三章 白い月夜の梨苑の再会_三




 月夜に朱西と会ってから、心のすみに切ない気持ちをかかえて過ごしていた。

 ただかおりどこを取りもどせたことで、毎日かおりづけを口にすることができた。そして朱西に会ったことをきっかけに、理美の味覚はじよじよに戻った。

 そしておどろいたことに数日でかんぺきに元通りになり、せんさいな味さえも味わえた。

 あの美しいえんで、朱西は理美のきんちようや不安を持ち去ってくれたようだった。

 そうしていると、ひやりとする初春の気配は去り、花々がきそう暖かさになった。

 そしてその頃から、理美の周囲で奇妙な変化が起こりはじめた。

 理美はしようしよくの女官として、各きゆう殿でんから求められる食材をとりまとめて、発注する仕事を任されていた。和国と崑国では使う文字が同じなので、しやべるよりも文字を書くほうが楽だった。

 それでも最初は、何をどうすればいいのかわからず、四苦八苦した。

 例えば、各宮殿からの要求こうもくに『水』と書かれていたので、ちゆうぼうごとにがある後宮で、水を注文するのはあり得ないと思って発注項目からさくじよした。しかし実は、お茶をれる水だけは水売りから買っていることが判明し、あわを食って注文書を全部書き直したり。

 崑国特有の調味料、ジヤンの種類が多過ぎて、混乱し、発注をちがえてあきれられたり。

 ほかの尚食の女官やかんがんたちは、最初こそ冷ややかだった。

 だがひまを見て細々したことを教えてくれる人や、手伝ってくれる人も出てきた。

 親しくなってくると彼女彼らは、決まって照れたように「あなたのはだが美しいのには、秘密があるともっぱらのうわさだ。その秘密を教えてくれ」と言う。理美が、和国の食べ物を食べているからだと教えると、今度はそれが欲しいと言う。

 理美の持っている香床では、大量の香漬は作れない。なので特に親切にしてくれた女官や宦官に、時々少しずつ分けるしかなかった。

「気味悪い……かも?」

 自分のぼうで、理美は呟く。

 甲斐かい甲斐がいしく室内を整えていた老じよが、おおばんいのがおでふり返る。

「なにかおつしやいましたか! 理美様。あ、おつかれではございませんか? お茶をお持ちしましょうかね? 花茶はいかが?」

「……これが最高に気味悪い……」

 あれほどいやたらたらだった老侍女が、ちかごろやたらとあいがいい。この変化は間違いなく、「噂」に原因がある。理美の美肌に秘密があるという噂だ。

 美容に関心が高い後宮内では、秘密の美容法を知る者は尊敬され、重宝され、仲良しになりたがる者がわんさと寄ってくる。

 そのためか近頃、理美へのいやがらせめいたことは、すっかりなりをひそめていた。

 しかし、せない。そもそも美肌の噂は、だれがどんな目的で流しているのだろうか。

 しようよくきゆうの厨房で働く女たちは、下働きの女同士で理美の噂をしている。ただ彼女らが女官や侍女と交じることはまれだ。下働きの女たちのうわさばなしが、女官や侍女に伝わるとは思えない。

 理美付きの老侍女も最初は「そんなもので肌がれいになるものか」と、信用しなかった。

 いそいそと花茶を運んできた老侍女に、理美は試しに言ってみた。

「美しい肌の……」

「美肌のなんでございますか!?」

 たった一言で、老侍女はきゆうを取り落とさんばかりに興奮して身を乗り出す。

(絶対、怪しいわぁ~)

 間違いなく女官や侍女の間に、信用できる筋からとして、理美の美肌に秘密ありと噂が流れている。そうでなければ老侍女がこれほど見事に、てのひらを返すわけがない。

「理美様の美肌のなんでございますか! 理美様のつぼの、あれですよね。わたしにもあれを下さる気になったとか、そんなことでございますか!?」

「違うけど」

「ああ……そうでございますか……」

 あからさまにらくたんした老侍女は、こぽこぽと力なく花茶を淹れる。

「前に香漬をすすめたときに、あなた、肌が綺麗になるって信用しなかったのに。なんで今、欲しがるの? なんで信じる気になったの?」

「宋貴妃様の侍女が、噂していましたからね。貴妃様付きの侍女が言うのだから、確かですよ」

(なんで宋貴妃?)

 理美をおとしめようと、先頭で旗をっている人だ。

「失礼いたします。こちら雪理美様のお部屋でしょうか」

 房の出入り口に、品の良い若い侍女が現れた。見慣れない侍女だ。

「はい。わたしが理美です。なんのようですか」

「宋貴妃様がお呼びです」

 ぎょっとした。今、噂していたばかりだ。

「貴妃様がなんの御用でしょうか」

「お茶にお招きしたいとのことです。雪理美様お一人でおし下さいとのことです。わたしがご案内しますので、供の侍女も不要です」

 呼ばれた理由を聞いて、さらにめんらった。なんと、お茶とは。

(いったいなにが起こったの?)

 老侍女が親切にも、理美の耳にささやく。

「わたしを連れてくるなというのは、あやしいですよ理美様。なにかたくらみがあるはずです」

「う~ん。そうよね、きっと。でも、まあ、とって食われることもないだろうし。貴妃の宮殿なんてめつのぞけないだろうし」

 理美は、使いの侍女に微笑ほほえみ返す。

「行きます」

 きんちようかんの弱さと、かごの鳥経歴の長さゆえのこうしんを発揮し、理美は宋貴妃のお茶のさそいをかいだくした。老侍女は呆れ顔をした。



◆◆◆



 宋貴妃の住まうたいれいきゆうは、理美たちの住まう小翼宮の倍の広さがあり、庭院にわには見事なしやくやく園が広がっている。しゆりのかいろうが芍薬園をめぐり、その一部が中央へ張り出し、芍薬園の中でお茶を楽しむための四阿あずまやつながっていた。

 理美が案内されたのはその四阿だった。四阿に置かれた、こくたんでん細工のたくには、宋貴妃と宦官が一人座っていた。その周囲に六人ほど侍女がひかえ、きゆうをしている。

「雪宝林をお連れいたしました」

 案内の侍女にしようかいされると、宋貴妃と宦官がこちらに顔を向けた。

「あっ……!」

 小さく声をあげてしまった。そこにいた宦官はいつかの夜、厨房でしるものを提供したあのぼうの宦官だ。彼は微笑んでいたが、相変わらず顔色が良くないので、理美の顔はくもった。

(ろくに食べていない人の顔だわ)

 美貌の宦官は理美のしかめつらに、まるで初対面のようなよそよそしい微笑を返す。

 宋貴妃は、嫌味なほどの作り笑顔だ。

「いらっしゃい、雪宝林。急なお誘いで、ごめんなさい。あなたとお茶を飲んでみたいと、前々から思っていたものですから」

「お招き感謝いたします」

 と、礼は言ったものの、ここからどうすれば良いのかまごついた。供の老侍女がいれば作法を耳打ちしてくれたのだろうが、一人ではどうしようもない。

「あら、お作法をぞんない」

「さすがは海からやってきたざる

 控えていた侍女が聞こえよがしに言ってくすくす笑うが、宋貴妃が「あなたがた、およしなさいな。許しませんわよ」と、やんわりとたしなめる。

(なんだろう、この茶番。供を連れてくるなと言ったのは、これをするため?)

 侍女たちが理美に嫌味を言い、それを宋貴妃がたしなめるという、あからさまなしばだ。

「こちらへどうぞ」

 すすめられた椅子に座ると、宋貴妃はわざとらしくかなしげな顔をする。

「あなたに謝らなければならないわね、雪宝林。わたしの侍女たちが、あなたに無礼を働いて。以前から、そんなことはおやめなさいと言っているのに、聞き分けのない者ばかりで。これからはもっと厳しく注意をするから、許してくださる?」

 不信感いっぱいで椅子に座った理美の前に、れんな花鳥模様がえがかれた茶器が置かれる。

「紹介するわ。彼はさいはくれいよ。陛下のおそば近くに仕えている、わたしのお気に入りのないよ」

(蔡伯礼様というの? 陛下付きの内侍? 道理で……、自信満々だったわけね~。本当に、ちゆうぼうにいるはずのない方だったんだ)

 こうてい陛下の側に仕える内侍ともなれば、位は理美よりもはるかに高い。

 そんな高位のかんがんが、後宮のかたすみの厨房にいたことが不可解だが。

「ねぇ、伯礼は美しいでしょう? お茶を飲むときには、いつも伯礼を呼び出すの。芍薬の花を卓子にかざるより、よほど心がなぐさめられると思わない?」

 同意を求めるように言われたが、うなずくことができない。

(確かにこの方は美しいけれど、観賞用のお人形あつかいだわ。こんなに顔色の悪い人を前にして、お茶なんて楽しく飲めない。なにか食べてもらわないと、なんか、そわそわする……。このお、口にっこんであげようかなぁ)

 半ば本気で、目の前のうすかわもちながめる。その内心を知るよしもない宋貴妃は、得意げに伯礼に微笑みかける。

「伯礼。これからわたしのお友だちになってもらう、雪宝林よ」

 宋貴妃が伯礼に水を向けると、彼は理美が口を開くのを制するように、かんはつれず名乗った。

、雪宝林。蔡伯礼と申します」

(え? はじめまして?)

 彼の目を見るが、微笑する彼の目からは意図がくみ取れない。

 どうしようかと迷ったが、彼に合わせることにした。

「はじめまして、雪理美です。よろしくお願いします」

「こちらこそ……おや、あれは、わたしへの使いですね」

 芍薬園を一人の宦官が横切り、こちらへ向かって来る。伯礼は「失礼」と断って座を立ち、芍薬園の中へと歩いて行く。ほこる芍薬の間を歩む彼の背中を見ながら、宋貴妃が、ふくみ笑うような顔で理美に囁く。

「伯礼はね、実は、男だといううわさがあるの」

「はい? 確かにおきれいですが、しようしんしようめい、男ですね。女にしては背が高いです」

ちがうわ。彼は男性としての能力を、失っていないという意味」

「能力?? その心は?」

「まあ。言わせる気なの?」

 意味をつかそこねてぽかんとしていたが、ようやく理解して手を打つ。

「そういうことですか! 子をなせると、そういう。まあそれは、おめでたい……ではなくて、あれ? でも? そんなことあり得るんですか?」

 宋貴妃は、伯礼が男性機能を失っていないという噂がある、と言っている。けれど宦官は男性機能を切除するからこその宦官で、そうでなければ後宮にいてはならないはず。

「あくまで噂だけれどね。でも、伯礼は特別だから」

 意味深な返答に、さらに突っこんでこうとしたが、伯礼が帰ってきた。

 宋貴妃は上手な作りがおで、話題を別の方へ向ける。

「美しいと言えば、雪宝林。間近で見ると、あなたのはだは本当に美しいわ。うらやましいこと。なにかけつがあるの?」

 宋貴妃が、さっそくとばかりに切り出した。

 改めて宋貴妃の顔を見やった理美は、先刻の小芝居の目的を理解した。

 若さに似合わず、宋貴妃は厚く白粉おしろいり込んでいる。その白粉の下、ほおと額にき出物が広がっている。肌になやみをかかえているらしい。

 宋貴妃は、理美の美しい肌に秘訣があると噂を聞いて、その秘密が知りたくなったのだ。

 しかし今まで散々貶めてきた相手が、げんく秘訣を教えるわけはない。

 そこで一計を案じた。理美を茶に招き、今までのことは宋貴妃ではなくじよたちのわざだったと思わせるために、先ほどの小芝居を打ったのだろう。

(皇帝陛下の前でわたしをじよくしたことは、なかったことにするんだ。わたしって、そんなに物忘れがよさそうに見えるのかなぁ~。まあ、見えなくもないだろうけど)

 宋貴妃のおもわくは単純で、すぐに理解できた。

 だが気になるのは、理美に秘密があると噂を流したのが、何者かということだった。

だれから、そんな話を聞きましたか?」

 たずねると、横から伯礼がやわらかく口をはさむ。

「わたしがあなたの侍女から、和国の食べ物のことを聞きました。それを宋貴妃様の侍女に話したところ、貴妃様のお耳に入っただけですよ」

 それはうそだ。あの老侍女は最初、かおりづけを食べると肌が美しくなると信用していなかったのだ。

(この方は、あの夜口にした香漬のことを、自ら噂にして流したということ?)

 目的はなんだろうか。彼はあいまいな微笑で、理美を見つめている。

「その秘密、わたしに教えてくれない?」

 鼻にかかった甘えた声で、宋貴妃はしなを作った。

 蔡伯礼の意図がわからず不安ではあるが、こうなってしまったからには、宋貴妃にどう返事をするかが目先の問題だ。

 理美は食べ物を求められれば、条件反射的に作ろうと思ってしまう。食べて欲しくなる。

 だが今回ばかりは、相手が相手だけに迷う。

 理美をおとしめておきながら、役に立つと知ったたんに利用するのは、いただけない。

 だがもし宋貴妃に恩を売れば、後宮の中で生活しやすくなることは確か。仮に断れば、理美は前以上にいやがらせを受けるかもしれない。

 逆に香漬を提供すれば、宋貴妃は理美をないがしろにできなくなる。

(求められれば居場所ができる。苦々しいけれど、居場所を得るために必要なことなら……)

 理美は決断した。

「毎日、わたしの作る香漬というものを食べていれば、肌がれいになるんです。宋貴妃様が良ければ、香漬をお届けしますけれど」

 約束すると、宋貴妃は声をあげてうれしがった。その時、伯礼が理美の耳元でそっとささやいた。

「君はうまく立ち回れば、宋貴妃をあやつることができるよ」

 ぎょっとした。

(なんてこわいことを)

 確かに貴妃ともなると、ぼうは命の次に大事なもの。宋貴妃が、理美の香漬で肌の美しさを保ち続けたいと願ったら、理美の立場はあつとう的に強くなる。

 操れるというのは、大げさではないはず。

 おどろいて伯礼の顔を見やると、彼はなにを考えているのかわからない曖昧なしようで、理美を見つめ返した。




◆◆◆



 大喜びの宋貴妃から、高価なさるちやわれたが、長居したい場所ではなかった。ほどなく理美はその場を辞し、たいれいきゆうを出た。しようよくきゆうへ帰ろうと歩き出した。

(伯礼様は、なんで香漬の噂を流したのかしら。貴妃様を操れるなんて言っていたから、もしかすると、わたしの立場をよくするために流してくれた? そんなことあるのかな?)

 伯礼のことが、すこし恐くなった。しかも宋貴妃の口から、伯礼に関して囁かれているらしい、みような噂を聞いた。常識的にはあり得ないが、それでもなんとなく気にはなる。

 理美にはめずらしく難しい顔をして歩いていると、とつぜん、行く手を誰かがさえぎった。見ると、理美を通せんぼするように宦官が一人立っている。しかも背後に二人のを従えて。

 足を止めると、宦官と目が合った。

「雪理美様ですね」

「はい」

「あなた様をたいします」

「はぁ、そうですか。逮捕……」

 耳慣れない単語をおうむ返しにして、その単語の意味を頭の中から引っ張り出してぎようてんした。

「た……逮捕!?」

 衛士たちが動き、理美のうでを両側から摑んだ。

 そのまま衛士たちはずんずんと歩き出し、理美は半ば引きずられる。

「待ってください! どこへ連れて行くんですか!?」

「外朝の陛下のぜんへ連れてくるようにとの命令です。陛下に対する不敬罪です」

「不敬!? お話をしたこともないのに!? なぜ!?」

「まずは大人しく、おいでください」

 かんがんれいこくに告げた。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る