第3R『デビュー』-2

「本気でがんばっている人のことは誰も笑わないよ」

さらっと言い放った平田さんの言葉が鋭い矢のように胸に刺さった。僕は今、本気でがんばれているのだろうか。いままで何か本気でがんばったことがあっただろうか。

「試合に出るためにジムで練習して、朝の練習も自分で考えて行動したんだ。本気な証拠。本気だからこそ不安なんだと思うよ」

これが本気ってことなのか…?じゃあ試合の経験もある人も不安ってこと?それでも「出ていいのか」なんて不安はないだろう。

「平田さんも試合前は不安でしたか?」

質問してから気が付いた。そういえば、平田さんのこと何も知らない。トレーナーやってるぐらいだから勝手に試合経験も豊富だと思い込んでいた。

「あぁ。不安で不安で、怖くて怖くて」

「平田さんって何戦ぐらい試合したんですか?」

「アマチュアで六戦。戦績は六勝」

「おぉ。全勝ですか!すごいじゃないですかー!」

「高校生の時ね。でもその後リングに上がれなくなった」

「えっ!?リングに上がれなくなった?」

「怖くなったんだ。リングが。練習でもリングでも上がれなくなった」

「そ、そんな。今はジムでリングに上がってるじゃないですか!スパーリングとか実戦練習もやってるし」

「再びリングに上がれるようになったのは、つい最近。もうボクサーとしての適齢期は終わっていたよ」

「な、なんでですか?なんでそんな事に…」

言葉に詰まる。これ以上聞いちゃいけないような気がした。

「高校生の時に初めて出た試合がアマチュアの大会だった。そこで全勝して優勝したんだ。小さな大会だったけど、周りは期待してくれてね。次は全国大会に行けるとか、日本一目指せるとか、その先はプロボクサーだとか、すごい浮かれようだったな」

平田さんは目を細めながら微笑んだ。遠く遠くを見つめるように。

「次の大会に向けて練習している時だった。ちょっと調子が悪くて、スパーリングでやられる日が続いてね。すると周りの目の色が変わっていくのが分かった。あれだけ持ち上げておいて、下げる時は容赦がない。次の大会はダメだの、選手としてもう終わりだの、ひどい言われようだったよ」

「そ、そんな」

「すると練習中に突然リングに上がれなくなった。体が動かないんだ。他の練習はできるのに、リングに上がろうとすると体が動かなくなって…。自分が一番驚いたよ。次の日も、またその次の日も、リングには上がれなかった。もちろん試合なんて無理。徐々に練習にも行かなくなって、ボクシングからも離れた」

「そんな事があったんですか…」

いつも元気でトレーナーとしても的確な指導している平田さんにそんな過去があるなんて思いもしなかった。勝手にボクサーとして順調な道を歩んできたと思っていた。

「そこからどうやって、またボクシングをやろうと思ったんですか?」

どうしても聞きたくなった。聞かないといけないような気がした。

「ボクシングを再開したのは、その出来事があってから十年後かな。二十七歳の時だね。今からだと八年ぐらい前。杉並区のアニメ制作会社で働いていて、ボクシングアニメに関わることになったんだ」

「えっ?アニメ制作会社?」

「そう。今もアニメ制作の進行管理をしてる。自分もどっちかというと佐々木君と同類ってこと」

平田さんは声を出して笑った。平田さんもオタクだったとは。というかさらっと同類って出た。オタクな話はしてないのにやっぱり分かっちゃうのか。

「取材のために一番近くにあった、この彗星ジムに来たんだ。その後、他のジムにも取材に行ったけど、彗星ジムは他のジムとちょっと違ってて、面白いってのもあって、ちょくちょくお邪魔するようになった」

「他のジムと違ってる?」

「アマチュアだけのジムって自体が珍しいんだ。そして実は、太田会長は、昔、中学校の先生だったんだよ」

「えっ?太田会長って学校の先生だったんですか!?」

「それもあって、太田会長は、土日の午前中とか、昼の早い時間に子供たちに無償でボクシングを教えてたんだ。最近の子供たちは、体も心も弱いから鍛え直すって言ってね。強面だけど、子供たちはには人気あるんだよ。不思議と」

顔を見合わせて二人で笑った。

「子供たちの練習を見学してる時だった。突然会長が、子供たちにマスボクシングをやってあげろって言うんだ。ボクシングをやってたことは話したことあったけど、リングに上がれなくなってたことは話てなかった。リングに上がれるか不安で怖かったよ。でも純粋な子供たちを見てると、怖さが吹き飛んで、むしろ楽しみになってきて、あっさりとリングに上がれた。当時悩んでいたのは、なんだったんだと不思議でたまらなかったよ」

もちろん僕はその場にはいない。だけど、その時の光景が浮かんでくる。無邪気に心躍らせ、楽しくて仕方ない子供たち。目を輝かせただ純粋に自分の可能性を信じてボクシングをしている。子供たちが無邪気に繰り出すパンチは、夢や希望が詰まっていて、ずっしりと重いに違いない。

「試合に出る自信がないって言ってたね。笑われるかもって」

「は、はい」

「笑われたっていいじゃない」

「えっ?でも…、恥ずかしいし」

「はじめからできる人なんていないよ。個人差があって当たり前。自分なりにがんばってリングに立ったんなら、それで十分じゃないかな?リングに上がるからには、勝ちたいと思う人がほとんどだろうけど、リングに上がるって目標の人がいてもいいじゃない」

そういえば、僕は、何のために試合に出ようとしてるのか目標がはっきりしてなかった。なんとなく流れで試合に出ることにした。だから不安だったんだ。

「自分が昔、リングに上がれなくなったのも、目標がはっきりせずに、周りから勝つ事だけを求めらたから、怖くなったんだと思う。そもそも、ボクシングはじめた理由が、当時好きだった女の子がボクシングかっこいいって言ってたからだからね」

照れ笑いをしながらも、目つきは真剣だった。

「彼女が言っていたかっこいいも、勝ち負けじゃなかったんだよ。必死で練習して、時には減量して、そこまでしてリングで戦う姿がかっこいいって事だったんだ。気が付くのが遅かったなぁ」

過去の出来事を振り返り、後悔した思いを語る。もしかしたら言いたくない過去かもしれない。それを僕に伝えてくれている。

「僕、試合に出ます。あっ、出るつもりでしたけど。えっと、胸を張ってというか、努力をしてというか、出ることを目標に、真剣に、出ます!」

「よし。分かった。応援するし、力になる。もし、どうしても試合に出るのが無理そうだったら、そう言ってね。ボクシング続けていれば、次がある。無理はする必要はないから」

「は、はい!ありがとうございます!」

「そうそう。生野さんも同じ日に試合に出るよ」

えっ!あこたんが試合に!?

「試合と言っても、演技の部だけどね。女子のアマチュアには、空手の演技と同じように、演技の部があって、C級という基準をクリアしないと実戦の試合には出られないんだ」

「そ、そうなんですね。殴り合いの試合をするわけではないんですね」

「ほっとした?」

心の中を見透かされたようで、恥ずかしくなって平田さんの方を見れなかった。

「同じジム同士だし、同じ日に試合に出るということで仲間意識もできるし、仲良くなれたりするよ」

平田さんが怪しい笑顔を向けている。思わず笑みがこぼれそうなのを我慢するため、髪型を直すフリをした。

「おっと、結構話込んでしまったね」

いつの間にか歩きを止め、立ち話になっていた。駅はもう見えている。

「じゃあ、自分は歩いて帰れる距離だから、ここで。おつかれさま」

「はい。おつかれさまでした。ありがとうございました」

会釈をして駅に向かう。身も心も軽くなっていた。いまならあのヒゲのゲームキャラよりも高く飛べるかもしれない。

ちなみに、後から知ったけど、平田さんの家は荻窪駅とは逆方向らしい。わざわざ僕の心の重石を外しに来てくれたのだ。もう一人じゃない。一緒に戦ってくれる人がいる。こんなに心強いことはない。

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