第1R『オタクで何が悪い!?』 -2

 「ここは…?荻窪駅?あこたんの家って確か埼玉ってブログに書いてあったよなぁ。な、何か臭いますな~。これは事件の予感ですぞ!」

自宅に向かっていないことが分かると、少しだけ残っていた後ろめたい気持ちがすっかりなくなっていた。見つからないように、かつ、堂々と後をつけた。

歩くこと十分。ある建物にあこたんが入っていく。しばらく電柱の陰から建物を覗き、出てこないことを確かめると小走りでその建物の入り口へと向かった。

あこたんが入った建物には『彗星ジム』と書かれた看板がある。間違いなくここに入っていったと思うんだけど…。ジムって書いてあるけど、普通のスポーツジムとはなんだか様子が違うようだ。

「彗星ジム」と書いた看板がある建物を一望すると、腰ぐらいの高さに小さな窓を見つけた。あそこから中が見えそうだ。そっと中を覗く。

あれは?リング?リングが見える。サンドバッグも吊るしてある。ボクシンググローブもいっぱい置いてある。ってことは、ここはボクシングジム?あこたんは、本当にここに入ったのかな?

半信半疑のまま色んな角度から中を見ていると、ノースリーブとショートパンツ姿のあこたんが、奥のロッカールームらしい部屋から出てきた。手にはバンテージとボクシングシューズを持っている。

「あ、あこたんだー!!こ、これは、スクープですぞ!まさかあこたんがボクシングをやってるなんて!しかもそれを目撃できるなんて!な、なんという幸運。あこたんのボクシング姿かぁ。う、う、うわ~い!なんとも萌えーなシチュエーションですな~。」

膝を地面に突いて、天を仰ぎ歓喜の声を上げる。雲一つない夜空に浮かぶ星たちが光を射して一緒に喜んでいるように見えた。

そ、そうだ!反射的にリュックに手を突っ込んだ。同時に絶望が押し寄せた。

「そうだった…カメラ、忘れたんだった…おお神よ!どうしてそんなにツンデレなのですかー!?」

再び膝を地面に突いて、天を仰ぎ叫んだ。まさに天国から地獄。先ほどまで見えていた星たちの姿も見えなくなっていた。道を行く人々の怪訝そうな顔が目に入りゆっくりと立ち上がる。

と、その時。

「どうも。こんばんはー」

後ろから誰かに呼ばれた。さっきのアキバでの嫌な記憶がよみがえる。恐る恐る振り返ると、そこにはジャージを着た、満面の笑みの男の人が立っていた。

「ボクシング気になりますかー?よかったら、中に入って見学していいですよー。大丈夫。怖くないから。さぁさぁ、どうぞ、どうぞ」

男の人はそう言いながら、僕の手を引いて、中に連れていこうとする。必死に拒んだけど力が強く、引きずられるようにジムの入り口へと向かっていく。

「あ、あの、いや、僕は…」

力を振り絞り精一杯抵抗する。

「あ、そうだ!」

男の人は急に手を離し、まっすぐ背筋を伸ばし気をつけをした。力を入れていた反動で転びそうになるのを耐える。

「紹介遅れました!私、この彗星ジムでトレーナーをやっております。平田克己と申します」

「あ、佐々木と申します。いや、そうじゃなくて…」

いきなりの自己紹介に驚き、反射的に返してしまった。

と、次の瞬間、すぐに腕をつかまれジムの入り口へと引っ張られる。あー今逃げればよかったぁ…。

そのままジムの中へ引きずりこまれてしまった。

「どう?怖くないでしょ。このボクシングジムはアマチュア専門のジムだから女性も多いし、明るくて綺麗なのよ」

入り口を入った所で立ち止まり説明をはじめた。確かにイメージしていたボクシングジムとは違って綺麗だった。汗臭いイメージだったけど臭くもない。どこからか女性のいい香りがするぐらいだ。

「は、はい。確かに綺麗です」

気の入ってない返事をしながら、ボクシングジム全体を見渡す。男女合わせて十人ぐらいの様々な人が練習をしていた。男女比はちょうど半々ぐらい。その中にバンテージを巻いて、ボクシングシューズを履いたあこたんの姿があった。スラッとしなやかな体は、可憐で華麗で香のよい一輪の花のようだ。ついつい見惚れ、固まってしまった。

それに気付いた平田と名乗る男の人は声のトーンを落とし、僕にだけに聞こえるよう耳元で話した。

「おっ!生野(しょうの)さんね。綺麗でしょ。彼女ね、アイドルやってるんだって。まだそんなに売れてはないみたいだけどね」

平田さんの言葉で我に返った。ブルブルっと頭を振り、あこたんに視線がバレないように、さっと平田さんの方に向き直った。

「おっ!いい目してるねー。どう体験してみる?千円いただくけど。まぁ入会すると入会金から千円引くしお得だよ」

「い、いや。あ、あの、僕は…」

「まぁ、まぁ。すぐに断らないで。とりあえずサンドバッグを叩いてから結論だそうか。気持ちいいから。せっかくだし。ね」

そう言いながら、平田さんは僕の手をつかみ、引きずるようにサンドバッグの前に連れて行った。相変わらず力が強い。体は小さく、線も細くて強そうにはみえなんだけど。

「じゃあ。まずその手袋はずして、この軍手つけて」

平田さんは僕のオープンフィンガーグローブを不思議そうに見ながら軍手を差し出して言った。

「軍手?」

思わず声が出た。軍手ってあの軍手?

「バンテージ、あっ、あのみんなが手に巻いている包帯みたいなやつね。あれ巻くの時間がかかるから体験はこの軍手でやるのよ」

「は、はぁ。軍手でいいんですか?」

「そう。その手袋はダメだけどね。革だけど生地薄いし、なんで手の甲の部分が開いてんの?ケガするよ」

そう言われて、自分のオープンフィンガーグローブがなんだか急に恥ずかしくなった。ササッとはずして、背中のリュックをおろし素早くしまった。すぐに何もなかったかのように軍手をはめた。

その時、リングの中でボクシングの型をするあこたんの姿が目に入った。確かシャドーボクシングってやつだ。その動きはステージを舞う一流シンガーのようだった。ダンスのような華麗なステップで舞っている。ボクシングをまったく知らない僕が見てもかっこよかった。きっとそれなりの練習をしているのだろう。真剣なまなざしで、もちろん僕の姿なんて目に入ってない。その姿を見て、ちょっとだけやる気が出てきた。

「よし。じゃあこのグローブつけて。十オンスだからちょっと重いけど」

平田さんに渡されたグローブに手を入れる。腕の所はマジックテープになっていて簡単につけることができた。何度か握ってみる。

「結構大きくて、重いんだなぁ」

見よう見まねで拳を前に突き出してみる。自分でもなさけないぐらいへなちょこパンチだった。蚊が止まるようなパンチとはこのことだ。軽く十匹は止まっちゃうね。

「ケガしないように、ちょっと大きめにしといたよ。本当はパンチンググローブとか小さいのもあるんだけどね」

そう言いながら平田さんはグローブの全体を確かめるように触る。問題ないようだったようで軽く頷く。

「よし!じゃあ、早速打ってみようか。佐々木君だったよね?佐々木君は右利き?」

「は、はい。右利きです」

「よし!じゃあ。まずは思いっきり右ストレートをサンドバッグに打ってみよう」

「は、はぁ」

右ストレート?さっきのへなちょこパンチみてなかったのかなぁ?目の前のサンドバッグを一ミリも動かす自信がない。

平田さんは、さっと構えて説明しはじめた。構えだけでわかる。この人も絶対ボクシングをやっていた。

「まず、両手を目の高さまであげ、脇を締めて両拳を顔にひきつける。今度は足を肩幅まで広げ、そのまま右足を半歩後ろに下げて、つま先を四十五度、外側に向ける。そのつま先に合わせて体を半身にするっと。これで構えは完成」

説明は長くて分かんなかったけど、見よう見まねで構えてみる。

「おおー。なかなか様になってるよ。本当にはじめて?」

絶対お世辞。でもうれしい。

「あ、ありがとうございます。はじめてです。マンガとかアニメとかで見たことはありますけど」

「あははっ。そうかー。確かによくあるな、こんなシーン。主人公はこのあとすごいパンチを繰り出す訳だ」

その言葉で色々なアニメを思い出し、テンションが上がった。ますますやる気が出た。もしかするとすごい才能が隠されてるかもしれない!

「じゃあ、打ってみようか。左足をしっかりと踏ん張って、右足のつま先で蹴るように腰を回し、その勢いで右腕を伸ばす!そして、当たる瞬間に拳を内側にひねるように打ち抜く!」

平田さんが見本を見せると大きな音と共にサンドバッグが大きく揺れた。ギシギシと音を立てて左右に揺れるサンドバッグを平田さんは抱えるように止めた。

「す、すごい!」

「こんな感じかな。そうだなー、コツは腕の力を抜くのと、嫌いな奴を思い浮かべることかなー。なんてね」

「嫌いな奴…」

ふっと頭をよぎった。真人くんの顔が。

「おっ!気合入ったみたいだねー。じゃあ、思いっきり打ってみようっ!」

「あ、はい!えーっと。左足を踏ん張って右足で…」ブツブツ…。

平田さんの説明を思いだしながら、反芻して確認する。右腕に力を込めサンドバッグ目掛けて思いっきり拳を伸ばした!


グキッーーーーーーーー!!


大きな異様な音がジムに響き渡った。全員が僕の方を向き、時間が止まったように動きを止めている。ちょっと間を置いて平田さんが声を発した。

「お?」

「あ、い、痛ーーい!」

思わず声が出た。サンドバッグに向けた腕は、手首が見事なまでに直角に曲がり、拳は地面を向いていた。

「だ、大丈夫、か?」

「た、たぶん…」

「シップ取ってくるから、そこのイスに座ってちょっと待ってろ」

平田さんは猛ダッシュでジムの奥の部屋へ入っていった。

僕は手首を押さえ入り口付近に並んでいるイスに座った。

ジムのいたる所からクスクスと抑えた笑い声が聞こえてくる。痛い。そして情けない。泣きそうになった。イスに座って下を向いていると視界に誰かの足が入ってきた。平田さんかな。顔を上げる。

「大丈夫ですか?すごい音しましたけど。タオル濡らしてきたから、よかったらこれで冷やして下さい」

目の前にあこたんがいた。タオルを差し出してる。お、おおお、おおおお!恐る恐るタオルに手を伸ばした。

「え、あ、う、あ、ありがとうございまっす!」

どもる。声のトーンも変だ。恥ずかしい。

「あのー、あと違ったらごめんなさい。秋葉原の撮影会によく来てくれてますよね?確かコジローさんって、お友達に呼ばれてませんでした?」

「あ、え、あ、は、はい!佐々木COジローっていいます!」

「佐々木小次郎?すごーい。あの宮本武蔵と戦った佐々木小次郎と同じ名前なんですね!」

「いや、あの、本名は違って、小太郎で。で、でも小次郎でいいです!」

「はい?」

不思議な顔をするあこたん。かわええ。

「と、とにかく。ありがとうございます!これ、洗って返します!」

なんだか居ても立ってもいられなくなって走ってジムを飛び出した。とにかく嬉しくて、でもあこたんにどう接していい分からなくて。無敵アイテムを獲得したけど正しいルートが分からない時のゲームのようだ。とにかく動き回るんだ。

「やった!やった!あこたんと話ができた!それに僕を覚えていてくれたなんて。幸せだー!」

そのままダッシュで駅まで向かいそのまま帰路についた。

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