第5話 第一章 1-4


季節は夏の終わりだが、深く掘った井戸の水は冷たいものだ。

水桶の中味が全て落ちると、新しい血が滲む冷えた手の平をシンルは無意識に握り込んだ。


「力いれるなよ」


それを見たディータがまたシンルの手首を乱暴に掴み上げる。

心臓より高い位置まで引き上げると、「そのまま待ってろ」と身振りだけで告げて、自分の着ていた上着のすそを細く破いた。


「ちょっと、いいよ。そんなにしなくても」


「うるさいな」


舌打ちと共にぶすっと呟くと、手早く強く布を巻いてシンルに背を向ける。


「急ぐんだろ? 」


いつの頃からか礼を言うとディータは不機嫌な顔をするようになった。

今日もいつもの顔をされ、シンルは不安になる。

ダグマルが居れば普通に話せるのにと、今ここに居ない兄貴分を思った。

何かを話さなければ場がもたない。


「あの子達、多分、たまに来るよそ者に構って欲しいだけでさ、今まで一度も商品を汚されたり売り上げを奪われたりしたことは無くて」


ディータは不機嫌に砂を踏んだ。

ザリッと言う音に阻まれて、シンルは言いかけた言葉を最後まで言わせてもらえなかった。






目的の場所に着くと、店の女主人、モーリーが店先の植木に水をあげていた。シンルに気がつくと彼女の顔にぱっと笑顔が広がる。

「待ってたよ、シンル!この前の細かい縞模様しまもようの生地、凄く評判良くってねぇ。さあ、中に入って入って」


モーリーはシンルとディータの二人を温かく迎えてくれたが、ディータはその誘いを断って外で待つと言い張った。仕方なく彼を置いて、シンルだけ店へ入る。


お茶を淹れてもらっている間に、今日見てもらう生地を敷き布の上に並べていく。それぞれが準備を終え、おしゃべりが始まろうと言うときだった。店の裏からモーリーの夫が姿を現した。


「おう、坊主、来てたのか」


でっぷりとしたお腹を陽気に揺らして話に加わってくる。


「近頃は色階の基準色でさえまともに染められない半端者が多くて困るくらいでな、お前は本当に腕がいいよ」


長いひげで口元はほとんど見えないが、妻に似た優しい瞳を見ると、笑顔なのがわかる。体型は似ても似つかないが、雰囲気はそっくりな夫婦だ。


「本当にねえ、この人の言う通りなんだよ。色だけ高貴でも布がムラだらけじゃあね。まあ、うちは前からそんなものしか置いてないけど、最近は特に酷いったらないよ」


ここへ来る客は、値引き品や安く手入るものを目当てにする者が多い。

上位色を身につけられる身分はあっても金のない者。

お役人の目が届かない田舎町なのを良いことに、こっそり自分の身分より上の色を身につけて楽しむ者。

目的は様々だが、色も悪く、布の素材も安いものは需要が無く売れ残っているらしかった。


「それがどうだい!あんたのとこのは」


モーリーはシンルが広げた生地を一つ手にとって、興奮した口調で言う。


「私はね、灰色がこんなに美しいなんて今まで知らなかったよ。同じ種類の色でも濃淡をつければこんなに味のある美しい布に仕上がるんだって、どうして誰も気づかなかったんだろう」


彼女が見ていたのは、父の作でも姉の作でも無く、シンルが染めたものだった。

シンルがこのおかみさんを好きな理由の一つに、言葉の選び方がある。「砂色」、「灰色」、「ねずみ色」。

どれも同じような色を指すけれど、彼女はいつも「灰色」を選んでくれる。

「砂」だとか「ねずみ」だとか言われるよりずっと嬉しかった。灰は前染まえぞめの媒介として、染め物の役に立つから。


「そしてそれだけじゃあないよ、このがらもの!ああ、これは何の花の模様だい?見たことがないけど」


シンルが色々なことを考えている間も彼女の話は止まらない。


「何の花でもないんだ。適当だよ。頭に浮かぶままに描いたから」


渦巻くつたと小さな葉、根元が濃い灰色で、先に向けて薄くなる花びら。同じ模様が向きを変えながら組み合わされる。


「いい案が湧いたわ。この生地で腰巻こしまきをつくるのよ。すそに花の縁取りを持ってきて……。ああ、素敵ね」


「それ、いいね。自分では良い裏地になるだろうと思ってつくったんだけど」


「裏地?どうしてだい。こんなに綺麗な柄、外に出さなきゃもったいない」


そでを少し広めに作るんだ。すると外からでも、ふとしたときに内側の模様が見える。何だかいきでしょ?」


「あらあ!それも凄く素敵」


そうすれば自分達の様な者でも、身分にそぐわないなどととがめられずにちょっとしたおしゃれを楽しむことができる。シンルはそう考えていた。


「今はまだ大きながらしか描けないけど、そのうち小さな小さな柄も描けるようになりたいんだ。遠くから見ればただの灰色でも、側に寄って見ると…」


「本当は細かい柄が集まってできてるんだね!」


「うん!」


しばらくして笑顔を落ち着かせた後、少し改まった顔でモーリーは言った。


「ねえ。やっぱり王都へ出て見るのはどうだろう。こんな田舎町じゃあね、取り立てて貰うのは難しいよ。あんた達ほどの実力だったら直ぐにお偉方の目にもとまるさ。ちゃちゃっと上位の色をたまわって、腕をふるいなよ」


布を染める際の染料となるのは草花や樹皮、貝殻などで、場所や気候等の関係でその土地でしか手に入らないものも多い。

乾燥させ、運搬できる染料は商品として流通しているが、草木などで刈り取って直ぐに煮ださなくては色が出ないものはその土地で染めるしかない。

そのために染物師達は各地におり、染め物の産地も国中に散らばっている。


しかし、鶏が先か卵が先か。


財ある者は王都で生地を仕入れるものと決まっていたし、質の良い生地もまた、王都へと集まると決まっていた。名を上げたければ己の自信作をたずさえて田舎を出、王都に行くのが一番だ。モーリーの勧めは嬉しい。

けれど。


「いいんだ。父さんの身体のこともあるし、今のままで十分に幸せだよ」


それがシンルのいつわりの無い本心だった。

実を言うと、モーリーだけではなく、近所の人にも都で腕を試してみろと言われたことがある。

けれど、シンルには「うん」と言わない理由があった。姉、ルツのことだ。


姉はノーグ人の父親と外国人との間に産まれた混血児で、この国の一般的な国民よりも肌の色が濃い。島にはそんな些細ささいなことにこだわる者はいないが、この町にはいる。

こんな田舎でそうなのだから、それが都の様な人の多い所へ出たらどうなるか。あちらは田舎町など比較にならないほど沢山の色と人で溢れていると聞く。ほんの些細な色の違いで互いを値踏みし合う、ぎすぎすとした魔界だと、ダグマルとディータの祖母が言っていた。他人を見たら泥棒と疑えとも。

そんなところへ足の悪い父と、大切な姉を連れてなど行けない。

そして何より、島が好きだ。どこにいても水の音が聞こえるポヴェリア島が。


「それに都になんて出たらモーリーにも滅多に会えなくなる」


「ありゃ、そりゃ確かに困る」


モーリーは視線を落とし残念そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。話は直ぐに、今、彼女の視線が捉えたものの話題へと移る。


「あんた、その手!あかぎれ、前より酷くなったんじゃないかい?」


指摘されて自分の手を見た。確かにあちこち裂けて、血が赤く細く固まっている。


「ああ、大丈夫。毎日染め物に使う手だし、この季節荒れるのはしょうがないから。染め物と水は切っても切り離せないし」


「あれ、なんだいこのボロっちい布切れは……あんた怪我してるじゃないの! 放っておいたらだめじゃないのさ! ちょっと待ってなよ」


シンルに口を挟む隙を一切与えなかった妻を見て、彼女の夫は苦笑いしていた。モーリーが去った後で、恐らく謝罪を込めた笑いがシンルに向けられ、シンルも微笑みで返す。


直ぐに戻って来たモーリーが手早くシンルの両手に軟膏なんこうを塗り込んで、傷の手当てをしてくれた。


「……ありがとう。その布、もと通り巻いてもらってもいい?」


「ええ? でも随分血が滲んでるようだけど。あら、よく見たらこの布切れ薄黄色だね。ディータかい?」


「うん、まあ。さっきちょっと転んじゃって」


シンルは曖昧に笑った。

町の子に虐められたことを、同じ町に住むモーリーに言うのは気がとがめたから。


それからは商売の話は全くせず、始終たわいもない会話に興じた。モーリーが途中で入ってきたお客に向かって「後にしとくれ!」と言い放つ程、楽しい時間だった。


外で待つディータを言い訳にシンルが帰る旨を告げたとき、モーリーは生地を全て買い取ると意外なほどにあっさりと告げた。しかも、驚くほどの高値でだ。おまけに干した果物と先程の軟膏までついてきて、シンルの心は踊った。


「あ、そうだ、シンル。この前のどうなったの?」


帰り際、モーリーに引き止められたシンルを見て、ディータの顔は引きつった。「まだ話すのかよ」と思っているのがシンルには手に取るようにわかる。


「今晩に決行だよ。お陰様で間に合いました」


「そうかい。ルツにもよろしく言っといておくれ」


モーリーに別れを告げ、シンルはからの荷車を引いて店を去った。







二つの幼い背中を笑顔で見送っていたモーリーだったが、シンルとディータが町角に消えると途端に表情を消した。

店の中に戻り、しばらくしてから夫に向かってぽつりと言う。


「私、無神経なことを言っちまったね……」


裏地うらじうんぬんの話だろう?大丈夫。あの子は優しくて賢い。ルツもだが。お前に悪気がないこともわかってくれるさ」


「……はぁ。きっとね。でも私はそれが悲しいよ」


モーリーの頭から、あかぎれだらけの手を何とも思わずに笑うシンルの顔が離れない。


「あんなに腕が良くて、おまけに性根のまっすぐな職人が、たった二色、灰と黒しか染められないなんて」


「……世の中、理不尽りふじんさね」

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