Code of coda 2
先走りすぎた梅雨の気配を感じさせる皐月の曇天の下、レイと共に事務所へ向かう。天気とは裏腹にレイは朝からやたらとハイテンションであり、さっきから舞台俳優並に感情込めてドラマチックにスズメ界の
などと有り得ない空想劇を広げつつも地道に歩き、事務所の前へと至った。このまま扉を開けて中に入れば、いつも通り雨夜はビルの建設当時から住んでいたと言わんばかりの顔で待っているのだろう。あの少女が初めて来た時、無論こんなことになるとは想定もしていなかった。というか突然謎の少女が尋ねてくるなどという非日常的な創作的展開を誰が予想できようか。だが一月が経ち、非日常を当然の日常として受け入れてしまっている自分がいる。
込み上げてくる笑いを噛み殺し、事務所のドアを開く。すると今日も雨夜は慎ましやかにソファに腰かけ、カフェモカを飲んでいる。はずなのだが、姿がない。
もしかしたら今日は遅めの起床で、今ようやく給湯室でカフェモカを淹れているのかもしれない。そう思い給湯室を覗くものの、そこにも少女の姿はない。だとしたら倉庫だろうか? あんなところに特に用があるとも思えないが。疑念を持ちつつ倉庫を覗くと、やはりそこにも少女の姿はなかった。
一体どこへ行ったのだろうか? 俺の記憶では朝から雨夜が出かけるということはなかったはずだ。いや、だがしかし今まで無かったとしても、やたらと腹が減っていたとか、散歩がしたくなったとか、外に出る理由はいくらでもあるだろう。そう。いくらでもある。いくらでもあるはずなのだが、妙な不安感が俺を急き立て、胸をざわつかせる。
「そうだ。これがあったか」
懐から携帯を取り出し、急いで電話を掛ける。もちろん相手は雨夜だ。
耳元に電話をあてる。発信音の鳴るまでがえらく焦れったい。接続音が今までにないほど長く感じる。
『――Prrrr, Prrr――』
やっと繋がったかと思った、その直後だった。隣の部屋で騒ぎ立てる電子音。まさかと思いながらも応接室に戻ると、携帯がガラステーブルの上でがなり立てていた。
一人机の上で騒いでいる携帯。耳元に押し当てていた携帯を離し、画面を見つめる。響く振動音。
「他人の振り見て我が振りなおせ、か」
手中の携帯からのコールを止める。鳴り止む振動音。
近場への外出だからすぐに帰ってくるということで、雨夜は携帯を置いて行ったのだろう。俺もよくやるし、そうとしか考えられない。俺は一体何を慌てていたというのだろうか? こんな様じゃ、落ち着き払って貫禄ある探偵を気取れるようになるのはいつになるのやら。
自らを嘲りつつ、給湯室へと向かう。無論淹れるのはブラックコーヒーである。お湯を沸かしながら、カップを用意。次いで店で挽いてもらった豆を袋から取り出す。この時自然と深呼吸してしまうのは、自然豊かな森林で思わず深呼吸してしまうのと同じだろう。豆を取り出しフィルターに入れる。沸いたお湯をまずは一回し。そして蒸らす。少し待ったところで残りのお湯を注いでいくと、奥深いアロマが鼻腔に吹きわたっていく。
「のぉのぉ、あれはなんと読むんじゃ?」
何のことかは知らんが、とりあえずお前が「
「そうじゃなくてじゃの。ほれ。おぬしの机の上に紙が置いてあるじゃろ?」
「千年近く漂ってきたお前で読めない漢字なら俺にも読めん」
「そんなことわかっとるわい。漢字じゃなくて英語で書かれておるのじゃ」
英語? 海外から依頼が来たとでも言うのだろうか? だとしたら、ついに異国の地から依頼を受けるほどに俺の名声も世界に広まったというわけか。
だが妙だな。「紙」で来てるというのはおかしくないか? しかもレイが見えるようなところに。まさか――
「ちょっとその紙見せてみろ!」
「おぬしの机の上じゃよ」
カップを給湯室に置いてすぐさま事務机に向かう。するとアルファベットが並んでいる一枚の紙が――
「レイ!」
「何じゃ?」
「雨夜を探してきてくれ!」
「それは今か――「今すぐにだ! 他のやつとも協力して、何でもいい! とにかく探してきてくれ!」
「そんな危機迫り鬼気迫ってどうしたんじゃ?」
「雨夜が誘拐された」
「なんと! それはまことか!」
俺だって嘘だと思いたい。だが本当だ。机の上に置かれた紙には『Take the little girl. If want to release, come on the following.』と書かれている。英語力に自信があるわけではないが、『雨夜を誘拐した。返して欲しくば以下の場所に来い』というような意味だろう。
「その様子。どうやら嘘ではなく本当のようじゃな……。相手に心当たりはないのかえ?」
特に思いあたる相手はいないものの、探偵という職業柄、恨みの在庫なんて山ほどある。つまりはここ数年で捕まえた誰か、ということか。だが誰だ? 全く見当がつかない。
「ひとまずわしは有志の幽士でも募って探してくるゆえ、おぬしも救出に繋がりそうな糸でもたぐりよせておれ」
「犯人が呼び出しをしてくるということは、相手はそう遠くに行ってないはずだ。だが近くもないはずだから、いい感じの距離のところを重点的に頼む」
レイはしっかりと頷き、外へ飛び出していった。
もしこちらが先手を取れなかった場合――雨夜を先に見つけられなかった場合どうなるのか。おそらくは行った先で雨夜と俺を交換ということになるのだろうが、通報の可能性もあるし、雨夜が無事に放されるとも思えない。
そうだ。集合場所はどこなんだ? 慌てすぎて見ていなかった。
それを確認するために犯人の置いて行った紙を再度見てみる。
Take the little girl. If want to release, come on the following.
1st key ―PaIr‐
1st cipher text : V B X J Y R X N Q L I Q P I B Q Q F M L Z G H A G F T E B D L S
2nd key ==hoLeS
2nd cipher text : K P Q X R R T N D Z B U C J P T Q N E Z J U K E S F M X F L C M D A V X S
encrypted by 26² of Vi
なんだこれは? 暗号か? 意味が分からない。仮にレイが雨夜を見つけられず、この暗号も解けなかったら雨夜はどうなるんだ? このままずっと帰されないということなのか? あるいは……。だとしたらこの暗号を解かねばならないが、残念ながら俺には暗号の知識がほとんどない。
俺も一端の探偵なので、ありがちな探偵らしく、暗号も即座に解いて見せられたら良いのだが、そうもいかない。殺された時にダイイングメッセージなんて残す気概のある被害者もいなければ、わざわざ通信に暗号を使おうなんていう気骨のある犯罪者なんてのも今まで見たことがない。今や暗号なんてものが使われるのは専らネット通信とかその辺だろう。だから暗号の勉強などしたことないし、解いたことすらない。俺にもハワイで何でも教えてくれる親父がいればと思うと残念でならない。
などと架空の探偵少年を羨んでいる場合ではない。犯人の特定なんて二の次で良い。急いで解かなければ。
雨夜を誘拐した犯人が置いて行った紙を改めてよく見る。
Take the little girl. If want to release, come on the following.
1st key ―PaIr‐
1st cipher text : V B X J Y R X N Q L I Q P I B Q Q F M L Z G H A G F T E B D L S
2nd key ==hoLeS
2nd cipher text : K P Q X R R T N D Z B U C J P T Q N E Z J U K E S F M X F L C M D A V X S
encrypted by 26² of Vi
他に何かあるかと言えばファーストキーの手前に鍵の絵が描かれている。歯というか山というか、それが下向きに二つある、前方後円墳みたいな鍵穴に入りそうな古めかしい鍵の絵だ。もう一つの特徴はファーストキーのペアという綴り。その中の大文字のⅠ。この上下の横棒がえらくしかっり書かれているくらいか。
最後の一文はencryptedと書かれているし、きっと暗号の方式を示しているのだろう。二六の二乗だから、七〇〇引く二四で六七六だ。特に意味があるとも思えない。Viというのも謎である。ヴィオラのことか? いやだが、それだとVaになるはずである。これも特に意味があるとは思えない。いや、意味がないことは無いのだろうが、俺にはわからない。とは言っても暗号方式がわからなければ進展を望めないだろうし、ここはインターネットという人類の英知の結晶に頼るとしよう。
検索をかけるべく携帯を手に取る。と浮かんでくる顔があった。
そうだ。安西なら少しは暗号について知っているかもしれない。そう思いコールをかける。
『はい安西です』
こいつはいつも出るのが早くて助かる。早すぎて気味が悪いが。
「本倉です」
『おやぁ、本倉さんですか。どうかされましたか?』
「一つ聞きたいことがありまして」
『ああ。この前の女の子、ミナちゃんでしたっけ? 彼女なら親戚の家で預かられることになったそうですよ』
そうか。あの子がどうなろうが俺には関係ない話である。だがなぜ三代と一悶着あったということを知っているのだろうか? 安西の勘の良さを考えれば、三代が自首した時に色々と察しが付いたといったところだろうか。
「いえ、そのことではなくてですね。暗号について詳しいですか?」
『暗号……ですか……。実に……耽美な響きですねぇ。そうは思いませんか?』
いきなりどうした。相変わらず気持ち悪いな。
『いえねぇ、実は私、暗号には少し自信がありまして、それでどうされたのですか?』
「二六の二乗とViという二文字。この二つが関係する暗号って何かありますか?」
『暗号化の手法の話でしょうか? Viと言えば、パソコンならVimで暗号化するのがまず初めに思いつきますが、そうですねぇ……。暗号文の方はどうなっていますか?』
「キーと書かれた単語の下に、意味をなさないアルファベットの羅列が並んでいます」
『なるほど。それなら恐らくヴィジュネル方陣を用いたものでしょう。Viはその頭文字を、二六の二乗はヴィジュネル方陣、それ自体を表しているのだと思います』
「ヴィジュネル方陣、ですか?」
『ええ。アルファベットで構成される二六×二六の正方形を用いたものなのですが、口頭で説明するのは少々手間ですねぇ……。有名な暗号ですし、調べれば出てくると思いますので、後はご自身で調べて頂けると助かります』
「わかりました。ありがとうございます」
『いえいえ。お役に立てたようで何よりです。それではまた、いつか会い行きますよ』
安西はそう言い残し、電話は切れた。
気色悪いやつだが有益な情報をくれたのはありがたい。さっそく調べるとするか。
調べた結果ヴィジュネル暗号というのはキーワードさえ知っていれば簡単に解けるものであるらしい。例えば伝えたい文章が「明日五時集合」でキーワードが「本倉」である場合、平文の上にキーワードを重ねる。すると
キーワード:M O T O K U R A M O T O
平文 :A S U G O Z I S Y U G O
のように対応する。次にヴィジュネル方陣を使う。ヴィジュネル方陣とはキーワードのアルファベットだけ平文のアルファベットをずらした表が載っている正方形の表で、例えばキーワードがMとOなら
平文: A B C D E F G H I J K L M N O P Q R S T U V W X Y Z
M:M N O P Q R S T U V W X Y Z A B C D E F G H I J K L
О:O P Q R S T U V W X Y Z A B C D E F G H I J K L M N
となる。他のキーでも同様にキー自身が平文中のAに相当するよう並べられる。これらの変換を全て載せたのがヴィジュネル方陣である。したがって「本倉」をキーにして「明日五時集合」を暗号化すれば、
キーワード:M O T O K U R A M O T O
平文 :A S U G O Z I S Y U G O
暗号文 :M G A U Y T Z S K I Z C
となる。つまりキーワードをベースに暗号文から逆算すれば、平文が読み解けるという代物らしい。
仕組みはとても簡単であるし、これならすぐにでも犯人が残した暗号も解けるのではないだろうか。レイを出動させるまでもなかったかもしれない。
ひとまず最初のキー「PaIr」を使って初めのテキストを解読してみるのだが、何かがおかしい。なぜなら文章になりそうにないからだ。キーがPの時のVはgに、Aの時のBはbとなる。日本語にしろ英語にしろ、gbと続く単語などそうそう使わない。もしかしたらヴィジュネル暗号ではないのか、あるいはキーに仕掛けがあるのか。
そもそも大文字と小文字が入り乱れているところが変だ。キーワードはペアであるし、大文字と小文字の二組に分ければよいのかもしれないが、分けてその後どうしたらよいのだろうか。二文字だけを暗号文と照らすのか、とりあえず四文字ともあてはめてみるのか。大文字だけ、小文字だけをキーとして解読するのが正しいのか。二つ歯の鍵の絵を考えれば大文字の方が可能性は有りそうだが、こればかりはやってみないとわからない。
その可能性に賭け、勇んで挑戦するものの、大文字だけではgtで始まり、小文字だけではvkで始まる平文となってしまう。どちらも文になりそうにない。
もしかするとフェイクとして平文の文頭に意味のない文字を羅列しているのかもしれない。そう思い最後まで解読してみるものの、それでも解読文が意味を成すことは無かった。
他にも色々な方法を試した。「PaIr」で解読した後に一文字ずつ飛ばしてみたり、あるいは大文字と小文字の順序を入れ替えたりしながらも解読を試みてはみたのだが、一向に解けそうにない。
無駄な挑戦を繰り返していると、気づけば昼過ぎになっていた。確かに腹は良い具合に減ってきている。「生きるとは腹が減るということ」とは雨夜の持論だったな。言い方は若干違ったが。あのやりとりからもう一月も経つのか。
などと懐古している場合ではない。何とかして暗号を解かねばならない。なぜ解かねばならないのか。解けないと雨夜が解放されることはないからだ。
ではなぜ雨夜が帰って来ないと困るのか。
そんなの簡単だ。聞くまでもない。あの少女は頭が切れて役に立つからだ。あいつは他にも気配遮断や鍵開け等の有力なスキルを有している。RPGの盗賊やら暗殺者やらをそっくりそのまま持ってきたような奴だからな。いや待てよ。もしかしたら実際そうなんじゃないか? 雨夜はそういうゲーム的異世界から転生・転移してきたのかもしれない。最近流行ってるしな。もし雨夜が転生してきた存在だとすればあのスキルも、変な喋り方にもなおさら蓋然性が生まれてくるというもんだ。そんなやつなら誘拐犯なんて一捻りで倒して逃げ出すこともできるだろう。ありえない話なのはわかっている。だが「事実は小説よりも奇なり」とも言う。可能性はニヤリイコールゼロだが、決してゼロではない。だから雨夜は自分でふらっと帰ってくるかもしれない。そうだろ?
そう問いかけるも、誰も返事をしてくれる者はおらず、ただ手元の暗号文だけが俺をじっと見据えていた。
その後も試行錯誤を繰り返すものの、未だ進展はない。レイが帰ってくることもなく、徒に時間だけが刻々と過ぎていく。
雲のかかっている空。やがて日は沈み、静かな事務所に俺一人。
「……とりあえず、コーヒーでも飲むか」
そう思い立ち席を立つ。
普段やっているようにコーヒーを淹れる準備をする。湯が沸き立ち昇る湯気。湯を注ぎ黒く染まりゆくフィルター。そんなシーンから目を逸らしたくなるが、なぜだか逸らすことができない。
淹れ終えて席へ戻る。淹れ方に不備があったのか、いつもより若干雑味の混じったコーヒーに思わず顔をしかめる。そんなことは意に介していないかのように、コーヒーはいつも通りの黒い水面にかすかな波紋を広げている。
ちょっと待てよ。よくよく考えたら変じゃないか? 何が変かと言うと、犯人の残した文章がだ。俺を呼び出したいなら直接的な文章で呼びかけたらよいではないか。なぜわざわざ暗号にする必要がある。指定場所を暗号にするなんて俺が犯人の元へ辿り着ける可能性を下げるだけだ。俺を呼び出したいという目的と暗号を用いた伝達という手段。完全に手段が目的達成を妨害している。
だが思い返せば最近の依頼の犯人。あいつらはやたらと入り組んだ目的があって手の込んだ犯罪に手を染めてきていた。そいつらと同様に、深謀遠慮。今回の犯人も何か別の、明示されていない目的があるのかもしれない。俺を呼び出す以外に。だがそれはなんだ? 何を意図しているんだ?
見知っているはずの正体不明の犯人。そいつが意図するところ。その心に同期しようと挑戦するものの、頼りのシンクロスコープは壊れてしまっているのか、いつまで経っても同期できそうにない。ただ正確なリズムを刻み続ける時計の秒針だけが、時間の経過を克明に知らせてくる。
わからん。犯人の思惑もわからなければ、暗号もわからん。こういう時は一旦風呂に入るか、もしくは寝るに限る。とは言うものの、事務所を離れるわけにはいかない。なぜならレイが帰ってくるかもしれないし、なんなら雨夜が帰ってくる可能性もあるからだ。だから今日は雨夜がいつもやっているように、応接用のソファで仮眠を取ることにしよう。ソファで寝れば、夢にあの少女が出てきて、暗号のヒントでも与えてくれるかもしれないしな。
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