眩耀

せてぃ

眩耀

 そんなはずはない。


 これは何かの間違いだ。


 机に突っ伏した姿勢のまま、僕はそう何度も、何度も繰り返した。


 春の朝日が眩しく照らし出す二年三組の教室は、嬌声に満ちていた。無理もない、と思う。なにせ、半年間姿を見せなかった同級生が、突然登校してきたのだから。

 その女子生徒は、中学一年の冬休みが明けると、学校に来なくなった。

 誰の目から見ても、正月前まではごく普通に見えていたという。彼女が来なくなった理由については、さまざま噂が流れた。実はイジメられていたんじゃないか。親に反抗しているだけなんじゃないか。そんなありきたりなものから、果ては、本当は死んでいるんじゃないか、いや、同級生の誰かに妊娠させられたんじゃないか、など。噂は無責任に加工されるものだとしても、尾鰭も背鰭も胸鰭も、腹鰭までも生やした怪物が、この数ヶ月間、学校の中を悠然と回遊していた。しかし、結局のところ、生徒に真実を知る術があるわけではなく、来なくなった理由は、誰にもわからなかった。

 その本人が突然、それまで何もなかったかのような顔をして、登校してきたのだ。誰もが驚き、交流があった幾人かの女子たちは、踊り出しそうな程のようすだった。中には感極まって、泣き出しているものの姿もある。

 だが。

 そんなはずはない。

 これは何かの間違いだ。

 間違いなはずなのだ。

 僕は伏せた顔をわずかに上げた。

 机の上に組んだ腕に顔をうずめた姿勢から、僕はわずかに顔を上げた。自分の腕の向こうに、彼女の姿が見えた。はっきりと、その姿を見ることができた。

 やはり、有り得ない。

 そんなはずはない。

 これは何かの間違いだ。

 間違いなはずなのだ。

 僕の視界の中で彼女が笑う。同級生たちとの間にあるはずの、これまでの時間的空白など、まるで気にならないように、ごく自然に話し、振る舞い、笑う。

 僕はその姿を見つめながら、彼女のことを思った。



 彼女の名前は水瀬真理という。

 僕は彼女のことをよく知っていた。同じクラスになったことはない。幼なじみだったわけでもない。それでも、僕は彼女のことをよく知っていた。たとえば、彼女が学校に来なくなった理由を知っていた。彼女の身に何があり、どんな想いで学校に姿を見せなくなったのかを知っていた。とにかく、僕は同じ学校中の誰よりも、彼女を知っていた。そのはずだ。

 彼女とは様々な秘密を分け合った。

 だから、僕は誰よりも彼女を知っているはずだった。

 僕が水瀬真理と出会ったのは、中学二年になった四月の始めだった。厳しい冬の寒さがようやく緩み、テレビからは桜の開花を告げる話題が流れていた、そんな頃だ。

 二年になってすぐに、クラス替えがあった。そこで僕は初めて水瀬真理と同じクラスになった。でも、学校で彼女に会ったことはない。彼女の席は四月の始業式の日から空席だった。

 僕はその日、いつものように病院へ向かい、用事を済ませると、それから商店街をふらついていた。本屋で立ち読みをしてみたり、ゲームセンターで人が遊んでいる画面を見ていたり、ファストフード店で一品だけ注文し、イートインして入り浸ってみたり。方法はいろいろだったけれど、僕は独り、時間を潰していた。そうして頃合いを見計らって、帰宅するのが、僕の下校姿だった。

 病院で父さんに会った。冷たい鉄格子の向こうにいる父さんは、今日も僕のことをわかってはくれなかった。

 僕が小学校四年生の夏、それまで病気知らずだった母さんが、突然、病に倒れた。そして、その後、わずか数カ月で死んでしまった。

 父さんはその後、僕を育てるために働き、家事もこなし、すべてを完璧にやり遂げようとして、失敗したのだった。精神を病み、入院してしまった。今では実の息子である僕のことも、一体誰なのか判然としない様子で、虚ろな目を向けてくるだけの人になってしまった。

 僕は母さんの妹に引き取られた。結婚はしていたが、子供はいなかった。初めのうちは、いい人だな、と思っていた。けれどある時、僕はあの言葉を耳にしてしまった。


 好きで引き取ったんじゃない。

 姉さんがあんなことにならなければ。

 わたしだって、迷惑してるのよ。


 深夜のリビングで、夫と小声で話していた叔母の言葉は、僕の胸の、どこか深いところへ落ちて行き、そこからさらに奥へ、深々と突き刺さったまま、抜けなくなった。

 それ以来、僕は誰も信じられなくなった。

 幼いうちに母さんを亡くしたことを憐み、心配する言葉をかけてくる、叔母のような大人たちが、信用できなかった。学校の先生も、同級生たちも、誰も信用できなかった。

 僕に友達はいなかった。欲しいとも思えなかった。叔母の家に帰るのは嫌で、それでも結局はどこにも行くことはできず、帰る以外にないから、せめてそこにいる時間を、信用できない大人と接している時間を少なくしようと、時間を潰していた。いつも独り、商店街をふらついていた。

 水瀬真理を初めて見たのは、そうして時間を潰していた時だった。ゲームセンターにいるのも飽きて、空いた小腹を満たそうと、通りに出た僕は、そこで彼女を初めて目にした。

 ゲームセンターの向かいに、小さなケーキ屋があった。様々な商店が軒を連ねる商店街に埋もれてしまいそうなほど、小さな店だ。彼女はその角から伸びる薄暗い路地の入口に立っていた。

 濃紺のセーラー服は、見慣れたものだった。僕の中学校の制服だ。しかし、それを身に着けている顔に、覚えがなかった。

 背中の半ほどまである艶やかな黒い髪が、商店街の空に掛かる、アーチ型のアーケードの隙間から差し込む夕日に輝いていた。肌が白い。単なる色白とは少し違う。黄色人種離れした肌の白さだ。高い鼻梁も、その感想を後押しする。そして、何より象徴的だったのは、ネコ科の動物を思わせる、水瀬真理の切れ長の眼だった。この場に居るのに、この場を見ていないような、どこか遠くに視線を合わせている眼。夕日を映しオレンジ色に輝く、眼。

 根拠はなかった。もしかしたら学年が違うのかもしれないし、そもそも自分が同級生の女子の顔を、すべて覚えている自信もなかった。だが、なぜか僕は確信を持っていた。


 あれは、同級生だ。

 あれは、今度同じクラスになった子だ。

 同じクラスになったけど、まだろくに顔を見たことのない、同級生だ。


 あれは、水瀬真理だ。


 気がつくと、僕の足は一歩、水瀬真理に向かって踏み出されていた。次の一歩が出る。僕は彼女に近づいて行った。自分でも、よくわからない感情だった。このまま近づいて、どうするのか。話しかけるのか。何を話す? 何と声をかける? そもそもこれまで生きて来た中で、そんなことをしたことがないじゃないか。誰も信じてこなかったし、信じられなかった。友達を作ろうとも思わなかったし、思えなかった。そんな僕が、自分から誰かに声をかけようとしている。いったい、なぜ?

 疑問は次々に浮かんだ。なのに、身体は動き続けた。何一つ答えの出ないまま、僕は彼女の前に立っていた。


「あの……」


 誰かを待っていたのだろうか。商店街の北側の入口に視線を向けた水瀬真理が、僕の声に反応して、こちらを向いた。僕の目線よりも下にあるネコの目が、すっ、と僕を射抜く。


「君は……水瀬真理?」


 何をしているんだ? 何で声をかけているんだ? 自分の行動の不可解さに動揺を隠し切れず、彼女の眼の強い光にも耐えられず、たじろいだ僕は、すぐさまその場を立ち去ろうとした。しかし、退く一歩は踏み出せなかった。

 なぜ? 自答が返る前に、僕の目の前で異変が起こった。

 水瀬真理が、笑ったのだ。


「あなたは、青木潤くん?」


 それはまるで、僕が話しかけるのを待っていたようだった。彼女は、満面の笑みを見せた。美しい。僕は彼女の笑顔を、あらゆる理屈抜きにして、そう感じた。



 この奇妙な出会いが、彼女との初対面だった。

 僕のことを、知っているの? そんな受け答えで始まった会話はその後、見事な往復を繰り返し、時間は瞬く間に過ぎて行った。商店街に差し込んでいたオレンジの光が薄れ、アーケードの隙間から見える空は、紫から濃い蒼へと変わって行った。それでも僕たちはその場を去ろうとはしなかった。何を話したかは、ほとんど覚えていない。本当に他愛のない話だっただろう。なのに、そのわずかな時間は、言葉では言い尽くせないほど、充実した、心から楽しいと言える時間だった。

 僕たちは、また会う約束をして別れた。明日もここで。水瀬真理が少し俯き、声のトーンを落として、そう言った。それが恥ずかしいのを我慢している仕草のように見えて、僕も一緒に俯いてしまった。早鐘を打つ心臓の音を、彼女に悟られないか心配だった。

 それから僕たちは、何度も同じケーキ屋の角で待ち合わせた。元々、帰りたくもない家へ帰らないでいるために、ただ潰しているだけだった時間は、僕の毎日の中で、最も大切な時間に変わった。学校の帰り、僕はいつものように父さんの病院に寄り、どろりとした視線と向き合う時間を過ごした後、約束の場所へ向かった。水瀬真理はいつも先に来ていた。濃紺のセーラー服姿。それでもその姿を学校で見ることは、やはりなかった。

 やがて立ち話では納まらなくなった。どこか座って話せる場所、あるといいのにね。そう水瀬真理から言われた僕は、首から上の体温が、急に上がったのを自覚しながら、商店街の近くに公園があることを思い出した。水瀬真理にそれを伝えると、彼女は小さく頷いた。

 商店街の近くにありながら、その公園にはいつもひと気がなかった。近すぎるのが原因なのか、それとも小さすぎるのが原因なのか。いずれにしても、この時ばかりはそのひと気のなさに感謝した。誰にも邪魔される心配がない。

 空はその日も茜色から、次第に暗い色へと色を変えて行っていた。僕と水瀬真理は公園の隅にあるベンチに腰掛け、その空を並んで見上げた。公園の隅には小さな桜の木があった。花の頃はもう過ぎていて、今は緑の葉を広げて、緩やかな宵の風に、ざわざわと揺れていた。


「あの」


 しばらく無言でその樹が揺れるのを見ていた。僕は水瀬真理と知り合って、言葉を交わすようになってから、ずっと気になっていた疑問を頭に浮かべていた。それを今、訊いていいものか、どうか。


「訊いてもいいかな」


 彼女は小さく頷いた。


「どうしていつも制服なの?」


 どうせ学校には来ないじゃないか。それはさすがに口にはしなかった。でも、僕の言葉は、そんな棘を含んでしまっていたのだろう。水瀬真理は頷いたまま、俯いてしまった。


「あ、いや、こ、答えにくかったら、話してくれなくてもいいんだ、全然。そう、全然……」


 みっともなく声が上擦り、僕はオーバーな仕草で自分の質問を打ち消そうとした。水瀬真理の横顔に差し込んだ影は、蒼い闇の中でも、はっきりとわかるほど濃かった。

 僕は明らかに慌てていた。はっきりと恐れていた。ほんの数日前に知り合い、言葉を重ねただけの相手なのに、僕は、もうすでに、彼女を、水瀬真理を失うことを恐れていた。

 なぜだ。疑問はあった。でも、それに対する解答は、僕の中にちゃんと用意されていた。

 こんなに誰かと話したことは、いつ以来だっただろうかと考えた。たぶん、母さんが亡くなってすぐ、父さんがおかしくなって以来だろう。

 僕は、ずっと黙って来た。誰も信じることができないから、誰かに何かを聞いてほしいと思ったことはなかった。でも、本当は違っていた。本当は、僕自身も気がつかない深いところで、僕は誰かと言葉を交わしたくて仕方がなかったのだ。他愛のない会話でいい。真剣な会話でなくて構わない。ただ、誰かと、話をする時間が欲しかったのだ。

 水瀬真理は、その時間をくれた。数年の間、押し黙ってきた僕に、その時間をくれた。どういった理由なのかは、わからないけれど、今年の初めから不登校になった彼女も、もしかしたら似たようなところがあったのかもしれない。だから僕と、ただ会話し続けるだけの時間を過ごしていたのかもしれない。

 だとしたら、なおさら僕は彼女を失いたくなかった。同じような痛みを持ち、それを理解してくれる相手と知り合えたのならば、それがこの場で終わってしまうなど、一度その快楽を手にした僕には、耐えられなかった。


「いや、いいんだ、本当に、何でもない……」

「行こうとしたよ」


 凛とした声だった。これまでまったく気づかなかった。本当ならば、初めから気づいていても不思議ではないことなのに、僕はその時、初めて気がついた。水瀬真理の声は、凛としている。女性らしい高さの声でありながら、しっかりとした強さも兼ね備えている。それは、印象的な眼差しと同じ、強い意思を持った者の声だと、僕は思った。


「行こうとした。今日も、昨日だって、その前だって、わたしは学校へ行こうとした」


 彼女の目は、やはりどこか遠くを見ていた。視線は俯いたまま、数メートル先の地面に向けられていたけれど、彼女はそこを見てなどいない。もっと遠くにいる何かに、激しい感情をぶつけていた。その激情に、僕は息を呑んだ。これまで誰よりも美しい笑顔を見せてくれていた彼女からは、考えられないほど露骨で、グロテスクな、それは、憤怒の感情だった。


「お父さんも、お母さんも心配してる。だからわたしだって、学校に行かなくちゃ、って思ってる。二人に、これ以上心配かけたくない。だから毎日、制服を着て、学校に行こうとしてる。行こうとしてるんだよ。なのに……!」


 ぎりり、と音がした。その音が、整った白い横顔から聞こえたとは思えなくて、僕は一瞬、何の音か迷った。最初に浮かんだ答えを否定して、別の何かだろうと思おうとしたからだ。


「あいつがいるから。いつも、あいつがいると思うと、どうしてもここから先に進めなくなる。学校に行くと、またひどいことをされるって思うから……」


 また、ぎりり、と音が鳴る。別の何かの音などではもちろんなかった。それは、水瀬真理の歯が軋む音だった。強く噛み締められ、ぎりり、ぎりり、と軋む音だった。


「ひどい、こと……?」


 僕の口から、言葉が漏れた。言ってしまった後に、しまった、と思った。でももう遅い。音になってしまった言葉は、もう取り返せない。僕は無粋で、考えなしのその言葉を呪った。

 でも、水瀬真理は何も言わなかった。それどころか、なぜか笑ったのだ。どこか諦めたような、乾き切った笑みを、その透き通るように白い横顔に浮かべて、腰かけていたベンチから立ち上がった。


「そう、ひどい、こと……」


 水瀬真理は背中を向けたまま言った。彼女の手が、自分を抱きしめるように胸とお腹の辺りにそっと伸びていた。その仕草が何を意味するのか、わからなかった。けれど、なぜかその後ろ姿を見た瞬間、僕は彼女にひどいことをするという者に対して、猛烈な怒りを感じた。


「誰なの、それ」

「え?」

「誰なの、水瀬にひどいことをする、あいつ、って!」


 僕は半ば叫んでいた。水瀬真理の手に手を伸ばし、掴んだ。柔らかく、温かい体温を感じた。


「同じ学年のヤツ? それとも上級生? 誰が水瀬にそんな嫌な思いをさせてるの!」


 水瀬真理の手を、強く引いて、無理やり僕の方を向かせた。黒く、艶やかな髪が揺れる。少し甘いような香りがした。


「僕に教えて。力になるから。僕が何とかしてみるから。だから!」


 その言葉に嘘はなかった。水瀬真理が苦しんでいるならば、助けたかった。彼女を守れるのならば、僕は何でもするつもりだった。僕を孤独な世界から解き放ってくれた彼女を救えるのならば、どんなことでもできる。そういう覚悟が、僕にはあった。

 しかし。


「無理だよ」


 水瀬真理の答えは、突き放す言葉だった。


「無理だよ。絶対に無理」


 僕に左手を掴まれ、半身をこちらに向けた水瀬真理は俯いていた。前に垂れた髪の隙間から、彼女が笑っているのが見えた。乾いた、感情のない笑みが、顔に張り付いていた。


「誰も助けてなんてくれない。だってあいつは、大人たちから信じられていて、そんなことをするはずがない、って思われているから。わたしの言葉だって、潤くんの言葉だって、揉み消せる。どうせまともに学校に出てきてもいない、できの悪い生徒が、騒いでるだけだって、信じ込ませることができる。何を叫んでも、誰に伝えても、絶対に何も変わらない。わたしたちには、何も変えることができない」


 まるで何かの呪文を唱えるように、水瀬真理の唇が素早く動いていた。


「わたしたちには、何も変えられないの。狂った大人たちが両手を繋いで輪を組んで作り上げた、狂った世界の中で、わたしたちにできることは、同じように狂って行くことだけなんだよ。本当は信じてもいないくせに、あなたを信じてると口にする。好きでもないくせに、好きだと言ってみる。そうやって、自分に思い込ませて、元々の自分の考えを狂わせていく。そうすることができる。そうやって無駄な時間を重ねたのが、大人なんだよ。わたしたちの住んでいる世界を作ってる、大人なんだよ」


 僕はその時、叔母の姿を思い出していた。水瀬真理にひどいことをする相手の姿よりも、はっきりと、叔母の迷惑そうなに歪められた顔が、頭の中で像を結んでいた。


「あいつは、そういう大人の一人。だから、わたしたちには、何も変えられない」


 叔母の醜い微笑みを切り裂いて、その一言が、稲妻のように僕の頭の中に落ちて来た。


「大人の、一人?」


 僕は水瀬真理にひどいことをしているのは、同じ学校の生徒だと思っていた。だから彼女は学校に行きたくないのだと、そう思っていた。

 ぎりり、という音が聞こえた。


「そう。渡辺。あいつは……」


 僕の頭に、二度目の雷が落ちた。

 学校。

 大人。

 渡辺。

 水瀬真理が口にした三つの言葉が絡み合い、一人の人物の姿へと変わる。

 確かに、あいつは、嫌な奴だ。

 僕にとっても、あいつは、嫌な奴だった。


 嫌な、教師だった。


 渡辺は三十代後半の教師だった。いつも、糊のきいた高そうなスーツをぴっちりと着込んで、中わけの髪を風になびかせながら、年代物の外車で学校へとやってくる。そうやって、自分はセンスがいいだろう、と周りにひけらかすような男だった。僕からするとその姿だけで、既に十分すぎるほど鼻持ちならないと思えるのだけれど、どういうわけか、そんな姿が保護者たちには受けがいいようだった。叔母もそんなことを言っていた。保護者会など出たことのない叔母でさえ、どこから聞きつけたのか、渡辺先生っているんでしょう? 素敵な先生らしいじゃない。そう言っていた。誰かの言葉を鵜呑みにして、自分で見聞きしたこともない相手を『素敵』と言える叔母の考えは、よくわからなかった。とにかく、僕はその場では適当に、そうだね、と相槌を打ったけれど、正直なことを言えば、僕は渡辺のことを素敵、だとか、いい人だとか、思ったことが一度もなかった。それは、入学して間もない頃から始まった渡辺の言葉のせいだった。

 理科の科目教師である渡辺は、授業中、教卓に寄り掛かりながら、何の前触れもなく、突然、こう言ったのだ。


「お前ら、少しは仲良くなったか? このクラスは特に、青木には仲良くしてやれよ。なにせ、母親がいないんだから」


 いったいどういうつもりで言ったのか、僕には少しも理解できなかった。僕だけではなかったのだろう。一瞬、教室が静まり返った。善意があったのだろうか。でも、心からの善意ならば、あんな薄ら笑いは浮かべたりはしなかったはずだ。

 それからも渡辺は、事あるごとに僕の家族の話を出した。まるで、そうすることで、お前と同級生たちの距離を縮めてやってるんだよ、とでも言わんばかりの大声で、僕の家族の話を垂れ流した。

 青木は苦労しているんだ。母親はいないし、親父さんは病気だし。叔母さんのところから通ってるんだろう? それだって、気苦労が多いだろう。みんな、青木が困っていたら、助けてやれよ。本当に、苦労しているんだ。本当に……

 言葉とは裏腹に、せせら笑う口元ばかりが目についた。なんでそんなことを言える。なんでお前にそんなことを言われなければならない。僕は何度も掴みかかって、その口を無理やりにでも塞いでやろうと考えた。拳を握り、ぶるぶると震わせて、今、まさに殴りかかろう、と言うところで、大抵あいつの授業は終わった。


 渡辺は、そんな教師だ。およそデリカシーというものを持ち合わせていない教師。自分の発する言葉が、どれだけ相手を苦しめるのか、考えたこともない、最低の人間。僕にとっての渡辺という教師は、そういう男だった。

 その男が、僕を圧倒的孤独から救い上げてくれた女性の前にも立ち塞がり、彼女の幸せを邪魔している。そうわかった瞬間、僕は、これまでまったく感じたことのない感覚を味わっていた。

 身体の表面が熱かった。顔が、肩が、お腹が、日に焼けたように、ひりひりとしていた。なのに、頭の奥や喉の奥、足の先の方は、すっ、と冷たくなっていた。妙にはっきりとした頭で、僕は俯いた水瀬真理の顔をしっかりと見据えた。


「渡辺、なんだね、水瀬に、ひどいことを、しているのは」


 水瀬真理は応えない。でも、それが何よりも僕の言葉を肯定しているように思えた。いや、肯定していた。肯定のはずだ。


「わかった」


 氷を飲み込んだように冷えた喉の奥、胃の底から、その言葉はやってきた。

 水瀬真理が顔を上げた。驚いた顔をしている。


「僕が、なんとかする」


 水瀬真理が口を開きかける。


「僕が、水瀬を助ける」


 僕はそれを遮るための言葉を吐き出し続けた。


「誰も助けてなんてくれない。大人たちは誰も信用できない。なら僕たちは、僕た

ちの力で身を守ろう。水瀬は僕を、ひとりぼっちの世界から救い出してくれた。今度は僕の番だ。僕が水瀬を助ける。本当だ。信じてくれ。渡辺みたいなクズに、水瀬をこれ以上、傷つけさせたりしない。絶対に。僕が、あの男を……」



 表層の熱と、内面の冷気に突き動かされて、それからの僕は行動した。水瀬に聞かせた言葉に、嘘はなかった。あの時点で、僕の覚悟は決まっていた。僕が水瀬を守る。何としても守る。互いに傷を癒しあい、寄り掛かりあって過ごした数日は、僕の人生にとってかけがえのない、失うことの出来ない時間だった。その相手を救えるのならば、この先も、ずっと一緒にいられるのならば、僕はどんなことでもする。そういう覚悟を、僕は決めていた。

 だから僕は翌日、行動を起こした。

 渡辺の自慢の車に、ちょっとした細工を施したのだ。

 学校を休んだ僕は、皆が授業をしている頃、学校に忍び込んで、その細工をした。

 その後、僕は父さんの病院へ向かった。

 父さんは相変わらず、何も語らないどろりとした目で僕を見て、誰かもわからなず、時折奇声を発しては、看護師さんになだめられていた。

 僕は結局病院に長居することは出来ず、すぐに商店街へ向かった。アーケードを潜ると、他のどんな店にも立ち寄らず、一直線にあのケーキ屋の角、水瀬真理との待ち合わせの場所を目指した。

 しかし、水瀬真理はいなかった。アーケードに下げられた大きな時計を見る。お昼を少し過ぎたぐらいだった。彼女がいないのも無理もない。普段会うのは夕方だ。僕はファストフード店で昼食を取り、その時間が来るのを待った。

 しかし、その日、水瀬真理は現れなかった。

 これまで、一度だってそんな日はなかった。

 僕は動揺した。彼女に何かあったんじゃないか。けれど、それを確かめる術は、僕にはなかった。考えてみれば連絡先も聞いていなかったし、彼女がどこに住んでいるのかも知らなかった。

 明日には会えるさ。僕はそう自分に言い聞かせ、無様に揺れる心をどうにかなだめた。明日会った時に訊いてみればいい。携帯電話の番号やメールアドレス、住所。もう教えてもらってもいいだろう。いいはずだ。そんなことを考えながら、僕は商店街を後にした。



 その翌朝、登校すると、すぐに全校集会があった。臨時のものだった。

 まだ少しひんやりとした体育館に整列させられた三学年すべての生徒たちは、そのほとんどが、朝から突然授業がなくなったことを喜び、騒いでいた。しかし、中に何人か、泣いている人の姿もあった。

 僕は列の中ほどに立って、開け放たれた体育館側面の扉から、外を見ていた。外の空気を入れて、底冷えした体育館の空気を入れ替えようとしたのだろう。六つある側面の扉は今、すべて開け放たれていた。

 そこからは校庭の景色が見えるはずだった。けれど新緑の季節を迎えた朝の日差しは眩しく、外の様子は光の中にかすんでいた。

 誰かが体育館の舞台に立ったようだった。おそらくは校長だろう。それでも僕は外を見ていた。

 理科の渡辺先生が、事故に合いました。車での事故です。校長の声がそう言う。授業がなくなったことに歓喜していた生徒たちの間に、ざわりと動揺が広がったのがわかった。

 車の整備不良で、ブレーキが利かなくなっていたそうです。先生は意識不明で、今、病院の集中治療室に入院中です。渡辺先生の授業は、当面の間、加藤先生が代理で行います。

 さざ波のようなざわめきに、トーンを上げた一部生徒のすすり泣きが混ざり合った。重くなった空気の上を、校長の声が広がって行った。

 それでも僕は、光にかすんだ外の景色を見ていた。

 皆さん、先生の回復を祈ってください。校長がそう締めくくった。生徒のざわめきが大きくなる。

 次第に慣れて来た僕の目に、光の向こう側の景色が見え始めていた。広々とした校庭。そこにあるさまざまなもの。白いサッカーゴール。野球のバックネット。体育倉庫。走り幅跳び用の砂場。緑を茂らせた桜の木。それらひとつひとつの色彩が、踊るように鮮やかに輝いていた。

 整備不良、か。思い思いに話し始めた生徒たちの中で、僕が思ったのは、ただ、それだけだった。



 その日の夕方、僕は商店街に向かった。今日こそは会える。会えるはずだ。そう信じて、僕の鼓動は高鳴っていた。

 しかし、あのケーキ屋の角に、水瀬真理は、その日も現れなかった。僕は待った。何時間も待っていた。陽が落ち、商店街の店がシャッターを落としても、僕は待ち続けた。前の日に会えていなかったこともある。でも、それ以上に、水瀬真理に伝えたかったのだ。渡辺のことを。僕たちを苦しめた存在の今を。変わるかもしれない現実を。

 それでもその日、水瀬真理は、ついに現れなかった。



 それが昨日のことだった。昨日までの水瀬真理と僕のことだった。結局、僕は水瀬真理に会えないまま、昨日一昨日を過ごした。

 そして、水瀬真理は突然、学校に現れたのだった。何事もなかったかのように。いや、まるで渡辺がいなくなったことを知ったかのように。

 でも、そんなはずはない。

 確かに、彼女が渡辺のことを知った可能性はある。それで学校に来てみようと考えた可能性はある。でもそんなことは重要じゃない。

 僕はついに立ち上がった。

 教室は未だにざわめいていた。半年ぶりに現れた水瀬真理を取り囲んで、にこやかに話し続けている。その彼女に、僕は歩み寄った。人波をかき分けて、彼女に近づいた。


「ちょっと、ねえ、ちょっと……」


 僕の手が後ろから、水瀬真理の肩を掴んだ。僕よりも低く、線の細い肩に力を込めて、


「ええ? 誰?」


 黒く焼けた肌。両耳に三つずつ光るピアス。着崩されたセーラー服。そして僕の方を見て、露骨に歪めれた目。どことなく濁って見える、目。


「……誰だ」

「ええ? 何、コイツ。ちょっと、キモイんだけど……」

「誰なんだよ、お前!」


 僕は声を荒げた。絶叫に近かったはずだ。

 だってそうだろう。水瀬真理は、水瀬真理の姿をしていなかったのだ。

 僕の頭の中で、あの商店街の映像が再生されていた。ゲームセンターの向かいにある、ケーキ屋の角。そこに立っている濃紺のセーラー服姿。背中まである長く艶やかな黒髪。黄色人種離れした白い肌。高い鼻梁。そして、あの目。ここではないどこか遠くを見つめる、ネコを思わせる切れ長な、目。

 それが水瀬真理だ。僕を孤独から引き上げ、抱きとめてくれた水瀬真理だ。コイツじゃない。こんなヤツじゃない。こんな擦れた、淀んだ、大人の真似事しかできない低能なヤツじゃない。彼女はもっと高潔で、美しい。


「ちょっと、青木、何言ってるの?」

「あ、青木、知らないんじゃないの、水瀬のこと」

「そうか、クラス違ったもんね」


 やや身を引き気味に、周囲のクラスメイトたちが僕に話しかけている。しかしその目には、明らかに異常者を疑う色がある。その色を、僕は知っている。父さんが病院に入る前、さまざまな人から向けられていた目の色が、これだった。

 僕は、水瀬と名乗る女の肩から手を放して、俯きながら席の戻った。


「何なの、アイツ。気持ち悪くない?」


 ぱさぱさの金髪の女が言っている。もうしゃべるな。お前はもうしゃべるな。お前が一言しゃべるごとに、水瀬真理が汚れる。この世で最も美しい存在が、汚される。

 僕は女から放した手で、顔の半分を覆った。

 頭痛がした。

 水瀬真理はどこへ行った?

 僕を助けてくれた彼女は、どこへ行った? 僕がどんなことをしてでも、たとえ罪を犯してでも、救いたいと思った女性は、どこへ行った?


「潤くん」


 突然、あの声が聞こえた。ネコを思わせる目が、強く、鮮明に思い浮かぶ。彼女だ。彼女がいる。僕は半分を手で覆ったままの顔を上げた。

 後五歩の距離に、僕の席があった。つい先ほどまで、僕が突っ伏していた席だ。そこに濃紺のセーラー服が座っていた。姿勢よく、両の手を机の上に置いて正面を向き、首だけを僕の方に向けていた。


「水瀬!」


 僕はまた叫んだ。周囲の生徒が一斉に僕を見た。目にはあの色の光。それでも構わなかった。僕はほんの五歩の距離を駆け、自分の机に手を突いた。


「どこに行ってたんだ。何で来てくれなかったんだ。僕は、君を……」

「よかったね」


 切れ長な目が、少し垂れる。水瀬真理はそうやって微笑んだ。とても美しい微笑みだと思った。でも、何かが違う。

 よかったね?

 どういうことだ。

 それを言うべきなのは、僕の方のはずだ。

 僕が、渡辺から水瀬を守ったのだから。


「よかったね、って……」

「だって、あなた、ずっと思っていたじゃない」


 周囲から声が聞こえる。クラスメイト達の声が大きくなっている。悲鳴のようなものも聞こえた。それでも水瀬真理は微笑み、僕だけを真っ直ぐ見据えて、言った。


「あなた、渡辺先生がいなくなればいいって。あいつがいなければ、家族のことを話されることもない。あいつがいなければ、余計な事を言う奴が一人でも減れば、って」


 青木、誰と喋ってるんだ? 誰かがそう言うのが聞こえた。担任の名を呼んでいる声もする。頭痛がひどくなった。僕は片顔を押さえたまま、周りを見た。教室中の人間が、僕の動きに動揺し、身を退いた。皆、あの色の目を向けている。


 何だ?

 どうしたんだ?

 みんな、何を見ている?

 


「よかったね、潤くん」


 僕の椅子に座った水瀬真理がそう言った。僕は彼女に向き直った。


 頭痛が、ひどい。


「水瀬、君は……」

「よかったね」


 水瀬真理が微笑んだ。それはやはり、誰も信用できなかった僕を孤独から救った、この世で初めて信じることの出来た、最も美しい微笑だった。

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眩耀 せてぃ @sethy

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