21.誰の所為でもない
2021年8月28日土曜日。神奈川県川崎市、私立新川学園、高等部1年1組教室。
午前8時30分。
体育祭当日の生徒の登校時間は、中等部が9時で高等部が8時30分となっている。尤も、各クラスから選ばれたクラス代表役員の登校時刻は7時30分である。
緊張感を覚えつつも、心に余裕を持って登校してきたバジルの耳に『凶報』が入ったのは、教室に入ってすぐのことだった。
「楠森ぃ。ちょっといいか?」
早々にバジルに声をかけたのは、普段から怠惰な雰囲気を纏った担任教師。
彼女の日頃の行いもあってバジルは警戒したが、女性の表情はどこか暗く、もどかしさが滲み出ている。その顔を見ても最初はわからず、低く小さい声で返事をした。
「まあその、なんだ……ちょっと言いづらいことでな」
「せ、先生が言いづらいことって……下ネタでも校長への悪態でも、余裕綽々と言ってのける先生が、俺に一体何を言いたいっていうんですかね……?」
この時点でバジルは、彼女の異常をなんとなく察知していた。
正直、女性が告白するのをためらっているのは、バジルに対する負い目があるからではないだろう。
そう考えると、体育祭本番の直前になって何か不都合な出来事が起こってしまい、またその出来事のどこかにバジルと接点があったので、今こうして打ち明けようとしている――という可能性がある。尤もこれは憶測であり、事実無根である可能性も十二分に考えられる。
しばらくバジルが黙考していると、ついに女性が重たい口を開いた。
「まさかの愛理が、高熱を出して欠席だそうだ。残念だが、楠森……他とペアを組んでくれ」
「…………」
――担任の態度から、大凡察しはついていた。
それでも彼は絶句して、驚愕の表情を禁じ得なかった。今日まで毎日、一緒に練習してきたパートナーが、その成果を存分に発揮する本舞台の前に体調を崩した。
この事実はバジルにとって、ただの自己嫌悪に陥る材料にしかならない。
自らが加減をしなかったから――愛理の体調を随時確認しなかったから――心の優しい彼女に身を委ね、甘えてしまったから――だから彼女を隣に立たせてあげられなくなったのだと、自分を責める。
傍目でもわかる程の動揺を見せながら狼狽するバジルに、担任の女性はなんと声をかけたらいいのかわからなくて、結局は目を伏せながら黙っている。
そんな自分に慙愧の念を抱く彼女もまた、一人の生徒の晴れ舞台を見守ることができなかった無念に嘆いていた。
1年1組での愛理の存在は、予想以上に大きなものだ。誰とも仲良くなれる、真面目で人のことを想いやれる少女は、全員が知らない間に全員を支える存在となっていた。
そんな彼女の「体育祭を頑張りたい」という切なる願いは、思わぬ形で霧散してしまった。その原因がたかが風邪だろうと、クラスメートたちの精神的な痛みは凄絶なものである。
「あの、先生。郷さんの代わりに、わたしが楠森くんとペアを組んでもいいですか?」
沈鬱した空気の中、一人冷徹な面持ちで佇む黒崎麻衣が唐突に、愛理の代役をしたいと言い出した。
すると途端にクラス内の雰囲気は明るくなり、小さな拍手がその場を彩る。
――しかし、担任の女性はたいへんな剣幕で笑顔の生徒たちを一瞥し、麻衣のほうを向き直ったのち大きなため息をついた。
彼女の行動によって、一時賑やかさを取り戻していた教室内に再び静寂が訪れ、暗雲が立ち込める。
「黒崎ぃ、お前は本心から代役をやりたいって思ってんのか? ただ状況やダチの言葉に感化されて、生半可な正義感とか友情で愛理の代わりをしたいっつってんなら、見当違いも甚だしいとわたしは思うんだがな」
「……わたしは本気で、郷さんの代役を務めたいと思っています」
女性がドスの利いた声で捲し立てても、麻衣は折れることなく宣言する。
だがその一言が決め手となり、女性は四肢を粟立てながら断言した、
「愛理以外に、愛理とおんなじように走れる奴なんていねぇんだよ。今から練習したって、お前らの誰も愛理には敵わないし、楠森ともまともに走れやしないって。それくらい解れよ」
女性は自分が担任を務めるクラスだからこそ、自分なら愛理の代役をできると驕っている、麻衣や彼女に声援を送る生徒たちを許せなかった。本来なら、自分は愛理の代役をしたいと宣言してくれた麻衣を応援する立場にあるのだろう。それでも慢心を認められなかった。
彼女の容赦のない発言に、教室内が凍りついた。バジルの顔も引きつっている。
そんな中、今まで黙っていた麻衣が突然――悲痛な声で叫んだ。
「わたしとジルのことを、否定しないでっ!」
短い訴えだった。麻衣はその刹那に自分の発言を顧みて、何を言ったのか思い出して、いたたまれなくなり教室を飛び出した。
彼女のあとを追う影はどこにもなく、先ほどまで剣呑な雰囲気を醸していた女性さえも唖然としている。女性は、麻衣が発狂しておかしくなったとは考えなかったが、教室内で佇んでいる生徒たちの中の数名は、胸中で麻衣のことを気狂い女だと揶揄していた。それは見事な掌返し――現状しか受け止めることのできない、憐れな性だ。
麻衣が教室を駆け出して行った十数秒後、今頃になってようやく現状を理解したバジルは、胸を右手で力強く押さえつけながら廊下へ飛び出した――。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
『生真面目でお人好しで、もの凄く生きづらい人生送ってる人だよ』
バジルの脳内を駆け回る、ラボンの発言。つい先日に聞いたばかりのその言葉は、マイの人物像を的確に見抜いた者の、ある種予言だった。
つい先ほど、柄にもなく大声で怒りを露にしたマイ。
彼女の行き先を探しながら校内を走り回っているバジルは、その実彼女の行動の理由がわかっていない。
今の彼の見解は――担任の女性に捲し立てられたうえ、婉曲に低能だと罵られたことが彼女の逆鱗に触れた、こうなっている。愛理の欠席に責任を感じているバジルは、マイと担任とのやり取りをいち傍観者として見ていた。彼がこう考えるのも自然だろう。
――しかし言うまでもなく、現実と推理には大きな齟齬が生じている。
――いやむしろ、なぜマイの訴えを聞いて目に見える真実に至らないのだろうか。
片や元コミュ障持ちの凡人、片や現コミュ障持ちの完璧超人。この似通った二人の間で一体何が起きているのか、正直理解できない。
それでもバジルは、誰かを守ると決めたのだ。
少し常識に疎くて、少女の機微にさえほとんど気付かない彼は、誰かを守るその代わりに、自分から誰かを助けることをやめてしまった。マイが飛び出した直後に追いかけなかったのがその証左だ。
それはとんでもない間違いで、彼のスタンスは下衆なのかもしれない。ただ自分の思い込みだったことが周囲に露呈して、恥ずかしい思いをしたくないだけのようにも見える。事実、その感情も多少は持ち合わせているだろう。
しかしバジルは、自分の宿した「誰かを守る力」を正しく理解し、受け止めていた。その力を抱いているだけでは誰も守ることができず、仮に命を助けたとしても、それは外殻の負傷を防いだだけの仮初の守護だ。万物は外側と内側を持っていて、バジルの力は大抵外側しか守ることができない。
教えてくれたのはマイだ。だから絶対に、彼女にその力を使わない。使い方を間違えたくなかった。
「校内でマイが行きそうな場所……と、トイレとか?」
邪な気持ちはないのに、廊下をひた走る少年の口から漏れ出でた言葉。
とある少女の捜索に奔走する彼は、少女の性格をよく理解していたのだが、そのせいでより少女の居場所が特定できなくなっていた。
何せ少女の特徴は、かなり不愛想で口数が少ないくせにお人好しと、たいへんごちゃごちゃしているのだ。不愛想・口下手ということは意思疎通が難しく、普段から何を考えているのかわかりづらい。
そのため変に遠くへ行っている可能性も高いのだが、自分を探しに来るかもしれない誰かのため、身近に潜伏している可能性も否定はできなかった。
「俺の周りってデジャヴュ多いな……」
少年は額に汗しながら、嘆息交じりに呟いた。
だがこれが以前も感じたデジャヴュと同じなら、彼は少女の居場所をある程度特定できる。というよりも、正確には少年が場所を特定するための方法に気付いたのだ。
再び自分のクラス――1年1組に戻った彼は、
「おい、ラボ――暁月、廊下に来てくれないか?」
「多分、体育祭が始まるまでにはここへ戻ってくるつもりだろうから、2階のどっかで小さくなってると思うぞー」
「ごめん、ありがとっ!」
少年が忙しく訊ねて、間もなく回答をくれたラボンに感謝の言葉を述べたのち、彼はすぐに教室をあとにした。
体育祭の開始まで、あと30分――。
白髪の少年はその間に、どこかで身を潜めている少女を見つけなければいけない。そして己の口から、彼女に伝えなければいけないのだ。尤も、彼女がその言葉を求めてくれたらの話ではあるが。
少年――バジルはたまたま高等部2階西棟から歩いてきた女生徒が、家庭科室で体育座りをしながらすすり泣いている少女を見かけたと話しているのを聞いた。その家庭科室は西棟の最西端に位置する部屋で、普段からほとんど使用されていない。すすり泣くには絶好の場所である。
そして走ること50秒後、正解は『家庭科室の前ですすり泣く少女』だった。
「ま、マイ……ごめん、遅くなった」
バジルが手を差し伸べて優しい言葉をかけると、俯いていたマイは凛とした双眸を向ける。
「ジル、わたしは愛理じゃない。わたしはわたしで、ジルと走りたい」
「……うん。俺も、ちょうどそう言いたかったんだよ」
するとマイは、嬉しそうな表情をしながら横に首を振った。恐らく、マイの生真面目な部分がバジルを受け入れる行為を拒んでいるのだろう。彼女自身は拒むことを拒んでいる。
多少意味不明な状態にあるマイだが、バジルの用意していた言葉を送るには、ちょうど好いタイミングであるといえる。
バジルは一度真顔をつくったのち、精一杯の笑顔を浮かべて、
「俺とペアを組んでくれませんか、黒崎さん?」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
2021年8月31日火曜日。神奈川県川崎市、私立新川学園前。
午前8時。
昨日の月曜日は、土曜日の体育祭による影響で振替休日だった。そのため本日火曜日が、新川学園の生徒たちにとって月曜日的な役割を果たしている。いわゆるサ●エさん症候群だ。
無論、バジルや日和もその例外ではない。さすがにその番組を観ることはないが、感覚的には患者の人間にかなり近い。月曜の朝は憂鬱で怠惰で眠いものなのだ。
「なあ日和……昨日は何してたんだ?」
寝ぐせが放置された白い髪を撫ぜながら、バジルはアンニュイな調子で訊ねる。
「ああ、わたしは一日『Effect₋Globe《エフェクトグローヴ》』の訓練をしていたよ。施設のほうでね」
「いや、そのなんとかグローブが何かわかんないんだけど……」
「いずれ、わたしが直々に稽古をつけてあげるさ」
普段の平凡な会話(兵器の話だが)を二人が繰り広げていると、遠くから聞きなれた可愛らしい女性の声が聞こえた。バジルにとっては実に三日ぶりである。
緩いウェーブのかかった黒い長い髪に、なで肩で控えめな小軀。その容姿からとても高校生とは思えない幼さを宿した少女――
「おはよう、楠森くん、日和ちゃん。その……体育祭の日は、ごめんなさい……」
「気にしなくてもいいよ。結果はあまり芳しくなかったけど、郷さんと練習してたお蔭で多少は走りやすかったから」
「そうだよ、愛理。気にしなくても、この男は明後日になったら忘れてるさ」
日和の皮肉もとい冗談にバジルが頬を膨らませると、実にマヌケな顔だったので少女二人は吹き出した。お蔭で雰囲気は明るくなったものの、バジルは不服そうに唸っている。
しかしどことなく、愛理の態度はよそよそしい。気にしなくてもいいと言われても、自分の責任をなかったことにはできない性格の彼女は、やはり元通りになるまで時間がかかってしまう。バジルも日和も承知のうえではあるが、それでも「大丈夫」となだめ続けた。
体育祭での二人三脚の結果は、見事最下位であった。ちなみに中等部にも負けた。
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