三章 白い月夜の梨苑の再会_一




 泣き続けているうちに、ともしていた蠟燭はきた。そしてあさが顔を出すと、とびらすきから寝室へ、細い光がしこむ。

 理美はまだ床に座りこんでいた。涙のみが残る裳に、朝の光があたる。

(ああ……朝……)

 そう思ったが、ただぼんやりしていて、自分がなにをどうすればいいのか考えられない。

 つうならばたくをして、あさを食べ、仕事へ向かう。だがそれらの行動を、今まで自分がどうやってこなしていたのか、その手順をいつさい忘れてしまったかのように動けない。

 珠ちゃんは理美の肩の上にいて、心配そうにうずくまっていた。しかし何かの気配を察したように、急に顔をあげると肩から飛び下り、寝台の下へともぐりこんだ。すると、

「理美様? まだ寝室ですか?」

 朝の支度がおそいことにれたのか、老じよが寝室に顔を出す。そして理美の様子に目を丸くした。

「どうしたんですか、そんなところに座りこんで」

 理美はうつむいたまま、なんでもないと言う代わりに首を左右にった。

「理美様。とにかく朝のお支度をして頂かないと、お務めに間に合いませんわよ」

 こんわくする老侍女の発した、お務めの言葉に、理美はどきりとする。今まで十年間、理美はうましのみやとして務めてきたのだ。自分の務めと言われれば、それは美味宮としての務めだと聞こえる。絶望感で真っ白になった頭に、務めという言葉だけがはんきようする。

(務め。わたしの、やるべきこと)

 そうすると、香床を奪われて呆然としている自分が、遠い場所にいる姉斎宮にしつせきされる気がした。なんとかしなさいと、命じられている気もした。

(なんとかしないと)

 その思いだけで立ちあがった。頭はほとんど動いていなかったが、それでも必死に、自らがやるべきことを考える。とにかくあの男をさがすべきだ。それだけはわかった。

「わたし……ちょっと、捜しものがあります」

「え、理美様!?」

 理美は老侍女を押しのけて房を出た。老侍女は、「理美様、どこへ行くのですか」と言いながらついて来るが、無視して、ふらつく足取りで内門を抜けた。かいろうまわり、外門へと向かう。老侍女がついには「どこへ行くつもりですか!」と、悲鳴のような声をあげていた。

 老侍女の声を背に聞きながら、外門へと向かい、閉じられたもんの前で立ち止まる。

 門の大扉は閉じていたがわきもんは開いていたので、そちらへと足を向ける。

 見張りの若い宦官がげんそうにむかえる。

「なんのようですか」

「外へ出してもらえませんか? 捜しものがあります」

 昨夜の男は宦官ではなかった。普通の男だとするならば、後宮の外にいるはず。しかも身なりもよく、腰に剣も佩いていた。武官のようだった。武官であれば、宮城内をくまなく探せば会える可能性はある。そのためには後宮から出るしかない。

「許可は?」

「ありません。けれど、すぐに戻りますから」

「だめです。許可のない者は、外へ出すことができません」

「なら、だれに許可をもらえばいいんですか?」

「それはない省の……」

 若い宦官はしどろもどろで、内侍堂の方へと視線を向ける。理美は頷く。

「では、内侍省から許可をもらいます」

 あの男のことを口外すれば、命がないかもしれない。なにか理由をつけて、うまく後宮から出られるように許可をもらえればいいのだ。ちやだとはわかっていたが、け合ってみる価値くらいはあるだろう。老侍女はおろおろしている。

 するとその様子を察したらしい宦官が数人、内侍堂から出てきた。

「なにをしておられる。あなたは雪宝林か」

 年かさの宦官がろんな表情で近づいてくると、老侍女は助けを求めるように、金切り声でうつたえた。

「理美様をなだめてくださいまし。今朝から、ご様子がおかしくて」

「わたしは、おかしくなんかありません。ただ外へ出て、捜したいものがあるんです」

「どんな理由にせよ、陛下の命令以外で、ひんは後宮の外へ出られません」

 宦官はたんたんきよぜつする。

「でも、出る必要があるんです」

「お引き取りください」

いやです。わたしは、出たいんです。捜しものがあるんです。見つけないといけないんです」

 理美は宦官とにらみ合い、そして、せいこうほうではけして外へ出してもらえないと感じた。

(すこしの間でも、出られたら。ほんのすこし)

 あせりがせりあがる。まともに頭は動かないのに、しようどうばかりがつきあがってくる。

(すこしでも!)

 半分真っ白な頭に衝動が入りこみ、体が動いていた。理美は若い宦官を突き飛ばし、脇門へ向けてけた。しかしすぐに宦官たちの手がび、理美のうでかたつかむ。

「放してください! わたしは、外へ!」

「大人しくなさい、雪宝林!」

「ああ、理美様! なんてだいそれたこと!」

 老侍女は悲鳴をあげた。理美はもがきながら、宦官の冷静な言葉を聞いた。

「大人しくなさい、雪宝林。後宮務めを始めたお方には、よくあることですよ。嫌になって故郷や家に帰りたいと、こうやって門前でさわぎを起こす人は、あなただけではない」

「ちがいます、わたしは! 捜しものがあるんです!」

「とにかく、あなたはここから、陛下の許可なく出ることはかなわない。頭が冷えるまで、すこし内侍堂のかりろうでお休みください」

 かんがんたちに引きずられ、理美は内侍堂の中にある、こうのついた部屋に入れられた。



◆◆◆    



「なんですか、それは。書類ですか?」

 しきがく博士でありこうていの相談役のちゆうである周朱西は、皇帝の居室に向かうちゆうの回廊で、吏部のかんと出くわした。

「はい。これから陛下のもとへ、この書類を届けに参ります」

「書類一枚で、わざわざめんどうでしょう。俺が預かりますよ」

 申し出ると官吏はきようしゆくしながらも「助かります」と頭を下げ、帰って行った。気軽に預かった書類を手に歩き出した朱西は、書類の文面に目を落として首をかしげる。

「内侍省の仮牢の使用?」

 それは後宮を取り仕切る内侍省からの報告で、内侍堂内の仮牢を一時使用するむねが記されている。だんならそんな書類が、皇帝のもとまで回されることはない。だが牢に入るのが妃嬪の場合、事後しようだくであれ皇帝の許可が求められるのだ。

 どうやら妃嬪の一人が、後宮から飛び出そうとしたらしい。その妃嬪の名が記されていた。

「雪理美?」

 覚えのある名だった。確か後宮入りした和国のひめで、後宮入りの時、朱西は彼女に会っている。姫君にしてはめずらしく、食品を命より大事そうにいていて、後宮に持ち込みたいと訴えていた変わった姫だった。

「あの人が」

 異国からやって来たあの姫は、後宮務めのつらさにえかねたのだろうか。それはままあることで、珍しいことでない。そんなことを考えながら、皇帝の居室に近づいた。

 朝議の時間。皇帝である祥飛が朝議に出席している間、彼の室は空のはずだった。

 だが、室の中に秦丈鉄の姿があった。彼は室の中央にえられたたくの上にきのつぼを置き、そのふたを開き、中をのぞきこんで困り果てたような顔をして頭をいていた。

「参ったね、こりゃ……。俺のかんちがいか?」

 独り言をつぶやいている。

「なにをしているんだ? 丈鉄。今朝は陛下といつしよに朝議に出なかったのか」

 室の出入り口に立った朱西が声をかけると、丈鉄はまゆじりを下げる。

「いや、なに。ちょっと用があって」

「職務たいまんだな」

 と言いながら室にみこんだ朱西は、卓子の上の壺に気がついた。見覚えがある気がして、何げなく覗いて目を見開く。

「これは和国の姫、雪理美という人が和国から持ってきたものだろう!? なんでここに!?」

 手にある書類に名が記されている姫の持ちものが、こんな場所にあることにぎようてんした。

「いや~、ちょっとした勘違いで」

「おまえのわざか? どうして」

「だから、勘違いで。後宮から持って来ちまった」

「持って来たのではなく、ぬすんだんだろう!」

 後宮入りするときあの異国の姫は、絶対にこれを手放してなるものかと、せいいつぱいていこうをしていた。そんな彼女が、ほいほいと簡単に壺を手放すわけはない。

(まさか、彼女は)

 内侍省からの書類に再び目を落とす。書類には雪理美が「捜しものがある」と騒ぎ立て、後宮から出ようとしたと記されている。もしや彼女は大切な壺をうばわれたことにどうようし、取り返そうと試みて、後宮から出ようとしたのではないか。

「なぜ盗んだ。丈鉄」

「いや、だからな」

 いつになくよわごしで足を引く丈鉄にめ寄り、朱西は相手のけんへと手を伸ばす。剣のつかかざくみひもの一本を的確に摑むと、それはなぜかするりとけ、朱西の手に残った。

(やはり。不自然だと思った)

 飾りひもの中に一本だけ、白っぽい紐が交じっていたのを朱西はのがさなかったのだ。それは紙をこよりのようにねじったもので、広げると意味もなくこんれつしてある。

「おい、返せよ」

「これはちようだな? ふみの頭に「ちよく」とあるから指令だろうが。誰からの指令だ? この指令で、壺を盗んだのか」

 だまる丈鉄に、朱西はさらに問う。

「このひつせきには覚えがある。父上───周さいしようだな? なんの命令がおまえに下っているんだ。まさか陛下の身の安全にかかわることか? そもそもおまえはなぜ、周宰相の命令を受けている」

「おまえの目はせないな。まあ、いろいろと事情があってな」

「その事情とやらは、俺も陛下も昔から聞いたことがない。陛下は気にしていないようだが、俺は気になるよ、丈鉄。おまえと周宰相の関係と、おまえが本当は何者なのかと」

「そんな顔するなよ。気にするほどのもんじゃないさ。とにかくこの壺は、ちょっとした俺の勘違いで持って来ちまったんだ」

「まさかとは思うが……、に関わることか? おまえが関わっているのか?」

「なんのことだ?」

「陛下の周囲で起こった最もうれうべき異変といえば、一つしかない。りゆうだ。おまえなら簡単だったはずだ」

 丈鉄はにっと笑う。

「まさか俺を疑うのか? そんなことして、俺になんの得がある」

「おまえが、おかしな行動をするから疑わざるを得ないだけだ。特に周宰相がからんでいるとなると、なおさらだ。周宰相はどんなおもわくでどんな命令を下すか、だれにも予測できない」

 わざとらしく丈鉄は肩をすくめ、かなしげな表情を作る。

「ひどいなぁ、泣けてくるぜ」

「おまえが泣くたまか。とにかくその壺を勘違いで持って来たなら、返して、謝ってこい」

「いやだね。ちがえたからって、奪ったものをわざわざ返しにいく鹿みつたんはいないだろう」

「これは、あの異国の姫にとっては大切な物だ。これを見ろ」

 朱西は手にした書類を、丈鉄の胸に押しつけた。

「それを奪われた雪理美は、後宮から出ようとして仮牢に入れられている! それを取りもどそうと、必死になっていたにちがいない」

「だから?」

 せせら笑うように言われ、朱西はまゆをひそめる。丈鉄は時々、こんなふうに人の思いを踏みにじっても平気なところがある。朱西はそれがまんならない。

 人の思いを踏みにじって平気な顔をしている父親、周こうじんに、けんかんいだいて育ったからだ。

 ───うぬぼれるな。おまえはただ、思考の道具なのだ。

 幼いころ、愛情を確かめようとした朱西に、周宰相はれいこくに告げた。父親から愛されていることをかくにんしたいという、当たり前すぎる思いだった。うわべだけでも「可愛かわいい我が子だ」と言って欲しかった。その幼い気持ちを、宰相は平気で踏みにじった。

 その時以来、朱西は誰かのために頭脳を使うことに嫌悪感がある。まるで自分が、思考するためだけに使われている、ただの人形のような気がして。

 だからかたくなに、自らが望む食学の研究をする博士でいたいと言い続けているのだ。

 朱西は黙って壺に蓋をし、かかえた。

「どうする気だ、朱西」

「おまえが行かないなら、俺が返してくる」

「おいおい、おまえが行く必要ないだろう。宦官に預けて返させればいい。落ちてました、とか言ってな」

「自分で行く。おまえが謝らないのであれば、これを返して、代わりに俺がびを言う」

 そうしなければ、大切な物をわけもなく、ただの勘違いで奪われた異国の姫が気の毒すぎた。彼女はきっと無理を承知で、それでもなんとか後宮から出て、これを取り戻そうとしていたに違いないのだ。そのかんさにも、むくいる必要があるはずだ。



◆◆◆    



 かりろうに入れられると、理美の真っ白な頭も、ゆるゆると現状を理解した。

(どんなにがんばったところで、後宮から出られるわけないのに。わたしは……馬鹿みたいなことをした)

 大人しくうなれて座る理美を、かんがんたちもあわれに思ったのか。日が落ちる頃には仮牢から出してくれた。「二度と、馬鹿な真似まねはおよしなさい」とくぎされ、それにしようぜんうなずくと、理美はしようよくきゆうへと戻った。

 ぼうに戻ると、老じよもさすがに心配らしく、理美を支えてしんだいへ連れて行ってくれた。なにか口にするかと聞いてくれたが、なにも食べたくはなかった。どのみちなにを食べても、味などしないのだ。首を横にると、老侍女はいや一つ言わずに静かに出て行った。

 寝台に横になって、目を閉じる。

 口の中に、何一つ味を感じられない。それがむなしくてどうしようもなくて、昨日まで感じていたかおりづけの味わいすら、思い出せなくなりそうだ。

(なにも考えられない……)

 くうきよ感に、ただねむりたいと願った。珠ちゃんがこそこそと寝台の下から出てきて、理美のまくらもとに丸まってくれた。小さな生き物が理美をいたわってくれているような気配に、じんとした。「ありがとう、珠ちゃん」とささやき、そのまま眠ってしまった。

 再び目を覚ましたときには、周囲は真っ暗になっていた。現実をきよするように眠り続けていた自分をおろかだとは思うが、気力はわかず、体を起こすのもおつくうだった。

 胸の上にかかっているかけを引きあげようと手をばしたとき、紙のかんしよくが指先に当たった。

 半ば無意識に、手にれた紙をつまんだ。その小さな紙切れに文字がつづってある。

 月の明るい夜だったので、月明かりだけで文字が判読できた。

『今夜。いんのこく二つ。とうえんに来られたし。大切なものをお返しします』

 うすぐらい中で文字を確認したたんに、ばっとね起きていた。へんを両手でにぎりしめ、再度、文字を目で追う。

「大切なものって、きっと……」

 今は何時だろうと、月の光が入ってくる角度を確認する。おそらく陰刻二つに近い。

 この手紙の主は、誰かわからない。のこのこと出かけていったら、どんな目にうかわからない。なにしろ指示してある場所、東梨苑は人目がない。そこは後宮の外れにある、なしの木が広がる庭園で、ゆうれいが出るとうわさがある不気味なところなのだ。

 だが理美に迷いはなかった。なにが起こるにしろ、今よりはきっとましだ。

 寝台から足をおろすと、キュウと小さな鳴き声がして、そでを引っ張られる。

 珠ちゃんが心配そうな青い目で、理美を見あげていた。珠ちゃんは袖の先を口にくわえ、引き留めようとしている。心配しているのだろう。

「ありがとう、珠ちゃん。でも、行かなきゃ」

 珠ちゃんの背をでて安心させて、咥えている袖を放させた。

 行ってくるねと小さく笑って手を振って、理美は小翼宮を抜け出した。

 夜の後宮はこわい。

 しんと静まりかえっていて、ひとかげがまったくない。女たちはそれぞれの室に引っ込んで、ぬくぬくと過ごすのを好む。好きこのんで、暗い後宮内をうろつくのは、あらゆる理由で命を落としてうらみをつのらせた、ぼうれいくらいだ。

 それでも今夜は、月が明るいのが救い。

 かなりの広さをほこる東梨苑だったが、外周を屋根つきのかべに囲われている。もともととくの住むきゆう殿でんがあったらしいのだが、不幸な事故があり、それを機に建物を取りこわして庭園にしたという。それでもそこに住んでいた徳妃の亡霊が出ると、誰も近寄りたがらない場所だ。

 ゆうえがく半円の出入り口が、正面の壁に開いている。それを目にすると、我知らず全身がこわばった。

(亡霊の出る梨苑。ここに……、誰が、わたしを呼び出したの……?)

 けれど引き返すつもりはなかった。くっとくちびるを引きめると中にみこむ。

 すると、思いがけず美しい景色が広がっていた。

「……きれい」

 目の前に広がる梨の木々。その枝先が月光を受け、白く光っている。白い梨の花のつぼみが、月光をはじき返しているのだ。その様は、枝先にい降りた白いせいれいたちが、群れをなし、そっと静かに休息しているようだった。

 ここが亡霊の出現する場所だということをいつしゆん忘れ、みとれていた。

「来てくれましたね、雪理美」

 やわらかく静かな男の声が聞こえ、理美ははっとして周囲に目をやった。すると一本の梨の木のかげから、背の高い細身の青年が姿を現した。それを目にした理美は、息が止まるほどおどろいた。


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