Code of coda 1

 晴れに晴れている五月半ば、普段通りいつもと変わらない朝。

 俺は社長椅子でコーヒーを、雨夜はソファでカフェモカを飲んでいた。

 俯き加減でソファに遠慮がちに腰かける少女の背筋は、背骨のゆるやかなS字カーブに沿って真っすぐ伸びている。対して腕は肘から先が前方に折り出されている。沿わせて視線を移していくと、少女の膝元にはえらく分厚い本が開かれていた。

 本を読んでいるなんて珍しいこともあるもんだ。読んでいる本はどうせ、ピッキングとか盗聴技術とか、どこで役立つかもわからん物騒な知識についての本だろうが、本を読んでいる姿も文学少女という感じでそれ相応に奥ゆかしいことこの上ない。雨夜と本の相性の良さは言うなれば一夜しか咲かない月下美人とでも例えるか、雨夜という存在の希薄さに起因しているのだろう。やはり儚げな雰囲気というのは文学少女の十分条件だな。しかしそれにつけても、そんな姿勢で本が読みにくくないだろうか? 距離的に。

「暇じゃ~。暇すぎる。もっとこう、何か起きてはくれんかのぉ」

 相変わらずやかましいやつである。こいつも幽霊という存在よろしく、もっと希薄な感じを出すことはできないのだろうか? などと期待しても無駄なことはわかっている。だいたい人間希望を持つから絶望が生まれるのだ。パンドラの箱の逸話など嘘っぱちで、希望など持たない方が賢明なのだ。

 と考える賢しい俺は修練のためパイプをくゆらせながら、雑音排除のために『ハイドンの交響曲第四五番』を流す。

 目を閉じ耳を澄まして演奏風景を思い浮かべる。激しい第一楽章を受けて穏やかに奏でられる第二楽章。第三楽章に入って嬰ヘ長調となり、華やかな弦楽器の旋律をホルンが主導していく。

 やはりクラシックは良いものである。再度言うが、何事も雰囲気を醸し出すことが重要であるとは俺の持論であり、当然のごとく上流階級ぶるために聞き始めた物ではあるが、これも今となっては気をほぐすのに無くてはならない存在だ。

 そして第四楽章。フィナーレが近づく中で速くなっていったテンポは中盤からその速度を緩め、次第に奏者が一人、また一人と退場していく。最後はヴァイオリンの二重奏だけが残り、しめやかな幕引きで演奏が終わった。

 楽曲背景に思いを馳せつつ余韻に浸りながら目を開くと、俺の前に雨夜が立っていた。

「なんていう曲? さっきの」

ついに雨夜もクラシックに興味を持ち始めたか。

「ハイドンの交響曲第四五番だ。いい曲だろ? ち――「ね。いい曲。他にないの? 何か、いい曲」

雨夜が俺の言葉を遮ってくるとは珍しい。明日は雪でも降るんじゃなかろうか?

などと月並みなことを考えていると、

「これもそう、だけど、色々知ってるよね。探偵さんは」

雨夜が柄にもなく言葉を続けてきたのだが、謎の知識を色々知っているのはお前の方だろう。それに比べたら俺の常識的知識など何ともない。いやしかし、待てよ。何ともないこともないんじゃないか? これも一種の無知の知だと考えれば俺も中々――

「でも、ないの?」

「何が?」

「知らなきゃ良かった、って、こととか」

藪から棒だな。

「あるでしょ? 知って、嫌な気持ちになることも」

 さてはこの前の大麻事件のことを言っているのだろうか? 確かに知らなきゃ落ち込むこともなかっただろうが。

「そうだな。そういうこともある。だが、例え嫌なことでも、それが現実なら受け止めるしかない」

雨夜は何か考えているのか、黙っているせいでわからないものの、俺は構わず言葉を続ける。

「特に、自分が足を突っ込んだことならな。最後まで知る。最後まで見届けるのが責務ってやつだ」

決まった。俺は今、最高に歳上っぽい。

「やっぱりそう、だよね……」

威厳を発揮し悦に入る俺とは対称的に、雨夜は一人、呟くようにそう言った。

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