6.異変Ⅰ
2021年8月10日火曜日。川崎市内、アパート『隣人荘』2階、楠森家。
午前5時15分。
普段から、朝6時に一度起きて排便するバジルだが、なぜか今日は5時過ぎに目が覚めた。
昨日の悪夢があったとはいえ、別に身体的な異常が現れた訳ではない。他の可能性として、アパート特有の騒音やラブコメ主人公によくある「妹目覚まし」なども考えられるが、良くも悪くもバジルの周囲環境には当てはまらなかった。
そうだ、ただいつもより早くに目が覚めただけなのだ。
「取りあえず、トイレ行こ……」
布団から出て、ひとまず玄関手前のバスルーム(トイレ)へ。
――いや、先日よりも悪夢だった。
「な、なん……だと……⁉」
バジルは眼下の光景に絶句するしかなかった。
洋式便器の中に排泄された尿が――真っ赤に染まっている。真っ赤というよりは紅色、血液の色に極めて近い、見るに堪えない最悪の色彩だった。
バジルのような一般人の有する知識で、この症状を的確に理解することは難しい。一言で簡単に「血尿」といっても、その原因は数多く存在するのだ。排泄口からの出血、というだけに留まらず、腎臓の疾患である可能性も大いに考えられる。そのため、医学知識のない素人で、さらにパニックに陥った人間が、的確な措置を取ることなどできるはずもない。
取りあえず今、バジルに解るのは「只事ではない」ということだけだった。
「ど、どうしたら……お、俺死ぬのかな……?」
実物どころか、噂でしか聞かないような症状が、自身に現れたのだ。
バジルは自分の背後に死の気配を感じてパニックに陥ってしまった。そのせいなのか、両手で頭を抱えながらぐるぐると時計回りに回り始める。しかし5周目を超えたところでついに目が回り、膝から崩れ落ちた。
「おえぇ……し、死ぬぅ」
嘔吐のジェスチャーで、バジルは苦しげに呻いた。今度は違う理由だが、彼の背後には再び死の気配が寄り添い、そして自分の世界へといざなう。
いよいよ危機感に耐えられなくなったバジルは、息も絶え絶えになりながら制服に着替え、見覚えのない鉄分サプリメントを数粒口に放り込むと、鬼気迫る表情で自宅を飛び出した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
『ガチャ、ガチャ、ガチャ、ガチャ』
静寂に努める玄関に鳴り響く、厄介な騒音。
目に見えるくらいに異常な物音は、その大きさから事態の深刻さを物語っている。それを住人も察したのか、重く閉じた瞼を無理やりに持ち上げて、容赦なく差し込む朝陽に瞳を焼かれながらも、なんとか布団から上体を起こす。
少女の努力に称賛や感謝などあるはずもなく、彼女に課せられた無償労働はまだ続く。
今度は、相変わらず耳障りなノック音を響かせる玄関扉に向かい、ドアスコープから来訪者を確認する。
「……つくづく迷惑な男だな」
過去のことも含めて、少女は来訪者の印象をそう述べた。扉の外側にいる人物の顔を見た途端に、彼が訪ねてきた理由になんとなく察しがついた。
「面倒事を持ってきたんだろうなぁ……出るの、嫌だなぁ……」
大凡の状況を理解すると、少女はあからさまに開扉を拒んだ。
――だが、明らかな拒絶を口にしていた少女は、なぜか鍵のつまみを回し、開錠した。
「おはよう、日和っ! 早速だけど助けてくれっ!」
「うおぁ――ど、どうやって入って来たんだい、君は⁉」
ようやく室内に入ることができたバジルは、住人の日和に爽やか且つ強引に助けを求めた。対して、見たこともないような驚愕の表情をした日和は、一瞬のうちに起きた怪現象に戦慄している。
忙しない今朝の挨拶は終了し、日和が逡巡する余地もなく、バジルは家に上がり込んだ。
「……それで、君は何をしに来たんだ? 寝込みを襲う行為にでも目覚めたのか?」
「一体俺をどんな奴だと思ってるんだよ……」
「少なくとも、早朝に平気で一人暮らしの女性の家にずかずかと上がり込んでくるような、要注意人物だとは思うよ。というか事実じゃないか、この非常識男」
飾り気のないベッドの下で正座させられたバジルに、腕を組んで彼を見下ろす日和は容赦のない罵声を浴びせる。一見冷静にも見える日和だが、彼女の額にはくっきりと青筋が立っていた。
現在、朝の5時25分。バジルが身体の異常を自覚してから、僅か10分しか経過していない。彼自身、こんな朝早くに日和を起こしたことに反省しているものの、いまだにパニックの余熱が残っている。つまりバジルは、背後に過剰なほど死の気配を覚えており、強烈な恐怖に駆られているのだ。
「とにかく、俺はもう先が短いかもしれない」
「アホか、君は……。事情はわかったけど、取りあえず昂奮感を鎮めてくれないかな? 君がわたしに劣情を抱いて、襲ってこないとも限らないしね」
自らの身の心配を語るバジルに、冷淡な視線を向けながら日和は言った。確かに日和の言うように、只今バジルが纏う昂奮感を、彼女への劣情と勘違いしてしまう可能性がないとも言い切れない。
異常事態でパニックになったバジルの脳が、日和を強襲するように感情を扇動しないと断言できない今、早急に日和の取るべき行動は、
「取りあえず通報するよ? 机の上に携帯があるから、取ってくれないか?」
「……自分で取れよ」
「へぇ、ジルくんは今、反抗できるような立場なのかい? どんな事情があろうと、この現場を見た人間の第一印象は『少女に乱暴しようとした男が返り討ちに合い、警察の到着まで拘束されている』となるはずだろうね」
「……はい、どうぞ」
日和から冷徹な調子で事実を突きつけられると、バジルは黙って自身のスマートフォンを差し出した。自宅を飛び出す直前に持ち出したものだが、まさかここで役に立つとは……。
バジルの青白い手から携帯を受け取った日和は、今まで一文字だった口元を、徐々に怪しい笑みへと豹変させる。
「あれ、もしかして、自ら手錠を欲しているのかい?」
「いや、違うし……っていうか、頼むからもう苛めないでくれよっ⁉」
自分が圧倒的優位であるとヒールになる日和に嫌気がさしたバジルは、羞恥心に駆られながらも涙目で苦痛を訴えた。
すると突然、まるで急ブレーキがかかったように、日和の口角の上昇が制止した。
「だ、だって……急に家に来て、セクハラ紛いのことを言われたら……そりゃあ腹が立つじゃないか……?」
右手を口元に宛がい、もじもじと恥ずかしそうに日和は唸った。今頃やって来た羞恥の念と罪悪感に支配され、彼女の挙動はまさに恋する乙女のようになっている。
彼女の言うとおり、バジルは恵光家に入った直後から、自分の身体に起きた異常を捲し立てるように語り始めた。隅から隅まで、包み隠さず全てを語った。無論、そのほとんどが卑猥な話で、日和の静止も聞かずにバジルは説明を続けた。その結果――日和が壊れたのだ。
ついに、日和の内側にある羞恥心の受け皿的なものが破損してしまい、子供のような嗚咽を漏らしながら泣き出してしまった。
「ひぐ、あぐっ、うえっ……ご、ごめんよ、ジルくん……」
「あ、ご、ごめん……取りあえず、学校には行くよ。保健室へ直行だけど」
「あ、ああ……ずうっ、ごっ、ごめん、ねっ……」
タガが外れたように、日和は大仰に泣き崩れる。顔を伏せて全身を微痙攣させながら、羞恥心と罪悪感に悶えている。
日和の感情の起伏が激しすぎるため、バジルは辟易してしまった。
「なあ、日和。早く学校行こうよ……?」
そんな訴えをしばらく続けて、なんとか日和は正常な日和に戻ってくれた。
『正常な』という表現を、人間に対して初めて使用したバジルであった……。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
色々な意味で不調な二人は、いつもの倍近く寄り添いながら登校した。
バジルと日和との距離感があまりに近いものだから、1年1組の生徒たちは、二人が教室に入った途端にひどく騒然となった。特に女子たちは「やっぱり付き合ってたんだー」と、自分たちの見解が正しかったと証明できたため、男子を軽く凌駕する勢いで盛り上がった。
――しかし、当事者二人はそれどころではない。
不健康そのものの青白い顔で後ろの席を目指し歩いていると、バジルの元に愛理が小走りで近付いてきた。妙に不安そうな表情をして、態度も落ち着きがない。
「く、楠森くんっ! あの、その……日和ちゃんと何かあった?」
「な、何か……? ああ、今朝は早くから日和の部屋にいたけど。特別、何かがあったという訳じゃないよ、うん」
震えながら一生懸命向き合う愛理に、バジルはアンニュイな調子で答えた。
早朝から、男女が一緒の部屋で何かをしていた――周囲もそうだが、愛理は余計に詳細が気になり、跳ねるようなトーンで「ナニをしていたの?」と訊ねる。
「えっ、あー……ベッドでちょっと、ね? あんまり口外しなくない内容だから」
「――⁉」×24人。
時間が止まったような錯覚に陥った。いや、本当に止まっていたのか――日和はようやく、バジルの発言とそれに対する周囲の反応を理解して、
「ちょっ、ジルくん……それは――⁉」
「あ、ああ……だいじょぶ、だいじょぶ。ナニしたか、誰にも言わないからぁ……」
「おいっ、黙って一旦廊下に出ろっ!」
意識が朦朧として、何を口走るか定かでない危険な状態のバジル――彼の現状がどれほど重篤なのかを思い知った日和は、最終避難として彼を教室から避難させようと試みる。祭りの日以来一度も握っていない大きな手を握りしめ(前回の反省から加減している)、二つある扉の後ろ側の扉から退出した。
結局手を繋いでしまったことを後悔しながらも、耳に平気で入る陰口が聞こえなくなったので、内心では安堵している日和。
「……なあ、今後わたしはどうしたらいい?」
バジルの発言で確実に株が大暴落した日和は、嘆息交じりにそう訊ねる。
一方、手を繋いだままのバジルから返事はない。というよりそもそも期待すらしていない。
しばらくは廊下で息を整える二人――保健室へ行く直前に、半開きのドアから顔だけ出した愛理が、
「あの……これから、ホームルームだし……デートはやめたほうが……」
「あのね愛理、誤解なんだよ。わたしもジルくんも、朝から体調が優れなくてね……見て解るくらい、特にジルくんはひどいんだよ」
「えっ、だ、大丈夫なの⁉」
愛理の質問に、日和は大げさだとわかりながらも、首を横に激しく振った。
「ベッド云々とか、多分この男の妄想だから……ね、大丈夫じゃないだろ?」
半分まで言い訳になっていたのに、最後の回答は明らかに不自然だ。
ここでようやく愛理にも、バジルと日和のネジが飛んでいることが理解できた。
「えっと……ほ、保健室に行くんだよね? お大事に……」
「あははははっ、ありがと! 頑張るよっ!」
馬鹿でかい哄笑――軽快な足どり――仲良く繋がれた手――寛容な愛理でも、庇いきれない問題を抱えた能天気二人は、そのテンションのまま1階の保健室へと向かった。
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