第九幕:大魔王(四)

 悪魔ダンタリオンの怒りを見て、タウは震えが止まらなかった。

 無様に尻もちをついて、力が入らない手で少しずつ後ずさりしながら顔を強ばらせている。

 呼吸が乱れ、「ひぃひぃ」という声が我知らず口からもれている。

 あまりの恐怖で、瞳に映る景色が揺れてぼやけ始める。

 ああ、涙など情けないと思う反面、むしろありがたいとも思ってしまう。

 なにしろ恐怖の対象を見なくて済むのだから。

 ならば、目を瞑ればいいじゃないかとも思うが、それもできない。

 完全に見えなくなったとき、その悪魔が何をするのか、なにが起きるのか、それもまた怖いのだ。

 いっそう、このまま意識を放棄してしまえばどれだけ楽だろうか。


(……そうだ……あの時みたいに……)


 蘇る恐怖の記憶。

 見た目が人から完全な魔物と化して、あの屈強だった父親をいとも簡単に、そして激しく無残に葬った、狂獣レビス化した獣呪族じゅうじゅぞくの姿。

 あれを見た時、まだ幼かったタウは怖ろしさに震え、失禁し、気を失った。


 無論、今のタウはあの頃とは違う。

 はるかに強くなり、今ならそのような無様なことにはならないだろう。

 むしろ、そうならないために強くなったのだ。


(でも……なに……この恐怖……わからない……)


 狂獣レビス化した魔物の怖ろしさはわかりやすかった。

 圧倒的な力で残忍に殺戮する姿、そして父親の腕や脚を貪りつくす惨酷な様子。

 それは見た目で直接的に訴えかけてきていた。

 しかし、今のタウなら耐えうる恐怖だ。


 ところが、目の前の悪魔は違う。

 言葉では表現できない、存在という恐怖。

 存ずるだけで恐れてしまう。

 在るだけでも怖れてしまう。

 否。

 それは、


(耐えられ……ない……)


 タウがそう心を手放そうとしたときだった。

 手に感じた温もりがそれをとめた。

 見れば、自分の手は誰かに握られている。


「落ちつき、心を保つのだ、タウ殿」


 感じた熱と力強く包みこむような言葉に、タウはなんとか首を動かす。


「大丈夫だ。今こそ弱さを受け入れ、強さを手にいれるのだ」


 このような薄暗いダンジョン内でも輝きを失わない金髪、そして明るい笑顔を向けてきたのはファイだった。

 彼女の青い明眸が、真っ直ぐとこちらを見つめている。

 その内に灯る光を見ていると、不思議とタウの中にある恐怖が和らいでくる。


「弱さを……受け入れる?」


「ああ。自身を欺いては自信が得られない。自分の中にある弱さ、愚かさ、それらを含む心を理解した上で戦うのだ」


「心……」


「うむ。悪魔は心で会話している。そもそも、かの存在は、我らの言葉など話していないのだ」


「え? でも……言葉、わかる……」


「それは【悪魔の囁き】よ」


 タウの疑問に答えたのは、クシィだった。

 彼女もまた勇気づけるように、片膝をついて長い耳をしおれさせていたテラの手をとっていた。


「すべての悪魔がもつ、どんな人間でも誘惑するための能力らしいわ。その心の声で話すことで、まるで耳から聞いているように錯覚するんですって。でもその囁き声は、心へ直接的に響いてくるから感情を強く揺らすのよ。それに対抗するには、心を強くもつこと。そして心を強くもつには、偽りの心ではダメ。偽りはやましさを含んでしまい強くなれないから」


「偽りなき心……」


「ええ。真に信じる心ね」


「信じるって……なにを信じるというのだ?」


 タウはクシィとファイの顔を見て、まるで藁にしがみつくように答えを求める。今、すぐに何かにつかまらなければ、自分を保っていられない。


「今のボク……信じられるものがない!」


「それでも自分を信じるしかないだろう!」


 ファイの答えにタウは噛みつく。


「できるわけない! 自信なくなったから、ボクは――」


「――守和斗のことは信じられぬか?」


「……え?」


 ファイは守和斗を一瞥すると、また真っ直ぐに目線を合わせる。


「彼がいれば大丈夫だと信じられないか?」


 その問いかけに、タウも守和斗に目を向ける。

 ごくごく自然体に立つ彼の姿は、初めて見た時のどこにでもいる青年のイメージのままだ。

 しかし、目に映らない部分では違う。

 守和斗のことを相談したとき、テラが【闘士トール式挨拶の儀式】をしても「」と言った意味が今なら痛いほどわかる。たぶん、ここにいる誰も――魔神や悪魔さえも――彼に攻撃を当てることはできないはずだ。

 そんな彼が自分たちを守ってくれている。


「それは……大丈夫だと思うが……」


「ならば、そう信じた自分を信じろ。守和斗を信じる自分を信じるのだ」


「それ、スワトに頼っているだけ……」


「ピョン。なるほど、そういうことですか……」


 今まで黙っていたテラが、ついていた片膝を床から剥がす。

 少しふらつくが、クシィに手を借りながら彼はゆっくりと立ちあがった。


「テラ先輩……」


「ピョンピョン。違うのですよ、タウ。言われたではありませんか、弱さを受け入れろと。その上で自分で信じられる何かを見つけて、それを芯とするのです。芯は心を支えるもの。そして体を立たせるものです」


「でも、それ、自分の力じゃ……」


「別にスワトの力を頼ってもいいではないですか。彼を信じられれば、我々はまだ動けます。動ければ、やれることもあるかもしれません。ここでへたっているより、前に進める可能性があります」


「…………」


 確かにそうかもしれない。しかし、それでいいのだろうかと自問が止まない。

 そんなタウに、クシィが近寄ってきて手をさしだした。

 反射的に、タウはその手を空いていた手で握る。


「あのね、タウさん。私たちだって、ここに守和斗がいなければこんな風にしていられないのよ。私たちにとっても守和斗は芯なの。その芯があるからこそ安心して、どんな無茶な修行でもやって、急激に強くなれたんだと思う」


「うむ。でも、頼っているだけではないぞ。いつかその芯を自分のものとするつもりだ」


 そう言うとタウの手を握るファイの手に力がこもった。

 同時にクシィの手にも力が入る。


「…………」


 2人の力が腕に伝わり、そして体に芯を通した。

 脚に力がこもり、タウもなんとか立ち上がれる。

 今もまだ目の前に立つ悪魔が怖ろしいことはまちがいないが、それでもなんとか立っていられるぐらいにはなれそうだった。


「ふむふむ。これで2人の威かし役は終わりかね?」


 今までタウの様子を面白がるように見ていた悪魔ダンタリオンが、小さなため息をついた。


「まったく肝試しに悪魔を召喚するようなマネはやめて欲しいものだ。……さて、これでやっと守和斗君の本題である契約に移れる」


 悪魔は踊るようにかろやかに踵を返す。

 そして結界の向こう側にいる魔神を指さした。


「さあ、守和斗君。あの出来損ないを斃す契約の代償はなにかね? ああ、もちろん趣旨はわかっているとも。大した代償など求めてはおらぬよ」


 悪魔は片手に持っていた本を空中にかるく放った。

 すると、本はまるで空気に溶けるようにその場から、すーっと消え失せる。

 指を1本ずつ折り曲げ拳を作り、それをまた逆の手順で開いていく。その指の動きは、ぐっとため込んだ怒りを解き放つ感情の表れに見える。

 タウは肌に先ほどからひしひしと、その殺気を感じていた。


「待てよ。俺はあいつを斃せなんて命令をしていないと思うが?」


 だが、その殺気を吹き消すように、守和斗が微笑を見せる。


「……これは異な事を言う。それ以外になにがあるというのかね?」


「ダンタリオン、貴様に命じようとしていることは、俺があのへなちょこダンタリオンを斃すまで、俺の仲間を守る事だ」


「な……なんだと?」


 悪魔が首だけをぐるりと後ろに向けた。普通の人間では考えられないほど、不気味に首が捻られている。


「ふっ、ふざけるでないぞ、守和斗君。きみならこの者どもを守りながらでも簡単にひねり潰せるだろうが……」


「そうだな。俺ならあの、くそ弱くて、かっこ悪くて、ださい簡単に斃してきてやれる」


「あの下等な魔物を我が名で呼ぶな! しかも、我の代わりに……だと? この大侯爵たるダンタリオンを愚弄するつもりか!? なんなら、ここにいる者を皆殺しにしてもかまわぬのだぞ?」


 一気に、悪魔の体から殺気が周囲に満ちていく。

 全身の毛穴から針を差しこまれるような感覚に、タウはまた倒れそうになるのを必死にこらえた。しかし、そこまでだ。体はピクリとも動かせない。戦うどころか逃げることもできない。今、ゆっくりと剣先を胸に刺されても、身動きもできずに受けいれてしまうだろう。


「――ったく。契約により召喚された悪魔が、そんな勝手なことをやればどうなるかわかっているだろう?」


 しかし、やはり守和斗は違った。怯えるどころか、不敵な顔で悪魔を脅しにかかっている。


「永劫の光に焼かれ続けるぞ」


「なんとも忌々しい。心から忌々しいことこの上ない。きみでなければ、契約を力ずくで破棄させることができるというのに。……しかし、この我を召喚したのは、我が名を名のる愚か者がいるから、その者を滅させるという趣向ではなかったのか!?」


「もちろん、同じ名前だから面白そうだと思い呼んだのはその通りだ。だが、だからと言って、貴様に斃させるとは言っていない」


「ふむ。ならば、命令を変えるのだ、守和斗君」


 悪魔が双眸に真っ青な炎が宿った。それは今までよりもさらに強い殺気だ。その全てが守和斗に向けられている。


「我にあの偽物を始末しろと命じるのだ」


 悪魔が守和斗へにじり寄る。すでに人には見えぬほど怖ろしく歪んだ面相を守和斗の眼前まで寄せていく。


「いいや。貴様は俺の仲間を守れ」


「ふざけるでない! 我に我が名を汚すあれを殺させろ!」


「ダメだと言っている。ちなみに俺の仲間を守った代償は、この異なる世界の知識だ。知識を欲する悪魔にはよい対価だろう」


「その程度で、今の我が満足すると?」


「充分だろう、こんな簡単な仕事なら適切だ。それにさっき自分で言ったじゃないか。『大した代償など求めてはおらぬ』と」


「そっ、それは我がこの手であの雑魚を引きちぎる場合の話であろう!」


「それよりも簡単な仕事なのだから、やはり充分な対価じゃないか」


「……はぁ~。どういうつもりだ、守和斗君」


 悪魔は身を退くと、ため息と共に少し冷静さをとりもどした。

 脅しても無意味と改めて実感したのだろう。最初の口調に戻って、ゆるりと口を動かす。


「きみが戦うのだから、一瞬で終わる。この者達の守りなどいらぬはずだ。まさか本当に、ただここに案山子のように立っているだけのために、我を召喚したわけではあるまい」


「なに。あくまで保険だ。念のために守ってもらった方がいいだろう。ここは異世界で、何があるかわからないからな。ただ……」


「ただ?」


「ただ、契約をしたくないなら無理強いはしない。帰ってもいい」


「なに?」


「3分ほど待ってもらえば、帰還の術式を組み立てよう」


「3分だと? きみが、そんなに時間がかかるわけ……はっ! まさか……」


「その3分間は、俺たちに危害が及ばないかぎり、この部屋中で自由にしていていい。それを守ってくれれば、召喚による契約は無効として帰還させる。もちろん貴様が帰還した後、へなちょこダンタリオンは俺が滅して貴様の名誉を守ってやろう」


「くっ……くっくっくっくっ……」


 唐突に悪魔の喉からもれていく笑い声。

 手で顔を覆いながら、両肩を激しく揺らし始める。

 そして我慢できなかったのか、悪魔は高らかに笑い始めた。


「あははは! ふむふむ、なるほど。どこまでふざけた奴なのだ、きみは。我にただ働きをさせるつもりか」


「別にそんなことは言っていない」


「契約を守ろうとする悪魔をただ働きさせるなど、悪魔より悪魔らしいではないか。……しかし、我がきみの思惑にのるとでも?」


「なんのことかさっぱりだ」


「我としては、立っているだけで異界の知識が得られるのは利益しかないわけだが?」


「ならば、名誉も誇りも無視してそうすればいい」


「にっ、人間ごときが……。いや、きみはもはや人間ではなかったな……」


「御託はいい。悪魔ダンタリオンよ。そろそろ最後通告アルティメイタムだ」


 悪魔に一歩も引かない守和斗は、目の前の胸を貫くように指さした。その指先から放たれた意志は、まるで悪魔にトドメを刺す聖なる楔のようだ。なにしろ、悪魔の身体が一瞬で硬直している。


「どちらかを選べ。選べぬなら、当初の予定通り契約を施行する」


「ぐっ……」


 悪魔ダンタリオンの両肩がガクリと落ちた。

 同時に大きな大きなため息がもれる。


「久々に聞いたな、きみの最後通告アルティメイタム。この通告のあとの決定は、今まで一度たりとも覆されたことがない……それは今も変わらぬのと?」


「そのつもりだ」


「ならば、かつての最後通告アルティメイタムどおり、サタン様を斃したのか?」


「一応、斃したはずだが、正直なところアイツだけは根が深いからな。斃さずに封印するべきだったかもしれないが」


「……ふぅ。やれやれ。本当にサタン様を斃すとは。圧倒的な異能をもち、心も読ませず、欲望に揺れることない。その力で、我を含むゴエティアの悪魔72体のうち52体を手中に収め、それどころか六大魔王の2名をも手にいれ、第一位の大魔王とも手を組み、最強と言われたサタンをも斃した者……。きみは、人間どころか悪魔の枠をも超えてる。大魔王の頂点ではないか」


「だから?」


「そんなきみに、我が最初から逆らえるわけがない、という話だ。もしかしたらあの戦いで弱っているかもと思ったが、いやはやその気配もない。……というわけで、茶番はそろそろやめにしよう」


 そう言うと、悪魔ダンタリオンは片膝を地につき、頭を深々とさげた。


「すべて御心のままに。我がきみよ」


「3分だ……」


「ありがたく頂戴いたします」

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