第36話 第五章 1-2
シンルは慣れない人混みの中、必死にザーレにくっついて歩く。
「ああ。えーっとな、ノイベン城は
ザーレは手で小さな輪っかを作った。
「真ん中の円に王様が住んでる。その外の円は貴族の屋敷だ。んで、その外の円はオレらみたいな庶民に日中だけ解放してる。馬小屋で働いてる奴や納税に来る奴らが居るからな」
「なるほどね。その庶民用の一番外の扉が三の郭の城門?」
「そゆこと。今日はもう開かねえんだ。残念だが城に行くのは明日だ。紫は持ってるよな?」
シンルは下服の中の手ぬぐいを服の上から確かめて、ザーレに頷きを返した。
宿を求めて、宿屋街へ入ると、沢山の美しい女性たちが目を輝かせてザーレに声をかけてくる。
それに対して、ザーレは何の反応も返さなかった。
「その態度、俺、どうかと思うよ?」
「許せ。長い間この性格だとな、もう治らねえ。それに都会はこうやって声をかけてくる奴らをかわさないと変な壺とかを買う羽目になるんだ。覚えとけよ」
一つ頷いた後で、ふと、懐かしい花の香りがした気がしてシンルは足を止めた。
遠くから水の流れる音もする。
懐かしさに惹かれてシンルは一軒の宿屋の前へと歩いて行った。
「あ? どうしたシンル。ここに泊まりたいのか?」
「……うん。出来るなら。……良いの?」
「もちろん!シンルがオレに我儘を言うなんてなぁ。いいぜ、ここにしよう」
「ありが」
「めっちゃ、ボロいけどな」
中へ入ると、ザーレが言う様にその宿は建て付けがかなり悪かった。少しでも動くと床が鳴く。
ただ、そう言った
悲しいことにそれらが絶妙な張りぼて臭さを醸し出し、何だか安っぽかったけれど。
ザーレが店主と話をつけている間、シンルは裏庭を見せて貰った。
背の高い木の板に囲われた庭は両隣からは隔たっていたけれど、奥行きは分からない。向こう端が木々の奥に消えて、見えなかったからだ。
こんなに広い庭があるなんて表からは想像もつかなかった。
シンルは導かれる様に夕暮れの林に踏み入った。
懐かしい香りがする。
心の中でポヴェリアの森をなぞった。
もうすぐだ。
もうすぐ、あの草の畑へ出る。緑をかき分ける音が途切れて……ほら!
ぽっかりと木の葉の天井が抜けて灰色の花々が咲き乱れていた。思った通りだ。ここにもあの草の畑があった。
久しぶりに胸が高鳴る。
駆け寄って花に触れ、花弁に顔を埋めた。
いい香りだ。
けれど一体、誰だろう。この草は自然には群生しない。誰かが移植した筈だ。
視線を巡らせると、右の方で木々に紛れて立つ人が居る。全く気配がなかったので驚いた。
木の陰がかかって顔が見えないけれど、向こうはシンルに気づいている様だ。
声をかけようと腰を上げた後、シンルは一歩も踏み出せなかった。
同じ瞬間に木陰から一歩を踏み出した相手の顔を、見てしまったから。
そこに立っていたのは天使だった。まだ若い、男性の天使。羽は生えていないけれど、こんなに顔の美しい人間はきっと居ない。
黒い服を着たその人は髪と目も真っ黒で肌は真っ白だった。
でも、そんな単純な色ではとても、匂い立つ全てを言い表せない。
声の出ないシンルと、青年の間に風が吹いた。青年の絹糸の黒髪が揺れる。顔にかかる髪の間に、ちらりと赤い唇が覗いては隠れる。
白に冴え冴えと映える赤。その上を滑る黒。
吸い込まれる様に全てを奪われた。
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