奏は、冷めてようやく飲み終えたコーヒーのカップをサトルに預けると、促されるまま洋間へと足を踏み入れた。

 何度訪れても緊張と罪悪感と嫌悪感で胸がいっぱいになって息苦しい。

 自分が今ここにいることが、たんなる自己満足でしかないことを自分自身わかっている。

 太陽が落ちゆくオレンジ色の光が、レースのカーテンを通って部屋を染める。春の暢気な風が、開いた窓からカーテンを翻し、奏の頬を撫でた。靴下を履いた足に、フローリングの固さと冷たさを感じながら一歩一歩部屋の奥へと進んで行く。

 その部屋は、ベッドと棚、簡易テーブルといくつかの収納ケースしかない部屋だ。奏はたったそれだけの部屋に、ほとんど日をあけずに来ていた。

「小鈴」

 囁くように唇が、無意識に彼女の名を呼ぶ。

 ベッドに横たわる少女の白い頬に触れようとして、すぐにやめた。

 染めたことのない黒髪は短く切られ、長いまつげは肌に影を落とす。赤みの少ない唇は少し乾いてささくれ立っている。自分の身だしなみには大して興味のない彼女だったが、もとからの凛としたたたずまいは、眠っていてもなお、健在だ。

 九か月前、奏は彼女をナイフで刺した。

 腹から流れ出る血。ナイフごと傷口を押さえて蹲る小鈴。見上げた双眸だけが強く意思を灯していて、そこから急速に失われていく光に、奏はただ膝を折るしかなかった。慌てて抱き起した時の重みに、力を失った人間はこんなにも重たいのかと衝撃を受けた。まるで物のようにだらりと投げ出された手が傷口を滑って床に落ちる。傷口を押さえなきゃ、と上手く考えられない頭がただ奏の手を血で染めた。

 あの時の声も景色も匂いも感触も、全て忘れることはない。

 何も忘れることができない彼女の力が、まるで自分に移ったかのようだ。

『目を、開けて』

 その言葉を聞いて、彼女の瞼が弱々しく動いた。うっすらと開いた瞳は、奏の顔を映すには細すぎて、どこを見ているのかはわからなかった。苦しそうな息を吐きながら、蒼白な顔で小鈴は奏の手を握って言った。


 ――逃げて。


 そのたった一言が何もかもを変えたのだ。その後昏睡状態に陥った小鈴は、あれ以来目を覚まさない。

 奏の能力を使えば、彼女の目を覚まさせることは可能かもしれない。しかし、それをすることは、休めなければならない体を無理やりに起こすことで、最終的にいい結果をもたらすわけではない。そうサトルにきつく言われている。

 今は、医者であるサトルが仕事以外の時間はつきっきりで面倒を見てくれている。仕事も全て投げ打って看病にあたって欲しい、いつ病状が悪化するかなんてわからない。奏はそう訴えかけたいが、自分にそれを言う資格もサトルにそれをする義務もないことは重々承知している。

「小鈴、すまない……」

 押し殺した声が喉の奥から漏れて、奏は自分の手のひらに爪を立てた。痛みだけが、唯一奏を救ってくれる手段だった。誰一人、奏を責めることをしないから、自分だけは自分を責め続けなければならない。そう何度も言い聞かせた。

 それでも、あの時の奏にはこうするしか思いつかなかったのだ。

 面会時間は十分。今日もタイマーが終わりを告げる。

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