三章 白い月夜の梨苑の再会_二
「周朱西様……?」
まさかと思った。ここは後宮だ。高位の
「俺のことを覚えていますか? 理美」
「
問いかけて、手を伸ばし、そっと朱西の
「驚くのも無理はありませんが、現実です。この東梨苑には、陛下のために作られた
「わたしのところへ?」
「あなたが、なにかを
朱西は、彼が歩み出てきた梨の木の陰に
「これを返したかったんです。俺の知人が、
それを目にして、理美は両手で口を
「これ……!」
震える手で
「良かった……。良かった……。これで、わたし……」
希望そのものを抱いている気がした。
座りこんでしまった理美の横に、朱西も
「本当に申し訳なかったです。すみません。これを奪った者のかわりに、俺がお詫びを言います。ですが彼も、あなたに呼び出しの手紙を届けるのだけは、やってくれました。彼なりの詫びだとは思います。それで許してやってもらえませんか?」
「これが戻れば、なんでもいいんです。これがあれば」
「それが本当に大切なんですね。後宮入りするときも、
苦笑するように言われると、理美はようやく、こうやって朱西に会えたことの喜びが胸の内にわきあがってくる。そして彼に会ったら、真っ先に言おうと決意していた言葉を思い出す。
「あのときは、ありがとうございました。わたし、お礼も言えなくて」
「たいしたことではありませんよ。俺はあのとき急に、わけもわからず呼び出されたんですが。あなたのような
「わたし、姫君育ちではありません。
ようやく落ち着いてきた理美だったが、
「美味宮とは?」
「神に
ふと遠い昔を思い返し上に目を向けると、白い梨の蕾が光っている。
そういえば和国の宮中の庭にも、梨の木はあった。
理美は
理美の母は
そしてさらに不幸なことに、母更衣は、理美を生むと同時に
理美は御門の血を受け
七つになった時、理美を臣下の妻にする動きがあった。
皇子であれば
だが御門には皇女が多かったために、ほとんどの有力臣下には姉皇女たちが
身分のさほど高くない貴族へならば嫁げたのだろうが、皇女という血筋から、
結局、理美の引き取り手はなく、御門も理美付きの
大人たちはいつも理美を見て、困ったと言っていた。
ないがしろにされているわけではなかった。だが、自分の存在が周囲を困らせていることが心苦しくて、
そして御門が考え出した奥の手が、理美を美味宮として、
都から遠く
そして斎宮と同様に神に仕える役目として、美味宮という役目があった。
美味宮は、神に捧げる食事を調理する役目を務める聖職。
「それは
「聖職ですが、実際は
美味宮としての生活を思い出し、苦笑した。
神に捧げる食事を作る時、
人との
けれど「美味宮になるのはどうか」と父御門に問われたとき、理美はすぐ「
美味宮がなにをする役目なのかは、知りもしなかった。だが「諾」と答えれば、周囲のみんなが、もう困らなくなると察したからだ。
肩身の狭い思いをしなくてすむと、そう思ったからだ。
理美は七歳の時、伊那の地へ下った。そして美味宮となり、十年───。
理美は姉斎宮だけを見つめて生きていた。彼女が食す食事を毎日作り、捧げた。
姉斎宮は気まぐれで
目の前にいる人に「おいしい」と言わせたくて、どうしようもない。
そんな
「おいしい」と言ってくれる人がいれば、理美は必要な人間とされていると思えた。
「おいしい」と言ってくれる人がいる場所が、理美の居場所になる。
姉斎宮のいた場所が、確かに理美の居場所だった。
「実際はただの厨の番人でも、そのお役目があったから、わたしはそこにいてもいいのだと思って……安心したんです。宮中には、わたしの居場所がなかったから」
その言葉に、朱西はすこし痛ましげに問う。
「幼い
「いいえ。ただ、周りを困らせているのが申し訳なかっただけです。でもそのかわり美味宮になってからは、安心して、ここがわたしの居場所だと確信して過ごせました」
「崑国にも、神に捧げる食事を作るという話はありますね」
「えっ!? わたしみたいな人がいるんですか」
「伝説の中での話です。神に捧げる食事は
朱西の語るところによると、崑国の伝説には、一つの
「その中には、食を極める仙が存在します。その仙は食を極め、神の食事を作るという伝説があるんです。ですから人は神の食事を作りません。しかし仙が作り神に食事を捧げるという伝説は、おそらく豊富な知識と技術をもってものを食せば、それは神に捧げうるほどの効能があるという意味だろうと
「あ、知ってます。侍女が教えてくれました。朱西様は陛下に仕えているんだって」
「そうなんですか?」と
「俺は、陛下が口にするもので、陛下が
大切な
(このお方、そんなことを考えて、学問を
理美も毎日の務めの中で、食べ物を選ぶ事で人は効能を得られると、なんとなく実感していた。しかしそれを
「探究してたら、目新しい発見はいっぱいあるんでしょうね」
「まあ、そこそこですね。研究者は、実はまだ俺一人ですし」
「じゃあ食学は、
「その表現は、そこはかとなく自分が
「すみません、崑語があまり得意ではないので。とにかく食学は……朱西様の孤独的、
「……先ほどよりも表現が
「
「違います。あなたは崑語が
「必要な食?」
「性欲を増大させる食べ物です。
「そうですか、むらむら」
理美は
(む……、むらむら?)
「そうです、確実に効きます。
平然と話しているが、なかなかきわどい内容だった。
「しかしこの食材も、
「その
「ええ、さしあげましょう。あなたは和国の、聖餐を
「さあ、お立ちなさい。おしゃべりが過ぎました。俺は、ここにいてはならない人間ですから。けれどあなたにそれを返せて、そして話ができて良かった。安心しました」
差し出された手は、初めて出会ったときの再現のようだった。
彼の背後には夜空の美しい月と、
(
崑国に来てずっと感じている、自分の居場所のなさ。それは幼い頃に感じた居たたまれなさと同様で、自分がこの場所に受け入れてもらえない
けれどこんなに優しい人もいるのだ。この広大な崑国で、たった一人だけでも、こんなふうに微笑みかけてくれる人がいるというだけで、自分の居たたまれなさも
朱西のような人がこの国にいてくれるというだけで、ほっとできる。
手を引かれて立ちあがると、理美はたまらなく切なくなって、朱西を見つめた。
「あの、またお目にかかれますか?」
「どうでしょうか。本来、あなたと俺は、会えるはずのない立場なのですが。なにかの
(朱西様……。会えるかしら、また……)
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