34.狂乱波乱の舞台演出Ⅶ
「俺は、マイたちのために戦ってるんだ」
自分に言い聞かせる声は、ひどく掠れてしまっていた。口腔から排出してきた様々な体液が喉を傷つけたらしく、言葉を喋るたびに鋭い痛みが全身を走る。それでも、バジルが独り言をやめることはない。
ここに来るまでに、一体どれほどの血液を吐き出したのか、バジルにはもうわからなくなっていた。彼の人知を超えた血液量をもってしても、大食らいの魔剣と共闘するにはまだ不足なくらいだ。
しかしそれ以前に、無色透明の剣とショットガン並みの威力を持つ銃を向けてくるローブの輩との戦闘で、出血・治癒・刀身のために大量の血液を消費した。そのため今は意識が朦朧として、もはや人間の表情や周囲の風景をはっきり視認することができていない。
「俺は血がある限り死なない。マイたちを守れる」
バジルは、今すぐにも消えてしまいそうな意識をなんとか保とうと、自らに称賛の言葉をかけ続けた。自己犠牲こそ自分の戦い方で、自分が仲間を守る手段だから、己の負った傷の全てが栄誉なのだと必死に訴える。
おぼつかない足どりで、虚ろな表情と僅かに残った理性を引き連れて、バジルは先日のトラウマが導いてくれる『あの場所』へとひたすら歩き続けた。
数分後、辿り着いたのは記憶の中でも特に鮮明に残っている、荘厳な佇まいの大門。
以前に見た時は固く閉ざされていた門だが、すでに大口を開けており、視界に映るその向こう側は相変わらずの暗黒世界だ。
洞窟の入口から差し込む陽光どころか、一切の灯りを受けつけない完成された闇、一度足を踏み入れたが最後脱出することの叶わない異空間。前回と全く同じような印象を覚えたバジルの四肢は、畏怖の念に駆られひどく粟立っていた。
しかし今は、恐怖心よりも使命感のほうが勝っている。バジルは躊躇することもなく、胸を張って一歩踏み出した――、
「あァあァ、なんッて醜悪な格好で来てンだかァ……」
「――ニーデル・カーンだな。先日は世話になったよ」
「おォ、やけに冷静じゃねェか。下ッ端の返り血で、頭ァ冷めたのかよォ?」
長時間に渡って自分をなぶり続けた悪魔を前に、うろたえることもなく冷淡な態度を取るバジルに、狂人さえも驚愕の表情をする。最初にバジルの様子を見た際には、虐めすぎてネジが飛んでしまったのだと思っていたが、彼の余裕綽々たる微笑を確認すると、狂人は安堵に胸を撫でおろした。
仄かに視認できる刀身をバジルの鼻先に突き立て、ニーデルは一笑する。言葉にはしなかったが、これが彼にとっての宣戦布告なのだ。
相変わらず攻撃的な姿勢をとる彼を見て、バジルは小さく鼻で笑い返し、
「ここの空気は澱んでるんだな。実際に見えなくても、その剣を見ればわかるよ」
「……ほんッと、アンタァ大丈夫か? ッてか、戦う気あンのかよォ?」
「勿論、そのためにここへ馳せ着けたわけだし」
「あァあァ、そりゃお手数かけましたッてな。まァいいさ……構えンな」
ニーデルは、眼前で凶器を持て余している少年を眼光鋭く睨みつける。少年は口元の微笑をより意地汚い三日月型に変えると、両手の得物を下げたままニーデルのほうへ歩き出した。
「下ッ端のを観てたンだが、やッぱ頭ァおかしくなッてンじゃねェの!?」
「俺は元からおかしいよ。髪が白いし、人見知りするし、変なことに巻き込まれるし。お前に言われるまでもなく、俺はだいぶ前から気が狂っているさ」
「わかッてンなら、構わず走ッて来いやァ! なァにチンタラ歩いてンだよォ!」
「もう、約束は破っちゃったからな。せめてお前だけは……って、思ってるんだ」
「意ィ味わかんねェンだッつッてんだろォ!! 俺ァ、先制攻撃は好かねェンだよ!」
「また『ジュエリーハルクの美学』か。そういえば、うちのヴォルカンもそれ好きだったな」
「温室育ちのボンボンと一緒にしてンじゃねェッ!!」
不毛な言葉を交わす一方、ニーデルは千鳥足で自分のほうへ近付いてくる少年にたいへん怯えた様子で、震えながら上擦った怒鳴り声をあげ続けている。無論、彼の怒声はなんの抵抗にもなっておらず、むしろバジルの放つ狂気に拍車をかけているようにも思えた。
愉悦に満ちた笑みを浮かべながら、一歩、一歩確実に前進していくバジル。
そして背後に暗黒世界があるため、これ以上後退することができなくなり、殺意を剥き出しにして武器を構えたニーデル。
昂りと嫌悪感が交錯するその空間に、水を差す者はもういない。仮にまだ残党が残っているとしても、大将の首を死守するために持ち場から動くことは考えられないため、まさに完璧な一対一の対決が実現した。二人の表情と佇まいから、この死闘が長丁場になる可能性も考えられたが、少なくともニーデルは一撃必殺の構えでバジルを睨みつけている。
先制攻撃を好まないと語るニーデルは、その言葉どおり、白髪少年が挑発のごときのろまな歩みを継続していても、決して手を出さない。
現状の生殺し状態に奥歯を噛みしめながらも、彼は必死に欲望と戦っていた。もはや罵倒の声さえも発さずに、ただ濁り色の切先を白髪の少年に向けているだけだ。
そしてついに、バジルとニーデルとの距離は1メートルを切った。双方ともに、己の武器で相手を攻撃できる範囲内であり、バジルによる斬撃を予測したニーデルは、咄嗟に刀剣を横に構え直す。こうすれば、不可視且つ折れることのない風の刃が盾の代わりをなすため、たとえ自在剣の一撃だろうと容易く受け止めることができる。
「へへェ、どうだァ? 来るンだッたら、早くシてくれよォッ!」
「ニーデル、俺はどうしたらアリシアに嫌われずに済むかな?」
助けを乞うような発言をしたにも関わらず、バジルは右手に握った黒い柄を大きく振り上げる。そのままニーデルの脳天目がけて振り下ろせば、難なく両断できてしまうだろう醜い血の剣を前に、なぜかニーデルは舌なめずりして、
「もォ、アンタに挽回の余地なんかねェッての! なァ、気狂い野郎ォ」
「そうか……なら、あとで謝っておくよ」
その刹那、バジルは右手と共に刀剣を振り下ろした。――しかし、不思議と強烈な剣戟の音がすることはなかった。ただ細い物体が、狭い空間を素早く移動しただけの、風を切る音。
「――お前の分もちゃんと謝っておくからさ」
「――――ッ!!」
……バジルが振り下ろしたのは、血の霧でできた刀身がない、ただの真っ黒い剣柄だった。
ごく短いその柄は、ニーデルが横に構えた不可視の刃の前方をかすめ、彼の細い腹部と水平の位置で制止。その光景を認識したニーデルは、バジルが即座に第二撃を見舞うために繰り出した囮の一撃だと判断し、右手の柄を高く振り上げた。
もしも彼が短時間で見出した答えが真実だった場合、すぐにカウンターの斬撃をバジルの無防備なこめかみに炸裂させることができる。数分後にニーデルが完全勝利する姿を容易く想像できる程に、バジルの敗色はたいへん濃い。
するとバジルは、再び口元にニタァと下卑た笑みを浮かべて、
「自在剣の由来と使い方、ちゃんと覚えたほうがいいぞ」
「今さらァ、何言ッてンだ――ゥ……!?」
刀身のない剣柄をニーデルの鳩尾辺りに力強く押し当てた瞬間、柄の噴射口から赤黒い霧が裾広がりに噴き出し、黄土髪の狂人の華奢な肉体を貫いた。
穿たれたことで新たに開いた細長い穴から、バジルと異なり赤橙色に近い色の血液が、滝のような勢いで流れ出でてくる。切先から突き立てられたため、現在ニーデルの身体は串刺しにされている状態であり、前後から出血するため彼の足下に広がっていく血だまりの大きさは、かなりのものだった。
「あ、あァあァ……やッばいねェ。もォ、意識トびそーだわァ……」
「元々、プールの規模が違うからな。当然そうなるさ」
完全に気を失う前に、ニーデルは震える手で自在剣の黒い柄を握り、腹を貫いた刀剣を自ら引き抜いた。そして裾広がりの切先が抜けた途端に、狭い歩幅と今にもこけそうな素早い足どりで約4メートル後方まで後退る。
「おィおィ、なんで追撃しねェンだァ……? 横か縦に叩ッ斬れただろォが!?」
無意識に左手で患部を押さえるニーデルは、白髪少年の一挙一動がはっきりしないことに腹を立てている様子で、先ほどの少年の詰めの甘さを追及する。
もしも、バジルが「仇相手に復讐したい」気持ちを抱いていたのなら、彼が自在剣の刀身をニーデルに突き刺していた間に、縦方向か横方向に剣を振るえば良かったのだ。
人間の肉体をまるで豆腐のように容易く貫くことができる魔剣ならば、狂人の身体を二つや三つに斬り裂くこともなんら難しくはない。バジルの完全勝利がその時点で決定していたはずだ。
しかしなぜ、白髪の血まみれ少年がそれをしなかったかというと、
「なんでって……それはアリシアとの約束があるからだ」
「アンタなァ、もォ約束なんぞ破綻してるッつゥのに、まァだほざくかよォ!?」
「でもニーデルを傷つけちゃったし、これ以上の攻撃はさすがに避けたいな。……だから斟酌して、あと一撃だけで済ませてやるよ」
「ン、だとォ……上等じゃァねェか……」
荒い息に肩を揺らし、野放図に伸びた黄土色の髪の毛を乱暴に掻き毟ると、ニーデルは半透明の刀剣を後方に構え、足を大きく広げて腰を落とす。間違いなく本気の戦闘態勢だ。
「一応聞ィとくが、リーシャは何ッて言ッてたンだァ?」
「……アリシアのことか。あの子には『誰も殺すな』って言われたよ」
鬼気迫る表情でニーデルが訊ねても、バジルは不気味な微笑みを浮かべながら至極淡々と答える。あの人間味に満ちた金髪の少女の兄として、その彼女から希望を託された目の前の白髪少年に問うたはずだったが、肝心の少年は兄の胸中など露知らずといったふうに、義務的な返答をしたのだった。
バジルの態度に、きりりと目を細めたニーデルは呆れ顔で嘆息すると、
「だッたらもォ、アンタに対しては完ッ全に脈なしッてェわけだ」
「何を言いたいのかはわからないけど、帰ったら脈どころか信頼すらないだろうな」
「そうか……。なら、もう死ねよ――」
途端に表情を憤怒に染めたニーデルは、バジル目がけて勢いよく前方へ跳躍する。
まるでひ弱な兎を狩る虎のごとく雄叫びを上げながら、ニーデルは獲物へ迫り、右手の剣を斜めに振り上げると、狙いどおり獲物の頸部へ渾身の一撃を繰り出した。
だが、彼の斬撃の軌道を読んでいたバジルは咄嗟に体勢を低くして、刀身の消えた黒い柄を再びニーデルの腹部に添える。一連の動作でニーデルは、バジルがまた彼を串刺しにしようと考えているのだと理解したのだが――、
「だから、自在剣の仕組みをもっと勉強しろってば」
「どォいうことだァ――ッ!!」
ニーデルは喋り終えることなく、突如発生した爆発によって勢いよく吹き飛ばされ、そのまま洞窟のさらに奥にあった暗黒世界へと飲み込まれてしまった。
彼の全身を襲った爆発は、バジルは自在剣の原理を応用して発生させた血液のジェット噴射だった。
要は刀身となる超高圧の霧を瞬間的に短距離で噴射したのだが、その威力はバジルの予想を遥かに凌駕しており、ジェット噴射が炸裂したニーデルが今はどうなっているのか、こちらからは全くわからない。
「……早く、終わらせようか」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
そのあと、バジルは躊躇なく暗黒世界へ足を踏み入れた。
どうやら中に入ると内部が視認できる構造らしく、しかしその情景は想像と大きく異なり、洞窟の延長といった印象の岩々とした空間だった。
洞窟の外で見張りをしていた大勢の人間、入口の大仰なつくりの大門、外界の情報を一切受け付けない完全な闇、ここに来るまでの様々な要因を全て台無しにした平々凡々な岩石世界。
その入口手前で、先ほど猛然と吹き飛んでいった黄土髪の狂人が情けなく臥せっている。全身血まみれのうえ腹には穴が開き、顔面や露出した四肢が青白く濁っている彼の姿は、本当に死んでいるとしか思えなかった。
「君かね。ニーデルを屠ったのは?」
「残念ながら、彼はまだ死んでいない。……残念ながら」
屍のように横たえた男を眺めていたバジルが答えると、奥部から笑い声が返ってきた。以前に聞いたことのある男によく似た、男性にしてはトーンの高い声。
「――アズガルズ・カーン。あと数分後に、俺がお前を殺す」
「そのようだね。わたしとて、君のその殺意を理解し得ないような、愚鈍な人間ではない」
アズガルズの妙に落ち着いた態度など意に介さず、バジルは右手の剣を構えたまま徐々に歩を進める。玉座紛いの高級そうな椅子に腰をおろした恰幅な男は、いまだうろたえることもなく、少しずつ己に迫ってくる脅威をじっと眺めていた。
玉座のある小さな丘へ、階段を昇り近付いていく。
そしてバジルはついに、これまでの事件の大元である男の目の前に、おぞましい血の刃を突き立てた。
「俺としては、たとえ敵だろうとアリシアの父親を殺すよう指示したお前に、謝罪の一つでもして貰いたいところなんだけどな」
「君にそれを言ったところで、何があるというのかね?」
「至極純粋に、気分がいい」
「それならばわたしも、部下のほとんどを汚れ切った兵器で惨たらしく斬り裂いた悪魔を、気が済むまで仕置きし、一生懺悔させたいところなのだが」
「気色が悪い。そういうのは、少なくとも男の前で言うセリフではないな」
「……茶番が過ぎた、か」
バジルとのやり取りにため息をつくと、アズガルズはその場でゆっくりと起立する。
「奴の抹殺を命じたことを悔いる気など毛頭ないのだが、ニーデルとアリシアから両親を奪ったことについては、深い慙愧の念に堪えない」
「両親、か……それで?」
「遺言を頼みたい。ニールには本家に戻れと、リーシャには両親の死に報いよと」
自身の甥と姪に宛てた遺言を言い放つと、アズガルズは左の袖から一本の黒く細い棒を取り出す。途端にバジルは驚愕の表情をして、構えていた剣をおろした。
「よく聞け。アズガルズ・カーンは、ホワイトに憧れ、サーカスを妬み、萩谷を敵に回した、ジュエリーハルクに次ぐ惨めで憐れな男である」
袖の中から快音が響いたその刹那――赤橙の醜い剣が、アズガルズの心を抉り取った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
黒崎麻衣、もといカーマイン・ローレンスは任務に忠実な少女だ。
新人類になったあの日から変わらず、たとえ人を殺めろと言われたとしても、任務を拒むことなど決してなかった。いつも寡黙で不愛想で、それでいて何事にも真剣な少女。
彼女はメリハリのある人間で、誰でも愛することができる人柄で、だからこそ任務と日常を区別することがあまりできていない。
仮にそれが自身に殺意を向けてくる敵であっても、他者を傷つけることに変わりはないと、彼女は敵を倒す前に必ず謝罪をする。常人には理解し得ない彼女のこの行為こそ、彼女がいつも任務に真剣であることの証左なのだ。
だからこそ――許すことができなかった。
「……ジル」
通り雨にさえかき消されてしまいそうなか細い声で、少年の名前を呼んだ。
洞窟から還ってきたその少年の容貌は、もはや生死の区別がつかない程に憔悴している。今にも倒れてしまいそうな上体は、その実健康的な紅色にまみれていた。
右手には血液が錆のようになってこびり付いた黒い棒を持ち、左手でボロ雑巾のようになった細身の男を引きずって、虚ろな双眸でこちらを眺めてくる。
塵芥の澱みもない空っぽの瞳を見つめ返すと、まるで自分の心まで覗き込まれているような錯覚に陥る。形容するならば、それは真っ青な天空のように澄んだ眼であった。
「……ジル」
「ごめんね。俺、どうかしてたよ」
今頃正気に戻ったような発言をするバジルは、何かに安堵しているようにも見える。自分の視界に広がる、自らの手で作ってしまった醜悪な光景に対しても、特に取り乱すようなこともなく、ただ徒に佇んでいるだけだ。
「じ、じぃ……自分が何をしたのか、わかっている……?」
「この状況で、肯定するのはさすがにないよな。全然理解できてないよ」
「……ジル」
一貫して平淡な態度をとるバジルに、罪悪の感情など微塵も感じられない。
彼の清々しい微笑みは、さながら母親のお手伝いをこなした子供のような、純真無垢で自信に満ちたものだった。
この問答に痺れを切らしたマイは、唐突に囁く。
「わたしは、今もずっと、ジルのことを信じているわ」
「――――」
「だから、けじめをつけないといけない」
マイは懐からグレーの無線機を取り出して、本部との通信を試みる。一瞬の鈍い音と共に、若い男性の声が聞こえてきた。
「――本部に連絡。敵勢力は完全に沈黙しました」
凛とした響きは、明らかに震えている。機械の向こう側の声も、マイの不審な様子に困惑の声を漏らす。
――そして、
「それで、作戦は……失敗しました」
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