マンションの一室で、サトルは切られた電話から耳を離した。

 あいつのことだから、あんなことを言ってもきっと来るのだろう。むしろ、二日とあけたことがない。こんなに来なくていいのにと思ってしまうくらいに、彼はあのことに責任を感じ続けている。

「そんなことを思う必要はねえんだけどな」

 伸びてきた髪をかき揚げる。反対の手の中で携帯電話が着信を知らせた。

「はいはい」

 ディスプレイに表示された名前を見て、つい口元に笑みが浮かぶ。

 出るついでに、何となく口寂しくなって、サトルはテーブルに投げ出した煙草を口に銜えた。

『まさかとは思うけど、煙草吸ってないよね?』

 開口一番、聞こえてくる声は見ているようなことを言う。

「いやー、まさか」

 内心ぎくりとしながらも、肩と頭に携帯電話を挟んで煙草を手に持ち替えると、ライターに灯した火を近づけた。

『煙草、吸ってんじゃねえだろうな?』

 ドスのきいた声が、再度同じことを繰り返す。数秒逡巡した結果、サトルは諦めて煙草を投げ出した。

「吸ってねえよ、ほら、このとおり!」

 見えもしない相手にハンズアップで無実を証明する。名残惜しそうに見てしまった煙草から目を背け、テーブルを背にして携帯電話を持ち直す。

「で、なんだよ」

『……あんまりあの子をいじめるのはやめてよね』

 押し殺した囁きが耳を擽る。

「いじめてねえよ。人聞きの悪い」

『今はまだ、終わるわけにはいかないんだ』

 だから、あの子を壊すのはやめてね。と、よっぽど恐ろしい声が続ける。

 強い信念を持った声。それはしかし、サトルが求めている声だった。それを聞いたらなんだか無性に安心してしまって、口元が弛んだ。

「こっちの言うことさえ聞いてくれれば、俺にどうこう言うつもりはねえよ」

 気分が高揚するのが自分でわかる。暗くて重くて苦しいのなんてまっぴらだ。反発だろうとなんだっていい。落ち込んでるよりこっちの方がずっといい。昨夜からずっと感じていた曖昧な不安と心配も、この声を聞いて少しだけ薄れていく。

『その言葉を信じてるからな』

 わずかに含んだ不安の響きは聞かなかったことにする。

 目的のため、悪役のような口をきいておきながらも、結局彼はそのことに罪悪感を抱いているのだろう。それを優しさと取るか甘えと取るか。

 ぐずぐずとその不安に慣れ始めている時間はそうないのだと、心の中でそっとぼやく。

 切れた電話を放り出そうとして、一件かけるところを思い出してつい迷った。指先で意味なく画面をスクロールしてしまうのは若い頃の反抗心が未だ燻っているからだ。そう宥めると、諦めて発信履歴を辿り、日課にも近い頻度の電話番号を呼び出す。相手はたった三コールにして電話口へと出た。

 忙しいはずなのに、こうも早く着信に飛びつく相手に、浮かれていた気持ちがざわざわと騒いだ。けれど、きっといくら待っても出なければ、その時も同じように気持ちは沈むのだろう。自分もまた現金なやつなのである。

「こっちは変わらずだ。心配無用」

 一言だけそう伝えると、返事も待たずに通話を終わらせる。可愛くないガキだなと、自嘲してから、もうガキの年齢じゃあないなと鼻で笑った。

 ふと放り出された煙草が目に入り、新たに出した一本を手持無沙汰に銜えて火を点ける。吸い慣れたはずの煙草は口寂しさを和らげるが、たいして美味くなかった。もともと敵愾心と反抗心で始めたこれはいつのまにか手放せなくなっていたが、これでも量は減ったのだ。

 口煩い小姑がいるからな、と一人ごちて、息を吐き出す。目の前に広がる彼らの未来のように、煙はゆらりと流れていった。

 リビングから繋がる洋間に目をやり、サトルは見えない未来に想いを馳せた。


 GPSで確かめていたから、奏がもう着いたことはわかっていた。幾分もしないうちに、インターホンが奏の来訪を告げる。

 だいぶ短くなった煙草を灰皿に押しつける。洋間の扉を習慣でノックしてから、念のため開けてチェックをする。そこに何の問題もないことを確認して、玄関へと向かった。

「よう」

 開けた先には仏頂面を浮かべた奏が、トイレットペーパーの袋を片手に立っていた。

「ん」

 押しつけられる袋をありがたく受け取る。値段を尋ねたが、金はいらないとだけ返ってくる。

「もとは全てお前の金だろ。俺たちが借りているに過ぎない」

「貸してるつもりはねえよ。こづかいだ、こづかい」

 頑なに受け取ろうとしない奏に呆れつつも、サトルはようやく見慣れてきたその黒い頭をぐしゃぐしゃと撫でた。鬱陶しそうにしながらも払いのけることはない。我慢強いのは悪いことではないが、全部を抱えすぎるのは奏のよくないところだ。

 けれど、それを今の奏に言ってもどうしようもないことはわかっているから、諦めてサトルは奏をリビングに通した。

 事前に沸かしておいた湯でインスタントコーヒーを作る。座るように促すと、洋間に未練がましい視線を向けながらも、彼は渋々腰を下ろした。

 インスタントでも充分芳しい香りが鼻を突く。煙草よりもずっといい香りだと思う。

「それで?」

 これだけで意味は通じるだろう。ずずず、とまだ熱いコーヒーを啜る。奏は、口元まで持ってきたカップに息を吹きかけ、結局テーブルへと下ろした。

「依頼人は中等部三年、遠野理子。可愛がっていた犬を埋葬してから毎晩、そこから犬が蘇る悪夢を見る。だから自分の知らない場所に埋め直して欲しいという依頼だった。昨夜遂行済み。本人に確認したい意思はないようだが、任務完了の連絡だけは頼む」

 淡々と告げられる言葉は、およそ朝の時点でもらったメールと同様だ。もともと、最初の依頼を選んだのは自分だから、簡単な依頼内容は聞き及んでいた。

「でもそれってやっぱおかしいよな」

 依頼を受けた時から気になっていた。そしてそれを奏なら指摘するんじゃないかと思っていた。しかし、額面通り依頼を遂行してしまうことを選んだようだから、仕方なくサトルは問いかけることを選ぶ。

 奏は、一瞬固まったように動きを止め、それから静かに視線をサトルへと向けた。

「何が」

「だって、悪夢が嫌だったんだろう。だったら悪夢を見ないように依頼をするべきだ」

「そんなことができると思ってなかったんだろう」

「百歩譲ってそうだとしよう。けれど埋め直したって、それが悪夢の改善に繋がるのか。縋る気持ちはわからないでもないが、それを自分では確認しようもない」

「そうだと思い込むことが大切だ」

 取りつく島もない奏の物言いに、思わず溜め息が出た。

「俺の知っているお前は、依頼の遂行よりも、相手に寄り添うことを選ぶ人間だったんだけどな」

 自分だけでなく人を想う。それが突っ走ってしまう原因にもなり兼ねないが、そんな彼だからこそ、前へ進める道を作れた。静かに口にして奏の挙動を見守ると、堪えていたものが噴き出すように、奏の顔が歪んだ。

「……じゃあどうしろっていうんだ。俺には、人の不幸まで背負いきれる自信がない。時間もない。依頼をこなせと言ったのはお前だ。やって欲しいと言われたことはやった。これ以上何を望む」

 その悲痛な響きに、サトルは問い詰めたことを後悔した。本来、彼は誰よりも人の心の機微に気づいてしまう優しい子だ。泣くのを堪えるように机を睨んでいる奏を、サトルは哀れな思いで見つめた。ゆっくり聞こえる呼吸音で、気持ちを落ち着かせようとしているのがわかる。

「……悪かった」

 そう答えるしかなかった。目に見えて安心した表情を浮かべた奏から目を逸らす。見てはいけないような気がした。

「メールは出しとく。依頼人の都合にもよるが、明日の放課後はどうだ」

「構わない」

 ようやく落ちついた顔になったその下の感情を、サトルはたぶん理解している。誰よりも責任感強く、封じ込めてしまう彼のことだ。

「それで、学校はどうだ」

 話題を変えようと振った話に、奏は戸惑うようにこちらを向いて、それから迷子のような表情をした。

「どうも何も。座って真面目に授業を聞いてるだけだ」

「友達はできたか」

「そんなもの」

 語気に力が籠る。

「作っちゃいけない」

 大切なものを作ってはならない。

 彼は手に持てる全てを守ってしまいたい性分だから、手に抱えきれない大切なものは作らないことに決めてしまった。悲痛な面持ちの真意が手に取るようにわかっても、サトルにはどうすることもできなかった。一歩間違えれば、どこまでも冷酷になれる力を持ち合わせている奏をここに留められるのは、彼の師か、小鈴しかきっといない。

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