学高等学校は霧代西高と同じく霧代市内にある中高一貫の女子高だ。西高からの距離も近く、どこに自宅があったとしても通学時間はプラマイ15分と言ったところだろう。だからこそ、なぜそんな近所の高校へ転校したのか少し不思議に思った。
先輩の答えに満足したのか、ゆいちゃんの声が少し弾んだ。
「それなら話は早い。小春と言ったか? その生徒の自宅までこの絵を届けてやって貰えないか」
「そうだな、任せたぞ藤宮」
「は?」
予想外の変化球に我ながら間抜けな声が出た。
「なんで俺が」
「部長命令だ」
「都合のいいときだけ権限を使わないでくださいよ。先輩の知り合いなら先輩が行けばいいじゃないですか。どうして見ず知らずの俺がそんなこと」
「だってお前暇そうだし」
そりゃそうだが、こいつ何言ってるのか分かんないみたいな顔をするな。
「事実そのとおりだろう。私はまだ残ってデッサンを続けたいし、明日は明日で画塾がある。お前はどうだ。土曜にデートの予定が入っているのなら無理にとは言わないが」
それは先輩が承知しているとおり答えるのが苦しい質問だ。しかし仮に俺が不安になるほど時間を持て余していたとしても、面倒事を引き受けるかどうかは別の話だ。
「だが、引き受ける理由くらいにはなるんじゃないか? 私としてはどっちでも構わんが、時間があるなら藤宮が行ってやればいいじゃないか。柊、その生徒の家はどこだ?」
「山ノ前です。駅からも距離はありません」
「勝手に話を進めんでくださいよ」
ゆいちゃんは腰に手を当て苦笑した。
「面倒ってほどのことでもあるまい。ただのお使いだ。お前こそ女子の柊にこんなでかいの運ばせる気か?」
「だったら先生が持って行けばいいじゃないっすか。車持ってんだから」
「私には無理だ」
「どうして」
「だってド素人の生徒に絵を教える時間もないんだもん」
そうきたか。
ささやかな逆襲に成功したゆいちゃんは得意気な顔でいひひと笑った。まるでいたずら好きの子どもみたいだ。
「ま、時間がないのはホントだよ。明日は穏前商との練習試合。今夜はその打ち合わせ。藤宮が行ってくれたら大いに助かる。それに相手の子は梅女なんだろ? 女子高の生徒とお近づきになれるチャンスじゃないか。連絡先でも交換してくるといい。よかったな」
「小春は美人だぞ」
先輩は煽るでもなくいつもの調子でぼそっとつぶやき、さらにこう付け加えた。
「お前を男として見てくれるとは思えんが」
なら完全に要らない情報だろそれは。
話は済んだとばかりに美術室に戻ろうとする先輩の背を眺めながら俺は溜息を吐いた。
(2)
土曜も午後一時半を過ぎた頃、俺は千数百円のスニーカーでアスファルトを踏み締めていた。右手には本日の目的にして唯一の荷物たるキャンバス。寸法はF30号だそうだが、でかいということ以外、正確な数字は聞いていない。たぶん縦幅80センチはあるだろう。
もうすぐ五月がやってくる。熱さも控えめな過ごしやすい陽気で、風に揺られる新緑がさらさらと波の音を奏でている。こんな晴天なら外を散歩するのも悪い気はしない。コンビニで握り飯でも買って木陰で頬張るのも良いかも知れない。腹を膨らませたあとはベンチのうえでひとねむり。きっと木々の音にいつまでも身を委ねていたくなるだろう。もっとも、
「こんな坂道を登らなくてよけりゃの話だけどな。くそ、まだ着かねえのかよ!」
答えをくれる人は誰もいなかった。
横暴な女二人から体よく面倒を押し付けられた俺は、土曜も昼を過ぎる頃、上げたくもない腰をようやく上げた。自宅のある穏前町から山ノ前へ辿り着くまでには五つの駅を経由する必要がある。沼田、
持ち主の家は山ノ前駅の近くだと教えられていた。通学途中にある駅なので車内からの風景は見慣れているが、降りたことは一度もなかった。
足元にキャンバスを置いて芸術家の気分に浸りながら電車に揺られること約半時間。新鮮な気持ちでホームに足を着けた俺は地図アプリに示された場所を見直して愕然とした。確かに目的地は駅からさほど遠くなかった。直線距離にすれば一キロ程度のものだろう。目と鼻の先にあると言っても過言ではない。
曲がりくねった坂道を登らなければ辿り着けないという、ただそれだけの話だ。
「山ノ前駅。山ノ前。山の前、ね……」
その生徒の家は、駅前の住宅街の、そのさらに奥に突き出た小高い山の上にあるらしかった。
いくら穏やかな陽気とは言え太陽の下を十分も歩いていればさすがに汗が噴き出してくる。坂道ともなればなおさらだ。運動不足で縮んだ肺は太ももを動かすたびにひゅうひゅうと泣き言を上げる。加えて俺は大荷物を提げていた。普通に持つだけなら重いものではないが提げて歩くとなるとすぐに腕が痛くなってくる。右手、左手と持つ手を換えても鈍い痛みは消え去らない。おまけに巨大なキャンバスは山風に煽られ、バランスを安定させるだけでも一苦労だ。
あと何分歩けば目的地に辿り着くのか、具体的な所要時間が分からないのも結構きつい。こんなにきついのならやっぱり断っておけば良かったと一日遅れの後悔をする。確かに冬子先輩に運ばせるわけにはいかなかったろうが、だからこそ先輩は行くのを嫌がったのではないか。結局ゆいちゃんが車を使って運ぶのが一番手っ取り早かったのだ。くそったれめ。
ものぐさ教師に悪態を吐きつつ、いくつ曲がったかも覚えていないヘアピンをさらにもう一度折れ曲がった。
次に広がったのは100メートルほどの直線だった。道の左手に擁壁があり、続く先に石垣が見えた。どうやらあれがゴールではないか。気持ちとしては一足飛びで駆け上がりたかったが、それができるのならここまで苦労はしなかったろう。「もう少し、もう少し」と両脚にエールを送りながら亀の歩みで進んでいると、何分後かには目的地に辿り着いた。
スマホの画面に目を落とす。駅から降りて15分しかたっていなかった。立ち止まって息を整える俺の脇を、山菜を提げた老夫婦が軽い足取りで歩いていく。我ながら大袈裟だったろうか。終わってみると大した坂道ではなかったような気がしてくる。まあ、マラソンとは常にそういうものだ。
旅の終着点を見上げた。小春さんの家は陽当りの良い石垣の上にあった。屋敷と呼べるほど大きくはないが、それでも立派な日本家屋だ。敷地は木柵で囲まれ、道から見える家屋との距離を考えると庭もある。植わっているのは桜だろう。花が散り、若葉が光を透き通していた。葉桜だ。葉の瑞々しさが家屋の趣を深め、建物の趣が葉桜の鮮やかさを際立たせている。一月早く来ていれば一層見事な景色が見えたに違いない。
門扉へ続く石の階段には大小様々な花が飾られ、こちらも風景と調和していた。鉢にキャンバスをぶつけないようそろりそろりと段を登り門の前に辿り着いた。
門には閂がかかっておらずインターフォンもないようだったので、ここは恐らく開けて入ってもいいのだろうとおっかなびっくり鉄柵を開いた。今度は庭の風景が目に飛び込んでくる。赤土色の鉢。しっとりと咲く花々。道を覗き込んでいた桜の木。丸い踏み石は水滴を垂らすように配置され、格子戸の玄関へと続いている。
どこか懐かしさすら覚える長閑な庭。
午後の陽に照らされたその縁側に、彼女はいた。
深い、夜空色の黒髪を垂らした女性だった。その長い夜の色は川のように流れ、薄紅色の着物を黒く濡らしていた。華奢な肩に乗った小顔は硝子細工のように整い、瞳は静かに閉ざされていた。
日本人形。
頭に浮かんだイメージを、すぐさま否定した。
彼女は人形なんかじゃない。その全身から人形にはない生命力が溢れ、存在を誇示している。人形なんかじゃない。絵だ。葉桜の咲く庭園を切り取った一枚の絵画。彼女はキャンバスの中心に息づく作品の主役だった。
溜息が漏れた。
鑑賞の時間は長かった。山の音を聴きながら思考を止めて見惚れていた。が、ある瞬間不意に現実に引き戻される。
彼女が小春だ。間違いない。微動だにしないのは眠っているからだ。小春さんは縁側の柱にもたれかかり気持ち良さそうに昼寝をしていた。俺はこの人に絵を届けるために山を登ってきたのだ。でも、どうすればいい?
本音を言えばすやすやと眠る彼女をずっと眺めていたかった。だが、それでは用事にならない。うるさくない程度に声を上げた。
「ごめんください」
彼女に目覚める気配はない。仕方なく庭に足を踏み入れた。数歩進んだところで再度呼びかける。
「あの、ごめんくださいっ」
小春さんは目覚めない。相当深く眠っているらしい。さてどうしたものか。他に家族はいないのだろうか? 玄関へ目を向け、すぐさまいないと結論付ける。確証はないが人のいる気配……テレビの音だとか床を踏みしめる音だとかが全く聞こえてこないのだ。恐らく彼女一人だけだ。家族はどこかへ出かけているのだろう。
やむを得ず彼女の側まで近づいてみることにした。考えがあってのことではない。他にどうすればいいのか分からなかったからだ。だが、ここまでくれば肩でも叩いて起こすしかないだろう。
側に立つと彼女の顔かたちをより細部に渡って観察することができた。緩やかに曲線を描くまつ毛。透明な肌。すうすうと耳心地の良い寝息。薄く整った唇。床に付く手は光を放つように白くほっそりとしていて思わず握り締めたくなる。
緊張に唾を飲んだ。俺はこの人の眠りを妨げていいのだろうか? 静寂を壊すことが恐るべき大罪であるような気さえする。何よりもう少しこのまま眺めていたいという気持ちに胸を締め付けられた。
頭を振った。忘れ物を届けにきただけだというのに何を逆上せているのか。さっさと用を済ませるべきだ。
葛藤を振り払い、そして細い肩に指を伸ばした、そのとき、
「あ」
深く澄んだ湖に見つめられ俺は動きを止める。
小春さんも静止している。
二人とも微動だにしない。まるで石膏像のように。
寝起きに知らない男が目の前にいたらそりゃ誰だって混乱するだろう。状況の把握。記憶の照会。感情の反応。行動の選択。いずれの処理も追いついていない。
程なくして、その瞳に揺らぎが生じ始めた。明らかに好ましくない反応だ。俺の社会的な立場にとって全く好ましくない。半分開いた彼女の口から「あ」だとか「う」だとか声に成り損なった声が漏れる。
「あ……、や」
整った顔は恐怖と混乱で崩れつつある。黙っていれば悲鳴が響き渡ることは明白だ。非常事態を確信した俺は先手を打って声を絞り上げた。
「あやしい者じゃありませんっ。霧代西校美術部の者です」
霧代西高美術部。これだけでも相手が聞く耳を持つには足りたらしい。小春さんの目に理性が灯った。まだ完全には事態を呑み込めていない様子だったが、緩慢な動きで俺と、俺が傍らに置いたキャンバスに目を向けた。
「突然すみません。今日は用があってお邪魔しました」
小春さんは鼓動を抑えつけるように胸元に手を当て、怯えを引きずった表情でこくりと頷いた。
これからが本題だというのに、俺は既に疲れ果てていた。
「さきほどは失礼しました」
家も和風、服も和風なのだからてっきり日本茶でも出てくるのかと思ったが、注がれた中身はコーヒーだった。軽く会釈して皿を引き寄せた。
「俺のほうこそすみませんでした。その、声をかけても起きなかったので」
「お日さまが気持ちよくて、ついうとうとと……」
恥ずかしいです、と前髪を垂らす。
俺は、クリーㇺと砂糖をカップに注いだ。
「ドミニカ産のブルーアンバーという銘柄です。父が現地から送ってきまして」
「お父さんはドミニカで働いてるんですか?」
「今の勤め先はベルギーです。でもその前はドミニカにいたのだとか」
なんだそりゃ。
「じゃあお母さんと二人暮らしで?」
「母は二年前に他界しています。今この家に住んでいるのは私一人です」
ほう、こんな立派な家にたった一人で。
カップを口に運びながら、縁側からの景色へ目を向ける。
庭も、庭木も手入れが行き届いている。これを一人でこなしているのだとしたら大したものだ。俺なんか自分の部屋すら片付けられていないのに。
「それで、あの」
「あ、藤宮っていいます。藤宮真一」
「藤宮さんは今日はどのようなご用件でいらっしゃったのですか。西高の美術部の方が私に何か」
「ああ、そうでした」
足元に立てかけていたキャンバスに手を伸ばした。
「去年梅女に転校するまで西高の美術部にいたんですよね?」
「ええ」
「顧問に頼まれた、と言うか押し付けられたんですけど。小春さん……、えと、失礼、苗字はなんていうんです?」
小春さんは、ふふと笑った。
「よく間違われますが小春が苗字です。小春のどかと言います」
小春が下の名前ではなかったのか。小春のどか。穏やかな彼女にぴったりだった。
「ああ、それでですね。今年からうちの顧問をやってる天羽って教師が準備室の整理をしてましてね。小春さんの絵が見つかったから返してこいと言われて俺が使いに出されたんです」
「私が描いた絵、ですか? 西高に?」
「これ小春さんので間違いないですよね」
袋から取り出した絵を小春さんに示してみせた。『薔薇を抱く女』 改めて見ても圧迫感のある作品だ。目の前にいるおっとりとした女性が描いたなんてとても信じられない。
(……そうだ、この人が描いたんだよな、これ)
信じられないが事実はそうなのだ。小春さんのような人がどうしてこんな痛々しい絵を描いたのか、訊けば教えてくれるものだろうか。
当の小春さんは床に膝を立て難しそうに目を細めていた。
「小春さん?」
彼女は、しばらく黙って絵と睨めっこをしていたが、やがてぽつりと漏らした。
「これ、私のじゃありません」
「は?」
「初めて見る絵です」
「初めて?」
「ええ、初めてです」
「小春さんの絵じゃないんですか?」
「違います」
沈黙。
脱力。
むかっ腹。
あのアマ、誰が描いたかも覚えてないのに俺をこんなところまで寄越したのか……。散々苦労して坂道を登り、危うく変質者扱いまでされそうになったというのに全部無駄足だったと? つまり、俺はまたこの絵を美術室まで戻さなきゃならんのか? もと来た道を下って?
今までの面倒と、これからの面倒を考えると首と肩が重く垂れ下がった。小春さんも迷惑だったろうと様子を窺ったが、予想に反し彼女は小さく微笑んだ。
「でも、描いたのは私の友達で間違いないと思います。そのうち渡す機会もあるでしょうから私のほうで預かっておきましょうか?」
「いいんですか?」
「持って帰るのも大変でしょう。私はこのとおり一人暮らしですから絵の置き場に困ることもありませんし」
なんて優しい人なんだろう。冬子先輩とは大違いだ。
俺は小春さんの厚意に遠慮なく甘えることにした。作者本人の手に渡りはしなかったが、元からしていい加減な頼みごとに付き合ってやる義理はない。よって任務はこれで終了ということになる。
だからと言ってさっさと帰るのも礼に欠ける。せめてカップを空にするまで留まるべきだろう。世間話の種も丁度ある。
「随分と迫力のある絵を描かれるんですね、その友達の方は」
「……ええ、さすがです」
小春さんは懐かしむようにキャンバスを見つめた。しかし、注がれる視線とは裏腹に『薔薇を抱く女』はあまりにも重厚だ。骨に抱かれた薔薇の花だけが鮮やかに赤い。
「花言葉って言うんですか? 何か意味があるんですかね」
小春さんは「そうですね」と思案した。
「薔薇の花言葉は品種や色によって全く違います。たとえば桃色だと幸福、気品、満足。白だと純潔、素朴、尊敬。赤は情熱や愛ですね。ただ、花の意味するものが花言葉だけとも限りません。地域の伝承や風習によっても様々な意味付けがなされますし、誕生花というものもあります。キリスト教において薔薇の花弁は神の愛、赦し、殉教などを意味するそうです。棘は罪、ですね」
「罪……」
「取り分け赤い五弁の薔薇はキリストの血や聖母マリアを象徴していて、宗教画にもたびたび描かれています。絵の中の薔薇と言えば、花言葉よりそちらを連想してしまいますが、この絵に関しては……」
小春さんは口元に拳を当てた。しばし黙考したあと、困ったような笑みを浮かべた。
「申し訳ありません。本人に訊いてみないことには」
そりゃそうだ。
コーヒーを口に含み、話題を変える。
「小春さんも絵は描かれるんですよね」
「ええ、ですが、あまり上手くはありません」
「見せて貰うことはできますか?」
社交辞令ではない。純粋に興味が湧いたのだ。
「スケッチで良ければ」
小春さんは家の奥から黄色い表紙のスケッチブックを持ち出してきた。「なんだか照れますね」とはにかむので、俺も小さく笑顔で応じた。
スケッチブックに描かれているのは鉛筆の素描で、ラフではなく、細部に渡って緻密に描写された写実画だった。題材としてよく見かけるリンゴのスケッチをはじめ、花や風景など身近なものばかりを選んでいるようだった。が、
(上手い……)
なんてもんじゃない。絵の知識がなくても解る。香り立つように伝わってくる。下手だなんて謙遜の極みだ。小春さんの絵は疑いようもなく一つの芸術として成立していた。
たとえばある一枚は花に身を埋めたクマバチが描かれていた。身体に生えるふかふかの毛並みや、胴体に塗された花の粉に至るまで極めて緻密に描写されていた。ハチは餌をかき集めようと花弁の舞台でせわしくステップを踏んでいるようだった。
またある一枚に描かれた花の絵は、葉に刻み込まれた葉脈の陰影まで一筋一筋、絹糸ように柔らかなタッチで紡がれていた。目を疑うほど繊細な仕事で、どこを切り取っても一つの作品として鑑賞に堪え得る、さながら絵画の集合体だった。
しかし、圧倒されるのは決してその写実性の高さにではない。描かれた存在を軸に世界が広がっていくように感じたのだ。
一輪の花の絵。そこには寄り添う虫の姿が在るように感じた。虫を雛に与える鳥の姿が在るように感じた。森の音が在り、水のかたちが在った。風が色づいているようだった。小さな木の下で眠りについた骸は土に還り、そこからまた新しい春が芽吹いた。
一つの点が一つの点と結びつき、結びついた点がまた一つの点と結びついていく。やがて連鎖は大きな環を成し、全てがその中で循環されていく。それは小春さんの目が映し出す世界の姿。不可逆の中で彼女が捉えた一瞬を絵画として永遠化したものだった。終わりと始まりの再演はどこまでも観る者を魅了する。儚くも、鮮やかに。
「すげ……」
『薔薇を抱く女』の鬱々しさとはまるで違う、どこか懐かしさすら覚える作品群。本人は恥ずかしいなどと髪をいじっているがとんでもない。どれほどのものか測ることもできない。ただ、少なくとも、この人が1%を持つ人間であることは俺にすら理解できた。
俺にはない、1%。
ページをめくる手がおぼつかない。
花。町並み。猫。鳥。花。一つ一つの世界をじっくりと観てみたい。もっとたくさんの世界を観てみたい。両方できないことがもどかしい。何だかとても、幸せだ。
画面に釘付けになっていると、小春さんが問いかけてきた。
「藤宮さんはどんな絵を描かれるんですか」
「俺、ですか? 俺は……」
返答に詰まった。窮する理由はどこにもなかった。ありのままを伝えれば良かった。俺の現状をありのままに。でも、返答に詰まった。
スケッチブックには桜の花が描かれていた。触れてみたくなるような桜の花。小春さんの花。
「……俺は美術部の活動をしていません。ただ何となく入っただけで、絵とか、そういうのは……」
文化部なら幽霊部員の一人や二人は別に珍しくもない。小春さんも承知しているのだろう。特に気にするでもなく「そうなんですね」とだけ反応した。俺はなぜか肌が熱くなるのを感じていた。身体の異常はついつい心にもないことを口走らせる。
「あ、この絵は面白いですね」
そう早口で言ったあとで、何の変哲もない花の絵だということに気が付いて焦った。やはり巧みだったが他と比べて特別変わった要素が認められたわけではない。「どこがですか?」 そう突っ込まれたら何て答えようと緊張していると、小春さんは意外な反応を見せた。
「実はその絵に描かれている花については少し、不思議な話があるんですよ」
「不思議、ですか?」
小春さんは「なんと言えばいいのか」と生煮えの調子で庭のほうに目を向けた。視線の先には木柵がある。向こう側は、見えない。
「花が置き去りにされていたんです」
(3)
一週間前、十九日の土曜日です。夕方、花に水やりをしていたときでした。前の道を歩いていた二人の男性が……お二人とも高齢の方でしたが、その方たちが外の階段に置いてある花を指差してこう仰ったんです。
『お嬢さん、申し訳ないが、そこにある花を我々に譲って貰えませんか』
お二人は普段からこの山を散歩されている方たちで、私もよくお見かけすることがありました。この庭からも少し見ることができますが、ここから200メートルほど上がったところに休憩所があって、そこでよく四、五人のご友人たちと一緒に世間話をされています。とても見晴らしの良い場所です。きれいな桜の木もありますから、四月の初めには皆さんで集まってお花見もされていたようです。ときどき外国の方と一緒にいらっしゃることもありました。ええ、同じ年頃の、白人の男性です。日本にお住みになって長いのでしょうね。他の方たちと変わらない様子で談笑されていたのを覚えています。
私もすれ違えば会釈程度はします。でも話しかけられたことは一度もなかったので少し驚きました。
御存知かも知れませんがここに描かれている花はサクラソウと言って花弁が桜の花に似ていることからそう名付けられています。野生のものは大変希少で自生地が特別天然記念物に指定されている地域もありますが園芸品として流通しているものは簡単に手に入れることができます。この二ホンサクラソウも町のホームセンターで買ったもので特別珍しいわけではありません。
最初は株分けをして欲しいという意味だと思いました。でもお話を聞いてみると花があれば構わないから切って輪ゴムで縛って欲しいと仰るんです。サクラソウはたくさん咲いていましたから、うち十ほどを束にしてお渡ししました。お代を払うとも仰ってくださいましたが、それはお断りしました。別に売り物にしているわけではありませんからね。その後、お二人はお渡しした花束を手に恐縮した様子で坂道を上がって行かれました。
それから一時間ほどたってのことです。私が庭に出ていたとき、前の坂道を引き返していくお二人の姿が見えたんです。お二人は私が見ていることに気付き『娘さんどうもありがとう』とお礼を仰ってくださいました。私も会釈で返しましたが、その様子に少し違和感を覚えました。お二人は一時間前にお渡ししたはずのサクラソウの花束を手に持っていなかったんです。
「二人とも手ぶらだったんですか?」
「いえ、正確には行きも帰りもお一人がスーパーのレジ袋のようなものを持っていました。あれは飲み物だったのかしら? 何か一升瓶のようなものです」
飲み物。老人二人。行きに持っていた花束が帰りには持っていなかった。連想されることはそう多くはない。
「それは墓参りをしてたんじゃないですか。一升瓶は酒か何かで、花は供花。二人は知人とか身内のお墓に酒と花を添えて帰った」
「はじめは私もそう思いました。きっとお墓に添える花を忘れてたんじゃないかって。でも、この話には続きがあるんです」
私はお二人の姿が見えなくなったあとも花束のことが気になっていました。本当にお墓参りだったのだろうか。そもそもこの先の道にお墓なんてあっただろうかと。お墓参りにすると荷物が少なすぎるような気もしたんです。水とか、ほうきとか、持ち物はいくらでもあるはずでしょう? なのにお二人が持っていたのは何かの飲み物が入ったレジ袋だけ。それにお墓に添える花は白としたものですが、この絵に描かれたサクラソウは桃色だったんです。
他にも、この先にある誰かの家に立ち寄って花を渡したのだろうかとか色々考えました。でも結論を言うとそうではありませんでした。
翌日は日曜で、朝、私は先ほど話した休憩所へ行っていました。実は今仕上げている絵がそこの風景を描いたものなんです。その日も今日のように晴々としたお天気だったことをよく覚えています。とても気分が良くて……、さあ頑張ろうかと組み立てたイーゼルの前に座ったそのとき、敷地を囲う柵の傍に何かが落ちていることに気が付きました。花束でした。そうです。お二人はお渡ししたサクラソウの花束を休憩所に置いていってしまっていたんです。
「恐らくお二人は花を受け取ったあと、その休憩所にいたのでしょう。普段もご友人の方とよく集まってらっしゃいますから。そこで一時間ほどお話をして、帰り際に……」
わざわざ譲り受けた花を捨てていった?
「……いえ、何か意味があって置いていかれたのでしょう。はじめお二人はお代を払うとまで仰っていたわけですから」
金を払ってまで欲しがったものを直後に捨てるやつはいない。ならば置き忘れていったのではないかとも考えたが、帰り際、二人は小春さんと挨拶を交わしている。持ち帰るべきものならこの時点で気が付くはずだ。
二人は何かに使用するために花を欲した。一時間の間に目的の用途に花を使い、不要になったので休憩所に置いていった。あるいは休憩所に置くこと自体が目的だったかだ。
「その休憩所、最近、事件でも起きたんじゃないですか? 自殺とか?」
「いえ、あの場所で人が亡くなったなんて聞いたこともありません」
「小春さんが生まれる前のことかも知れません。大昔に人が死んでて、桜の木の下に死体が埋められているとか」
「藤宮さん」
小春さんは少しだけ声を低めた。子どもをいさめるように。
「その方たちはご友人たちと一緒によくそこで談笑されています。仮にご家族やご友人が亡くなられていたとしたら、そんな場所で楽しくお喋りをすることなんてできないはずです」
「まあ、埋まってるってのは冗談ですが」
でも、供花や置き忘れでなければ一体何なのだろう。生け花の青空教室を開いていたとか?
花の実物を用いて何らかの議論や講義を行っていたという可能性もなくはない。だが、ここで考えを巡らせていても分かりっこないだろう。
隣に腰かける小春さんを横目に見た。彼女は端正なその顔で遠くを眺めている。見つめる先には晴れた空。陽の光が雲で隠れようとしていた。
俺はぽんと膝を打った。
「何かあるか見に行っても構いませんか? できれば小春さんも一緒に」
小春さんはきょとんとする。
「俺の用事は済みましたし。まあ、小春さんが面倒でなければですが」
「私は別に構いません。でも、藤宮さんこそお時間は大丈夫なんですか?」
肩をすくめた。
「俺ほど時間を持て余してる人間なんて他にいませんよ」
俺は小春さんと一緒にくだんの休憩所へと向かった。目的地までは200メートルそこそこ。坂は緩くなってはくれないが、きついと嘆くほどの距離ではない。その短い距離を有効活用して気になっていることを尋ねてみた。
「ところでどうして着物なんですか」
小春さんは苦笑し胸元を撫でた。
「やっぱり、変でしょうか?」
変ではない。決して変ではない。似合い過ぎて怖いくらいだ。
「父も油彩を嗜む人でよく母をモデルに絵を描いていたんです。父は母に着物を着せて描くことが多かったものですから、こういう服が家にひととおり揃っていて、私も自然と身に着けるようになっていました。ご覧のとおりの場所ですから人目を気にすることもあまりなくて……。今も休みの日はこの格好でいることが多いですね。馴染んでいますから」
町へ出かけるときは洋服を着ますよと小春さんは言い添えた。小春さんの容姿なら洋服を着ていてもやはり目立つだろう。和服のままならどこのお姫様が下界にお見えになったのかと勘違いされるかも知れない。
かく言う俺もこうして連れ立って歩いていると姫に従う家来にでもなったかのような気分になってくる。俺のみすぼらしさではせいぜい馬子の身分がいいところだろうが。
「じゃあ、小春さんはお父さんの影響で絵を?」
「いえ、それはまた別の理由がありまして……。ああ、着きましたよ藤宮さん」
もう少し詳しく訊いてみたかったが僅かな距離がそれを許してくれなかった。
目的の休憩所はカーブの路肩が崖のほうへ大きくせり出したような場所だった。十数メートルほど奥行きのある敷地の端に一本の見事な桜の木。その手前に木製の簡易なテーブルと椅子が設けられている。土地全体が転落防止用の柵で囲まれていたが、これは子どもでも簡単に乗り越えられる程度の高さしかなく、一応対策は講じていますよという役所のポーズにしか見えなかった。俺は崖の先端に近付き、桜の木の傍から下界の景色を望んだ。
「なるほど、こいつは良いなあ」
休憩所からはふもとの景色が一望できた。
陽に照らされた小学校の屋上。町の隙間を東西に抜ける小川の輝き。そこに架かる古ぼけた鉄橋。河川敷を行き交う人々。鉄道の駅、踏切。その全てを覆う青空のグラデーション。ここに来た者しか味わえないジオラマの風景。
頬を撫でる風は柔らかく、木々のそよぐ音に耳を傾けているだけでも満ち足りた気持ちになってくる。確かに休憩するには絶好のポイントだ。じいさんたちが集まって花見をしていたという話も頷ける気がした。しかし、
「これと言って何かあるわけでもないですね。少なくとも花を使うような何かは」
そうなんです、と小春さん。
「お二人がいらしたのはちょうどこの桜が散った頃でした。もしかしたら桜の代わりにサクラソウを飾って花見を楽しんでいたのかも知れません」
「酒の肴だったらなんだって良かったのかな」
その理屈なら一年中花見をしていられる。幸せな年寄りたちだ。でも案外その程度のささやかな理由なのかも知れない。見知らぬ他人に無理を言って花を貰うほどのことだろうかと疑問には思うが。
「花が落ちていたのはちょうどそのあたりです」
小春さんは俺の足元……、柵の根元の一角を指差した。
「はじめは回収して花瓶にでも刺しておこうかと思いました。でも先ほど言ったとおり意味があって置いてあるものだといけませんからそのままに。今はもう風で飛ばされてしまったみたいですね」
花が置かれていたという場所は概ね敷地の先端部分だった。桜の木からは1メートル、ベンチからは数メートル以上距離が離れている。あえて移動しなければ近付くことのない場所だ。つまり、この位置には意味があるということになる。
ぐるりと首を動かし足元を観察してみる。茶色い土で固められた地面には背の低い雑草がまばらに生えているだけで格別手が加えられた様子はない。
「別に掘り起こされたりはしていないでしょう?」
「ええ、もしかしたらとは思ったんですが」
小春さんは事故や自殺などはなかったと断言する。ならば人以外のものであればどうだ? たとえば飼い猫の死骸などを埋めて弔っていたとしたら。そう考えて掘り起こした跡を探してみたのだが、敷地のどの場所を見比べても状態に差はないように見えた。
「よく分からないな」
ただ、目的の用途に花を使い不要になったから捨てたという線は薄いかも知れない。敷地の際まで捨てにくるなら、いっそ崖下まで放り投げそうなものだ。わざわざ端に置いたのはやはり意図のようなものを感じる。
「でも、風で飛ばされてこの位置まで転がってきたって可能性もあるか?」
「そうかも知れません、ただ」
小春さんは記憶を探るように目を細めた。
「あの日は風が穏やかでした。花束が飛ぶほど強い風が吹いていたかと言うと、どうでしょう」
となると、やはり意図して花を置いた線で考えるべきか。
顔を上げ、もう一度眼下のパノラマを見下ろした。じいさんたちもここで同じ景色を眺めたはずだ。俺と同じ位置に立ち、町を望み、そうして花を置いた。ここから何が見えた?
視界の端を青色の塊が横切っていく。山ノ前駅を通過していく特急電車だった。電車が走り抜けると駅の傍にある踏切で遮断機が上がった。杖を突いた老婆が線路の上をのたのたと渡っていくのが見えた。少し危なげに感じた。
と、その光景を目にした俺の中に閃くものがあった。ポケットからスマホを取り出した。検索エンジンを立ち上げ、指先で単語を入力する。開いたのはニュースサイトだ。記事の期間を指定する。目当ての情報は即座に表示された。俺は開かれた記事を凝視した。読み間違えがないように、注意深く。
「藤宮さん?」
戸惑う小春さんに、質問をした。
「小春さん、じいさんたちは外国人の友達と一緒にいることがあったって言いましたよね?」
小春さんは、ええと認めた。
「どこの国の人だったかはわかりますか?」
「イギリス、だと思います。一度英語でお話しされているのを聞いたことがありますので。父のイギリスの友人と同じ発音でした」
指が震えた。ページを戻り、新たな言葉で検索をかけた。次の情報はすぐには見つからなかった。関連する単語を入力し直し、何度目かの検索で、ようやくそれらしき結果が引っかかった。内容は推測を裏付けるものだった。
「わかった、気がします」
(4)
「やはりその花は死んだ人に捧げたものだったんでしょうね」
柵に体重を預けながら傍らに立つ小春さんに告げた。鳥の影でも追っていたのだろうか。丘の上の空を眺めていた彼女はなびく黒髪を手で押さえながら向き直った。
休憩所の近くで亡くなった人はいない。小春さんはその主張を固辞したりはせず、落ち着いた表情で問い返してきた。
「私が知らないずっと以前にここで亡くなられた方がいらっしゃった、ということですか」
「そうじゃありません。最近の話です」
「ですが」
「ここで死んだ人はいない。でも、ご存知ないですか?」
先々週、とある踏切で人身事故が起きた。事故が原因で電車の運行に乱れが生じ、通学途中の俺もまた遅刻を余儀なくされた。その事故が起きたという踏切が、
「あの山ノ前駅の踏切です」
休憩所の先端から見える小さな駅と踏切を指差した。小春さんは踏切に向けて目を細めた。
「……あそこで事故が起こったことは私も知っています。つまり被害者の方はあの方たちの知人だった、と?」
「小春さんが見かけたイギリス人ですよ。事故に遭ったのは」
被害者の身元までは知らなかったらしい。小春さんが驚きに目を見開いた。
俺がスマホで検索したのは地方紙の過去記事だ。先々週のニュースに事故の経緯と被害者の氏名が掲載されていた。国籍も。
「しかし、花を捧げるのなら休憩所ではなく事故現場ではないですか」
「ええ。そのつもりだったんじゃないでしょうか。想像するしかありませんが……」
老人二人と事故に遭ったイギリス人はここで集まって世間話に興じる仲だった。古い付き合いなのか、最近知り合ったのかはわからない。いずれにせよ共に余生を過ごす友人同士だったのだろう。だが、二週間前のある日、その友人がこの丘から見える踏切で事故に遭った。残された老人たちは悲しみに暮れた。
友人の死後も老人たちは休憩所に集う。やはりそれが習慣であり生活だからだ。くだんの二人もいつものように山を登っていた。あるいは酒を酌み交わしながら故人との思い出を語ろうとしたのかも知れない。そして、道すがら、通り過ぎる家の石段に、桜に似た小さな花が咲いていることに気が付いた。
「それが小春さんのサクラソウだったんです」
手の中のスマホを握り直す。気のせいだろうか。いつもより筐体を重く感じた。
イギリスにはプリムローズ・デイと呼ばれる日がある。元々は、イギリスの首相だったディズレーリが没した際、彼を寵愛していたヴィクトリア女王が、ディズレーリの好きだったサクラソウを手向けたことが由来となっている。以降イギリスでは、ディズレーリの命日である四月十九日にサクラソウを飾ったり着用したりする習慣が広まったそうだ。一週間前の土曜日はちょうど四月十九日にあたる。老人二人も、故人から聞かされたディズレーリのエピソードを思い出し、その風習に倣ったのではないだろうか。
俺も別に知っていたわけではない。だが『薔薇を抱く女』が検索するきっかけをくれた。花言葉は品種で異なる。意味するところは風習で異なる。ならば、死者にサクラソウを手向ける習わしがあったとしてもおかしくはない。推測は間違っていなかった。
小春さんからサクラソウを譲って貰った二人は一時間ほど休憩所で友人を偲んだ。そして、この場所に立ち、持参した酒と花を手向けたのだ。眼下に見える駅の踏切に向けて。
はじめは俺もどこの駅で事故が起きたかまでは覚えていなかった。でも、少し考えれば簡単に分かることだった。
俺が事故で足止めを食らっていたのは西日駅。そこから山ノ前、木里、神池、凪、霧代と続き、さらに延々と次の駅が並んでいく。だが、山ノ前駅を越えたあたりから線路はすぐに高架を昇る。踏切事故は起こり得ない。よって駅近くで事故が起きるとすれば山ノ前駅の踏切以外に該当する場所はないのだ。電車を待つ人の姿もない、あの小さな駅しか。
小春さんは胸の前で手を重ね、山ノ前駅をじっと見つめていた。柔らかなその表情にはある種の安堵が見て取れた。
「腑に落ちました。そういうことだったんですね」
「俺の推測でしかありませんがね」
「いえ、花を片付けなくて良かったです。そんな大切な意味が込められたものを私が取って帰るわけにはいきませんから」
置かれた花にも理由があるはずと口にしながら、どこかで無為に捨てられた可能性を排除できなかったのではないか。小骨が取れたのなら、それで良いのだ。
「帰りましょう」
踵を返し木柵から離れた。小春さんも後に続く。が、少し歩いて振り返ると彼女は花の置かれていた場所を肩越しに見ていた。
「小春さん?」
彼女は何も答えない。心がどこかに離れたように。やがて背を向けたままこう言った。
「それまで当たり前のように傍にいた人がある日突然いなくなってしまう。その悲しみはとても言葉で言い表せるものではありません。でも、たとえどんなに離れていても繋がりを持ち続けていられるということは……その想いは、人には哀れに映るかも知れませんが、それでも、尊いものなのでしょうね」
そして、振り返り、
「少し、羨ましいです」
そう笑うのだった。とても、儚げに。
風が強く吹いた。小春さんの黒髪がさらさらと踊り、俺は何も考えられなかった。ただ、そのとき確かに見えたのだ。彼女の背に立つ桜の木が満開に咲き誇る光景を。ひらひらと漂う白い光の中で溶け込んでいく少女の笑顔を。
この瞬間を永遠に留めて置くことができたならば。鈍くそう想い、自らの右手に目をやった。何も持たない、ガキの手だった。
丘の上では緑色の葉が風に揺られて佇んでいるだけだった。
陽が高く昇っていた。
小春さんに別れを告げ、そのまま帰路についた。がらがらの電車の中、疲労感に揺られながら、改めて事故の記事を眺めてみた。「山ノ前で踏切事故 外国籍の男性が死亡」 内容はこうだ。
『4月11日(金)山ノ前駅西側の踏切でイギリス国籍のベンジャミン・エイプルトンさん(71)が月浜行きの特急列車に跳ねられ全身を強く打ち死亡した。霧代南署によると、エイプルトンさんは踏切内で転倒。直後に遮断機が下り踏切内に閉じ込められた。近くを通りかかった女性が非常ボタンを押したが間に合わなかった。エイプルトンさんは山ノ前に在住しており、近所に住む友人たちと花見へ行く途中だった』
それは朝に見てすぐに忘れるような、とても簡素で短い記事だった。
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