三章 白い月夜の梨苑の再会_一
泣き続けているうちに、
理美はまだ床に座りこんでいた。涙の
(ああ……朝……)
そう思ったが、ただぼんやりしていて、自分がなにをどうすればいいのか考えられない。
珠ちゃんは理美の肩の上にいて、心配そうにうずくまっていた。しかし何かの気配を察したように、急に顔をあげると肩から飛び下り、寝台の下へと
「理美様? まだ寝室ですか?」
朝の支度が
「どうしたんですか、そんなところに座りこんで」
理美は
「理美様。とにかく朝のお支度をして頂かないと、お務めに間に合いませんわよ」
(務め。わたしの、やるべきこと)
そうすると、香床を奪われて呆然としている自分が、遠い場所にいる姉斎宮に
(なんとかしないと)
その思いだけで立ちあがった。頭はほとんど動いていなかったが、それでも必死に、自らがやるべきことを考える。とにかくあの男を
「わたし……ちょっと、捜しものがあります」
「え、理美様!?」
理美は老侍女を押しのけて房を出た。老侍女は、「理美様、どこへ行くのですか」と言いながらついて来るが、無視して、ふらつく足取りで内門を抜けた。
老侍女の声を背に聞きながら、外門へと向かい、閉じられた
門の大扉は閉じていたが
見張りの若い宦官が
「なんの
「外へ出してもらえませんか? 捜しものがあります」
昨夜の男は宦官ではなかった。普通の男だとするならば、後宮の外にいるはず。しかも身なりもよく、腰に剣も佩いていた。武官のようだった。武官であれば、宮城内をくまなく探せば会える可能性はある。そのためには後宮から出るしかない。
「許可は?」
「ありません。けれど、すぐに戻りますから」
「だめです。許可のない者は、外へ出すことができません」
「なら、
「それは
若い宦官はしどろもどろで、内侍堂の方へと視線を向ける。理美は頷く。
「では、内侍省から許可をもらいます」
あの男のことを口外すれば、命がないかもしれない。なにか理由をつけて、うまく後宮から出られるように許可をもらえればいいのだ。
するとその様子を察したらしい宦官が数人、内侍堂から出てきた。
「なにをしておられる。あなたは雪宝林か」
年かさの宦官が
「理美様を
「わたしは、おかしくなんかありません。ただ外へ出て、捜したいものがあるんです」
「どんな理由にせよ、陛下の命令以外で、
宦官は
「でも、出る必要があるんです」
「お引き取りください」
「
理美は宦官と
(すこしの間でも、出られたら。ほんのすこし)
(すこしでも!)
半分真っ白な頭に衝動が入りこみ、体が動いていた。理美は若い宦官を突き飛ばし、脇門へ向けて
「放してください! わたしは、外へ!」
「大人しくなさい、雪宝林!」
「ああ、理美様! なんてだいそれたこと!」
老侍女は悲鳴をあげた。理美はもがきながら、宦官の冷静な言葉を聞いた。
「大人しくなさい、雪宝林。後宮務めを始めたお方には、よくあることですよ。嫌になって故郷や家に帰りたいと、こうやって門前で
「ちがいます、わたしは! 捜しものがあるんです!」
「とにかく、あなたはここから、陛下の許可なく出ることは
◆◆◆
「なんですか、それは。書類ですか?」
「はい。これから陛下のもとへ、この書類を届けに参ります」
「書類一枚で、わざわざ
申し出ると官吏は
「内侍省の仮牢の使用?」
それは後宮を取り仕切る内侍省からの報告で、内侍堂内の仮牢を一時使用する
どうやら妃嬪の一人が、後宮から飛び出そうとしたらしい。その妃嬪の名が記されていた。
「雪理美?」
覚えのある名だった。確か後宮入りした和国の
「あの人が」
異国からやって来たあの姫は、後宮務めのつらさに
朝議の時間。皇帝である祥飛が朝議に出席している間、彼の室は空のはずだった。
だが、室の中に秦丈鉄の姿があった。彼は室の中央に
「参ったね、こりゃ……。俺の
独り言を
「なにをしているんだ? 丈鉄。今朝は陛下と
室の出入り口に立った朱西が声をかけると、丈鉄は
「いや、なに。ちょっと
「職務
と言いながら室に
「これは和国の姫、雪理美という人が和国から持ってきたものだろう!? なんでここに!?」
手にある書類に名が記されている姫の持ちものが、こんな場所にあることに
「いや~、ちょっとした勘違いで」
「おまえの
「だから、勘違いで。後宮から持って来ちまった」
「持って来たのではなく、
後宮入りするときあの異国の姫は、絶対にこれを手放してなるものかと、
(まさか、彼女は)
内侍省からの書類に再び目を落とす。書類には雪理美が「捜しものがある」と騒ぎ立て、後宮から出ようとしたと記されている。もしや彼女は大切な壺を
「なぜ盗んだ。丈鉄」
「いや、だからな」
いつになく
(やはり。不自然だと思った)
飾り
「おい、返せよ」
「これは
「この
「おまえの目は
「その事情とやらは、俺も陛下も昔から聞いたことがない。陛下は気にしていないようだが、俺は気になるよ、丈鉄。おまえと周宰相の関係と、おまえが本当は何者なのかと」
「そんな顔するなよ。気にするほどのもんじゃないさ。とにかくこの壺は、ちょっとした俺の勘違いで持って来ちまったんだ」
「まさかとは思うが……、あれに関わることか? おまえが関わっているのか?」
「なんのことだ?」
「陛下の周囲で起こった最も
丈鉄はにっと笑う。
「まさか俺を疑うのか? そんなことして、俺になんの得がある」
「おまえが、おかしな行動をするから疑わざるを得ないだけだ。特に周宰相が
わざとらしく丈鉄は肩をすくめ、
「ひどいなぁ、泣けてくるぜ」
「おまえが泣くたまか。とにかくその壺を勘違いで持って来たなら、返して、謝ってこい」
「いやだね。
「これは、あの異国の姫にとっては大切な物だ。これを見ろ」
朱西は手にした書類を、丈鉄の胸に押しつけた。
「それを奪われた雪理美は、後宮から出ようとして仮牢に入れられている! それを取り
「だから?」
せせら笑うように言われ、朱西は
人の思いを踏みにじって平気な顔をしている父親、周
───うぬぼれるな。おまえはただ、思考の道具なのだ。
幼い
その時以来、朱西は誰かのために頭脳を使うことに嫌悪感がある。まるで自分が、思考するためだけに使われている、ただの人形のような気がして。
だから
朱西は黙って壺に蓋をし、
「どうする気だ、朱西」
「おまえが行かないなら、俺が返してくる」
「おいおい、おまえが行く必要ないだろう。宦官に預けて返させればいい。落ちてました、とか言ってな」
「自分で行く。おまえが謝らないのであれば、これを返して、代わりに俺が
そうしなければ、大切な物をわけもなく、ただの勘違いで奪われた異国の姫が気の毒すぎた。彼女はきっと無理を承知で、それでもなんとか後宮から出て、これを取り戻そうとしていたに違いないのだ。その
◆◆◆
(どんなにがんばったところで、後宮から出られるわけないのに。わたしは……馬鹿みたいなことをした)
大人しく
寝台に横になって、目を閉じる。
口の中に、何一つ味を感じられない。それが
(なにも考えられない……)
再び目を覚ましたときには、周囲は真っ暗になっていた。現実を
胸の上にかかっている
半ば無意識に、手に
月の明るい夜だったので、月明かりだけで文字が判読できた。
『今夜。
「大切なものって、きっと……」
今は何時だろうと、月の光が入ってくる角度を確認する。おそらく陰刻二つに近い。
この手紙の主は、誰かわからない。のこのこと出かけていったら、どんな目に
だが理美に迷いはなかった。なにが起こるにしろ、今よりはきっとましだ。
寝台から足をおろすと、キュウと小さな鳴き声がして、
珠ちゃんが心配そうな青い目で、理美を見あげていた。珠ちゃんは袖の先を口に
「ありがとう、珠ちゃん。でも、行かなきゃ」
珠ちゃんの背を
行ってくるねと小さく笑って手を振って、理美は小翼宮を抜け出した。
夜の後宮は
しんと静まりかえっていて、
それでも今夜は、月が明るいのが救い。
かなりの広さを
(亡霊の出る梨苑。ここに……、誰が、わたしを呼び出したの……?)
けれど引き返すつもりはなかった。くっと
すると、思いがけず美しい景色が広がっていた。
「……きれい」
目の前に広がる梨の木々。その枝先が月光を受け、白く光っている。白い梨の花の
ここが亡霊の出現する場所だということを
「来てくれましたね、雪理美」
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