7.異変Ⅱ

 2021年8月11日水曜日。神奈川県川崎市、市内某所。

 午前9時8分。


「あー、えっと……ここでいいのかな?」


 カジュアルな衣装に身を包んだバジルは、白色の前髪を弄りながら呟いた。診療時間を今朝知ったばかりの彼は急いで自宅を出てきたため、身だしなみが気になっている様子だ。

 昨日、保健室の養護教諭に病院での早急な診察を勧められ、バジルは自宅のアパートから徒歩25分ほどの場所にある某クリニックに訪れていた。


          ×  ×  ×  ×


 昨日、8月10日火曜日のこと――。



「全く、君たちは非常識が過ぎる。時間を弁えたまえ」


「す、すみま――あれ、先生変わられたんですか?」


 来て早々の叱責を聞き流し、バジルは疑問に首をかしげた。

 以前にバジルが保健室に来たのは、高等部入学直後に行われた身体測定の時だ。当時の養護教諭は確か、初老の小柄な女性だったはず。しかし本日、保健室にバジルが訪れてみると――見たこともない、たいへん若々しく美しい女性が待っていた。

 ストレートの短い黒髪に、椅子にふんぞり返った体勢のためより強調された双丘。容貌もかなり幼げで、外見年齢は20歳前後だと思われたが、


「ああ、初見だな。あたしは双葉ふたば、6月頃から保健室の担当をしている。以後よろしく頼む」


「はいっ、よ、よろしくお願いします。あ、俺は楠森です……」


 爽やかなトーンで挨拶を述べる女性に、バジルは気恥ずかしさを覚えながらもしっかり応える。

 同時に女性の年齢も気になったが、まだ扉の外に日和がいるため、なるべく余計なことを口にするのは止したほうがいいと判断したため、そっと言葉を飲み込んだ。


「自己紹介も終わったことだし、問診といこうか。あたしゃ医師じゃないけどな」


 口早にそう告げると、女性は適当なプリントの裏をカルテの代わりとして用意し、手前の丸椅子に座らせたバジルに質問を始める。


「まず、どんな症状だ?」


「えっと……け、血尿が出まして……身体的な異常は今のところありませんけど、何分なにぶん医学の知識がないので、どうしたらいいか……」


「へぇ、血尿ねぇ……。痔じゃないだけマシか」


 適当なコメントと失笑が、バジルの回答に対する反応だった。

 女性は口にしないが「この歳で血尿とか憐れな奴だな」という本音が、そのまま表情となってはっきり顔に現れていた。


「まあいい、次だ。症状はいつからだ?」


「はい……今朝です、けど」


「はい終了、余命二日だ」


「お、思ったより軽薄な回答ですね……まだ日和のがマシですよ……」


 バジルに容赦なく理不尽な結果を叩きつけてきた女性は、その無茶苦茶な物言いのわりに、カルテには丁寧に情報を書き込んでいる。しかし記入された文字が病院の医師の使う文字と酷似しているため、前述のとおり医学知識の乏しいバジルには全然理解できなかった。

 女性はコホンと小さく咳をすると、バジルのほうを向き直って、


「それじゃあ最後に……症状が出た原因に、心当たりはあるのか?」


          ×  ×  ×  ×


「えー、何か心当たりはありますかね? 例えば彼女さんと色々ヤった時、過剰に擦れて怪我したとか、自慰の時に誤って爪で引っ搔いたとか……」


「や、ヤるって……相手もいませんし、特に心当たりは……」


「うーん……そうなるとね、疑われるのは腎疾患くらいなんだよね。君ぐらいの年齢で腎臓の病気にかかる例は少ないし、何か先天的な腎疾患とか、お母さんに言われたことないかな?」


「と、特に覚えはないです」


 泌尿器科の検査を一通り終え、腎臓内科でバジルは2度目の問診を受けていた。

 検査の結果として――特に異常が見られなかったことから、最初の問診以上に具体的な内容の質問をしてくる医師。それに対するバジルも、現状の異常さを大体察しているので、どんな質問にも真摯に答えている。

 しかし2度目の問診でも明確な原因を見出せなかったため、医師は少し顔をしかめながら、


「ちょっと面倒だろうけど、『蓄尿検査』っていう検査をしてみようか」


「そ、それは一体どんな……?」


「『蓄尿ちくにょう検査』っていうのはね、一日に排泄された尿を容器に溜めて、その量や蛋白を調べる検査だよ。これだったら、細かい異常でもわかりやすいからね」


「は、はあ……じゃあ、お願いします」


 医師の説明を聞いたバジルは、畏まった口調でそれを了承した。

 

 するとバジルは帰りに、少し大きめのプラスチック製の容器を受け渡された。恐らくこれが『蓄尿検査』で用いる、尿を溜めるための容器だろう。小さな目盛が付いている。


「では明日の午後18時、夕診の際に持参してください」


「は、はい、わかりました。お世話になります……」


 受付の女性と社交辞令的な挨拶を交わして、その日バジルは病院をあとにした。


 しかし、病院からアパート方面に10分ほど歩いたところで、バジルの携帯に見知らぬ番号から電話がかかってきた、


「はーい、もしもし。楠森ですけど?」


『よぉ楠森……美人女教師の直々なお呼び出しだ。今すぐにトウコウしろ』


「げっ……⁉」


 相手は1年1組の担任だった。


「と、投降なんて嫌ですよっ! 俺は無実だ!」


『アホか、学校に来いっつってんだよ。昨日ホームルームをサボった罰だ、反省文を書け』


「理不尽じゃないですか⁉ 俺は不調だったんですよ?」


 女性に必死に抗議するバジルに対して、向こう側から鼻で笑う声が聞こえた。


『あー、じゃあ来なくてもいいぞ。その分だけ、恵光の罰が重くなるだけだ』


「ひ、日和もいるんですかっ⁉」


『そりゃあ、まだ昼休みだからな。……放課後に待ってるぞ?』


 拒絶する間もなく、電話は切られてしまった。ツー。ツー。ツー。

 陰湿な脅迫の余韻で、バジルの周囲は気味の悪い静寂に包まれた。人影も、野良犬・猫も、カラスさえもいない閑寂な住宅地の道路。空色もひどく地味な、灰色である。

 バジルはひどいデジャヴュを覚えていたが、幸い先日のような邂逅は起こらない。


「……一旦帰ろう」


 今は取りあえず、二つの不安から逃避したかった彼は、小走りでアパートを目指した。


          ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 2021年8月12日木曜日。神奈川県川崎市、市内某所。

 午後18時過ぎ。


 今日も病院へ行くため、バジルは朝から学校を休んでいた。

 一度担任から「夕診に行くなら午前中は来い」と催促もとい脅迫の電話があったのだが……蓄尿検査は毎度の排尿を採取する必要がある。それが正常な色・量ならまだしも、生々しい赤色が異常量出るものだから、いよいよバジルも辟易している。そのため朝から学校を休み、自宅で心身ともに休養させていたのだ。


「――はい、楠森様ですね。お名前を呼ばれましたら、部屋にお入りください」


「は、はい、わかりました」


 受付嬢の指示を受けて、バジルは腎臓内科の部屋の前に設置されたベンチに腰を

下ろした。病院の大きさと反比例して、ベンチの質感はカサカサと安っぽいものだった。

 バジルが受付を終えてから約5分、昨日と同じ低い声が、バジルの名前を呼んだ。


「楠森さん、どうぞー」


 その声を合図に立ち上がり、扉を引いて中に入る。

 室内は相変わらず、シンプルに白い壁紙とパソコンを含む専用機器のみ。その画面は黒一色だが、医師の男性の手元にある用紙には、恐らく検査の情報が書き込まれているのだろう。

 先ほど、受付で容器を渡したバジル。撮影して永久保存して、時折嫌がらせに使いたくなるくらい見事な苦悶の表情をしていた。今さら日和に渡せば良かったと、後悔の念に堪えない。

 

 それはともかく、医師は深刻な様子でバジルを見やる。


「えー…………これはひどい」


「ま、マジですか……⁉」


 医師は手元の用紙を一瞥し、真っ青な顔をした少年のほうを向き直すと、


「残念だけど、尿の成分以外に異常が見つからなかったよ」


「――はあ?」


「いやね、尿に血液が混ざっているということは、腎臓の機能が低下している可能性がかなり高いことの証拠なんだよ。でも楠森くんの尿成分を見たところ、蛋白の量やその他の成分の量も正常で、腎臓機能の障害は考えにくい。……つまり、矛盾が生まれているんだよ」


 医師の説明をよく理解できなかったが、簡潔にまとめると、


「原因が不明……取りあえず、3年間は通院してもらうよ。薬も処方するから、説明されたとおりに服用してください」

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