数十年ほど前から、日本は少子高齢化と格差社会が急速に進み始めた。

 その中で、それを防ぐために新たに作り出された法案があった。すぐにその法案の問題点は強く指摘され、あっという間に廃止になってしまったが、それによるいわば犠牲者たちが映七たちだった。

 子どもを育てられない親は、その子どもを売ってもいい。

 要約すると、そういうことになる。

 貧困に喘ぐ女は身売りをすることも多かったそうだ。それにより望まぬ妊娠をしてしまっても、堕胎する金も育てる金もなかった。もちろん、ただ子どもを育てる金がないだけの平穏な男女もあっただろうが、この世に望まれない子どもはそのように多くあった。彼らは死を待つだけの子どもだ。しかし、その一方で人手不足や後継者不足に悩む大人たちも多く存在した。

 所謂人身売買とは少し違う。買い手は行政に手数料を払って登録をし、売り手は子どもを登録した時に、出産に対して報奨金を受け取る。もちろん、買い手も売り手もちゃんとした審査を受けることとなっていた。養子縁組の扱いになることがほとんどだが、その後も数年間の調査は入り、問題がないかは徹底的に調べられる。

 映七は、クラスにも何人か、同じようにして売られた子がいることを知っている。彼らはそれに対して色々な感情を持ってはいるが、およそ今を楽しく生きているようだ。

 もっとも、映七たちは少し事情と背景が違うけれど。

 今月から通い始めた学校から帰り、自室に戻ると、セーラー服のスカーフを外す。はらりと落としてしまったスカーフを拾い上げ、ベッドの上に置き直す。

 その指先が震えていることに気づいて、はっとしてもう片方の手で握り込んだ。

 思い出すだけで目が回る。世界が、回る。触れた指先から、酔いそうなほどの情報が溢れ出す。

『映七ちゃん? どうかした?』

 この世界でできた友人が、立ち眩んだ映七を気遣う声が脳裏に蘇る。

 たった、それだけのこと。それだけの違い。しかし、この違いは、映七が今まで生きてきた世界では起きなかった『違い』だった。

「やっぱり譲路ゆずるさんの言う通り……」

 言葉にすると、息が苦しくなる。あの日の空の声と表情がふとすると頭に蘇る。

 この世界は、映七たちが生きていくには広すぎる。あの世界には恐怖と排斥はあったが、実際どこまでも甘くて優しくて柔らかい世界だった。大人しく過ごしてさえいれば、映七たちだけの世界だったのだ。

 自分を偽る必要もなく、ほんの少しの我慢と諦めさえ覚えれば、毎日は楽しかった。広い庭に咲く草木で季節を感じ、美味しいご飯で腹を満たし、温かいベッドで明日を待つ。同じ顔ぶれと変わり映えのない毎日だったから、布団の中で明日を夢見ることはあまりなかったが、平穏でのどかな日々だった。

 そこは、いらないと烙印を押された映七たちに、唯一生きることを許してくれた場所だった。

 映七は、学校を楽しいと思う。友達もでき、すでに理解している授業内容であっても新鮮で面白かった。しかしそれだけでは駄目なのだ。やはり上手く対応できないことはたくさんあって、その度に自分は違うのだと思い知らされる。映七だけではないだろう。空や奏、零斗や白花にも耐えなければならないことは数多くあるはずだ。外へ出なければ、奏があんな顔で、あんなふうに力を使おうとすることだってなかっただろう。

 映七の願いはただ一つだけ。みんなが笑って側にいること。ただそれだけだ。ここについてきたことを後悔することは決してないけれど、自由になることを望むことは果たしていいことなのか。彼らを見ると、そう、どうしても頭を過ってしまう。

 奥歯を噛み締めて、腹に力を込める。

 隣の部屋で音が聞こえ、空も帰ってきたことが窺い知れた。

 時刻は十八時まであと十分。

 ピンポン、と呼び鈴が鳴る音が、階下から響いた。


 前回と同じように、吹き抜けになった二階から下の様子を覗き見る。

 遠野理子は、相変わらず青い顔をして、椅子に腰を下ろしていた。

「映七」

 囁かれた名前に顔を向けると、空が長い髪をかき揚げながら、揃いのセーラー服から伸ばした手をこちらに差し出す。映七はそれを無言で握り締めた。その手から空の緊張が伝わってくる。体に流れ込んでくるように同調して、映七の心音も次第に高まる。

「依頼は無事、遂行いたしました。埋め直した場所は聞きますか」

 奏が伝える声が聞こえる。

「大丈夫です。ありがとうございました」

 硬い声があっさりと依頼の終わりを告げる。ちらりと顔を覗かせてみると、すでに彼女は財布を取り出し、支払いに入ろうとしているようだった。しかしその動作が途中で止まる。

 縋るように見上げた視線が、奏のそれとぶつかった。

 震える手で財布を下ろし、唾を飲み込む様子が、上からでもはっきりとわかった。その瞬間、映七は嫌な予感がした。

「あの、あなたは……、忘れさせることができるんですか」

 荒い呼吸は自分のものだろう。ぎゅっと、思わず空の手を力を込めて握り締めると、同じ強さで返される。

「正確には、声による洗脳……というところですが」

 請負業をすると決めた時、依頼人がこの部屋を出る度、ここの人間と場所に関する記憶をいったん消去するというルールを定めた。他言無用は念を押すが、少しでもここのことを漏らさないようにするためだ。

 そして、奏にはそれができる力がある。

「記憶の操作をお望みで?」

 硬い声が、そう告げる。依頼人はわずかの間、躊躇った様子を見せた。その顔が再び奏の方へ向く。唇が開こうとするのを見て、思わず立ち上がろうとした。

「駄目!」

 腕が引っ張られ、自分の声とは違う声が耳をつんざくように叫んだ。

「空……」

 先に彼の口から飛び出した言葉に、呆けたように力が抜ける。

 階下にいる全ての目が、立ち上がっていた空に向いていた。奏の睨むような目、零斗の呆れた瞳、白花の何の感情も窺えない双眸、依頼人の怯えて開いた瞳孔。

 瞬時に動いたのは零斗だった。動いたと思った時にはすでに階段を上り切って、空の眼前に立っている。拳を空の鳩尾に叩きつけようとしているのだとわかって、慌てて映七は空の腕を引いた。

「零斗、やめろ!」

 鋭い声が零斗に投げつけられ、彼の動きがぴたりと止まった。腕を引こうと力を入れた映七さえ、息が詰まって身動きができない錯覚に囚われる。目だけで奏を見やると、焦ったように腰をあげた奏が、こちらに足を踏み出していた。何が起きたかわからないというように目は見開かれ、口は唖然と開いている。次第に、はっきりとした恐怖が瞳に浮かんだ。動揺するようにふらりとソファに手をつく。その手が微かに震えている。呼びかけようとしたところで、白い顔をした奏が泣きそうな顔で上に顔を上げる。

「零斗、こっちへ来い。空もだ」

 静かだが強い口調のその声は震えていた。そうすることしかできないというように大人しく従う零斗と空のあとに続いて、自由になった体で映七も階下へと向かった。

 未だに心臓が激しく鳴り響いている。恐怖で指先の感覚が薄れ、膝も今にも折れそうな心地がする。奏の声がずっと頭の芯に鈍く響いて反響して、揺さぶられるような気持ちの悪さを感じた。

「申し訳ございません、うちのものです。ご安心を」

 怯えて萎縮してしまった依頼人に対し、奏が頭を下げる。依頼人は立ち上がったまま、小さく震えている。映七は気持ちを入れ替えてそっと彼女に近づき、肩に触れると座るように促した。白花が紅茶を飲むように勧め、言われるがままに依頼人がカップに口をつける。

 依頼人が落ち着きを取り戻す中、映七は肩に触れたまま、衝撃に耐えていた。

 ものすごい勢いで世界が回る。走馬灯のように、繰り広げられる人生。色とりどりの世界が目の前で過ぎ行き、その勢いに酔いそうになる。強い印象から弱い印象、何もかもが映七の視界を飛び回った。

 チェリーが段ボールから顔を覗かせる。小さくキャン、と吠える。指先についたミルクを舐め、遊んでと言うように体を摺り寄せる。手のひらがチェリーを撫でると、腹を見せて催促をしてくる。

「その依頼については、少しだけ、考えさせてください」

 めまぐるしく回る景色に耐えて何とか立っていると、奏が心ここにあらずといったような口調で、そう告げた。


 この場所の記憶を再び消して彼女を見送った後、映七は中空をぼんやりと眺めている奏の名を呼んだ。大丈夫? と問いかけようとしたが、その前に奏が鋭い視線で空を睨みつけた。

「お前は何を考えてるんだ」

 怒鳴りつけこそしないが、怒りの気持ちを孕んだ奏の声は、心に重く圧し掛かる。今は洗脳の力こそ使われてはいないが、それでも充分、映七や空を竦ませるのには絶大な力を発揮した。

 未だに、さっきの声の余韻も残っている。初めて正確に向けられた洗脳の力は、空を通して映七にも伝わった。冷たい手で心臓を掴まれたようなひやりとする感覚。それなのにどこか甘やかな響きを持って頭を揺さぶり、何も考えられなくさせる。これが奏の力なのだと思うと、その万能さに、目が眩む思いがした。

「だって」

 怯んだ空が映七の手を握り、必死で見上げる。応戦するように映七も唇を噛んで見上げると、奏がふいと視線を外した。

「依頼人を警戒させてどうする」

「だって、奏くんが」

 未練がましく口にした空が映七を見やる。空が映七の心を映して先走ってくれたことは明らかだった。

「サトルからの条件は依頼を受けること。それをこなさなければあの場所に連れ返される。……お前らは、譲路さんに捕まりたいのか!」

 怒気を込めて問われた言葉に、さっと血の気が引く。思い出した恐怖がじわじわと這い上がって、思わず空の手を握り返す。汗ばんだ手のひらに、空の緊張も伝染していく。


 ――お前たちは、世界からいらないと烙印を押されたんだ。それなのに、私たちだけが、お前たちの面倒を見てやっている。それを忘れるな。


 あの人の言葉が蘇ってくる。それと同時に、殴られた痛みと、ぶつけた体の傷や痣、地下倉庫のざらざらとした床の感触を思い出して身震いをした。それに合わせて、伝染した、泣き出したくなるほどの寂しさと虚しさが映七を襲い、つい空の手を強く握り締めた。隣で荒い呼吸が聞こえて、その記憶における感情が、空にも移ってしまったことを悟って慌てて頭を振る。

「違う、悪い。これは八つ当たりだ」

 絶望に似た謝罪を口にして、奏が自分の頭をぐしゃぐしゃとかく。狼狽した彼の様子は、どこかおかしかった。心配になって近寄ろうとするが、彼は映七の方をちらりとも見ない。

「……もうどうせ幸せになんてなれないなら、俺がやるしかないんだ」

 囁き声が、微かに聞こえて目を瞠る。奏の目はそうするしかないというように、一心に壁を睨みつけていた。それに不安を覚えて、映七は奏の手を取った。

「奏くんだって、あの人が何を求めているのか、きっとわかってるんでしょう? 依頼をこなすことに、これはならないの?」

 そう懇願するように伝えると、ゆっくりと奏の黒い瞳がこっちを向く。うっすらと潤んだ瞳が、全てを物語っていた。

「言われたことをやることが、一番自分たちや小鈴を守るんだ。俺にはあの人を救える力はない」

 自嘲気味に話す彼を見て、映七は胸が苦しくなった。

 傷を労わるように消毒する手。頑張ったなと頭を撫でてくれた手。見た目から眩しいくらいの彼の姿が映七は好きで、この人について行けば大丈夫だと思えたあの強さがどうしようもなく懐かしくなる。

 今、奏の手は堅く握り締められていて、そこに映七が甘えられる隙はない。空との手を離して奏の手を包むように両手で握ると、怯えたように奏が手を引いた。それを無理やり抱え込む。

「私にやらせて。奏くんは、誰かを思い通りにさせることに慣れちゃ、駄目だよ」

 少しでも、伝わればいい。

 奏の心に巣食う痛みが世界を回す。祈るように目を閉じて、奏の手を額につける。

「けれどもう、戻れないんだ」

 今にも泣き出してしまいそうな奏の声が、すうっと世界に溶け出して、艶やかな景色が闇に沈む。


 今回は、初めから映七と空も一階で話を聞くと押し通した。

 再び訪れた依頼人に、奏が記憶を消す依頼は受けないと硬い声で返答すると、どこか彼女はほっとしたように息をついた。それを見て、映七は以前見た景色を思い出す。彼女の過去の記憶だ。

「好きなんでしょう」

 訴えかけるように映七は依頼人に問う。過剰に反応してから、こちらを見つめ返した依頼人は、きっと無意識なんかじゃない。

 ぐるぐると廻る景色には、彼女にとっては三か月しか会わなかったはずの愛犬が色濃く存在していた。

「チェリちゃんのこと、好きなんでしょう? 忘れたく、なかったはずです」

 一度見た記憶は、再び触れずともその人を見れば思い起こせる。映七は記憶力がいい方ではないが、他人の記憶だけは、簡単には忘れられなかった。それはその人の人生そのものだ。

 瞬きをすると、涙がこぼれ落ちる。それを袖で拭うと、クリアになった視界に、依頼人が映った。そっと、映七の肩に添えられた手は零斗の物だろう。それに気づかないふりをして前を向き続けると、さっと空が近づいて、映七の手を握った。

「お墓を掘り返したって何の意味もないことくらい、あなただってわかっていたんでしょう? それでもそれを願ってしまうくらいにあなたはチェリちゃんが好きだった。好きだったからこそ、恨まれているのだと感じていた。自分が、あの子を埋めた人間になんてなりたくなかった。別の誰かに埋葬して欲しかった。例え、もうそんなことをしても無駄だとわかっていても」

 目を見開く依頼人に今や恐怖の顔はない。ただ唖然とこちらを見ている。空の指が絡められ、そこから彼の体温を感じると、自然と心が安らいだ。

「チェリちゃんは、恨んでなんていないよ。ずっと、あなたの笑顔を願ってる」

 落ち着いた声音で空が微笑む。それから、ついと視線を彼女の横へと動かしたのに、映七は気づいた。

 依頼人が、そっと口を押えて、嗚咽を漏らした。

 奏が、安心したように顔を歪めたのを、映七は見なかったことにした。

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