0.プロローグ

 帰り道だった。

 学校から徒歩10分の帰路を、狭い歩幅で蛇行する少年。何か良くないことがあったのか、その顔はラフランスの断面みたいな色をしている。青色というより淡泊な白色だった。

 少年の通学路は道幅が狭いので、交通量もかなり少ない。それは時間帯も関係しているが、彼があえてそのルートを選んでいるのが主な理由だ。かといって彼以外の通行人がいるわけでもなく、閑雅というより閑寂な場所である。

 そんな人も滅多に来ない寂れた場所で、多くの家屋が立ち並ぶ真中で、まさに奇縁と呼ぶに相応しい邂逅は実現した。


「…………」


 突如、少年の無言が、沈黙に変わった。

 そこにある明らかな異物が、少年の時間を止めたのだ。


「…………!」


「…………」


 全てを黒に包んだ異物と少年の目が合う。明らかに不審な見た目と違って、その異物が纏う雰囲気からは非日常を感じられない。それこそ不自然なくらいに平凡な、クールな少女。

 少年は緊張で唾をのんだ。けれど、平凡な少女の輪郭が見えた途端に、表情が安堵の色で包まれる。


「あ、あの……もし、俺に、用とかある?」


「…………」


 少女は必要以上の動作をしない。荒い呼吸に肩を揺らし、左手で握る得物をただ陽に晒す。

 ――――得物?

 迂闊だった。なぜ今まで気が付かなかったのか、理解できない。

 一瞬にして、少年の顔面に差した赤橙は青紫へと変色した。


「――っ⁉」


 剣呑な空気が突如流れ出して、少年の身体を恐怖が支配する。

 畏縮して動けなくなった少年を睥睨する少女に動きはない。じっと、そのまま。

 恐怖心を自覚してから数秒後、ついに『殺意』が首をもたげた。


 ――――――――――。


 声にならない叫びをあげた少年は、元来た道を振り返って、走り出した。

 追ってくる足音はない。だから意識しないで、ひたすら走り続けた。


「…………?」


 すると少女は首をかしげて、前方にいる少年に冷たく微笑む。


「(あ、あれ……? 走れない……?)」


 異物少女からの逃避は『超現実的な妄想』だ。

 少年は元々立っていた場所で、弱々しく座り込んでいた。さらに口を動かしたのに、言葉が口より外に出なかった。

 少年の心身は今、自分が自分ではないという未知の感覚に陥っている。正確には、五感以外の機能を感じられなくなっていた。


「(まずい……これは死――)」


 少年が最後を口にした直後、少女は歩き始めた。

 来るな、来るなと少年は後退るが、少女の歩みは絶対に止まらない。しっかりと地面を踏みしめながら、一歩一歩確実に近付いてくる。足音と同時に、金属の塊を引きずる音もこちらへ迫っている。これ以上ないほど不快な高音が、少年の敏感になった聴覚を傷つける。

 いつもの通学路が、刹那的に少年の生死を入れ替える異空間へと変貌した。

 異物の進行、斬撃を止める術のない少年に、生の確率はほとんど残っていない。少年にとっての生とはもはや「すぐ死ぬか、ゆっくり死ぬか」くらいの違いに過ぎなかった。


 二人、一人の人間と一つの殺意の邂逅は――フィナーレへと着実に向かっていた。

 感動のステージを飾るのは、芸術的な断面を外気に晒した、少年の生首。または両腕か両脚か、少女の趣向によっては恥部かもしれない。しかし生理的な醜悪さを拭えないにしても、切断面の美しさだけは保証できる。もはや少女の左腕の延長にある得物の鋭さがその証拠だ。

 もう少年は、逃げることをやめている。後退も現実逃避も、目線さえも。

 長い歩みが止まった。少年を冷え切った瞳で見下ろす少女は、少し前に見せた微笑を今もなお口元に浮かべていた。

 すると初めて、


「……ごめんなさい」


「…………(な、何が)?」


 純粋で平淡で無情な少女の謝罪に、眼下の少年は顔を歪める。常識的に考えて、少女のそれはこの場面において適切な言葉ではなかった。だから少年は、少女への敵愾心と不快感を臆することなく露にしてみせる。この場には逡巡の余地など全くないのだから。


 そして少女は頷いた。少年の潔さに感心したのか、または介錯の代わりなのか。知りようもないことだが、少年は気になって仕方がなくなった。もし彼女の心に「少年を殺すことにまだ抵抗がある」のなら、少年はその事実に希望を持つことができる。まだ生きていられるかもしれない。

 少年の期待に満ちた瞳を見て、何を思ったのか。少女は一瞬だけ焦りを見せた。

 いや、本当に焦りだったのか? ――膠着状態が続いているせいで、幻覚でも見えたんじゃないだろうか。少年はあくまで『超現実的な妄想』しか脳内で生成できないため、幻覚症状の可能性さえ考えてしまう。現状では逆効果だ。

 だが、そうわかっていても否定できない。なぜならもうすぐで、自分は無残な死を遂げるのだから。


「……わたし、怖いかしら?」


 唐突に、頭上から疑問の声が降ってくる。

 少年は今すぐに恐怖を叫んで、いつこちらへ振り下ろされるかわからない得物を放り捨てて貰うよう懇願したい。けれど驕ってはならない。現実、少年の身体を支配しているのは、眼前で殺意を弄ぶ少女に他ならないのだから。

 少年は冷静に、現状を嚙み砕き飲み下すと、なぜか自身の右掌に強烈な痒みを覚えた。

 すると……上体は不思議と前屈みになって、両腕に尋常じゃない力がこもる。そして額の前から、少女によく見えるような体勢で、左手の人差し指が右掌を力強く搔きだした。


「(痛い、痛い、痛いっ!)」


 相変わらず声は出ないが、鋭く尖った痛覚が電流のごとく全身を駆け回った。上気する肌、迸る汗、滲む血液。気を失いそうなほど多くの情報が、少年の脳内を蹂躙する。

 ――頼む、もう殺してくれっ。

 恐れが、焦りが、痛みが、痒みが、火照りが、諦めが、一つの切実な叫びとなって少年の口から零れ落ちた。

 きっと少女の耳に届いたその哀願は、



「……本当に、ごめんなさい」



 振り上げられたシロガネの得物によって、叶えられる――。

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