第8話 第一章 3-1


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日の出前のことだ。

まだ暗い内からルツは一月の間に染めた商品を麻の袋に入れて背負い、森を抜け、山を下り、海へと運んだ後、小船へと積んでいた。


この作業はいつもルツが担当している。普段通りならばしばらくするとシンルが起きてきて、その後、船を出しにダグマルとディータの兄弟が手伝いに来てくれるはずだった。

けれどその日現れたのは、ダグマル一人だ。


「あれ、ディータはどうしたの?」


「今日は来ない。シンルは?」


「まだ寝てる」


話をそらすダグマルを見て、ルツはピンときた。伊達に長い付き合いではない。


「喧嘩でもした?」


わずかな逡巡しゅんじゅんを見せた後、ダグマルは顔を上げて話し始める。


「……この前、シンル。怪我して帰って来ただろ?」


ルツの誕生日だったあの日。

売り上げを持って帰ってきたシンルは、その日の朝見送ったときとどこも変わらなかった。けれどその数日後、怪我の具合を尋ねてきたダグマルによって、ルツはシンルが怪我をしていたことを知ったのだ。


シンルはルツに見つかる前にディータが巻いたはずの布切れを取っていた。心配をかけたくないと考えたに違いない。


「俺、ディータに言ったんだ。シンルに付いてくって言ったのはお前だ。だったら今日はちゃんと守って来いって」


「それで?」


「わかってるよって怒鳴られた。それで……言い合いになって。大人気なくカッとなって『わかってたならシンルは怪我なんてしないだろうが!今日は俺が行く』って怒鳴った」


そう言う姿がもう既に反省していたので、ルツの言うことは一つだった。


「二人には感謝してるわ。帰ってきたら謝ればいいのよ」


きっとわかってくれる。二人ともシンルを思う気持ちは同じくらい強いはずだ。それに何より、兄弟なのだから。


その後やってきたシンルにはディータは家の用事で来ないと告げて、ルツは二人を送り出した。


すぅっと、朝の海風を吸い込む。


「さてっ」


言葉と一緒に吐き出して、気合いを入れた。家を飛び出したらしいディータを探さなければ。


ルツは海岸を離れた。心当たりと言うか、確信に近い。山道に入り、朝来た道を引き返す。迷わずその場所に向かって半刻ほど登ると、ディータは思った通りの場所にいた。


「やっぱり」


シンルのことを想うとき、この場所ほど相応しいところはない。辺りには甘く爽やかな匂いが立ち込め、その中心に灰色の花々が揺れていた。

ただディータは、美しいそちらには背を向ける様に木の幹にもたれている。


「もう少し近づいても平気よ。枯れたりしないから」


ダグマルがここへ来るときのことを思い出して枯れ草の椅子を勧めたが、ディータは場所を動かずに聞いてきた。


「あいつ、何か言ってた?」


「心配してたわ。『ディータは今日、下痢げりで休みよ』って言っといたから」


「はぁっ?」


自分は椅子に座りたい。ディータのことは放って枯れ草の中に収まりながらルツは自分の背後に座るディータに向かって言葉を放った。


「嘘よ。でも心配してたのは本当」


「…ルツっていい性格してるよな。あいつは何か美化してるみたいだけど」


「ついに近衛隊長このえたいちょうをクビになったの?」


しばらく待っても返事が返ってこないので、ルツは振り返った。

木の幹の陰になってちらりとしか見えないが、ディータはふて腐れて長い前髪をいじっていた。そんな様子を見ていると、さくっと短く爽やかに、切ってやりたくなる。


「私にはその態度でもいいけどね、シンにはダメよ。好きな子いじめも大概にしないと嫌われてさよならになるかもね」


「はぁっ?!」


ディータはすっとん狂な声を上げて勢い良くこちらを向く。


「何よ。私たちが気づいていないとでも思ったの? 人生はいつ何があるかわからないんだから。それは私たちポヴェリアの島民が一番よく知ってるでしょ? あんたもぐすぐずしてると」


「だっ!誰があんな不細工ぶす! あああ、あいつは! ……弟みたいなもんだっ」


「ああ、そう」


ルツは小さくため息を吐いた後、あきらめてようやくここへ来た本題に入った。


「……あんたは悪くないのよ。悪いのは石を投げる奴ら」


そして、自分だった。


「血が混ざると灰色になっていくんですって」


「は? 急に何?」


混血児こんけつじの私が行くと買い手が嫌がるのよ。わざと安値を付けられる。気にしないのはモーリーの所くらい」


色は混ざれば混ざるほど、灰色ににごって行く。血も同じなのだそうだ。


「何だそれ。聞いたことねえよ」


「馬鹿らしいでしょう?赤に赤を足しても赤にしかならないわよ。でも本気で信じている人は多いわ。お年寄りなんて特にね。ノーグ人は外国人との結婚を嫌うから」


ルツは今まで浴びせられて来た言葉を思い出した。


「町に出るたび言われたわ。『本当に血が灰色なのか?見せて見ろよ外人』。それで顔めがけて石が飛んで来るの。私は外国人じゃないっての!母の故郷には行ったことも無いし、当然向こうの言葉なんて喋れない。心はノーグ人なのに町の人はそうは思わない」


ディータはそれを黙って聞いていた。


「最初はね、人には優しくするのが当然って思ってた。誰かにぶつかっても痛くないように、心に綿を持って生きるんだって。島ではそれが当たり前でしょう?でも島の外では皆が私に小刀を向けるわ。綿のままでいたらずたずたにされちゃう。あの人達に何を言っても無駄なの」


ある日、自分が町へ行くと言い出したシンルを、ルツは止めることができなかった。

シンルが怪我をしたと知ってもなお、あのときシンルが言ってくれた様に自分が町へ行くとは言わなかった。


だから、ディータは悪く無い。

自分はこの国の染物師で、そのことを誇りに思っている。父と母の間に産まれたことも。

けれどどうしても怖かった。町へ出るのが怖くて怖くて仕方ない。

感染るかもしれない死の病よりも、生きた人の悪意の方がずっと恐ろしい。


「ルツはぬるいよ。よろいは着ても剣は持たないだろ?俺はそれじゃ気が済まない。シンルも人が良すぎてときどき頭にくるよ。あいつ自分に石投げてきた奴らをかばうんだぜ?」


「自分がされた酷いことはすぐ忘れちゃうのよ。人のときは物凄く怒る癖にね」


「……知ってるよ」


ルツはなんとなく、顔を空に向けた。さっきまで海の中で眠っていただろう太陽が、多分少しだけ顔を出した。この国の民にとっての清々しい一日が始まろうとしている。


けれど、ルツの気持ちは清々しさとはほど遠かった。ずっとずっと、妙な寂しさが抜けない。自分はみんなと同じじゃない。シンルとだって全然、同じじゃない。あの子は優しく、そして強い子だ。

自分はディータが言う様な、良い人間では無いのだ。弱虫と言って欲しかった。


「剣を持たないんじゃないわ。持てないの。喧嘩が下手な自分が嫌い。口が上手く動かないの。言いたいことが言えなくて……」


「そう言うときは黙って睨めば良い」


「そっか。今度からそうする」


でも、今度とはいつだろう。

きっと当分来ないことを、ルツはわかっていた。


再びの沈黙が訪れて、鳥の声が大きく聞こえる。今度はディータがそれにかぶる様にぽつぽつと話し始めた。


「俺もさ、あいつがからまれてるところが見えたんだ。でも……」


「でも何?」


「あいつ、足が早すぎて」


「ぶっ」


「笑うなよ!信じられねえよ。荷車引いてあの早さだぞ。追いつけねえって」


「あっは、ははは」


予想外の発言にしばらく笑いが止まらない。

ルツが笑いを収めたとき、決まり悪そうにディータは言った。


「シンルが怪我したの知って自分が情けなくなった。それで兄いに当たったんだ」


「ディータはいい子ね。ダグマルも、シンルも」


-私だって良い子で居たい


おかしいのは多分、この国なのだ。

母親が外国人だからだろうか。ルツは少し冷静にノーグを見つめることができた。愛国心は余り無い。皆が持たせてくれなかった。この気持ちは怒りか、それとも悲しみか。


「……悪趣味よね。自分より下の色なら身につけて良いなんて。位が上の人は自分の服の中にある色を着た人間全員を見下せるのよ。ただ服を着て歩いてるだけでね」


「その発想はひねくれすぎだ。だいたい皆、自分が着られる一番上等の色しか着ないだろ」


「そうかな?」


話題が飛び飛びになっている自覚はあった。けれど、言いたいことはそれだけじゃない。大事な家族が、シンルが怪我をさせられたのだ。


「子供達まで残酷だわ。あの子を虐めるのは、私達とおんなじ灰色の子供なんでしょう?私達が染めたかもしれない服を着て…。人って自分が誰かより上だと思わないと生きられないのかしら。『黒死病』とか、『外人』とか、あんな子供でも見下す理由を見つけるのが上手だわ」


ルツ達家族がほとんど灰色一色の染め物で生計せいけいを立てているのだ。この辺りには色階の最下層である、灰色の人間が多い。

人はそれでもその中で、更に下を見つけたいものなんだろうか。


「ったく、世の中嫌になるわ!シンやあんた達が居てくれて、本当によかった」


今まで抱えて来た色んなものがぽろぽろと溢れて口から出た。そんな感覚。


「結論はそこかよ?変なの」


そう笑われると、ルツは何だか恥ずかしい気持ちになる。ディータを励まそうと言う当初の目的を忘れて自分の話ばかりしてしまった。


「笑うなバカ」


ちょっと一発、頭をはたいてやろうかとディータの方を振り向いたときだった。花畑を駆け抜けた風が、背後からルツの髪をさらった。波打つ豊かな黒髪が視界を奪い、褐色かっしょくの頬を叩く。


それは優しいけれど、どこか妙な風だった。つめたく冷えた沢山の人の手が、肌の上を撫でて滑るような、ぞわりとする感覚。


ようやく風が落ち着いて、手櫛で髪を直しながら、ルツはふと、ある異変に気が付いた。

花の香りがしないのだ。先ほどまで空気に溶けてあんなに香っていたのに。


驚いてこちらを見つめるディータは、多分、自分と同じことに気づいていた。視線が交差した一瞬でルツにはそう理解できた。けれど、ディータの視線はそのままルツの顔の上を通り過ぎて行った。


「何?」


―何が見えると言うのだろう。私の背後に




ディータの視線を追って、ルツは振り返った。

先ほどまで何もなかった花畑の真ん中に、人が立っていた。

頭から足先までを覆う、真っ黒な被り物を着た男が。



一目で妙だと気がついた。黒は葬式の色。普段は決して身につけない。その男は灰色の布に誤って落とした、一滴の染料の様だった。じわじわと染みが広がって行く。シンルが育てたあの花が枯れてゆく。八年をかけて育てた花々が。


「やめろ!」


ルツの右脇をすり抜けて、ディータは花畑に飛び込んだ。


「ディータ!」


ディータの腰に飛びついてルツは必死にディータを止める。


「その草に触るな!ルツ、離せよ」


二人の周囲の草が、わっと枯れた。

おかしい。

ならば、あの男は一体何処どこから来たのだろう。


「ディータ、逃げましょう」


気味が悪い。歯の根がガチガチと音を鳴らす。


しかし、男を睨みつけ、ディータは前に進もうとした。

ルツはディータの手を取って無理矢理に引っ張った。

力ずくでやるしかない。

ずるずると引きずられても、ディータは逃げるために足を動かしてはくれない。


「ディータ!お願い。私怖いのよ」


ディータはそこで初めて、ルツの存在を思い出したような様子だった。


「ちくしょうっ!」


未練を吐き出した後、ディータはルツの手を引っ張って花畑に背を向けて走り出した。


ルツの前を走る小さな背中は花畑に留まりたいと叫んでいる。けれど、振り返らなかった。

反対に振り向いたのはルツの方だ。黒い男はあのままか?


激しく揺れる視界の中に、花畑に留まる男を捉えた。


―良かった


けれど顔を戻そうとした瞬間に、視界のすみで男が動いた。


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