個人的な好き嫌い

 今から書く事は完全に個人的な感性の話なんですけど、ぶっちゃけ私はあんまり仏教が好きではありません。これは仏教の思想の好き嫌いと言うよりお坊さんが好きではないから、なのでしょう。


 今のお坊さんの多くは葬式仏教になっていて、決められた事をこなすだけのお仕事になっています。長く続けていく内にそうなってしまった部分もあると思うのですが、これが自分的にどうにも惰性で続けているように感じられて嫌なんですよね。


 伝統的な宗教は多かれ少なかれそんな傾向にあるとは思うのですが、やっぱり目に見えないものを扱うものですから、多少の霊能力的なものは備わっていて欲しいと思うんですよね。


 勿論仏教が苦手な点としてはお坊さんの悪印象と言うのもありますね。江戸時代のお坊さんは多くの庶民に慕われていたと思いますが、今は慕われているお坊さんはその頃に比べたら減っている事でしょう。かつてのお坊さんの役割を今は別の人達が担っています。何か困ったらカウンセラーがいますし、勉強は学校が教えています。


 それがお坊さんの高感度の下がった要因のひとつかなとも思います。現代社会でお坊さんと触れ合う事ってあんまりないのではないでしょうか?

 結局残されたのは誰も変わりがいない儀式的なところだけ。主にお葬式関連ですが。


 念仏唱えているだけのお仕事で、税制的にも優遇されて、お布施や戒名代等でお金がガッポガッポ。そんなイメージを多くの人が持っているんじゃないかと思います。実態はお寺によっても全然違うと思いますけど。


 映画『僕は坊さん』はお坊さんの実態について原作者の僧侶の人の実体験から生まれた作品ですが、そこで描かれた世界観に霊能的なものは全く描写されていませんでした。飽くまでもお坊さんの日常の描写だけ。お坊さんと言う”職業”を選んだ主人公の悲喜こもごもがそこにはありました。きっとそれが現実なのでしょうね。あえて現実感の乏しい霊的な体験を省いた可能性はありますけど。


 後、葬式仏教と化した日本仏教のシステムも好みではありません。人は死んだら皆仏と言うものです。そんな訳ないじゃないですか。信仰したらそうなる? それだけでは足りませんよね。本来は悟りを開かないと仏にはなれません。ぶっちゃけ、お釈迦様みたいな人にでもならない限り仏様になんてなれない訳ですよ。


 死んだ人にいくら念仏を唱えたって仏にはなりません。あれこそ馬の耳に念仏です。念仏は生きている人の為のものです。生きている人に仏教の教えを伝えるのがお経です。そりゃあ霊も聞く耳を持っているかもですが、まずは生きている人に聞いてもらって少しでも生き方を良くするべきものなんですよ。


 お経って意味の分からない言葉のように聞こえるかも知れませんが、決して暗号ではありません。よく読めば宇宙の真理などを完結に示した哲学書のような内容だったりします。唱えれば悪霊を退散させられる便利アイテムじゃないんですよ。


 全ては葬式仏教のシステムの弊害です。江戸時代、みんなどこかの寺の檀家にしてしまう為に色んな都合の良い仕組みで誤魔化したんです。みんな、よく分からないけどとにかく有り難いものだと理解を丸投げしちゃってるんですね。


 本来の仏教と言うのは悟りに至るためのノウハウを伝え実践するものでした。その原点に立ち返ったものなら好感も持てるのですけどね。

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