なぜ自分がこんなにもあの依頼を恐れているのか。死体を触ることそのものへの嫌悪感ではきっとない。たんなる嫌悪感だけなら、割り切っているだけで奏や零斗の方があるだろう。

 だから、このどうしようもない不安感は、そんなものじゃないのだ。

 広い公園の中に、木が鬱蒼と茂った小さな林のようなエリアがある。

 空は、そこでつぶらな瞳を見つめていた。

「僕じゃ、正確なところまではわからないよ。構ってくれる相手欲しさにここまでついて来てくれたけど、僕にはヒノちゃんのような能力はないから」

 桜の花びらがふんわりとした夜気に攫われて足元をくすぐる。空の数歩先には、尻尾を振ってから、顔だけで振り返る彼女の姿がある。

「チェリちゃん。……僕を、君の所まで案内してくれる?」

 胸の底がぽっかり空いたような気持ちだ。しゃがみこんでその犬に話しかけると、利口な彼女は、ついて来いとばかりに前を歩き始めた。言葉を理解しているのだろうか。それとも理解していないのだろうか。どちらの方がより、空にとって都合のいい世界を描けるのだろう。

 空は、二階で立ち聞き――正確には座り聞きだが――した話を思い出す。

 依頼内容は、犬の死体を自分の知らないところに埋め直して欲しいということだった。

 三か月前に死んだ、ゴールデンレトリーバーの仔犬。彼女を埋葬してから毎晩夢を見るのだと、依頼人である遠野理子は話していた。毎晩毎晩、埋めた場所から鳴き声がして、気づけば枕元に彼女がいる。そこで恐ろしくなって目が覚めるのだと。

 チェリーと名づけ、チェリちゃんと呼んでいたその犬は、遠野理子が公園で捨てられているのを見つけたらしい。しかし生憎家はマンションでペットは禁止。声をかける知り合いもおらず、しかし湧いた情から見捨てることもできずに毎日餌をやりに来ていたのだという。けれど、突然の法事で二日遠方に出かけた。帰ってきたら、チェリちゃんは死んでいた。だからあの子は自分を恨んでいるのだと、しゃくりあげながら話していた。

 それを見て、何を言っているのだろう、と空は思ったのだ。

 チェリーは、ここにいるのに、と。

 恨んでなどいないだろう。彼女は、大人しく遠野理子の側に騎士のように座り、尻尾を揺らして見上げていた。そこには忠義と愛着しか見て取れなかった。

 あの子は、死んでいるんだ。そう理解した途端、さっと冷水を浴びせかけられたかのように心と体が冷えた。

 空は生者も死者も同じように見える。

 そういう力を持っているのだと知ったのは物心ついてすぐだったが、実際にこの目で初めて見たのはここに出てきてからだろう。空にとっては何の違いもなく見える彼らは、しかし他の誰にも相手にされなかった。もう、その瞬間から誰にも何も伝わらなくなって、過去のものになってしまう。

 それを理解した。

 空は未だ葬式には出たことがない。頭では、死んで腐敗した肉は衛生上でも火葬にしなくてはならないとわかっている。たとえそれが土葬であっても、何かしら葬る手段を取らなくてはならないことは理解できる。

 けれど、空の目には彼らはまだ、生きている。

 そう思うと、死体を勝手に弄るということは、空にとって耐え難いほどの気持ち悪さを感じる行為に映るのだった。空にとっての生者を、動かない死者としてしまう行為だ。

 もし、これが映七だったら。

 もし、これが自分だったら。

 そう思うと、どうしようもないほどの恐怖がせり上がって、今にも叫び出したくなる。

 生きているようにしか見えないのに自分ではどうすることもできず、ただされるがままに死を直面させられる。それはとてつもない恐怖だ。

「空」

 行きますよ、と背中を押されてどうにか歩き出す。自分しか見えない小さな命に、どうにかはぐれないようにと追い駆けていく。

 背後から奏が照らす懐中電灯の光はきちんとチェリーに当たっているのに、彼女の下に影ができないことが、何だか無性に苦しかった。

「ワン」

 ここだ、というようにチェリーが吠え、一本の木の根元を前足でかく。

 もう、あの時には戻れないんだ。そう、心の中で呟く。じゃあ戻りたいか。そう自問する声が聞こえてたじろぐ。映七がいる場所だけが空の居場所だ。何度目かわからない返答を、摺り込むように言い聞かせる。

 だから、ここでの最善を、尽くさなくてはいけない。

 そうしなければ、映七を守ることなんてできない。

「たぶん、ここ」

 大人しく空を見上げるチェリーの首筋を撫でてやる。するとワン、と一鳴きしてチェリーがお腹を向けて寝っころがるから、ついでに腹も撫でてやる。この感触は、一体何なのだろうと思う。はっきりと、この手に感じるこの感触。それでもここには何もいないのだ。

 では、空は何を信じればいいのだろう。

「掘るぞ」

 持参したシャベルを、奏が地面に突き刺す。土が足元に飛ぶ。零斗がそれに倣って近辺を掘り出すから、空も見えないものを見るのをやめた。持ってきたシャベルが土をかく。チェリーはしばらく周りをくるくると回った後、どこかに行って見えなくなった。

 夜の風が花びらを舞わせる中、一心不乱に三人は死体を探し求めた。まだうっすらと冷えるはずなのに、滴り落ちる汗は視界を遮り、シャツを体に貼りつける。

 地面に穴が広がっていくのに比例して、土の山は足を埋めていく。アリジゴクに落ちるように、引き戻せない時を進めていく。

 映七の不安そうな瞳が脳裏を過って、空は一滴だけ、涙をこぼした。それは汗と一緒になって、穴の中に吸い込まれていく。あっという間に、見えなくなった。


 泥まみれのシャベルを玄関に放り出す。汚れた服のまま、もつれる足で廊下を踏む。

「おかえり」

 トイレにでも行っていたのか、玄関から真っ直ぐ続く廊下の右手側、洗面所がある三つ目のドアから白花が顔を出した。

 すでに時刻は深夜四時過ぎ。どうやら起きて待っていたらしい白花に、奏が「ただいま」と返す声がする。

 喉が渇いてひくついていた。

「映七なら部屋よ」

 白花の言葉に、空は、落とした視線を上げた。靄が詰まっているようなぼんやりとした頭に映七の顔が浮かび上がると、もうそのことで頭がいっぱいになって、泣きたくなった。急いで二階へ向かおうとしたところであまりの汚れに気づき、洗面所に駆け込む。手を洗い、汚れた服を洗濯カゴに放り込む。周到に準備してあったTシャツと短パンを身につけると、もつれる足で洗面所から飛び出した。

 洗面所から出て正面、玄関から見て直角に曲がる廊下を進み、突き当たった左手側にある真鍮製の釣鐘草の扉――嵌め込まれた曇りガラスの周りを真鍮でできた植物の蔓が囲み、ノブの部分は釣鐘草の花を象っているという凝った代物だ――を乱暴に開けた。


 お前らみたいだろう?


 サトルが皮肉を言いながら買ってきた絵。廊下の突き当たる壁に飾られた、籠に入った鳥と合ってしまった目を、強引に扉の先のリビングダイニングに向ける。

 強く打ち始めた鼓動が、耳に痛いほど響いている。はな、と名前を呼ぶと、四肢が千切れそうなほどの苦痛を感じた。

 入って手前が応接間を兼ねたリビング、境はなく、その奥が食事をするダイニングとなっている。空は、廊下側に面した幅広い階段の手すりを掴んだ。ゆるくカーブする階段の一段一段に躓きそうになりながら、這うように二階へと上って行く。

「はな」

 よろけながらも何とか廊下を進み、自室の隣の部屋をノックする。

 返事はない。耐えられなくなって、空は勢いよくドアを開けた。

 中は暗い。開けられたドアから伸びる光が、窓際に置かれたベッドを一筋照らす。ベッドの上に、ぼんやりと宙を見つめる、映七の姿があった。

 その姿を見た瞬間、溢れ出す様々な感情を抑えられなくなった。切なくて寂しくて苦しくて愛しくて悔しくて、空はドアを押えていた手を離す。パタン、とあっけないほど軽い音を立てて閉まると、部屋は闇に包まれた。光に慣れた瞳では上手く映七の姿を捉えられなくなって手を伸ばすと、首に抱きつかれるように引き寄せられる。

「おかえり、空」

 落ち着いた声音が空を包む。ほっと息をつくと、絡まっていた呼吸も楽になっていく。

「ただいま、映七」

 抱き締め返すと、空、と名前を呼ばれる。声の響きに伝播して、空の心の表面が揺れる。

 泣いていたの、とは聞けなかった。映七が泣いていたとすれば、それは空のためだ。空のせいだ。だから聞くことができない。

 闇に慣れてきた瞳が肩で切られた映七の黒髪を映して、咄嗟に息を呑む。見慣れたはずのその髪型が、嫌で嫌で仕方がなかった。

 一度は落ち着いた鼓動が早まる。やめて。上ずった声でもいいから、そう叫びたいのに声が出ない。

 それを感じ取ったのか、空、と余裕をなくし始めた声が呼ぶ。

 駄目だ。これ以上傷つかないで。これ以上傷つけないで。

 あの優しい彼女が、空をも巻き添えにして傷つこうとする。

 そして、それをやめてと言いながら、それを望んでいる自分がいるのだ。もっと、その痛みが欲しい。もっと、映七を感じていたい。

「外の匂いがするね」

 責める口調ではない。けれど、その声には感情が籠りすぎていて、あっという間に空の心に響いて締めつける。

「土の、匂いがする」

 二人で一つを選んだ空たちは、もう逃げられない。


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