第7話 第一章 2-1






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「悪いねえ、シンル。いつものお願い」


枇杷びわの葉を酒に漬けて半年ほど置いておくと皮膚の腫れに効く薬になる。

漬け始めは透明な酒が少し経つとわずかに赤味がかってきて、さらに日が経つと濃い赤に変わって行く。茶色になったら完成だ。

染め物に枇杷びわを使う場合も似ている。染め物と薬学はとても関係が深いのだ。


「夕食どきに悪かったねえ」


「全然。それにもう、食べ終わってるから。父さんは酔っ払って寝てるよ」


「あれま、珍しい」


「今日はルツの誕生日だからハメを外したんじゃないかな」


「まあ、おめでとう!じゃあ、尚更、長居する訳に行かないね。ほら、あんたもお礼言いな」


彼女は虫刺されに弱い息子の為、ときどき薬を貰いに来るご近所さんだ。以前分けた薬が切れたところに子供が運悪く虫に刺されてしまったらしい。肌が熱を持って腫れてしまっていた。


「しんる、ありがと。もう足痛くないよ」


「ふっふ。良かった」


「あんたの変な笑い方を聞くと楽しい気分になるよ」


母親の言葉を聞いて、すかさず子供が真似をする。


「ふっふー」


子供というのはどうしてこうも可愛いのだろうとシンルは思う。


「こら。元気になるとすぐこれだ。ちゃんと母さんの言うこと聞けよ」


お大事に、と親子を見送ってシンルはドアを閉めた。家の中にいたときは気づかなかったが一度外へ出て戻ると中々に酒臭い。気持ち良さげにいびきをかきながら食卓に突っ伏す父親に呆れていると、父のために肩掛けを取りに行っていたルツが奥から戻ってきた。


「ルツ。ちょっと散歩しよ」


あかりを一つげ、二人で家を出る。夏の終わりの気持ちの良い夜だった。

闇を濃くしているのは夜空では無く森の方で、まるで木々の輪郭を筆でなぞって、内側を黒く塗り潰したように見える。

その上を覆う空は、優しく深い藍色だった。


いつも染め上げた布をさらす川をシンルが先に渡り始めた。自分とは違いルツはすその長い腰巻を身につけていたので、シンルは川に浮かぶ石を一つ飛び越えるたび振り返ってルツの足下を照らした。


森へ入り、闇の向こうに続く小道を少し歩くと、風に乗って花の香りが届く。奥へと進むたびにその香りは濃くなって、木々を抜けてたどり着いたのはシンルがつくったあの草の畑だった。ここだけぽっかりと天井が抜けていて、紺色の空から降りて来た光が、風にそよぐ一面の灰色の花々を照らしていた。


胸いっぱいに花の香りを満たすように深呼吸した後、ルツが言った。


「またこの季節が来たのね」


花畑の端に枯れ草の椅子があった。収まりの良い様に土を掘り、形を整えたところへ、これまた収まりの良いように草を盛っただけの粗末そまつなものだ。けれど、そのくぼみにおさまってルツと二人で見る景色は世界一だと、シンルは思っている。


「はい。俺からの贈り物。十七歳と、成人おめでとう」


シンルが布包みを背中から取り出して差し出すと、ルツは嬉しそうに受け取って聞いてきた。


「成人?」


ポヴェリアの成人は男女共に十八歳だ。「一年早いけど?」と、ルツは言っている。


「父さんが教えてくれたんだ。ルツのお母さんの国では十七の成人の歳に最高の襟巻えりまきを贈るって」


母親が娘の為に、一から織るのだそうだ。糸を紡ぎ、似合う色や柄を考え、貝や水晶の欠けらを縫い止め、その布の隅に贈りたい言葉の刺繍を添える。シンルは織物や裁縫さいほうにはうといので、「出来上がりは違うものになった」と一応、言い訳しておいた。


「父さんはこういうとこまで気が回らないみたいだったから。俺だけ渡すのも、父さん気にしそうでしょ」


だから夕食の席では渡さなかった。


「開けても良い?」


シンルが「どうぞ」と言った後、ルツは包みを開けて、そして何故だか微妙な顔で固まった。


「え……気に入らなかった?やっぱり、物が違うか」


家にはルツの母親の形見の襟巻きがあるが、それとは全く出来が違う。これはモーリーの店で絹を買い、自分で染めただけのものだ。お金は仕事分とは別に、隠れて染めた生地を売ってこつこつ貯めた。


普段穏やかなルツなのだが、今はのどがひゅーひゅー言って、おかしな空気が漏れている。肩が変な具合に上下していた。


「シン、これって。……この色」


「色がどうしたの? 俺の知ってる一番綺麗な色だよ。ルツに似合うと思って」


一見すると深い黒色だが、太陽と月の光を浴びると、その加減で紫に変わる。一瞬だが金にも銀にも見えるときがある、神秘的な色だ。


「これって『レブロの紫』だわ!」


「レブロ?何それ」


「ああ、一体どうやって」


興奮して叫ぶルツを、シンルは驚いて見つめた。


「ノーグのレブロ王家にだけ許された禁色よ。太陽や月の光を浴びると黒から紫に変わるの。蝋燭ろうそく油燈あかりの光では色が変わらない!」


燈を引っ掴んで森へと走ったルツは、少し離れた闇の中で何かを確かめたようだった。


「ほら!」


叫んだ後、また枯れ草の椅子に戻って来る。


「凄い!凄いわ!染めるのはとてもとても難しくて、王様に認められた職人だけがその作り方を知ってるのよ!」


「……へえ」


「この世界で一番、高貴な色よ!きっと、絶対、この色よ。ああ、初めて見た」


初めて見たならこれは多分、「レブロの紫」とやらでは無いとシンルは思うのだが、楽しそうなルツに水をさすのは嫌だった。


「じゃあルツはお姫様だ」


シンルはルツの手から優しく襟巻えりまきを奪い、小作りの頭に巻いてあげた。


「ふっふ。よく似合ってる」


そう言えばダグマルは去年、島の成人を迎えてしまった。


「五年後にはディータにもつくろうかな。要らないって言われるのが目に見えてるけど」


がらに気をつけたら、あるいは受け取ってくれるだろうか。


「いや、無理だな」


「そんなことないわ。きっととっても喜ぶわよ。でも、この色はだめ。私の特別だもの!」


茶目っ気たっぷりにそう言うルツに、やはりその色は似合っていた。月の光を浴びて、紫に、金に、銀に、輝いている。


自然と空へと目が行った。思ったより月は細い。まるで、微笑む誰かの口元を見ているようだ。


「月、綺麗だね」


「そうね。……あの星何かしら」


笑う月の左下に、ほくろの様な星がある。


「さあ? けど綺麗」


「ね。よくわから無いけど綺麗」


二人は小さく笑いあった。

シンルはたまに思う。何故、自分には学んでもいないはずの薬草の知識があるのか。それに、どの草を使うと布が何色に染まるのか知っている。

自分は一体誰なんだろう。自分で自分がよくわからない。

僅かに暗い気持ちが胸に湧いたそのとき、月を見つめたままルツが言った。


「ずっと一緒にいよう」


それは、シンルが襟巻えりまきの隅に、慣れない刺繍で縫い止めた言葉だ。はっとしてシンルが横を見ると、自慢の姉がゆっくりとこちらを向いた。ルツの褐色かっしょくの肌は彼女の白い歯を引き立たせ、笑顔をより魅力的にしている。

こんな自分だけれど、父親や姉に深く愛されている。それだけはよく知っていた。こうやっていつも、その愛情を感じている。ならば、よくわからなくてもそれで良いではないか。


「うん」


十分に幸せだった。

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