三章 白い月夜の梨苑の再会_二




「周朱西様……?」

 まさかと思った。ここは後宮だ。高位のかんであれど、男性が入れる場所ではない。しかも彼は、理美がずっと会いたいと願っていた人だ。梨の花の美しさにあてられて、夢を見ているのだろうか。そんな気がしてぼうぜんとしていると、朱西はゆっくりと近づいてきた。

「俺のことを覚えていますか? 理美」

まぼろし……ですか?」

 問いかけて、手を伸ばし、そっと朱西のかたあたりに触れてみる。すると指先に確かな現実味を感じ、「ひゃっ!」と驚いて手を引っ込めた。本物だ。朱西はしようした。

「驚くのも無理はありませんが、現実です。この東梨苑には、陛下のために作られたかくし通路があり、外朝へ続いています。知っているのは陛下と側近の数名だけですが、それを利用させてもらいました。おおっぴらに、あなたのところへ行けないものですから」

「わたしのところへ?」

「あなたが、なにかをさがすために後宮の外へ出ようとしたことを知りました。それで俺はない省を訪ねましたが、あなたはまだ仮牢の中にいて、会わせられないと断られた。しかし夕暮れには仮牢から出されたと聞き、急ぎ会える方法を考えたんです」

 朱西は、彼が歩み出てきた梨の木の陰にもどると、そこに置いてあったらしいつぼを抱えて戻ってきた。

「これを返したかったんです。俺の知人が、かんちがいであなたからうばってしまったようだ。申し訳ない」

 それを目にして、理美は両手で口をおおった。うれしさのあまり、一気に視界がにじむ。

「これ……!」

 ふるえる指先を伸ばし両手で壺を受け取る。そして壺をいたまま、青々とした下生えが広がるその場に、へなへなと座りこんでしまった。

 震える手でひざの上にかかえた壺のふたを開き、中身をかくにんし、かおりどこだと認めると蓋を閉じた。強く壺を抱えこむ。嬉しくて、まなじりから次々になみだが滲み出てきた。

「良かった……。良かった……。これで、わたし……」

 希望そのものを抱いている気がした。

 座りこんでしまった理美の横に、朱西もこしを落とす。

「本当に申し訳なかったです。すみません。これを奪った者のかわりに、俺がお詫びを言います。ですが彼も、あなたに呼び出しの手紙を届けるのだけは、やってくれました。彼なりの詫びだとは思います。それで許してやってもらえませんか?」

「これが戻れば、なんでもいいんです。これがあれば」

 おだやかな朱西の声を聞いて、香床の壺を抱いていると、不安や絶望がとろけるように消えていく。そしてかわりに現実感が戻ってくる。

「それが本当に大切なんですね。後宮入りするときも、ずいぶんがんばっていましたね」

 苦笑するように言われると、理美はようやく、こうやって朱西に会えたことの喜びが胸の内にわきあがってくる。そして彼に会ったら、真っ先に言おうと決意していた言葉を思い出す。

「あのときは、ありがとうございました。わたし、お礼も言えなくて」

「たいしたことではありませんよ。俺はあのとき急に、わけもわからず呼び出されたんですが。あなたのようなひめぎみ育ちの人が、食品に愛情を注いでいることが驚きでおもしろかったんです。だからくちえしただけです」

「わたし、姫君育ちではありません。うましのみやという務めがあったから」

 ようやく落ち着いてきた理美だったが、あんかんと嬉しさで力がけ、ふにゃりと、背後にある梨の木の幹にもたれかかった。

「美味宮とは?」

「神にささげる食事を作るための、お役目なんです」

 ふと遠い昔を思い返し上に目を向けると、白い梨の蕾が光っている。

 そういえば和国の宮中の庭にも、梨の木はあった。

 理美はかどの第九おうじよとして生まれた。

 理美の母はこうだった。身分はさほど高くない。実家のいえがらは悪くないが、父君が早世したために財産もなく、老いて出家した母君しかいなかった。ゆえになんの後ろだてもなかった。

 そしてさらに不幸なことに、母更衣は、理美を生むと同時にまかった。

 理美は御門の血を受けぐ皇女であったが、後ろ盾もなく母君もなく、御門の情けだけでだいに住んでいるような有様だった。

 七つになった時、理美を臣下の妻にする動きがあった。こんいんには早すぎるねんれいだったが、後ろ盾もない母君もいない皇女は、いつまでも内裏にとどめておけないのだ。

 皇子であればせいたまわり臣下へ下る方法もあったが、皇女はけつこんするよりほかに手はない。

 だが御門には皇女が多かったために、ほとんどの有力臣下には姉皇女たちがとついでいた。

 身分のさほど高くない貴族へならば嫁げたのだろうが、皇女という血筋から、めつなところへは輿こしれできない。相手貴族も、皇女を受け入れるほどの体面は保てないとえんりよする。

 結局、理美の引き取り手はなく、御門も理美付きのじよも、困り果てていた。

 大人たちはいつも理美を見て、困ったと言っていた。可哀かわいそうにとも言ってくれた。

 ないがしろにされているわけではなかった。だが、自分の存在が周囲を困らせていることが心苦しくて、かたせまかった。小さな肩を、いつもすぼめていたおくがある。

 そして御門が考え出した奥の手が、理美を美味宮として、の地へ送ることだった。

 都から遠くはなれた伊那には、くにまもりのおおかみまつる大社がある。そこには御門の皇女が一人、神に仕える役目をおおせつかり、さいぐうとして住んでいた。それが理美のすぐ上の姉皇女だった。

 そして斎宮と同様に神に仕える役目として、美味宮という役目があった。

 美味宮は、神に捧げる食事を調理する役目を務める聖職。

「それは巫女みこなんですか?」

「聖職ですが、実際はくりやの番人です。ひめらしくもないです」

 美味宮としての生活を思い出し、苦笑した。

 神に捧げる食事を作る時、いつさいけがれはきん。調理する者は人と交わらず穢れを身にまとわず、常にみそぎをし、日々神に捧げる食事を作る。食事は神に捧げられた後、斎宮の食事として供される。美味宮とは実質、斎宮の食事を作る役目なのだ。

 人とのせつしよくは制限され、日々、禊ぎ。そして料理。それ以外が許されないお役目であるから、ここ百年ばかりは空位になっていた。美味宮といえば聞こえはいいが、その実、かた田舎いなかかごの鳥になり、毎日厨に立つ、どくな厨の番人なのだから。

 けれど「美味宮になるのはどうか」と父御門に問われたとき、理美はすぐ「だく」と答えた。

 美味宮がなにをする役目なのかは、知りもしなかった。だが「諾」と答えれば、周囲のみんなが、もう困らなくなると察したからだ。

 肩身の狭い思いをしなくてすむと、そう思ったからだ。

 理美は七歳の時、伊那の地へ下った。そして美味宮となり、十年───。

 理美は姉斎宮だけを見つめて生きていた。彼女が食す食事を毎日作り、捧げた。

 姉斎宮は気まぐれでかんしやくちで、大変なけんたんで美食家だった。籠の鳥である斎宮の楽しみは食事しかなく、理美はいつも目の前にいる姉斎宮を満足させることばかり考えていた。

 目の前にいる人に「おいしい」と言わせたくて、どうしようもない。

 そんなみような習性が体にみつくまで、理美は毎日厨に立ち、容易に「おいしい」と満足しない姉斎宮と向き合っていたのだ。

「おいしい」と言ってくれる人がいれば、理美は必要な人間とされていると思えた。

「おいしい」と言ってくれる人がいる場所が、理美の居場所になる。

 姉斎宮のいた場所が、確かに理美の居場所だった。

「実際はただの厨の番人でも、そのお役目があったから、わたしはそこにいてもいいのだと思って……安心したんです。宮中には、わたしの居場所がなかったから」

 その言葉に、朱西はすこし痛ましげに問う。

「幼いころに、宮中でつらい思いをしたんですか?」

「いいえ。ただ、周りを困らせているのが申し訳なかっただけです。でもそのかわり美味宮になってからは、安心して、ここがわたしの居場所だと確信して過ごせました」

「崑国にも、神に捧げる食事を作るという話はありますね」

「えっ!? わたしみたいな人がいるんですか」

「伝説の中での話です。神に捧げる食事はせいさんと呼ばれ、せんが作るとされています」

 朱西の語るところによると、崑国の伝説には、一つのわざきわめる仙が無数に存在するという。武芸、詩歌、しゆりよう、農耕、あらゆる技があるというのだ。

「その中には、食を極める仙が存在します。その仙は食を極め、神の食事を作るという伝説があるんです。ですから人は神の食事を作りません。しかし仙が作り神に食事を捧げるという伝説は、おそらく豊富な知識と技術をもってものを食せば、それは神に捧げうるほどの効能があるという意味だろうとかいしやくしました。俺は、幼い頃から陛下にお仕えしているんですが」

「あ、知ってます。侍女が教えてくれました。朱西様は陛下に仕えているんだって」

「そうなんですか?」と微笑ほほえみ、朱西は続ける。

「俺は、陛下が口にするもので、陛下がこうていとしての資質をあげられるのではないかと考えたんです。様々に食の効能を調べ、体系的にまとめようと、こつこつ探究していました。そして三年前に、ようやくそれはしきがくという学問として国に認められました。美味宮はいませんが、崑国には食学があります」

 大切なつぼをぎゅっと抱え、理美はほおを染めた。

(このお方、そんなことを考えて、学問をおこした方なんだ)

 理美も毎日の務めの中で、食べ物を選ぶ事で人は効能を得られると、なんとなく実感していた。しかしそれをめて考えようと思ったこともないし、まして学問として体系的にまとめようなどとは、考えもおよばない。

「探究してたら、目新しい発見はいっぱいあるんでしょうね」

 つぶやくと、朱西はすこし情けなさそうに笑う。

「まあ、そこそこですね。研究者は、実はまだ俺一人ですし」

「じゃあ食学は、けなな朱西様の、ひとりぼっち学問なんですか?」

「その表現は、そこはかとなく自分があわれになります。もっと遠回しに、などを使ってもらえるとありがたいですが」

「すみません、崑語があまり得意ではないので。とにかく食学は……朱西様の孤独的、びん的学問なんですね」

 いつしゆん、朱西はちんもくした。

「……先ほどよりも表現がき出しです……。『的』をつければ、比喩になると思っていませんか?」

ちがいますか?」

「違います。あなたは崑語がたんのうなようで、時々あやしい……。とにかく食学とは、食べ物が人におよぼすえいきようを知り、まとめる学問です。またできれば新たに、知られていない食べ物の影響なども、探究したいと思っています。ついさきごろ手をつけたのは、陛下の、おぎを作るのに必要な食についてです」

「必要な食?」

「性欲を増大させる食べ物です。ろうのやり手に伝わる秘伝などをしゆうしゆうし、効能を実証しました。何種もの食材を、何人かにためしました。自分でも試しました。しかし効能がかくにんされたのは、まだ一種類。南方のという果物です。これを定期的に食すと、むらむらします」

「そうですか、むらむら」

 理美はうなずくが、はたと気がつく。

(む……、むらむら?)

 すずしげな食学博士の口から出た言葉に目を剝くが、朱西は引き続き、しごく真面目に返す。

「そうです、確実に効きます。あやうく俺は、実証を手伝っていたどうりようおそわれかけました。俺もそのとき自ら試していたので、理性が働かなければだいさんになっていたことでしょう」

 平然と話しているが、なかなかきわどい内容だった。

「しかしこの食材も、せつしゆ量や、食べる時間を計らねば効果は期待できません。これらのこともふくめ、いずれ食効たいこうという書にまとめようと考えています」

「その本が完成したら、わたしも読ませてもらっていいですか?」

「ええ、さしあげましょう。あなたは和国の、聖餐をきようする仙らしいですからね」

 じようだんめかして言うと、朱西は立ちあがり、したについた草葉をはらい落とす。そして理美に向かって手をさしのべた。

「さあ、お立ちなさい。おしゃべりが過ぎました。俺は、ここにいてはならない人間ですから。けれどあなたにそれを返せて、そして話ができて良かった。安心しました」

 差し出された手は、初めて出会ったときの再現のようだった。

 彼の背後には夜空の美しい月と、なしつぼみの白いかがやきがあった。

やさしい……。なんて優しい方)

 崑国に来てずっと感じている、自分の居場所のなさ。それは幼い頃に感じた居たたまれなさと同様で、自分がこの場所に受け入れてもらえないさびしさとかなしみが、常に心の奥にうずくまっている。

 けれどこんなに優しい人もいるのだ。この広大な崑国で、たった一人だけでも、こんなふうに微笑みかけてくれる人がいるというだけで、自分の居たたまれなさもえられる気がした。

 朱西のような人がこの国にいてくれるというだけで、ほっとできる。

 手を引かれて立ちあがると、理美はたまらなく切なくなって、朱西を見つめた。

「あの、またお目にかかれますか?」

「どうでしょうか。本来、あなたと俺は、会えるはずのない立場なのですが。なにかのえんがあれば、またどこかで会えるでしょう」

 にぎっていた手をさらりとはなし、朱西はきびすを返した。梨の木の向こうのくらやみに消えていく姿を見つめて、そして彼の姿が消えたやみを見つめ、理美の胸はしぼられるように痛む。

(朱西様……。会えるかしら、また……)

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