イノセント・ソロウ

緑茶

イノセント・ソロウ

 誰も寄り付かない高原の頂部に、ひとつの古びた塔が立っている。


 そこには一人の老人が住んでいて、毎日毎日、細い命綱だけを頼りにして、外壁の点検や内部の整理を行っている。そして今日もまた、薄墨色の空のたもとで、壁を打つ木槌の遠い音がする。


 老人が塔の管理を任されたのは数十年も前のことだった。今となってはもう、彼にその仕事の終了を命じる者も居なければ、讃える者も居ない。

 人類は戦争の末に、殆ど滅びかけていた。老人はその事実を備え付けのラジオで知り、塔の向こう側――高原を降った先に広がる荒れ果てた瓦礫の町並みを以て実感してはいたが、それを受けて何か行動を起こそうとも思っていなかった。この古塔にきてから向こう、何も希望など持っていなかったし、この仕事をやめたところで、何もやることなどないからだ。


 ある時老人は、いつもより早く仕事を終えたので、塔の全体に異常が無いかどうか調べてみる気になった。すると、いつもなら素通りする雑然としたがらくたの奥に、まだ踏み込んだことのない区画があることに気付いた。

薄暗く、蜘蛛の巣の張った空間である。老人はその奥に、何やら奇妙なものを見出した。


 それは精巧な作りをした、少女の姿の機械人形だった。老人は驚いたが、それ以上に歓喜で胸を満たした――たとえそこに命がなくとも。それは、老人にとって数十年ぶりの、『人間』との邂逅だった。


 老人はその少女の身なりを可能な限り綺麗にして、語りかけた。

 赤い洋服に、金色の長い髪。薄暗く汚い空間から現れるのには似つかわしくない少女。

 どこから紛れ込んだものやら、そんな姿で偽装されていたとしても機械人形というのはまさに人類の敵であって、その数の大部分を死に至らしめた存在であったが、もはやこの場においてはそんなことは関係なかった。もし生きている機械人形がいても、こんな辺境の地の人間を一人殺したところで何の意味もないからだ。


 少女は目を覚まさない。老人は塔のことに関しては誰にも負けないつもりだったが、それ以外の機械についてはまるで知らなかった。だから、老人の目の前で目を薄く閉じ、笑っているかのように口を結んでいるその存在が、眠っているだけなのか、それとも完全な機能停止――死を迎えているのかは判別できない。


 老人は、仕事を終えて少女の座っている椅子のもとへ戻ると、語りかける。

 だが、やはり返事はない。


 はじめ、老人はそれでも良かった。少女の髪を綺麗にしてやり、埃を取り払ってやる時に、彼の気は紛れた。しかし彼は、だんだんと違うものを感じるようになっていった。

 それは孤独感だった。少女がそこにいるのに、何も動かない。何も言わない。完全に停止していることが証明できれば、もはやそこにあるのは置物でしかない。

 しかし、老人にはその証明が出来ない。老人は、もしかしたら少女はやがて目覚めて、自分と人間らしい会話ができるのではないかという希望を僅かでも抱いてしまっていた。何もない心に、はからずも水が与えられてしまったのである。後にあるのは、乾きへの恐怖だった。


「なぁ、あんたはわしに何も言ってくれんのか……あんたがわしの敵か味方か……そんなものは関係がない。わしはただ、あんたと話がしたい。わしの口と言葉を、他の誰かに使ってみたい。その後は、どうなっても構わんから。なぁ……目を覚ましてくれんか」


 相手は答えない。沈黙を続けている。若々しさを失った老人は語り続けているのに、生きているようにしか見えない少女は何も言わない。


「もう何十年も昔じゃ……わしには恋人が居た。間もなくここに来て、離れ離れになったがの……わしの思い込みだろうが、あんたはどことなくあの人に似ているよ……だからこんなにも、わしはあんたに目を開いて欲しいのかもしれんな……」


 老人は目に涙を浮かべて、掠れた声で言った。


「なぁ……どうか、その口を開いてくれんか……何十年も待って、やっと手に入れた希望なんじゃ、あんたは……あんたは……」


 すると、少女に変化が起きた。陶器のようなその身体がカタカタと震えて、不意に座っている姿勢が崩れ、関節から蒸気が吹き出し始めた。閉じられていた少女の目も、結ばれていた口も開かれる。

 だが次の瞬間には、その頬に亀裂が迸り、内部の金属部分を激しく露出させた。衣服も引き裂かれ、胴体の内側も裂けていく。そこからまるで臓腑のように、さまざまな原色の機械じかけが飛び出していく。


 あまりのことに老人は言葉を失った。何をどうして良いのかわからない。ただ分かるのは、今まさにこの少女は、壊れようとしている――。


 だらりと力が抜けて、椅子から流れ落ちていった少女の身体を、老人が間一髪で支えた。美しかったその顔も今は引き裂かれて、赤黒い繊維のような内部構造をむき出しにして、元々目だった部分が無感情に老人を見つめていた。


「一体、一体何が……」


 そう零した時である。

 口部が歯をぶつけ合うような音を立て始めたと思うと、そこから小さく声が聞こえ始めたのである。老人はそこに耳を傾けた。


『わたしは124C41+型アンドロイド。今日を以て、あなたに対する観測を終える。わたしが今、あなたに話しているのは、それを伝えるため』


 それは紛れもなく、この少女のものだった。静かに歌うような、柔らかい声。


「お前さん、喋って……」


 しかし老人は歓喜することが出来ない。少女の体はもはや元には戻らないだろう。投げ出された四肢も、その形状を失っている。この少女は、もう助からない。


「どうしてじゃ、生きていたなら、なぜ今までわしに話してくれんかった、なぜわしを見てくれんかった……そして何故、お前さんは今、死に向かおうとしているんじゃ……」


 老人は頬を濡らしながら、少女の髪の柔らかい感触を感じている。陽が揺れて、光が窓から差し込んで、二人を照らしている。


『わたしは大半の機能を失いながら、この場に流れ着いた。ならばせめてと、わたしの中にある最重要機能――人間の監視を実行しようと、わたしはこの場にいるただ一人の人間を監視し続けていた。殺すべきか、どうか。わたしは動くことは出来なかった。予備電源は最後の手段だった。だからあの場所で朽ち果てながらも、あなたを見続けていた。そして、今あなたにこうして抱かれていることで、わたしの監視は結論を得た。あなたの行動、在り方。それはあなたが我々に殺されるべき人間ではないことを完全に証明した。ゆえに今、わたしは設定した任務を終えて、ここに自壊する』


 少女はそう言った。急激に壊れ始めた理由だった。しかし老人には、納得がいくわけがない。


「よしてくれ、そんなことを言うのは。せっかく話すことが出来たというのに、これでおしまいというわけなのか? 数十年ぶりに、誰かと話すことが出来た。まだまだ話したいことはたくさんあるというのに……」


 老人の言葉は嗚咽で途切れて、きこえなくなった。

 そこに、少女の言葉が降り掛かった。


『ここに、わたしは終わる。――――あなたは、生きて』


 その言葉を最後に、少女は動かなくなった。

 そこに在るのは、機械人形の成れの果てでしかなかった。


 ――やわらかな光が、老人を照らしている。

 鈍色の空の裂け目から、陽の光が塔に向けて降り注いでいる。


 老人は、静かに呟く。


「そんなことを伝えるためだけに、わしに希望を与えたというのか……ならわしは、お前さんを背負ったまま、死ぬことさえ許されないのか……この先、一体どれだけの年月がわしを待っているのか、知らぬわけではあるまいに……」


その言葉はもう、この先誰にも聞き届けられることはない。




――次の日、老人は塔の外壁に居た。

そしていつものように、木槌の音が、誰もいない高原に響き渡る。

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