Code of coda 3

 最悪の寝覚めである。夢見ることを夢見た俺であったが、現実とはいつも厳しいものである。夢を見たには見たが、俺がまだ小さいころ、謎の検査を受けた時の追憶だった。

「……レイはまだ帰ってきてない、か」

 しかしゼウスもなぜパンドラの箱に希望を入れたのだろうか。しかしそこは全能の神。希望と絶望が表裏一体であることなどとっくに気付いていたに違いない。だから希望も入れておいたのだろう。パンドラも実に余計なことをしてくれたものである。

 などと空虚な八つ当たりをしつつ、目覚めの一杯を飲む。

「しっかしどうするかな……」

 手元には一向に解読の進まない暗号文。もしかしたらヴィジュネル暗号ではないのかもしれない。encrypted以下に示されるものが嘘だということか? いやだが、その線は薄いだろう。俺を呼び出すと言った手前嘘が書いてあるとも思えない。だから問題は鍵の方にあるはずだ。

 となるとやはりファーストキーのPaIrに何か仕掛けがあるのだろう。それと気になるのは鍵の絵だ。無駄に書いてあるとも思えない。鍵。鍵ねぇ……。

 そういえば前に雨夜が『仕組みがわかればできるよ。探偵さんも』とか何とか言ってたな。あれは確かピッキングして事務所に入っているのか聞いた時だ。物理的なキーの知識が暗号解読にも役立つとは思えんが、このまま解読を進めてもオールで空を漕ぐようなもんだ。とりあえず描かれている鍵について調べるとするか。


 思ったより鍵ってのはたくさん種類があるようだ。その中でも暗号文に書かれているのは、どうやらレバータンブラー錠という種類のものらしい。暗号文に描いてある山が二つの鍵を例にとると、奥の歯で閂を動かないようにするロックを押し上げて外す。それによってフリーになった閂を手前の歯で動かすという仕組みらしい。

 この仕組みになぞらえて暗号を解くとすれば、大文字のPとI、あるいは小文字のaとrの組み合わせを考えれば暗号が解けるはずである。はずなのだが、昨日の時点でそんな感じの組み合わせ的な方法は一通り試し、解けないことが判明している。つまりは鍵の絵にはなんら意味がなかったということなのだろうか? いやだがそんなはずはないだろう。もしかしたら暗号文を平文に直す時に文字がずれてしまったのかもしれない。

 そう思い全ての組み合わせを解きなおしてみる。

 たった一人の事務所で、パソコンに表示したヴィジュネル方陣と睨めっこ。手伝ってくれる者は誰もいない。

 黙々と作業を進め、解きなおし作業も半ばを過ぎたところなのだが、駄目だ。解けそうにない上に血糖値が足りなくなってきている。頭が回らない。そう言えば朝も食べていないし、とりあえず昼飯でも食べに行こう。


 少し遅めの昼飯を食べ終え、事務所へと戻る。レイは未だ帰ってきていない。どうやら捜索作業は難航しているようだ。つまるところそれは、俺が暗号を解かなければならないということを意味している。ならばさっさと解読作業に戻らねばならない。とは言っても歯を磨くくらいのいとまは許されるだろう。何より歯を磨いておかないと集中できない。

 一旦給湯室へと向かい、歯ブラシを手に取る。そう言えば歯ブラシの形はどことなく鍵の形に似ている。ブラシの部分が鍵の歯で、それを下支えする棒が、鍵の棒の部分。

 もし棒がなくブラシだけの歯ブラシがあったなら、それは大層磨きづらいことだろう。さしずめ棒は縁の下の力持ちといったところか。普段気にすることは無いが、ブラシの根本がプラスチックの部分に刺さっているお陰で……。そうか! そういうことだったのか!

 急いで歯を磨き、俺は暗号文に書かれたファーストキーをよく見直す。

『1st key ―PaIr-』

ペアを挟む二つの横線。二つの大文字。上下の横棒がしっかりと書かれた大文字のI。

 暗号文に描かれた鍵――レバータンブラー錠は歯が上を向くときに鍵が開けるようになる。そして鍵を開けるのは歯の部分であって、棒の部分は長さを稼ぐために必要なだけだ。。

 これらのことを踏まえて歯を上に向けた鍵をファーストキーと照らし合わせる。するとファーストキーの横線より下半分は棒になり、上半分は鍵の歯となる。そして重要な歯の形。これはPとIの上半分、つまりDとTだろう。これが暗号を解く本当の鍵に違いない。つまりペアという綴りは鍵の土台を作るだけで、何ら意味がないということだ。通りでPとIを使って解こうとしても全く解けないわけだ。

 この推理が合っていれば、暗号文を一文字飛ばしで書き出して、DとTをキーワードにすれば解けるはずだ。とりあえず書き出してみよう。

キー :D T D T D T D T D T D T D T D T

暗号文:V X Y X Q I P B Q M Z H G T B L

 初めのキーはDで暗号はVだから……平文は……S。

平文 :S

二番目はTのXで……E。

平文 :S E

三番目はDのYで……V。

平文 :S E V

四番目はTのX。二番目と同じだからEだろう。

平文 :S E V E

五番目のキーはD。暗号はQ。ヴィジュネル方陣の上で文字を手繰る指が震える。

 不安げな指が指し示したその文字は

平文 :S E V E N

明確な意味を持った字の並びに鼓動が高まる。喜びのあまり今にも叫びたいような、走り出したいような衝動。それを必死で抑えて解読を進める。そして、浮かび上がってきた一つの文。

平文 :S E V E N P M I N T W O D A Y S

 今まで生きてきた中で一番の達成感。暗号を解くのにはまりそうだ。

 まさか鍵の知識が役立つとは思いもしなかった。物騒な本とか思って悪かったな雨夜。お前のお陰で暗号を解くことができた。確かに芸は身を助くだ。まぁそもそも、お前が誘拐なんてされなければ暗号を解く必要なんてなかったわけだが。何にせよ感謝するぜ。とりあえずもう少し辛抱しててくれよ。事業の新規開拓と発展にはお前が不可欠なんだからな。

 しかし呼び出しが『二日後の午後七時』なのはわかったが肝心の場所がわからない。場所については二つ目の暗号を解いてみなければわからないということか。だがそれもすぐに解けるだろう。

 などという推測はカルピスの原液くらいに、どうしようもないほど甘かった。二番目の鍵『2nd key ==hoLeS』もファーストキーと同じようにI・I・Cとして解いてはみたのだが、全く解けそうにない。IじゃなくてTじゃないかとも試してみたのだがそれでも解けない。犯人が誤字をしている可能性も考え、大文字小文字を入れ替えたりしてみたのだが、やはり解けない。

 タイムリミットはあと一日。帰ってくる気配のないレイ。押し寄せる焦燥。

 もしかしたら一番目とは違う形式の鍵――レバータンブラーではない鍵が使われているのかもしれない。そう考え、他の種類の鍵の仕組みをある程度調べることにした。しかし鍵の種類は多く、鍵が近代的になるにつれ仕組みも複雑になってくる。

 暗号文には他の鍵の絵が描かれていないので、この作業も無駄かもしれない。だが他に有用な手も見当たらない以上、そうするしかなかった。何より、何もしないで唸っているよりは幾分か気が紛れる。今日の残った時間。その全てを俺は、鍵の構造を理解することに使った。

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