Code of coda 8

 八年越しにやって来た男の報酬無き依頼を聞き流しながら、俺は雨夜に近づいていく。俺を見る雨夜は一人故郷を去る時の様な、どこか寂し気な様相を呈していた。

「お前、これからどうするんだ?」

 シャギーの効いた少女の髪が風に流されている。

「どう、しようね……」

風にあおられる髪が、その表情を読めなくさせる。

「とりあえずは、あと二年、かな。そうすれば、戸籍が作れるから。親がいなくても」

「その間はどうするんだ?」

「言ったでしょ? 一人で生きられるように、って。それにまだ、貯金もあるしね。だから、なんとかなるよ」

髪の間から見える少女の顔は微笑んでいながらも、幾分かの自嘲を混ぜたような色合いをしていた。

「お金、その鞄に入ってるから」

そう言って少女は手付金が入っていた鞄を指さす。

「私の依頼は、終わりだから。これで。ごめんなさい。騙したみたい、だったよね」

俯きながらも言葉を区切って吐き出した後、少女は口を閉じた。


 月のない新月の夜。星すら見えない空が全てを飲み込んでしまいそうな、そんな虚ろで寂寥せきりょうとした夜だった。

「それじゃあ、ありがとね」

その言葉もまた空ろで力ない。

「また、いつかね」

ざわめく木々の中、振り返った雨夜はおぼつかない足取りで立ち去っていく。

 ここで去りゆく雨夜を引き留めてハッピーエンド。なんて、臭い物語ならそんな結末を迎えるのだろうが、残念ながらそうはならない。さっきは創作的結末を迎えるのが上策だと言ったが、ありゃ嘘だ。俺は利で動く人間だ。無戸籍どころか国籍もない少女を雇って住まわせば、不法就労の斡旋だとか、未成年者略取だとか、他にも何らかの罪に問われる可能性が高い。さらに数々の面倒事も付随してくるだろう。「同情するなら金をやる」というなら別かもしれんが、いくら雨夜が優秀だと言っても危険が多すぎる。だいたいその金も今回の依頼達成で貰えるしな。したがって助手として雨夜を雇う必要なんてない。なんたって俺は自分の益が第一の人間だからな。ここで雨夜を手放した方が得策だ。ありがちな物語的結末なんて俺には似合わないし、無縁なこと。そう。そのはずだ。はずなのだが心が晴れない。もしかするとこのやるせなさも不気味な夜空が原因なのかもしれない。あの空が俺のパワーを吸い取っているのかもしれない。

 考えている間に、少女の姿が段々遠ざかっていく。その姿から目が離せない。

 なぜなのか。俺が間違っているとでも言うのだろうか。しかしそんなはずはない。俺は三代とか雨夜と違って、情にほだされて自分を追い込むような馬鹿げたことはしない。俺はそんなに青くない。何よりこの資本主義社会で利を考えずに行動するなんて愚の骨頂だ。だから俺は利己のためだけここにきたんだ。

 突然事務所にやってきた謎の少女。ずば抜けた能力を持った少女。俺を井戸から引きずり出した少女。そんな少女のもたらす利益を、道具としてのあいつを求めて俺はここに来た。そうだよな俺。そうなのか? 俺。

 少女が石段に差し掛かり、その後ろ姿が見えなくなっていく。

 なぁ、俺。よく考えてみろ。二日前のあの朝、少女が事務所にいないだけでなぜあんなに俺は焦った。そしてその後、俺が少女を助けに行く必要はないと結論付けたはずだ。でもだったら、どうして俺は今ここにいる。無意識のうちに利益が出るような必勝法を見つけたからか? 直感的にここで起きる大火の対価を感じ取っていたからか? 違うだろ。そんなことができるなら競馬でもした方がいい。じゃあなんで来た? 決して利己のためなんかじゃないだろ?

 ミステリアスで儚げな少女。ずば抜けた能力があるくせに、少し抜けてる少女。井戸の外で待っていた少女。そんな少女の持ってる魅力を、人間としてのあいつを求めて俺はここに来たんだろ?

 雨夜が放つ柔らかくて、心地いい月光のような光。俺はそんな光に誘われて、そんな光をもう一度見たくて、蚊帳の中から飛び出してきたんじゃないのか? 自分の身なんて関係ない。ただ雨夜を助けたくて、ただ雨夜に帰ってきてほしくて俺はここに来たんだろうが。だったら今、俺が取るべき行動はたった一つだけだ。

 俺の位置からでは見えなくなってしまった雨夜。その後ろを、報酬の入った鞄を持って俺は追いかける。

「ちょっと待ってくれ」

俺の呼びかけに、雨夜が足を止めて振り返る。俺はさらに雨夜へと近づいていき、ようやくその前へと辿り着く。

「どうしたの? お金、足り――「そんなことどうでもいい」

初めて雨夜の言葉を遮る俺に驚いたのか、暗闇のせいで良く見えないが、雨夜が目をしばたかせているようだった。

「いや、悪い。驚かせるつもりなんてなかったんだ。ただ、言い残したことがあってな」

さらに意表をつかれたからなのか、雨夜は何も返してこない。

「お前の依頼は終わったかもしれんが、実は俺も、一つだけお前に頼みたいことがあるんだ。聞いてもらってもいいか?」

「いいけど、なに?」

問い返す雨夜の声色はこちらを探るような調子をしている。

「実は、お前の力を借りたい。いや。助手じゃなくても、事務でも何でもいいんだ。とにかくお前に戻ってきてほしいって探偵がいるんだ」

「それって――「手付金はこれだ」

言いながら俺は持ってきた鞄を上げて雨夜に突き出す。

「報酬の方は、その後の働き次第。歩合制ってとこなんだが。どうだ? 受けてくれるか?」

 俺の依頼。いや、心からの願い。届くようにと祈りながら雨夜を見つめる。

 生い茂る木々のせいで空どころか、雨夜の顔すらもちゃんと見えない暗い石段でのことだった。雨夜がゆっくり腕を上げ、俺が手に持つ鞄を確かに受け取る。

「いいの? 本当に」

少女はそれでもまだ半信半疑なのか、少し怯えたような声で尋ねてくる。

「迷惑、かける――「それでもいいんだ」

遮って、俺はもう一度雨夜に頼み込む。

「俺の依頼、受けてくれないか?」


 月のない空を覆い隠す木々が風に揺られ、暗がりのせいで出口も見えない石段でのことだった。雨夜は結論を出しかねているのか、少しの沈黙が流れている。

 冷静に考えればこんなプロポーズ紛いのことをして、もし断られでもしたら俺はどうしたら良いのだろうか。三か月は落ち込んでしまいそうである。

 などと自らを客観的に見ながら一種の後悔を抱いていると、俺の耳に入ってきたのは木々のざわめきではない、微かな人の声。

 その声の発信源を確かめようと顔を上げる。そこにあったのは、俺が一番見たかった月の光だった。

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