第一章 四月~五月


 白花しろかそうのティーカップにおかわりを注ぐ。その音が静かな部屋に響いた。

 春の午後の麗らかな陽光が、カーテンを開け放したリビングを照らし、部屋を暖める。一見のどかな雰囲気だったが、そこに張りつめた緊張が、奏の神経を過敏にさせていた。部屋のどこで誰が何をしているかだけではなく、窓の外にいる鳥の動きでさえ今は気に障って仕方がない。

 請負業を始めることになって、最初の依頼人である。しかし、彼女がここにやって来てからそろそろ十分。顔も上げず、未だまともに口を開いてくれない現状に、奏は焦りが募っていくのを感じていた。

 それは嫌な記憶を呼び起こす。心臓が締めつけられるような恐怖心。喉に絡みつく罪悪感。手のひらに残る罪の感触。指先が冷たくなっていって、握り込むようにして摩る。

 止めていた息をゆっくりと吐き出し、ほとんど縋る気持ちで黒い瞳を少女に向けた。

「ご依頼をお話し下さい。遠野とおの理子りこさん」

 名前を呼ばれた少女が、怯えたように顔を上げる。眼鏡の奥に覗く小さな目が奏を見上げ、目が合ったのを認識するとまたすぐに俯いた。

 学園にある使われなくなった旧校舎。そこの二階の一番端。昔の掲示がそのままになった一角に貼られた真新しいお知らせ。そんな怪しい噂を信じて、こんな怪しい場所まで一人でのこのこやってきた、記念すべき依頼人第一号。

 ここに来るのには勇気がいっただろう。こんなところに頼らなければならないほど彼女は疲れていて、助けを求めているのだ。だから追い詰めてはならない。そう頭のどこかでは思うのに、気を遣うための神経が麻痺したように言葉が出てこない。

 大丈夫、安心してください。たったそれだけの言葉でも価値はあるのかもしれない。しかし、安易な言葉の投げかけには宿る意味がない。緊張して強張った体、落ち着きなくさ迷わせる視線、膝の上で握った拳。その様子を見るだけで、彼女の心労が伝わってくる。口先だけで優しさを分け与えても、それは何をも救わない。たったひと匙の誤魔化しに縋られても、奏には彼女の未来を抱えられる力はないのだ。

 そう言い聞かせると、奏は無心になるため、唇を噛み締める。

 目の裏には、いつでも思い出せる光景が一つある。それがチカチカと危険信号のように奏を責め立てる。早くしろ。そうしないと捕まるぞ。そう追い立ててくる。

 こんな焦りをこれから一年も続けなければならないのかと、逃げられない運命につい歯ぎしりしてしまう。

 不安に終わりはない。この一年が終わった先に、どんな未来が待っているのか。考えるだけでさらに心は頑なになって、体は冷え切っていく。それでも幸せなんて曖昧なものをただ一心に願い続けるためには、今この瞬間を乗り越えなければならないことを、悲しいながら理解していた。

 不安そうに縮こまる少女を追い詰めたくはない。時間をかけて労わって、そうしてゆっくり話を聞いてあげる。本当はそれが正解なのだろう。けれど、それは奏たちのやるべき『依頼』の趣旨ではないし、そんな時間なんてないのだ。そう思うと、自嘲すら凍った。

「あまり急かすのはよくないですよ、奏」

 知らず眉根を寄せていた奏を非難するように、柔らかな声が割って入った。

零斗れいと

 端正な顔立ちが柔和な笑みを象る。今まで何も思ったことも感じたこともなかったが、どうやらそこらへんのアイドルなんかよりもずっと綺麗な顔を持つ彼が、奏を隣から見下ろした。不快感を露わに睨み返すと、零斗はその微笑みをさらに強めて肩を竦める。

 そのまま何も言わずに立ち上がって机を回ると、依頼人の側に片膝をついて見上げた。

「死んだ犬を、埋め直して欲しいと。そういうご依頼でお間違いないですか」

 美しい顔に見上げられて赤く染まった頬が一瞬にして青ざめる。一段と少女は小さくなった。奏よりもずっと核心を突く言葉を投げかけておいて、急かすのはよくないなどとどの口が言う。思わずそう悪態をつきたくなる気持ちを押し込めて、奏は紅茶を一口啜った。少女は肯定しない代わりに否定もしない。その様子に、胸にざらりと違和感を覚えて眉を上げた。

 依頼人である彼女は、相変わらず何か見えないものに畏縮するように身を固くしている。青ざめた顔はいっそ白いくらいだ。寒くはないはずだが、紫に染まった唇が微かに震えている。

「あの」

 思わず声をかけてしまう。依頼人の瞳が奏に向けられ、その瞳がわずかに潤んでるのを見て取って、怯んだ。迷っているうちに零斗が険しい視線を送ってくる。彼の口がゆっくりと音もなく形を作る。あ、ま、い、ですよ。それを見た瞬間、奏は我に返った。

「奏」

 諌める口調で零斗が名前を呼んでくる。立ち上がった彼がこちらに歩いてきて、奏の肩に手を置くと耳に口を近づけた。

「俺たちのすべきことは何ですか」

 低い声を聞いて、堪えるようにまた歯を食い縛った。

 自分には、やるべきことがある。それは酷く曖昧で形のないものだったが、そのためには優しさを模索している時間もない。奏の手には家族の運命が乗っかっていて、守れないものにまで手を伸ばすのは傲慢だ。それを思い出す。

「いえ、何でもありません。依頼をお受けいたしましょう」

 もとより答えは決まっているのだ。そうでなければならない。答えた自分の声が、あまりにも冷え切っていて驚いたのを、咳払いで誤魔化す。

 がりがりと荒い紙やすりで心を削られるような気がする。喉がひくついて、飲み込んだはずの紅茶の味がわからない。

 強く鳴り響く心臓の音は、まるで警鐘のようだ。立ち上がることはできるのに、自分の体を動かしているという感覚がない。熱に浮かされた時のように思考が鈍い。

 自分たちの幸せのため。みんなの運命のため。そのためにできること。ただそんなことだけが、ぼんやりとした脳内で熱く燃えたぎっている。

 依頼人に近づこうとすると、訝しげな顔をした零斗が、それでも場所を開けてくれる。

 そっと、手のひらを依頼人の額に当てると、彼女が身を強張らせた。零斗と、白花と、二階にいる二人が息を呑む気配を背後に感じる。指先がどくどくと脈打つ。呼吸が浅くなる。涙が出そうになる。それらを悟られる前に、声を出した。

「そういう記憶に変われば……、どこに埋めたのかわからなくなれば、満足ですか」

 自分の声ではないようだ。自分は、こんなに乾いた声を出す人間だっただろうか。

 無理やり口元に笑みを浮かべる。変わらなければならない。ここに、みんなを連れて来たのは自分なのだ。自分が、みんなの未来を歪めたのだ。守るためには、変わらなければ。

 依頼人の体温が徐々に指先に伝わって、思わず体が引きそうになる。恐れる気持ちを押し込めて、できるだけ優しい顔を作ってみせた。

 依頼人の怯えた黒目が奏を見上げている。

「奏、退きなさい」

 なんとか覚悟を決めた気持ちが、鋭い声に遮られた。依頼人に伸ばした手が強い力で引っ張られ、その拍子で後ろによろける。驚きで歪んだ瞳が、奏を見下ろした。その剣幕に体が固まって動かなくなる。

「その依頼は責任を持って受けましょう」

「零……」

 ここに、みんなを連れて来たのは自分だ。だから、みんなが笑って過ごせるように、自分がどうにかしなければならない。自分には、その力がある。力を使うことを躊躇わなければ、自分は変わっていける。

「前金五千円。成功報酬で五千円。失敗した場合は前金もお返しします。それでよろしければ、俺たちにどうして欲しいのか、それを詳しく教えてください」

 零斗の声が、耳を通り過ぎていく。

 あの時の光景が脳裏に過る。心臓が締めつけられるような恐怖心。喉に絡みつく罪悪感。手のひらに残る罪の感触。

 固く握り締めた拳で、奏は動き出せない自分を殴りつけた。それなのに、どこかほっとしている自分がいて、その事実にまた泣き出したくなる。


「――どうして」

 依頼人を見送ってから奏がリビングへ戻ると、蒼白な顔をした少女が、階段を下りながらこちらに向かって悲痛な声をあげた。傍らには彼女よりも一つ年下の少年が、指を絡めるようにして付き添っている。彼も彼女と同じように、青い顔をしていた。

 依頼人に触れた指先が、冷えているのに内部だけ熱く脈打つ。それを握り込んで爪を立てると、痛みとともに怯えた心が少しだけマシになる気がする。何でもないことのように二人を見据えると、わずかに臆したように、彼らがたじろいた。

「その問いは何に対するどうして、だ」

 疲れ切った体が重い。大したことは何もしていないはずなのに、筋肉が硬直して異常にだるかった。

 少女が悩むように視線をさ迷わせ、結局何かを飲み込むように唇を噛む。そんな彼女の頭を、零斗の大きな手が撫でた。

「サトルに依頼を受けろと言われたからに決まっているでしょう。ここにいたければ、あの人の言う通りにするしか他ありません。それはあなたたちもわかっているでしょう、そら映七はな

 奏が何かを言う前に、気遣うような目線と諭す口調で零斗が二人に答える。

「でも、トールくんならきっと、嫌だって言えば違う依頼を探してきてくれたよ」

 本当に聞きたかったことはこれではないだろう。なぜあの場で奏があのように力を使おうとしたのか。それを非難したかったはずだ。それでも、奏を慮って質問を『これ』に変えてくれる彼らに、奏はもやもやとした息苦しさを感じた。傍らに垂らした手のひらに力を籠めて呼吸を止める。彼らに、答えがわからないはずがない。

 訴えるように零斗に対峙する空は、自分よりも三十センチも高い零斗を見上げる。フォローをどちらに入れていいのか頭が回らない。ふらふらと隣を通り過ぎてさっきまで座っていたソファに腰を下ろすと、一気に疲れが全身に回った。同時に寒気と怖気が覆い被さろうとしてくるのを感じて、敢えて背筋を伸ばす。

「空」

 戸惑ったような響きで映七が空の名を呼び、それから奏の横へとやってくる。

「奏くん。顔色が悪い」

 自分だって顔色が悪い癖に、そうやって彼女は人を気遣う。それが今は辛い。

「空、悪い」

 誰にも迷惑はかけたくなかった。ここに連れて来たのは奏だから、自分一人で解決したかった。けれど、自分はこんなにも無力で、役に立たない。

 背を撫でようとする映七の手を掴んで拒むと、空に頭を下げる。ゆっくり顔を上げると、今にも泣き出しそうな顔をして、空が渋々頷くのが見えた。

「そうしないと、映七を守れないのなら僕は……何でもするよ」

 揺れた空の瞳が、映七を見て、心細げに細くなった。それを見ると、奏の中で、罪悪感とも後悔ともつかないような、息苦しい気持ちが増していく。こんな顔をさせるために、自分たちは外に出たのかと、金切り声で泣き叫ぶ声が今にも聞こえてくるようだった。

「決行は明日の夜。雨天でも行う。白と映七は留守番。零斗と空はよろしく頼む」

 風もないのに揺らいで見えるティーカップの水面を睨んで、奏は告げた。耳鳴りのような叫び声が頭に反響している。耳を塞いでしまいたいのに塞いでもどうにもならないことはわかっていた。

「了解しました」

「はい」

 零斗が承諾する声と空が不満げに頷く声が、奏に、引き戻せない一歩を踏み出させた。


 しばらくして空と映七は自室に引き上げて行った。残されたリビングで、奏はソファに身を預けたまま、事切れたように動けなくなっていた。

 圧し掛かるのは依頼人の未来なんかではない。自分たちの未来と、自分が動かしてしまったいつかへの未来の道筋だ。それが良い方向に動くかどうかなど、誰にもわからない。ここにいる彼らを、後戻りできない場所に連れて来たのは自分だという思いがあるからこそ、失敗はできない。ほんの少しでも苦しませたくない。それは本音なのだ。

「考えすぎはよくないですよ」

 隣に腰を下ろし、白花の淹れた紅茶を飲みながら、零斗が何でもない事のように口にした。

「そうすることが最善なのだと、判断したからここにいるのでしょう? あなたも、俺も、他のみんなも」

 横目で彼の様子を窺うも、表情も仕草もいつもと変わる様子がない。九か月前のあの日も、彼は落ち着いた様子で奏たちを導いた。その余裕を見ると、時々憎らしく感じる時がある。

「お前はいつも、冷静だな」

 皮肉交じりにそう言っても、零斗はどこ吹く風で微笑んだ。

小鈴こすずのためにも、自分たちのためにも、こうすることしかできないことを理解していますから」

 その名前を聞いた途端に、奏はぶるりと身震いをした。歯の根が合わなくなりそうなくらいの悪寒がして、思わず目を閉じる。目の前に赤い色が広がって、喉の奥から潰れた悲鳴が溢れ出しそうになる。

「――奏、紅茶が冷める」

 涼やかな声が、悲劇を繰り返そうとする奏を現実に引き戻した。

 ローテーブルを挟んだ正面、依頼人が座っていた席に白花が座る。零斗よりもさらに温度を感じさせない白い陶器のような顔が、飲んでいた紅茶からわずかに上げた視線で奏を窺う。少しだけ色素の薄い黒茶の瞳が、静かに伏せられ、長いまつげが頬に陰りを落とす。

「別に、あんたに私の人生背負ってもらおうなんてこれっぽっちも思ってないから」

 切り捨てるような物言いに、奏ははっと顔を上げた。意識して体から力を抜くと、思っていた以上に全身が強張っていたことに気づく。そんな奏の変化を知ってか知らずか、そもそも興味もないのか、白花は表情も変えずに悠然としている。

「……空にはきっと嫌な思いをさせる」

 溜め息に乗せるように口にして、二階の彼らに意識を向ける。それにつられたように零斗も天井へと顔を向けた。

「あの子たちはお互いがいれば、なんとでもなりますよ」

 突き放すような言葉なのに、その声にはほんの少しの寂しさと、労わる優しさが込められていて、奏は零斗をまじまじと見上げてしまった。

「何です」

 視線を向けられた零斗は、茶菓子に出したクッキーを齧って、怪訝そうな顔をする。

「いや、きちんとあいつらを想っててくれてるみたいで安心しただけだ」

「酷いですね。空はともかく、映七は大事な大事な妹ですからね」

「映七は、ねえ」

 無意味に繰り返した言葉が気に入らなかったらしい。ぐいぐいと頭を乱暴に撫でられ、それに抵抗すると、頭上で含み笑いが聞こえた。

「あなた方のことも大切ですから拗ねないでください」

「嘘くせえ言葉」

 いつまでともしれない箱庭の中だとわかっているからこそ、時折見え隠れする現実に目を塞いで、無邪気に甘さだけを得たくなってしまう。軽口だけ叩き合って、笑っていたくなる。

 けれどそんなことはきっと許されない。

 あの世界から逃げ出したあの日、きっと自分は戻れない道を選んでしまったのだろう。鮮明に蘇るあの半日。彼女のような力なんてなくても忘れることができない。

 失いかけた大切な人。置いてきてしまった大切な人。

 過去へはもう、戻れない。

「俺たちはいつか幸せに……自由に、なれるのかな」

 ぼそりと呟いてしまった言葉に、零斗が顔を向ける。誤魔化そうと視線を外して、無意味にテレビのリモコンに手を伸ばす。

「なりましょう」

 諦めの音を孕んだ、けれどどこまでも優しい声が静かになった空間に落ちる。奏は返事ができず、ただ一人、彼女のことだけを想い起こした。

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