「高校球児」と「名人伝」

石田部 真

「高校球児」と「名人伝」

 誠は手の中の物体を見続けていた。

 時速100マイルに対して7mm、か。人間の出来ることではないように思える。それでも、あの人が出来るというのだから出来るのだろう。僕に同じことが出来るとは思えない。けれど……。

 直系72mmの白球を見つめ続け、彼は考える。

 けれど、近づくことは出来るはずだ。僕にだって、その努力は出来る。

 二ヶ月前に左腕を骨折して以来、調子が上向かない。凡打を重ねているわけではないが、チャンスを完璧に物に出来ているわけではない。可能性があれば、少しでも近づきたい。

 遙かな高みを目指して、若者は地道な努力を重ねていた。が、その努力は頭蓋骨に響くペチコン、という音と、額に走る鋭い痛みによって打ち砕かれた。

「痛っ、ちょっ、何? 誰?」

 額を抑えながら振り向いた誠の涙ににじむ目がとらえたのは、デコピン発射台の再チャージを終えた悪友の右手だった。

「何じゃねえよ。誠、お前、さっきから何やってんだよ?」

 再び、ペチコン、と間抜けな音が鳴り響いた。

「涼、痛いな、いきなり叩くなよ」

「いきなりじゃないだろ、何度も呼んでるのに返事もしやがらないで。そのボールがどうかしたのかよ?」

 涼は眉間にしわを寄せて不機嫌そうに尋ねた。もっとも、涼は不機嫌なわけではない。眉毛を寄せることがデフォルトで身に付いてしまっている涼の顔はいつも怒っているように見えるだけだ。その上、脱色をしているわけでもパーマをかけているわけでもないのに、やや明るめの茶色くウェーブした髪質が周囲の誤解に拍車をかけている。加えて思ったことを率直に口にすることが、柄の悪そうな見た目に磨きをかけていた。

 根はまじめだし、意外に読書家で情に厚いところもあって悪い奴ではないのだが、ただちょっと無愛想というか、不器用というか、無神経というか、損をしているところがある。傍目には、そう、田舎の無人駅にしゃがみ込んでタバコを吸っていそうなヤンキーにしか見えない。

 それでも、つきあいの長い誠には涼が不機嫌なのではないとわかる。ぶっきらぼうに声をかけながらも、目は誠の持っているボールをじっと見ていた。


「いや、ほら、Numberでイチローさんのこと特集してたんだよ。それでさ、ボールの中心からボールの中心から7mm下をバットで叩くと理想的な飛び方をするって書いてあってさ」

「7mm下ぁ?」

「そうそう。ボールの中心の7mm下を叩くとさ、ボールの中心に対して約10度の角度で与えられる衝突エネルギーは、理想的な角度でボールを跳ね返すだけでなく、バックスピンを生むんだって。そうすると、縫い目が揚力を発生ささせてさ、飛距離が伸びるんだよ」

 左手にボールを持ち、右手をブン回して野球理論を熱弁する誠の話を聞きながら、涼は小さくため息をついた。またはじまった。こいつ、いつもはおとなしいんだが、熱が入ると止まらねえんだよな。


 それでね、そのためには、ボールの中心を見極める目をもたないといけないじゃないか、でもさ、動いているボールを見極めるのってむずかしいだろ。だから、止まっているボールをじっくり見ておけばさ、とっさの状況に対応が出来るんじゃないかって。ほら、パターンが脳に認識されるっていうかさ、聞いたことない? アフリカの狩人、バサルワ族だっけ、えっと、あの人達がキリンとかシマウマとかを見つけられるのは、単に目がいいからじゃなくてさ、キリンとかシマウマのパターンを脳の中に持っているからなんだって、だから、


 ペチコ~ン。

 乾いた音が三度鳴り響く。痛っ、と誠は額を押さえた。

「わかった、わかった。わかったから、話が長いっつ~の」

 右手を振りながら涼はあきれたように言った。

「あ~あ、バカだとは思っていたが、まさか本当に『名人伝』の真似をする奴がいるとはなぁ」

「『名人伝』?」

「ああ、中島敦の名作だよ、って言っても知らねえか。全く、部活ばかりしてねえでちょっとは本も読めっての。これだから最近の学生は本を読まねえって言われるんだよ」

 言ってることは正しいのに、涼の言葉が人に聞き入れられないのは妙におっさん臭いからだからじゃないだろうか。

「それで、その『名人伝』って、どんな話なの?」

「ん、ああ、名人伝ってのはだなぁ……」




 昔、春秋戦国時代って大昔だ。中国の趙って国の都に男がいたんだよ。まあ、いつだってどこにだって男はいるけどな。そいつは紀昌ていうんだけどさ、何をトチ狂ったか突然弓の名人になりたい、なんて思いついちまったんだな。まぁ、日本でも突然の思いつきでボートこぎ始めてオリンピック選手になってしまった津田さんなんて人もいるから、思いつきが悪いとは言わねえけどな。スポーツ短編小説の名手・山際淳司が紹介してたぜ。「ひとりぼっちのオリンピック」だったっけ。

 ああ、悪い、脱線したな。とにかくだ、紀昌は弓の名人になりたくなったんだ。でな、紀昌は飛衛って名人のところに弟子入りするんだよ。ところがその師匠の飛衛ってのが偏屈な奴でさ、「お前にはまだ弓を教えれん」て断りやがるんだよ。いや、弟子入りを断ったわけじゃないんだ。弟子にはしてやるけれど、弓を撃つ、じゃなかった射るのにはその前の準備がいる、っていうんだよな。ああ、それが筋トレとかのフィジカル面のことじゃないんだ。といって、メンタルの話でもない。どっちかっといえば、その中間か、お前といっしょさ。目なんだよ、目。「弓を射るには、まず目を鍛えろ」だとよ。

 その目の鍛え方か。まあ、急かすなって。

 まずは、見るために不退転の決意がいるんだよ。何があっても目を閉じない、って覚悟さ。そこで紀昌は考えた。人はいつ瞬きをしてしまうんだろう? そうだ、目に何かが触るときだ。ならば、目に物が触れる訓練を重ねたらいいんだ。それがまた傑作でな、この男は、とんでもないことをするんだよ。

 家に帰ってさ、嫁さんの機織機の下に寝っ転がるんだよ。ほら、あれだ。ツルの恩返しでおつうがキートントン、って布を織ってたあの機織りだよ。嫁さんがさ、キートントン、って布を織るたびにさ、目の前を杼(ひ)っていう横糸通す道具が紀昌の目の前を通り過ぎていくんだよ。そいつをさ、瞬きせずに眺めることにしたんだよ。あ、そんな奴に嫁さんがよくいただって? しらねえよ。そりゃさ、嫁さんも嫌だと思うぜ、働いてるそばに旦那が寝転がって、しかも股下からのぞいてやがるんだぞ? それも、3年だよ、3年。そうだよ、その男ってのはさ、瞬きしなくなるまで2年間機織機の下にいたんだよ。重度の引きこもりだよな。でもさ、そのおかげでそいつは瞬きを克服したんだよ。錐でつついても瞬きしないんだぜ? あんまり瞬きを我慢してたもんだからさ、筋肉が動くのやめたらしいんだ。何しろ睫毛と睫毛の間に蜘蛛が巣をかけたんだから大したものさ。それでな、紀昌は喜んで師匠に会いに行くんだよ。飛衛老師、僕やりましたよ、瞬きを克服しました! って。

 そしたらよ、師匠が冷たいんだ、これまた。

「まだ足りん。次は『視る』ことを学べ」だとさ。

 そこで、紀昌はまた修行を始めるのさ。『視る』修行だよ。そう、誠がやってた奴さ。紀昌は、さ、ボールじゃなくてシラミを使うことにしたんだよ。不潔とか言うなよ、昔の衛生状態を考えろ、って。でさ、シャツの中からシラミを見つけてさ、そのシラミを髪の毛で結んで窓辺に吊してさ、じっと見ることにしたんだよ。朝も、昼も、夜も。ずっと、じ~っと髪の毛で結んだシラミだけを見続けたんだ。

 そりゃ、最初はシラミだからさ、小さいもんだぜ。足の先から先まで3mmもないんだから。それがな、十日ぐらいするとな、だんだん膨らんで見えてくるんだよ。三ヶ月もしたらさ、明らかに大きく見えてるんだよ。シラミが芋虫ぐらいに膨らんでるんだ。いける、この修行は正しい、って叫んだかどうだかしらないけどさ、紀昌はこの修行を続けたんだよ。三年だぜ、三年。窓辺に吊してるからよ、景色の移り変わりがはっきりとわかるんだよ。花が咲いたと思ったら、太陽がギラついてきてさ、だんだん葉っぱが色づいて、散っていってさ、そして雪が積もり、雪が解け、また花が咲いて。ほんと、よくやるよ、何がすごいって、嫁さんのフォローだよ。働かずに節足動物を見つめ続ける夫を三年も喰わせてやるんだぜ? その甲斐あってさ、ある日気がつくとシラミがでかく見えてるんだよ。どのぐらいって、そりゃでかいさ。馬ぐらいに見えたんだ。おお、いけるぞ、と紀昌は喜んだ。外に出て見りゃびっくりさ。ばかでかい人間が歩いてる。五重塔みたいに高いんだ。豚は象だな、馬は山だ。喜んだ紀昌はスキップして家に帰った。そんでもって、修行したくてたまらなかった弓に矢をつがえてエイって放てば、そりゃ見事なものさ。見事にシラミの心臓を射抜いたんだ。なんてったって、的がデカくみえてるんだからなぁ。

 さすがの飛衛師匠もこれをきいてべた褒めさ。でかした! ってなもんだ。当代きっての弓の名人はな、ここで初めて紀昌に弓の射方を教えるのさ。




「そうか、それで僕のことを名人伝みたいだ、って言ったのか」

 誠が感心していると、涼は眉間のしわをさらに深くして答えた。

「まぁな。でも、ま、一生懸命がんばってるお前に失礼だよな、このたとえは」

「なんでさ? だって紀昌は名人になれたんだろ?」

「ああ、なるにはなったんだよ。腕前は確かにすごかったんだがなぁ……」

 涼の言葉になにか引っかかりがあったが、誠はその続きに耳を傾けた。



 目の訓練に5年も費やして、基礎が完璧に出来ている紀昌は上達が早かった。いや、5年間もじっとしてりゃ、目はよくなってもフィジカルがガタガタじゃないの? とか突っ込みたくなるけど、そんなことはなかったみたいだ。そっちは言わずもがなで鍛えてたのかもしれねぇな。普通の的なんざ、百発百中さ。十日もたてば、師匠と同じようにさ、風に揺れる柳の葉をサクサク射抜いちまう。二十日もたつと弓を持つ左手に水の入ったお盆を載せて射ってみても、水がこぼれないどころかさざ波すらたたないんだと。なんか、峠の豆腐屋の配達訓練でも同じような話があったよな。「明鏡止水」って言葉にもあるけど、揺れない水、ってなんか象徴的な話なんだよなぁ。あぁ、悪ぃ、続けるわ。

 それで、一月もたった頃にはすごいことが起きた。

 紀昌が的に向かって矢を放つ。当然、ど真ん中もど真ん中だ。弓の的の黒丸どころか、ダーツのあの五十点のちっちゃな丸印、そのど真ん中を射抜いたと思えよ。で、二発目を放つ。同じところを狙っておけば、さすがは紀昌。全く同じところに当たるんだ。ほら、よく漫画で銃を撃ったら、何発撃っても穴が一つしか空かない、って奴があるだろ、あんな感じなんだよ。でもさ、弾丸と違って、今命中してるのは矢なんだ。当然、貫通する銃弾と違って的に突き刺さっていく。そしたらさ、どうなると思う? あたっちまうんだよ、前の矢の軸の後に、新しい矢の鏃(やじり)が。そして紀昌はそのつながってる矢がぐらっと揺れたりする前に、三本目の矢を放つ。当然、こいつも二本目のケツに突き刺さる。次も、その次も、その次の次の次も。

『矢矢相属し、発発相及んで、後矢の鏃は必ず前矢の括(やはず)に喰い入るが故に、絶えて地に墜ちることなし』

 ってな感じさ。カ、カ、カ、カ、カと瞬く間に矢が的から一直線に伸びていく。伸びていく先には、矢を放つ紀昌とその弓がある。ついに、最後の一本は紀昌の目の前の前、今引き絞っている弓につがえた矢の先と一体になっちまってさ、もうこれ以上放てなくなっちまったんだよ。ハリウッドもびっくりのすさまじさだろ。飛衛師匠も、思わず大声で誉めちゃうほどの妙技だぜ。



「すごいじゃないか、かっこいいよ紀昌! その飛衛師匠も素敵だよね、すごいよ、いい話だね」

 身振り手振りを交えて紀昌の腕を熱弁する涼の語りに、誠はすっかりのぼせていた。

 僕も、目を鍛えてそんな風なバッティングが出来たらなぁ。

 バッティングセンターに行く。もちろん、立つ打席は、プロコース。最速150kmのマシンだ。コインを入れると、回転する二つのローラーが白球を高速で射ち出す。素人目には、一筋の白い糸にしか見えないかもしれない。しかし、鍛えたこの目は、高速で回転するゴム製ボールの縫い目もどき、その凹凸のかすれぐあいまでをはっきりと読み取っている。視神経からはじまるシナプス結合の電子伝達は、全身の筋繊維を精密にコントロールし、右足に置かれていた体重が左足に乗り込んだ瞬間にバットの芯はボールの中心、その7mm下を正確に捉える。その瞬間、ローラーから与えられた運動エネルギーと、振り抜かれる金属バットとの板挟みになり極一瞬だけタレパンダのようにぐにゃりとボールが変形する瞬間さえも、僕の目は映し出す。そして、ボールは当然のようにバッティングセンターのネット中央に吊される赤いホームランマークへと吸い込まれていく。その、6秒後には、ビデオで再生したかのように全く同じ起動のボールが続く。その次も、その次も。センター内には、ホームランボールが出たファンファーレが鳴り続ける。そして、


 ペチコ~ン。

 鳴り響くのはファンファーレではなくデコピンの破裂音だった。

「誠、お前、オレの話聞いてないだろ?」

「え、あ、ごめん。聞いてる、ちゃんと聞いてるから、紀昌と飛衛師匠の続きを聞かせてよ」

「だから、今話してたんだっつうの。まぁ、話さない方がいいかもしれないんだけどなぁ。あの二人のことは……」

 涼は、目を輝かせている友の顔から目をそらすと、ちょっと言いにくそうに名人伝の続きを語り始めた。   



 さっきも言ったとおり、紀昌は凄腕の弓の使い手になったんだな。ああ、そりゃもう、腕前はたいしたもんだ。師匠のお墨付きだ。名人の腕前を手に入れたんだよ。ただな……。

 紀昌がなりたかったのは、「名人」なんだ。弓の腕だけじゃダメなんだよ。

 紀昌は考えてしまうんだよ。どうしたら名人になれるだろう? 腕前はもう名人級だ。あと、自分には何が足りないんだろう。そうか、名声が足りないのだ。知名度不足なんだ。じゃあ、知名度を上げるにはどうしたらいいんだ。

 そうさ、「名人」ってのは、人に認めてもらわなきゃ名人じゃないだろ? 今の映画とかだったらさ、ここらで武術大会にでも出場して、苦労の末優勝して最後に華々しく終わるとこじゃないか。嫌なライバルとか出てきてさ。でもな、これ、春秋戦国時代の話なんだよ。昔の中国だから。ちょっと世界観が違うんだわな、これが。

 ある日、紀昌は思いついちまったんだ。

 うちの師匠は名人だ。それも天下一の名人だ。師匠に弓で勝ったら、そいつこそが本物の天下一ってことにならないか? そうか、師匠に勝てばいいんだ。どうやって勝つんだ。決まってる、射殺したら勝ちだよ。フフフ、ハハハ、フハハハハ。

 こうして、紀昌は師匠をつけねらい始めたんだよ。そんなとき、絶好の機会が訪れた。

 向こうから、飛衛先生がとことこ歩いてくる。周りには誰もいない。

 ……チャンスだ。

 もう、あとは勝手に体が動いた。矢筒から矢を引き出したときには、どんなに遠く離れていても紀昌の目は師匠の肉体の隅々までとらえてるさ。ゆったりとした衣服越しでも大きな急所である心の臓がトクットクッと波打つのが見えたのかもしれない。そのまま、必殺の矢を放った。

 ところが師匠も大したものさ。遠くの殺気を感じたものだから、応戦モードに入った。名人二人の放つ矢は、風を切り、標的に向かって突き進んだ。射手の技量が互角なら、放たれた矢の威力も精度も互角。互いが互いを求め合うかのように、空中で激突し、地面に落ちた。初弾がはずれたぐらいで諦める紀昌じゃない。例の神がかった連射能力を発揮して、ズダダダダァッと飛衛に矢を浴びせかかる。だが、師匠も並じゃない。全く同じだけの速さで全部射返した。二人を結んだ中間地点で、次々とぶつかり合う矢が地面に落ちていく。それでも名人の矢。地面に落ちるときも無様な姿にはならず、塵一つ巻き上げないでフワッと降りていったらしいぜ。

 ついに飛衛師匠の矢は尽きた。そのとき、紀昌は一本だけ矢が残っていた。

 勝った! 勝利を確信して放った矢は、今度こそ邪魔するものなく飛衛師匠へと突き進んだ。

 その時だ。師匠はとっさに道ばたの枝をへし折ると、飛んでくる紀昌の矢を真っ向からハッシとたたき落とした……。

 まぁ、あれだ。こうみると、やっぱりこのときの紀昌は飛衛師匠に一歩及ばなかったんじゃないかな。師匠は完全に後手に回ったのに全くの互角の戦いをして見せたわけだしな。

 さて、それがわからない紀昌じゃない。成功してたら、名人という称号に酔えたのかもしれないけれど、失敗し、己の未熟を思い知ったがためだろう。自分がやらかしちまったことの恐ろしさに気付いてしまった。慚愧の念に堪えない、って奴だ。

 一方の師匠の方も、とりあえず危機を脱した安堵と、手段はめちゃくちゃだけど弟子の見事な成長と、それでもやっぱり自分の方がちょっといいんじゃねぇという満足とがブレンドした気持ちになったんだよ。

 つまりだ。二人は、涙を流しながら互いにかけ出して、抱き合ったんだ。ああ、美しい師弟愛だよな。




「ちょ、ちょっと涼、それメチャクチャだって!」

 聞いているうちに我慢できなくなった誠がついに口を挟んだ。

「ああ、まあ、うん。流石にオレもそう思うよ。でもなぁ、何せ、主君が『変わった料理喰いたいのう』って言ったら、息子を蒸し焼きにして食べて頂くのが料理人の鑑だ、なんて世界の話だからな」

「うわ、ちょっとそれやだ……」

「ああ、自分の太もも切り裂いて主君の飢えをしのがせる、なんて美談もあるぜ。念のため言っておくと、最初のが斉の桓公だ。後の話が晋の文公、それとも『重耳』の方が通りがいいかな、結構人格者で有名な名君だぜ。そういう方でこのざまだからなぁ。暗君とか、暴君とかになるとどんな話がでるか聞きたいか?」

 不機嫌顔の名人である涼が、このときばかりは珍しく満面の笑みを浮かべて提案する。

「やめて、絶対やめて」

 誠は断った。顔が引きつっているのが自分でもわかる。だが、涼に容赦はない。

「有名どころだと、『封神演技』に出てくる殷の紂王の炮烙(ほうらく)の刑、だな。焼いた銅の煙突に裸の人間を巻き付けて苦痛を与える、って奴さ。正しくは、油を塗った銅の円柱を下から炎であぶっておいて、その上に裸足の人間を歩かせる、らしいけどな。足を滑らせた人間は、炎の中に落ちたくないから、必死に柱にしがみつく。けれど、その円柱も高温に熱せられるから……」

「やめてったら!」

 たまりかねて、誠が叫んだ。必死に両耳を押さえて目を固く閉じる姿を見て、涼も渋々引き下がる。からかいがいのある奴ではあるが、やりすぎたかもしれない。まだ他に、漢字の語源とかも話したかったのに。

 そもそもさ、『民』っていう漢字の語源知ってるか? あれ、「目を潰した人間」=「王に盲従する物」って内容の字なんだぜ。白川静先生の本読めば、そういうぶっ飛んだ古代中国の魅力満載なんだけど。すごいよな、白川先生って。漢字の真の意味を理解するために、漢字が漢字になる前の甲骨文字だの金文だのをひたすら模写し続けるんだもんな。誰ひとりとして正しい知識を伝承していないが、太古の人の叡智はそこにあるはずだ、って信じて、学者たちに馬鹿にされ、無視され、妨害されながら黙々と一人で古代の謎を解き明かしていくんだ。本当、鬼気迫るかっこよさだよ。古代ってやっぱりロマンがあるよな。そういえば、西洋の方でもオデッセイがあんなに面白いんだからトロイは本当にあったはずなんだって信じて、発掘した奴がいるもんな。発掘するために金が要るからって、まず実業家をめざすあたりが、シュリーマンって奴は現実的なんだか夢を見てるんだか、




 ペチコ~ン。

 今日、この部屋におなじみの破裂音が響いた。ただし、今度は涼の額が音の発生箇所となっている。

「ちょっと、何自分の世界に旅立ってるんだよ」

「イタタ、誠、お前、華奢に見えるけどやっぱ力あるなぁ。さすが体育会系」

「弱小とはいえ、硬式野球部レギュラーの指力をなめないでほしいね。それで、名人伝の話はそれで終わりなの?」

「ん、ああ、続き、か。うんまぁ、本当はここからが本題なんだけどなぁ。オレみたいな文学青年にはなかなかに味わい深いんだが、お前みたいな体育会熱血くんには収まりの悪い話になると思うぜ……」

 語るに連れ、涼の言葉ははじめの頃の煽るような語り口調は影を潜め、だんだんと噛みしめるように落ちついた語り口調へと変じていった。




 紀昌と飛衛は野原で抱き合ってたんだ。でも、いつまでもこうしてはいられない。そこで、飛衛は師匠として紀昌に道を示すことにしたんだ。

 紀昌よ、お前がさらに弓を極めようと思うなら、わしなどよりも目指すべきことがある。西の山の果ての果て、峻峰の奥深くの奥深くに、甘蠅(かんよう)という老師がおられる。その方こそが本物の名人だ。その方の弓に比べたら、私やお前など児戯にすぎない。

 それを聞いて、紀昌は心が動いた。会ってみたい。でも、純粋な敬意だけではないな。なんせ、師匠をぶっ殺してでも、なんて血の気の多い奴だ。いくら尊敬する師匠の言葉だからって、自分の技が子どもの遊びだなんて聞いた日には、黙っていられない。早速、西に向けて旅立った。まぁ、飛衛師匠の計算通りだな。紀昌の腕が上達するならよし。そうでなくても、とりあえずこの危険な弟子を何とか追い払わないと命も危ないわけだし。

 とにもかくにも、こうして紀昌は山の奥の奥に分け入っていった。道無き道の連続だった。来る日も来る日も山をさまよい歩き、そして、ついに紀昌は目指す山にたどり着いた。

 そこには、確かに人がいた。

 けれど、師匠の話してくれた名人がこいつだとはどうしても思えなかった。腰の曲がったじいさんだ。100才を越えていそうなぐらいによぼよぼしている。おまけに、これが何よりも不満なのだけれど、目が気に入らなかった。羊のように柔和な目だ。

 違う、名人は、こう、もっと底しれぬ深みを秘める目でないといけないはずなんだ。

 紀昌は大声で用件を告げた。まぁ、若造にはじいさんなんてみんな耳が遠そうに思えちゃうからなぁ。紀昌です、貴方が弓の名人と聞いて来ました。私の腕を見てください。

 返事なんか待っちゃいない。このじいさんがどれほどのものだか。半ば相手を侮り、半ば自分を鼓舞するために、いきりたって弓に矢をつがえると、ちょうど空を鳥の群れが飛んでいるのが見えた。見てろ、と一矢を放つと、さすがは紀昌。たちまち五羽の鳥がパタパタと落ちてきた。一直線に射抜いたのか、矢がホーミングしたのかわからないけどな。

 どうだ、見たか爺さん。紀昌はそんな風に自慢げに老人を見たわけだ。ところが、老人は平然としたものだった。


 ホ、ホ、ホ。一通りはできよるの。だが、まだ「射の射」どまりじゃの。「不射の射」は知らないようだのう。


 これを聞いて紀昌はそれはもう、露骨にムッとした。けれど、師匠の言葉もある。老人がついてこい、というので不満を押し殺し老人の後に従った。意外なことに、老人は足下もおぼつかないようにみえるのに、険しい山をひょいひょいと歩いていく。そのうち、断崖絶壁に出た。

 ここに来る途中、紀昌だって危険な目にも遭ったことだろうさ。なんせ、道無き道を歩くんだ。毎日がファイトォ、イッパァツ! って感じの連続だった。それでも、この崖は半端なく怖い。文字通り、屏風のように垂直に切り立つ「絶壁」だ。おまけに、老人はその絶壁に飛び出している、というより落ち損ねて引っかかっている岩にひょいひょい登っていき、紀昌を手招きした。

 

 ここで、この岩の上でさっきの技を見せてくれんかのう?


 おそるおそる紀昌は岩の上に登った。ここまできて引き下がるわけにはいかない。足下のことは考えないようにするのが、こういう場所での鉄則だ。弓を構え、歯を食いしばり、紀昌は先ほど老人が立っていたまさにその場所に足を置いた。その時さ。カラン、と音を立てて小石が崖下に落ちていく。おもわず、紀昌はその石を目で追ってしまった。岩の下の遙か先に糸のように川が流れている。普通なら、そこまでしか見えない。落ちた小石など、すぐに見失う。けれども、紀昌には見えてしまう。すさまじい速度で両岸の断崖の間を落ちていく小石が谷風に煽られ岩壁にあたり、対岸まで跳ね返り、自らが砕けつつもその勢いで岩を砕き、破岩の群れとなって渓流に注ぎ落ちるその様を。足が震えた。全身の毛穴から汗が噴き出し。盛り上がった後背筋の谷間を通って背骨を伝い、踵までの道を滝のように汗が流れ落ちる。紀昌も、ついに心が折れちまった。膝をついて、動けなくなった。

 それを見て、老人は紀昌に手をさしのべて岩から下りるのを手伝った。もう一度岩の上に立つと、では、手本を見せるかの、と紀昌に告げた。

 ついに、その神髄がみれるのか。紀昌は謙虚な気持ちで老人の技を見ようとした。でも、おかしい。何かがおかしい。そうだ、この方は、素手だぞ? 弓を持ってないじゃないか。弓は、どうします、私の物をお使いになりますか。 

 紀昌の言葉を聞いてさ、老人は笑ったんだ。楽しそうに笑ったと思うぜ。

 

 弓? ふむ、そんなものが必要なのはまだ『射の射』をしておるからよ。『不射の射』には、おぬしのような強弓も、名将の使う猛弓もいらんのじゃよ。


 そのとき、上空遙か高くを一羽の鳶がゆうゆうと輪を描いていた。老人は、無形の弓に無形の矢をつがえ、そらにむけてヒョイ、と放った。ところが、だ。エア弓道だったにも関わらず、鳶ははばたきをやめ、まっすぐにこっちに落ちてくる。

 紀昌は、弓の神髄を目の前にして、慄然としたんだよ……。




「ちょ、ちょっとちょっと、それ、もう『弓』じゃないじゃん!」

 目をつむり、陶然と語る涼とは対照的に、興奮した誠がまくしたてる。

「何が不射の射、だよ、もう、それ超能力の世界じゃん、おかしいって」

 ふう、と軽くため息をついて涼は言葉を返した。

「超能力、とか安っぽい呼び方はやめてくれよ。せめて、仙術、と読んで欲しいところだけどな」

「そうか、仙術だと安っぽくないのか、ってそんなわけないじゃん。まぁ、いいや。それで、紀昌もその超能力じゃなかった、仙術を身につけるの?」

「だから、仙術もただのたとえだよ。甘蠅老人の技は『不射の射』だ。あくまで、弓を極めた末に到達する境地なんだよ」

 まるで、自分もその境地に到達しているかのような悟っている風の言いぐさが誠を刺激する。

「だからぁ、紀昌はどうなったんだよ?」 

「う~ん、こっからは、体育会の熱血くんにはあわないかもしれないぞ? オレとしてはまじめ半分・遊び半分のすごく味わい深い話だと思っているんだが……」




 紀昌が山を下りてきたのは九年後さ。その間の修行は、誰にもわからないらしい。

 誰もが期待したんだぜ、紀昌が伝説の甘蠅老師の技を披露してくれるのを。なんせ、紀昌は自分の技を見せびらかすのが大好きだったからさ。

 ところが山を下りてきた紀昌は全然違うんだよ。なんていうか、覇気がなかった。負けず嫌いの代名詞、向上心の塊、っていう感じのあの精悍な紀昌の目つきはどこにもなかったんだ。なんというか、ぬぼ~っとした木偶のような顔つきだった。

 けれど、わかる人にはわかるんだろうな。紀昌の顔を一目見た瞬間、飛衛師匠がひれ伏したんだ。これぞ、天下の名人だ。紀昌の前では我らなど足元にも及ばない、って。

 それを聞いて趙の都の人は期待したね。なるほど、これでこそ名人か。むやみに腕前を誇示しないのも頷ける、ってね。ただ、それにしても、弓も持ってないのは何でだ? 気になるわな。なんて言ったって、不射の射を紀昌が見せないんだからさ。それで、つい誰かが聞いちゃったんだよね、弓はどうしたの? って。そしたら、紀昌は、また物憂げに答えたんだよ。


 至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし。


 それを聞いて、都の人はますます感動したね。さすが天下の名人、器が違う、って。弓を持つ弓の名人なんて掃いて捨てるほどいる。でも、うちの名人は弓を持たない弓の名人なんだ!

 こうして、無弓、不射の名人の評判はますます高くなった。そりゃ、もう様々な噂が流れたよ。夜、紀昌の家の屋根から音がする、あれは、紀昌の魂魄が抜け出てこの町を守るために弓をはじいている音だ。雲にのり古代の名人の神霊と紀昌が弓の腕を比べているのを見た。とか、そんな感じの怪しい奴から、匪賊、ああ泥棒だな、がある家に入ろうとしたら、殺気に射抜かれて動けなくなって捕まってしまった。それが紀昌の家だった、とかさ。都の空から鳥が消えたり、邪心をもつ悪人は紀昌の家の十里四方には近づかなくなったなんて話もあるのさ。

 そうして、名声が高まれば高まるほどに、紀昌はどんどん気配を消していくんだよ。老いていく、というのもあるんだけどな、ますます表情は消え、木偶そのもののようになっていくんだ。呼吸の気配すら感じられない。いや、そもそも呼吸してないんじゃないの? と思ってしまうほどだ。語ることなんか滅多にない。

 

 既に、我と彼の別、是と非の分を知らぬ。目は耳のごとく、耳は鼻のごとく、鼻は口のごとく思われる。


 ってのが、紀昌の残した数少ない言葉の一つらしい。

 できれば、最後に老人となった大名人紀昌の武勇伝でこの話を締めたいんだけどさ、残念なことにそのエピソードが残ってないんだよ。その代わりに、奇妙なエピソードだけ残っててるんだよな。

 ある日、紀昌が知人の家に行ったんだ。そこで、木製の細長い器具を見かけた。どこかで見た気はするんだけどさ、どこで見たか思い出せない。何より、使い方がわからない。そういう引っかかるのって、なんかさ、脳の奥がむずがゆくなるようで嫌だよな。そこでさ、紀昌は聞いたんだよ。これ、何? って。

 はじめはさ、からかわれたと思ったみたいでさ、家の人はまともに相手にしなかったんだよ。でもさ、紀昌が本当に真剣に何度も聞くんだよ。家の人の目をじっと見て、言葉の少ない紀昌が、何度も聞くんだぜ。そのうち、家の人が悟ったんだ。紀昌はふざけてないし、おかしくなっているわけでもない。もちろん、耄碌しているわけでもなくて、自分が質問を聞き違えているのでもない。ただ、本当に忘れてしまったんだ、って。

「あぁ、あぁ、なんと言うことだ、紀昌様、貴方はこれがわからないのですか? 弓の名人の貴方が、弓を忘れてしまったと!」

 これには、都中の人がおどろいた。それからしばらくの間、都の画家は筆を、楽師は楽器を、職人は工具を隠して、自分の道具に触れるのを恥じたんだってさ。

 これが、『名人』紀昌の最後の伝承さ。





「おかしい! それ、絶対におかしい!」

「言うと思ったよ」

 肩をすくめながら、誠は噛みついてくる涼をやんわりと受け流した。

「だから、最初に謝ったろ『一生懸命がんばってるお前に失礼』な話だって」

 だが、誠は収まる気配がない。

「じゃあ、何、その話は功名心を捨てろ、とかそういう教訓なの? 僕はグローブやバットに触っちゃいけないの? ボール投げちゃダメなの!?」

「待てよ、だから、そう何でもかんでも直球勝負で考えるなよ」

「うるさいな、どうせ僕は変化球に弱いさ。なんだよ、涼が面白そうな話をするから聞いてたのに、この終わり方は何だよ? これ、まじめな話なの? 笑い話なの?」

「まあ、すぐに答えを求めたがるのは、最近の若者の悪い癖だな」

「また、えらそうに! 知ってるんだろ? 教えてよ」

 まじめに食い下がる誠の方を叩いて、涼は笑った。

「至言は言を去る、だな」

「だから、はぐらかすなって」

「はぐらかしてないって。ここから何かを感じ取るのもお前の自由だし、アホなおっさんの話だと笑ってもいいし、所詮作り話だと切り捨ててもいいさ。ただな……」

 そう言って、少し涼はためらったあと、ちょっとまじめな顔に戻って言葉を続けた。


「点滴石を穿つ、って言葉を知ってるか? 雨だれが石に穴を掘っていく、って言葉だが、全力を傾けて一つのことに取り組めば必ず達成できる、そういうメッセージがこの話にこめられてるのは間違いない。だろ?」

 うん、と頷く誠を見て、涼は続けた。

「けれど、それは、やっぱり落とし穴も大きいんだよ。周りが見えない危うさ、って奴かなぁ。つまりは、そういうひたむきさのすばらしさともろさを、ちょっととぼけた切り口で鮮やかにオレ達若造に見せてくれた。それがこの『名人伝』だ、とオレは思うんだよ」

 う~ん、とわかったようなわからないような返事をする誠の額を、涼はもう一度だけ指ではじいた。

   

「だからさ、お前みたいに背負い込まなくていいんだよ。チームが弱いのはチーム全体の責任。お前が長打打てないからじゃないの。さ、ほら、行くぜ」

 涼が当然のように告げた言葉だが、誠にはわからなかった。

「行くって、どこに?」

「バッティングセンターだよ。どうせボール見るなら、動くボールの方がいいだろ」

 ぶっきらぼうに、面倒くさそうに答える涼をみて、誠は嬉しそうに笑った。

 



(了)



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「高校球児」と「名人伝」 石田部 真 @ECTAB

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