8.異変Ⅲ
2021年8月13日金曜日。神奈川県川崎市、アパート『隣人荘』2階、楠森家。
午前7時12分。
バジルの枕元に置かれた、鐘の音で起床を促す旧式の目覚まし時計。その設定時刻の3分前に、心地よい騒音で彼は目を覚ました。
心地よい騒音――間違いではない。柔らかな握り拳と軟鉄から作り出される、ありきたりで妙に安心感のあるノック音は、まさにその表現が適切だった。
「……全く、どんだけ俺のことが好きなんだよ」
まるで来訪者の心情を知ったような物言いで、バジルは少し頬を赤らめる。勝手に相手の好意を確定して、そして勝手に照れて赤くなる――自惚れにも程があるが、その実、彼の見解はあながち間違っていないので、彼の行為を知った来訪者はきっと暴走してしまうだろう。
――だが、それはあくまで知られたらの話だ。
バジルは上機嫌にステップしながら玄関へ向かった。
「――はあい、どちら様ぁ?」
バジルが訊ねても返答はない。その代わりに一度、乱暴なノックが繰り出された。
「……まあいいか。向こうは厚意で来てくれた訳だし」
外見は不良なのに、今まで一度も学校を休んだことのなかったバジルは、普段クラス内で孤立しているにも拘らず、意外に周囲の信頼を獲得している。事実、高等部1年のヒエラルキーで上位にいるはずの黒崎麻衣に、海へ誘われたことがその証左だ。
しかし今のところ日和と、麻衣のグループ以外の交友関係を一切持たないバジルは、そんな嬉しい事実にもいまだ気付いていない。
ひとまずバジルは開錠し、扉を開く。勿論、外にいたのは1日ぶりの日和だった。
「ああ、日和……俺は本当にいい友達を持ったよ!」
「奇遇だね。わたしもジルくんがいい友達だと、しみじみ思うよ」
「……あれ?」
バジルの大げさな褒め言葉――口にするのも恥ずかしい物言いに、普段クールな日和が臆面もなく同情してきた。さらに嬉しそうな笑顔を浮かべて、バジルの両肩をしっかりと抱く。
「ひ、日和……変なものでも食べたの?」
畏怖の念にも似た動揺が、バジルの身体と声帯を激しく揺らす。
他にどんなふうに聞けばいいのかわからず、彼は拙いうえに震えた声で日和に訊ねた。
――すると日和の口から、驚きの言葉が返ってきた。
「ああ、ジルくん……ちょっと、今日だけでいいから、抱きしめていいかい?」
「――⁉ おっ、ほっ、ほっ……ほ、本当にどうしたんだよ⁉」
激しく狼狽したバジルは、逃げる間もなく日和に捕まってしまった。
極限に近い昂奮感と情熱に支配された日和は、バジルの静止も聞かずに、容赦なく彼の身体を抱擁する。
両腕が背中にガッチリと回され、僅かに膨らんだ胸をためらいなく押し付けられる。シチュエーションとしては至高だが……とにかく、彼女の力が尋常ではないのだ。
「いだだだだだだっ――⁉」
「ほんっとにすまない、今日のこの瞬間だけでいいから!」
それが日和の、どういった感情による行為なのかはわからない。今の情景のとおり、バジルを異性として慕っている乙女の愛情表現なのかもしれないし、複雑な友情が大胆な行動をさせているだけなのかもしれない。
可能性を絞り切れない以上、バジルも彼女の行為にどう反応したらいいのか見当がつかず、ただひたすらに狼狽えている。顔面が紫色をしているのは――恐らく、骨が軋むたびに訪れる激痛のせいだろう。
『含羞の赤面』+『怪力少女への恐怖による青色』=紫色、だったら面白いのに(笑)。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「身体の節々が痛ぇ……あれかな、心身ともに俺を殺したかったの?」
「いやあ、本当に悪いとは思っているよ……」
先ほどの件ののち制服に着替えた二人は、学園までの道のりを歩いている。バジルにとっては実に……いや、たった1日ぶりだ。しかしそうだとしても、身体は妙な懐かしさを強く覚えている。
バジルの血尿騒ぎから三日、日常に変化はなく、今日もとても穏やかだ。
その事実が嬉しいはずなのに、バジルはどこか物寂しさを感じてならない。
「ところで……聞くのも野暮だと思うけど、なんで急に抱きついてきたんだ?」
日和が怒るとわかっていながらも、バジルは理由を聞かずにはいられなかった。
「……ろ、朗報があったんだよ。ただそれだけだ」
「へえ、朗報か……俺に関することだよな?」
「知らないよっ!」
バジルの追及を、日和は憤りを孕んだ声で跳ね返した。よほど癪に障ったらしく、すっかり不機嫌になってしまった。
「とにかくっ……君は近いうちに、事実を知ることになる。だからもう、わたしに聞くな」
「そうですか。じゃあ俺はどっしり構えて、それを受け止めることにするよ」
「…………」
一瞬、もどかしそうな顔を見せた日和はその後、俯きながら沈黙に努める。決してバジルが余計なことを言ったせいではなく、『真実をまだ口にできない』という条件に苛立ちを覚えたからだ。
そして自分の知らないうちに、バジルが弁えを覚えていたから、自分の不甲斐なさを改めて思い知らされた。屈辱的だったけど、同時に嬉しい気持ちもある。
「な、なあ、日和……」
「なんだい……?」
「そんなに下ばっかり見てると、いつか電柱にぶつかるぞ」
「……ご忠告どうも」
ぎこちない言葉を交えながら歩いていると、いつの間にか新川学園の校門の前に到着していた。
1年1組の教室に入ると、バジルの元に黒く長い髪の美少女が駆けてきた。
二日ぶりに見た少女――麻衣は、相変わらず美しくて可愛らしい。
「楠森くん、大丈夫だった?」
しかしバジルの耳には、麻衣の声など微塵も届いていない。
彼の脳内には、数日前に出会った脅威の面影が思い出されていた。そして今すぐ、その正体を確認しなければいけないと、そのことしか考えられなくなった。
「楠森くん、えっと、大丈夫?」
「……黒崎さんは、違うよね?」
――――――――――。
バジルの問いに対する回答は、沈黙だった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
二日連続で学校を休んでいた少年が突然、学年随一の美少女に変な質問をしたものだから、当然周囲は困惑した。彼は疲れているのだと結論付けた者や、たいへんなお調子者だと揶揄する者まで様々だったが、誰ひとりとして少年の質問に答えなかった。
それはつまり否定であって否定ではない――むしろ状況によっては、肯定にもなり得る反応である。
数秒間の沈黙ののち、少年の友人の少女が「そういえば愛理はどうしたんだい?」と話題を転換したことで、異常空間に終止符が打たれた。彼女の機転と少年に寄せられた一縷の信頼のお蔭で、今回はなんとか丸く収まった。
――これで良かったのか?
少年は無回答に納得できなかったが、クラスから弾かれたくない気持ちが勝ったため、それ以上言及することはしなかった。実に賢明な判断だ。ここで好奇心に流されていれば、少年にとって最悪の結果を招くところだった。
「あれは一体、なんの間だったんだろう……?」
バジルの頭と心は、疑心で満杯になっている。
朝礼前の騒動の直後に日和から叱責を受けたバジルは、それから学校にいる間だけ、疑心を消し去る努力をしていた。その努力の成果として、本日の失言は水に流して貰えた。
ちなみに今は買い物のため、学校近くのデパートの1階にあるスーパーマーケットに赴いている。今日は『ポイント5倍デー』だったが、ポイントカードを持っていないバジルには関係のない幸福だった。
「なんか、無性に鉄が欲しくなる……血が足りないのかな?」
カートにセットされた籠の中は、豚のレバーに袋入りのいりこ、鉄分サプリメントで埋め尽くされている。傍目でもわかるほど、異常な光景である。
先日から段々と、バジルが自覚できる速度で異変が起きている。それは彼だけでなく、彼の周囲にいる人間――日和や麻衣、愛理たちも含めて変わってきているのだ。それがどんな矮小な変化であっても、一度確認してしまえば影響が出てしまう。
バジルは確かに疲れていた。心身ともに、今まで予想の範疇になかったような出来事が立て続けに起きていれば、誰であろうと疲労困憊してしまうだろう。その疲労に伴って、バジルの生活環境や内容も大きく変化している。
今まで一度も通ったことのない道を通れば、新たにそのルートを記憶することができる代わりに、何事もなく目的地に到着できるかわからなくなる。それは万物に共通し、慣れないことをすれば経験は増えるが、リスクも比例して大きくなるのだ。
少し考えすぎている気もするが、バジルにはそれら多くの変化が気がかりだった。
「本当に、何もなければいいんだけどなぁ……」
バジルは今、自分の周りにどんな可能性が転がっているのかわからなくなっていた。正確には「只今目に見えているものが全てである」と、声高に断言できなくなっているのだ。
自分自身の周囲に、透明な可能性が無数に転がっていると信じてやまない。人々はその状態を、時には『希望』と呼び、時には『恐怖』と呼ぶ。バジルの場合は後者に近い。
取りあえず今は、目に見える可能背だけを信じていこう――そんな重苦しい言葉を口にしたのち、バジルはスーパーの入り口を一瞥して、帰路についた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
明るい未来を願った矢先に、真っ黒い恐怖がバジルを囲んだ。
もう少しでアパートに着くところだったが、恐らくもう帰ることはできないだろう。
「白い髪……ああ、君が楠森バジルくんだな」
「…………」
自分を囲む8人の人影、その中で一番小柄な男が一歩前に出て、本人確認をしてきた。
全身を真っ黒なスーツに包んだサングラスの男――明らかに危険人物だ。彼らの放つ異様な空気に無意識に身体が強張り、バジルは応答もジェスチャーもできなかった。
「――まあいい。取りあえず、一緒に来てもらうよ?」
「…………?」
「『どこへ?』って顔をしているね。大丈夫、我々は仲間だ」
男の穏やかな笑みに、不覚にもバジルは安堵してしまった。
そして2度、カクカクとぎこちなく頷いて、8人の男たちと一緒に歩き出した。
行き先は――新たな運命そのものだ。
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