第2R『正義の拳』

 バイト終わり。五月の夕暮れ。五月って春だっけ?初夏だっけ?晴れの日はもう暑いぐらいだ。いつもなら真っ直ぐ家に帰ってパソコンを立ち上げるんだけど、先週から毎日ある場所に寄っていた。荻窪にある「彗星ジム」。

まぁ、寄るというか、様子をみるというか、中に入る勇気はまだなくて、毎日中をそっと見守ってる訳で…でも、今日こそは、今日こそはきっと、いや、絶対に、中に入るのだ。ボクシングをはじめるために。


 「彗星ジム」の入り口の前で大きく深呼吸をして、期待も不安も全部飲み込んだ。

よし、中に入ろう!ボクシングをはじめるんだ。僕にとっては一大決心。

中学校に入学してすぐにバドミントン部に入るも一ヶ月続かず。遊びのバドミントンしか知らなかった僕は、バドミントンならできるかもって甘く見ていた。とんでもなくきつかった。それからは自ら進んで運動をしたことはない。そんな僕がまさかボクシングをやる気になるとは。

今度は予備知識万全。マンガ、アニメ、Webサイト。あらゆる情報を集めてここにいる。きついのは当たり前。さらに痛いという過酷なスポーツだ。

…痛いのかぁ。痛いの嫌だなぁ。きついだけならなんとかなるかも。続くかなぁ。お金もかかるんだよなぁ。う~ん。ほんとに僕がボクシングなんかできるのだろうか…。

おっと、いつもこうやって逃げちゃうんだ。逃げちゃだめだ。逃げちゃだめだ。

真人くんに初めて立ち向かったあの日、何かが変わった。といっても劇的に変化が見えるもんじゃないけど。なんというか、こんな僕でも前に出てもいいんだというか、主張していいんだというか。うーん。説明難しいけど間違いなく何かが変わった。その気持ちがあるうちに前に進みたい。それがボクシングだったわけで。だからあと一歩。一歩だけ勇気を持とう。それに…、確かめたいこともある。あこたんの事…。もし本当なら、あこたんの前に、前に出るんだ。

思い切って一歩を踏み出し、ジムの中に入った。

「こんにちはー」「こんにちはー」「こんにちはー」「こんにちはー」

十人ぐらいいた練習生の人達が次々とあいさつをしてくる。

「あっ。こん、こんにちは。」

喉が閉まってる感じだったけど、何とか声が出た。ちゃんと声が届いたか心配だったけど、みんな気にしてる様子はない。すでに練習に戻っている。あこたんの姿を探したけど見当たらない。今日は来てないのかな。

 …シーン。あれ?いつもなら平田さんが声掛けてくるはずだけど…誰も来ない。手持ちぶさただ。キョロキョロ周りを見渡しているいると、奥からゆっくりと年配の男の人が向かってきた。

「入会希望?」

「は、はい。あの平田さんに以前見学させてもらって。あのぉ。そのぉ」

「そうなんだ。名前は?」

「佐々木小太郎です」

「仕事は?」

「今はアルバイトです」

「どんな?」

「Webの、あ、えと、インターネット系です」

「IT系ってやつね」

「は、はい」

淡々と、ただ淡々と聞いてくる。この人にとって自分はただのモブキャラでしかないんだ。

「スポーツ経験は?」

「あ、特にないです」

「ない?学生時代部活とかは?」

「い、いえ、何にもしてなくて」

「ふーん。趣味は?」

「あ、インターネットとかマンガとかゲームとかです」

とっさに出たけど、この流れで言ってはいけなかったのじゃないかと、言った後に気が付いた。確実にバットエンドへのルートだ。

「なんでボクシングをやろうと思ったの?」

やばい。この質問の回答が一番難しい。答えられず沈黙してしまった。年配の男の人の表情がはじめて動いた。哀れな人をみるような笑み。

「まぁ、やる気なら止めはしないけど、きついよ。月謝も安くないし、よく考えてからにしてね。とりあえず申し込み用紙持ってくるから、ちょっと待ってて」

奥から用紙を持ってきて僕に渡した。言葉はない。そのそっけない態度からとにかくはやくここから立ち去りたい気持ちでいっぱいになった。用紙をもらって、すぐにジムを出た。バットエンドか。ゲームのようにリセットしてやり直すことはできない。学校でも社会でも、オタクっぽい見た目やアニメやゲームが好きってだけで、つまはじきにされる。

自由に羽ばたくことは許されないんだろうか。空を見上げると黒い大きな鳥が三羽ほど飛んでいた。都会では小さな鳥たちが飛んでいるのをあまり見かけない。いつもどこにいるんだろう。


 家に帰り着いてからは何にもやる気が起きなかった。目からも耳からも情報が入ってこない。やっぱり僕なんかがボクシングをやってはダメなんだ。もうどうでもいいや。ベッドに横になってもう何も考えないようにした。

こういう時、お酒飲める人はお酒を飲むんだろうけど、僕はお酒が一切飲めない。嫌なことがあったら寝る。寝て忘れる。なかったことにする。いつからだろう。ずっとそうしてきた。今日も何も考えないように深い眠りについた。深い眠りに。


 日常に戻った。バイトが終わると真っ直ぐ家に帰りパソコンを立ち上げる。ネットを見て、飽きたらマンガを読んで、アニメを観て、ご飯食べて、お風呂に入って寝る。朝になったらバイトに向かう。この繰り返し。あれ以来「彗星ジム」には行ってない。気がついたら、あっという間に二週間が過ぎようとしていた。

ふと机の上にあるボクシングの試合のチケットが目に入った。なるべく見ないように意識していたが、やっぱり気になる。試合の日が明日に迫っている。

あこたんからもらったチケット。いや正確には買ったチケット。彼氏の試合のチケット…彼氏がプロボクサーか。彼氏がいるだけでもショックなのにプロボクサーなんて…見たくない。

でも、確かめなければいけないとも思う。あこたんはプロボクサーの彼氏からDVを受けているらしい。本当なのか。本当なら絶対にやってはいけないことだ。だけど確かめた所で、本当だった所で、僕にはどうすることもできない。それでも…。

「五、五千円かぁ」

思わず声が出た。情けない。DVを許せないという気持ちだったはずなのに、出た声はチケットの値段。あこたんを助けたいとかよりも五千円がもったいないという気持ちが先に出た。

僕のバイトは、大手IT企業のポータルサイトの更新。時給は千円。安くはない。でも五千円稼ぐとなると半日以上働かなくちゃいけない。その思いの方が勝ってしまった。

「もったいないから、見に行くかぁ」

今度はそれを言い訳にして見に行こうとしてる。僕は一体なんだろう。自分でも嫌になる。

でもそれでもいいんじゃないか。何もなかったことにするよりは、自分の足で行動して、自分の目で現実を見る方が。あこたんの彼氏はプロボクサー。プロボクサーがいったいどんなものなのか見てみよう。プロボクサーがDVをするということがどういうことなのか。確かめるんだ。現実を。

胸の奥が熱くなるのを感じた。ネットで動画サイトを開き、好きなアニソンを流した。見よう見まねで覚えたボクシングの動きをやってみる。疲れ果てるまででたらめに。そのまま自然にベッドに横になり、いつの間にか眠りについていた。


 気が付くとすでに朝だった。カーテンの隙間から光が注ぎ込んでくる。今日はバイトは休み。ポータルサイトの更新の仕事は年中無休で、ニュースやイベント情報とかがあるから、むしろ土日、休日の方が作業が多い。だからバイトはシフト制。今日のボクシングの試合に合わせて、だいぶ前から休みを申請していた。

本当はそれだけ行く気満々だった。行けば何か変わると思っていた。なのに、まだ迷っている。あこたんに彼氏がいることを間に当たりにする。それもDVをする彼氏。初めてのプロのボクサーの試合を見るのが怖くもある。あこたんに会いたいけど、会った時どんな顔したらいいんだろう。笑顔が作れるだろうか。DVのことが頭に広がって、気になって、微妙な表情をしてしまうに違いない。考えれば考えるほど頭の中の靄は広がっていく…。この靄を晴らすためにも行かなければいけない。どんな現実であっても、想像と現実の境目がなくなれば、とりあえず靄は消える。たとえそれが知りたくない現実だったとしても。


 夕方。十七時。後楽園ホール前に到着。試合開始は十八時からだから一時間ぐらい早く着いてしまった。

後楽園自体に来たのも久しぶり。いつだったか、後楽園遊園地にヒーローショーを見に来て以来だ。今は確か後楽園遊園地とも呼ばないんだよな。えっと。遊園地は、東京ドームシティアトラクションズって書いてある。東京ドームができてからこの名前になったみたいだ。この辺り一帯が東京ドームシティって呼び名で様々な施設が併設されている。

訪れている人達もバラエティに飛んでいる。家族連れ、カップル、ユニフォームを着た人達も多い。東京ドームで野球の試合があるんだろう。みんな楽しそう。

なのに、後楽園ホールの周りはちょっと雰囲気が違う。緊張感が漂い、不安な表情をしている人も多い。気合いを入れている人達もいる。そうか、ここにいる多くの人が知り合いが試合に出るんだろう。もしかしたら家族や恋人とか大切な人が試合に出るのかもしれない。どんな気持ちなんだろう。大切な人がリングの上で殴り合う。想像もできない。あこたんも今、不安や緊張の中にいるのだろうか。

ぞろぞろと応援団っぽい人達が後楽園ホールの中に入っていっている。もう開場はしているようだ。距離をとりつつそっと流れに付いていく。

と、後ろからも別の応援団っぽい団体が来て、挟まれて、二つの塊は一つになって、その中に僕も入って、もみくちゃにされて、小さなエレベーターにぎゅうぎゅう詰めにされて、あれよあれよという間に五階に着いた。なんだったんだ一体…、どっと疲れたよ…。

エレベーターを降りてすぐ、ずらっと並ぶボクサーの写真が目に入った。全員腰にベルトを巻いている。どうやら歴代世界チャンピオン達の写真のようだ。テレビで顔を見たことある人も何人かいる。テレビでは本当に世界チャンピオンだったのか疑うようなことばかりしているけど、こうやって飾られている写真を見ると、チャンピオンだったんだと実感する。同時に男としてうらやましいっていう気持ちが湧き出てくる。こんな僕でもやっぱり強い男にあこがれるのだ。


 入口でチケットを見せ、会場に入った。一気に視界が開ける。天井が高い。二階分吹き抜けになっていて、小さいながら二階席っぽい場所もある。真ん中にリングがあり、リングを囲むように座席が配置されている。

椅子の種類はバラバラ。僕がいる入り口入ってすぐには、オレンジ色の一人掛けのフカフカな椅子が並んでいて、リングのすぐ近くにはパイプ椅子、パイプ椅子を囲むように、木の椅子というか、大きな木箱を並べたような一角がある。

チケットを確認するとどうやら指定席らしい。チケットの番号を頼りに席を探すと、オレンジ色のフカフカ椅子エリアの前から十列ぐらいの真ん中だった。結構いい席だ。リングもよく見える。

でも…目立つ。あこたんが来たらすぐに見つかってしまうだろう…試合開始三十分前だけど、席はぜんぜん埋まってないし、満員になることはなさそう。あんまり目立たない、木箱のエリアの隅っこに行くことにした。

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