第3R『デビュー』

 あこたんの彼氏、プロボクサーの宮本さんとの勝負から五ヶ月が過ぎていた。ボクシングをはじめてからは、六ヶ月が過ぎた。

宮本さんとの勝負には、奇策「ダブルパンチ」で勝つには勝ったけど、ボクシングでは相手にならなかった。せっかくプロボクサーの、しかも日本ランカーとスパーリングできたんだ。もっと戦いたかったと後悔するようになってきた。強くなりたいと欲が出てきた。あの勝負の日から週三回から四回は練習を続けている。

左右のストレートをなんとかものにし(人並みになったということだけど)、左右のフックを練習中だ。アッパーは何度か教えてもらったけど、まだよくわからない。アッパー以外ならサンドバッグもいい音が出るようになってきた。

最近は平田さんにミットを持ってもらえるようになり、平田さんとマスボクシングも何度かやらせてもらった。実践的な練習が少しずつできるようになったんだ。

ボクシングが楽しい。そして、不思議なことにバイトも以前より苦じゃなくなっていた。嫌なことがあってもサンドバッグを叩くとすっきりして、切り替えて仕事に打ち込むことができた。仕事は捗り気持ちよく充実感を感じる事もできた。そして気が付いたらあっという間に時間が過ぎていた。

でもバイトの後、ジムに来るからアニメやネットを見る時間は減った。それだけが不満。もっと時間がほしい。時間が足りないと思ったことは今までなかった。以前は暇を潰すために一生懸命だった気がする。

今日も仕事終わりにジムに来ている。約一時間半の練習を終えようとしていた。今日の練習の内容を反復しながらのシャドーボクシング。これで今日の練習は終わり。

「佐々木君、ちょっとこっち来て」

平田さんが事務所の方から手招きする。ジムの隅に小さな事務所があって、会長が事務処理をやったり、トレーナー平田さんが休憩したりしている。僕は、あんまり近寄ることもないし、入ったこともない。

「失礼します」

はじめて入るのと、なぜ呼ばれたのか分からず、ちょっと緊張しながらそっと足を踏み入れた。

古めの事務机が二つ並んでいた。一つの机には渋い顔して会長が座っている。名前は、太田正一というらしい。会長とは、入会申し込み時以来、ほとんど会話をしたことない。正直ちょっと苦手だ。

「はい。これ選手手帳」

平田さんがパスポートのような小さな手帳を差し出した。

「選手手帳?」

「この前、申請書書いてもらったでしょ」

「えっ?あ、あの保険に入るとかで書いたやつですか?」

ボクシングを続けるならスポーツ保険に入った方いいと勧められて申し込んだ。そういえばあの時、申請書が二枚あった。うっすらと選手手帳の事を言っていたような気もする。選手手帳が何のことか分からなかったから、保険と関係しているかと思った。

「これで試合に出られるね。三月のオープン戦に出ようか?」

「えっ?試合って僕がですか?僕なんかが試合に出ていいんですかね」

「アマチュアボクシング連盟に選手登録して選手手帳があれば、アマチュアの公式試合に出られるんだよ」

知らなかった。プロにはプロテストがあるのは知ってたけど、アマチュアは登録が必要だったんだ。しかもその登録が完了しているなんて。これでアマチュアだけど正式にボクサーってことかな。そう考えると喜びが湧き上がってきた。

「試合ですかぁ。出てみたい気持ちもちょっとはありますけど、だけど、僕にはまだ早いというか」

喜びと戸惑い。気持ちの整理が追い付かない。そもそも僕なんかが試合に出ていいのだろうか。選手登録は完了してるといっても、スポーツ経験も実績も何にもないし。

「やっぱり僕には試合は無理じゃないですかね」

やっぱり無理だろう。

「あー、でも、ちょっとだけ出たい気持ちもあります」

少しだけ本音も言ってみる。

「でもでも、やっぱり僕なんかには無理かなぁ」

「出るのか!出ないのか!はっきりしろ!」

「出ます」

うおっ。口を開いたのは、じっと話を聞いていた会長だった。迫力に押されて思わず出ると答えちゃった。

「最近、『努力しても夢は叶わない』とか『努力は無駄』とか言うやつが増えている。間違ってはない。しかし、言い訳にしてやろうとしないやつも増えている。それが許せない。何事もやってみないと分からんだろう。人には可能性がある。その可能性を自ら放棄してどうするんだ。試合なんて特にそうだ。リングに上がらないと分からないことが沢山ある」

言い訳。僕はいつも面倒なことを避けてきた。そこには、ずっと「僕には無理」という思いがあった。自信がないというか、経験や実績がない「僕なんかが」前にでちゃいけないと思ってた。もしかするとそれは人から見れば言い訳なのではないだろうか。

確かにやってみないと分からない。真人くんに向かっていった時も、宮本さんと戦った時にも、いままで感じたことがない気持ちが芽生えた。それはやった後に感じた感情。やらないと出てこない感情だった。

平田さんと目があった。優しく頷いてくれた。

「よし。じゃあ三月のオープン戦で申請するね」

「はい!よろしくお願いします」

事務所から出て、リングが視界に入るとドキッとした。リングの上で戦うこと想像したからだ。不安と恐怖にかられた。まだ見ぬ人と本気で殴り合うのだ。怖くないはずがない。だけど相手も同じはず。だったらこの恐怖を打ち消すしかない。少しでも多く練習して、少しでも自信をつけるしか方法はないだろう。


 翌日、いつもより一時間はやく起きた。他の人よりもスポーツ経験がない分、人より多く練習する。それしかないと思ったからだ。まずはランニングと筋トレで基礎的な体力をつけることにした。

iPodに「アイ・オブ・ザ・タイガー」を入れた。ボクシングと言えばこの曲というイメージがあった。調べてみたら映画「ロッキー」の曲みたい。「ロッキー」は見たことない。今度見て参考にしよう。これだけ有名なボクシング映画だ。試合にも役に立つかも知れない。ちなみにボクシングマンガは結構チェック済み。「はじめの一歩」はもちろん、「あしたのジョー」「リングにかけろ」「太郎」「1ポンドの福音」「KATSU!」などなど。

「はじめの一歩」の主人公「幕之内幕一歩」は元いじめられっ子だからちょっと共感できる。でも僕には、育った環境が釣り船屋で、小さい頃から船に乗っていたから足腰が強いとか、そんな設定はない。今からで間に合うのかなぁ。

iPodの電源を入れ「アイ・オブ・ザ・タイガー」を流す。すごいなこの曲。すげえテンション上がるぜ。今日から毎朝五キロランニングするぜ。慣れてきたら毎朝十キロ目指すぜ。

軽くストレッチをして走りはじめた。快調!快調!のはずだった。

ハァハァハァ。

あれ?まだ走って数分だけど…もう苦しい。

ハァハァハァ。

足が重い。お腹が痛い。

「アイ・オブ・ザ・タイガー」が終了した。次に入ってたアニソンが流れ始める。甘い声優さんの声で癒される。同時に闘争心が失われていった…。

ハァハァハァ。

もうだめだ。いきなり五キロは無謀だったな。少しずつ増やしていこう。

今日のランニングは、六分。約一キロ…。

家に戻って、次のメニューだ。腕立て伏せ二十回×三セット。腹筋二十回×三セット。背筋二十回×三セット。スクワット五十回。をやることにした。やるぞ。

音楽を「アイ・オブ・ザ・タイガー」に合わせ直し、気合も入れ直した。腕立て伏せ…五回が限界だった。腹筋は十回…。背筋は二十回できたけど、一セットが限界。スクワットは二十回でダウン。汗だくで足がプルプルでもう歩くのもやっとだ。まだ一日ははじまったばかりだと言うのにもうフラフラだった。汗を照らす太陽の日差しが強くなってきた。なんとか身支度をしてバイトに向かった。


 試合が決まってから約二ヶ月が経った。試合までは一ヶ月を切っている。

朝連はなんとか続いている。毎日はまだ無理で週三回程度だけど、ランニングは十分間、約二キロ、腕立て伏せ十回、腹筋ニ十回、背筋ニ十回、スクワット三十回をなんとかこなしている。理想とはまだ程遠い。こんな状態で試合に出れるか不安でたまらない。

ジムでの練習は、週四回は必ず来ている。練習メニューはほぼ変わらないが、平田さんがミットを必ず持ってくれ、マスボクシングもほぼ毎回やらせてくれる。ただし本格的なスパーリングはまだやったことがない。気は焦り、不安が募る。不安の解消方も分からない。とにかくできることをやるしかない。そう自分に言い聞かせる。

「おつかれさま。僕も今日はこれで上がりなんだ。駅まで一緒に帰ろうか」

ジムから帰ろうとした所で平田さんに声をかけられた。平田さんとジム以外で話したことはほとんどない。人見知り発動。緊張して何話していいか分からない。

「試合までもう少しだね。どう調子は?」

「は、はい。調子は、悪くなと思います」

「やれそう?」

平田さんの質問に一瞬戸惑った。何を持ってやれそうなのか、意味するものが分からない。

「試合には出、出ます。でも、自信はないです」

やっぱりまだ試合に「出る」自信すらない。勝つとか負けるとか以前の問題。スポーツ経験もほとんどない僕が出ていいのか。その不安の方が大きい。この思いは、僕だけが感じているものだと思ってる。だってみんな部活とかで、ほとんどの人が試合とか経験あるはず。なのに僕にはない。試合に向けて努力した経験もない。いつも何をやっても続かない。朝の練習だって、ジムでの練習だって中途半端。平田さんに正直に話そうと思った。試合に出ていいのかジャッジしてもらおう。

「毎朝走ることにしたんですけど、結局毎朝は走れなくて。距離も五キロを目標にしてたんですけど、二キロちょっとしか走れてないんです。筋トレのメニューもまだ全部こなせないし。こんな僕が試合になんて、本当に出ていいんでしょうか」

平田さんはこっちを見て微笑んだ。小さな子供に向けるような優しい微笑だった。

「毎朝でないにしろ、短い距離にしろ、走ってるんでしょ。筋トレだってやってるんでしょ。すでにゼロじゃない。イチを積み重ねている。すごい事だよ」

「全然すごくないです。リングの上で笑われたくないから」

自分でも気が付かなかった本音が出た。笑われたくないんだ。いつも僕は笑われ者。オタクで何をやってもうまくできないから。

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