二章 美貌の宦官_三





 崑国に来て、初めて宦官の存在を知った。和国には宦官が存在しないのだ。

 宦官は後宮に勤めるにあたり、男性機能を切除する。そのため男性にしては筋肉がうすく、色が白く、声が高くなる。女性ではないが男性的でもなく、独特なふんかもし出している。

 しかし今、ほのかなろうそくの明かりに照らされて目の前にいる宦官は、独特どころではない。

(美しいようのようだわ)

 座っているのでさだかではないが、手足の長さからして長身だろう。肌は、冷水にさらした絹のように白い。ひとみかみうすちやで、全体に色素が薄い。甘くわく的なぼうだ。後宮のどんな妃嬪よりもつやっぽい。

 だが彼の表情に生気はなく、ひどくつかれたような気怠さが漂っている。

 美貌におどろいていた理美だったが、その生気のなさに気がついてまゆをひそめた。

「あの……具合が悪いんですか? こんな夜に、こんな場所にいる人には見えませんけど」

 彼の身につけているしんは暗い色の絹だったが、その上質さはこうたくから見て取れた。

「君もね。女官でしょう? 厨房に出入りする人には見えないね」

「わたしは、許可をもらってます。でも話がそれてますよ。具合が悪いんですよね。人を呼んだほうが」

「構わないでいい。いつものことだから。ただ今日は、夜食を食べそこねたんだよ。さすがに少し、なにか口に入れないとまずいと思っただけで。それで目についた厨房へ来てみたものの、誰もいないし。しよくよくもわかなくてね。すこし休んでいたんだ」

(食欲がない?)

 それを聞いたたん

「何か作ります」

 条件反射で言った理美に、彼は目を丸くした。

「作るとは、料理を? 君が?」

「はい」とうなずくと、すぐさまかまどのぞきに行った。

 種火がくすぶって残っているので、簡単な料理ならば作れそうだった。

(そうだ。ちょうど冷煮霙が残っている)

 厨房の奥にある保冷用のいしむろから、煮こごり料理───冷煮霙を取り出すと、なべに入れて竈にかける。ついでに冷煮霙と並んで置かれていた、瓜の香漬も持ち出して刻む。

 薄く刻んだ香漬をかじると、口の中にふわりと酒の香が広がり、味覚がよみがえる。

 料理を作るのに、自分の舌がぼやけたままではだ。

(体調が良くなさそうだから、やさしくて口あたりのいいものを作らないと)

 思いがけず食べさせるべき人を前にして、急にわくわくする。

 とつぜん、てきぱきと動き始めた理美に、かんがんは驚いたようだった。

「本当に女官の君が作る気? いいよ、そんなことをしなくても。別に欲しくはないから」

「食べ物を探してちゆうぼうに入りこんだ方が、欲しくないと言っても説得力ないですよ? 大丈夫です。わたしが作りたいんですから、だまって見ていやがれでございます」

「……」

 美貌の宦官は首をかしげる。

「君、崑国の人間じゃないね。とすると和国の姫……雪理美か。理美、誰から崑語を習ったの?」

「和国人のつうです。もとは崑国と和国を往復する船に乗り、水夫かこをしていた」

「なるほどそれで。見ていやがれでございます、ね」

 鍋に入れたこごりが、熱でけくずれた。

 この冷煮霙には川魚を使った。くさみを消すためにしようねぎを入れて煮て、たんねん灰汁あくをすくった。そのためにえぐみは少なく、んだ上品なしるになった。味つけは塩だけ。食感と甘みを加え、見た目をはなやかにするために、春れの豆を散らしてある。

 その冷煮霙を再度温めてくずす。くつくつ煮ると、青い豆がかぶしるものになった。

 そこへ夜食の残り材料らしい、小麦粉で作った四角いうすかわ───ワンタンというらしい───を数枚入れる。

 雲吞とは読んで字のごとく。汁物の中で熱を加えると、とろりと真っ白な雲のようになり、口に入れれば、つるりと飲みこめる。そしてこの雲吞のとろみで、汁にもとろみが出る。

 仕上げにかかる。

 こくを足すために、崑国で多用される調味料、ガンジヤンをたらす。

「どうぞ、ためしてください」

 できあがった汁物をわんに注ぎ、かおりづけの小皿もえ、宦官の前に置く。

 自分も彼の前に座った。

 宦官はしばらく迷うりだったが、さじを手にすると、汁を口に運びはじめる。無言で、一匙二匙と口に入れる。上品な川魚の出汁だしに、ほんのり甘い甘醬の風味が加わって、優しい味わいになっている。汁にはとろみもあり、雲吞といつしよに、つるりとのどを通るはず。

(口に合うかしら?)

 匙を運ぶ彼の口元は、どこか官能的だ。

(こんなれいな人でも、ものを食べるんだものね。ほっとしちゃう)

 人並みにものを食うのであれば、どれほど美しかろうと天人でもせんにんでもない、人だと実感できて安心する。彼は手にした匙をはしに持ちかえると、香漬も口に入れた。

「これはなに? 甘いね」

「和国の食べ物なんです。香漬といって。甘くても、砂糖を使っていないんです。それに食べ続けていると、体の調子が整います。はだが綺麗になるんです」

「和国の食べ物は、初めて口にしたよ。良い味だね」

 彼はまた匙を手にする。

 しばらく魅惑的な口元を見つめていると、彼の匙が止まった。

 碗の汁物は綺麗になくなっていた。

 彼が、温かい息をく。真っ白だったほおに、わずかに色がさしていた。

 聞かなくとも、彼が満足したことがわかった。ほっとしてうれしくなる。

「こんなふうに、いつも具合が悪いんですか?」

「具合が悪いというほどではないよ。食欲がなくてのあたりが重いというだけ」

 味覚がおかしくなっている理美と同様に、この美貌の宦官の心も乱れているのかもしれない。

 しかし汁物を平らげた彼の雰囲気は、さっきよりも格段に柔らかい。しるものいつぱいで、これほど身にまとう空気が変わる。ならば毎日おいしいものを食べれば、彼の心の乱れもやわらぎ、しよくよくしんも改善しそうだ。

 彼の変化が嬉しかった。

「こんなものでよければ、いつでも作ります。わたしを呼んでください」

めずらしいことを言ってくれる」

「珍しいですか?」

「とてもね、珍しいよ。お礼をしないとね。なにか欲しいものはある?」

「別にないです。ただ、なにか食べたいと思った時に、わたしを呼んでくれたらいいです」

 宦官は不思議なものを見つけたように理美を見つめ、その後、微笑した。美しい微笑だった。

可愛かわいいことを言うね、君。いいよ。ではこれから先、もし君に必要なことがあれば、わたしがなんでもかなえてあげる」

「なんでもって。あの……? そもそもあなた、だれなんですか?」

 あまりに自信ありげな言葉に、この宦官の身分が気になった。なんでも思うままに物事を動かせるような、とんでもなく高位の宦官なのだろうか。

「わたし?」

 悪戯いたずらっぽく微笑むと、彼はたくしに理美の耳にくちびるを近づけ、甘くささやいた。

ないしよ

「ひゃっ!」

 のけぞった理美に、彼はさらに目を細める。そして席を立ち、いんまぎれこむように厨房から出て行った。

 理美は彼のいきれた耳たぶを、しきりに引っ張った。あげちようかなにかが耳たぶに止まったみたいに、むずむずする。彼のいろは強すぎる。理美にはじようようえんさだ。



◆◆◆



 しかしあれきり、ぼうの宦官は姿を現さなかった。

 理美は、あの宦官の体調が心配だった。彼はきっと、理美に出会った夜と同じように、ろくな食事をしていないだろう。

(あの人、食べに来てくれればいいのになぁ)

 と、毎夜のように厨房に行きつつ考えていた。

 その夜も理美は厨房で食材を物色し、はるうりかかえて自分のぼうに帰ってきた。春瓜を居室に置くと、明かりの落ちた暗いしんしつに向かった。月のない暗い夜だったので、ろうそくたよりない明かりをしんだいかたわらに置き、帯を解こうとした時だった。

(あれ? 珠ちゃんがいない)

 いつもなら、寝台の上で丸くなってねむっているはずの珠ちゃんの姿がない。どこかにかくれているのだろうが、珠ちゃんが姿を隠すのは、室内に理美以外の人間がいるときだけだ。

「……まさか、ねぇ……」

 そう口にした時だった。背後のくらやみから、ひやりとする気配がせまった。びくりとしてふり返ろうとしたが、その前に、大きな手が理美のかたつかんでいた。

「よお、女官殿どの。こんばんは」

 低い男の声に、全身がこわばる。ここは後宮。宦官以外の男がいるはずはないのに、背後の気配は明らかに宦官たちとはちがう。がっちりとした、男らしいあつかんをひしひしと感じるのだ。

「……誰?」

「誰でもいいさ。あんたに用があってな。あんたの大切なものを、出してもらっていいかい?」

 理美がゆいいつ大切にしているものとなると、香漬を作るかおりどこつぼだ。ほかの持ちものは後宮に入ってから用意されたものだ。理美だけが持っているとくしゆなものは、香床しかない。

「い、いやです。それだけは」

「いい子で出してくれれば、こわい思いはさせないさ。でもいい子じゃなけりゃ、俺はあんたになにかしなきゃならないぜ? なぁ、女官殿。細い首だな。片手で折れそうだぜ」

 男の片手がすいと動いて、理美の首を軽く摑む。首に触れる冷たくかたい指のかんしよくに、一気にきようがわきあがる。理美は泣きそうになりながらも、うなずくしかなかった。

「いい子だ。さあ、どこだ。大人しく出せ」

 理美はそろそろと歩み、寝台の傍らに置いてある壺を手にした。男が、しんげに問う。

「そのなかにいるんだな」

 軽く背後からき飛ばされ、よろけた。そのすきに前に回ってきた男が、理美の手から壺をうばい取った。そのままゆかたおれこんだ理美がはっと見あげると、れる蠟燭の明かりの中に、ほのかに見える男の姿。

 顔はよくわからないが、がんけんそうな筋肉質の体と、こしはばひろけんおそろしかった。

「このことは忘れてくれ。これをわたしてくれさえすれば、文句はないんだ」

「どうして……? なぜ、それを……? あなた、誰……」

せんさくはなしだ。いいか。このことは口外するな。忘れてくれよ、雪理美。そうでなけりゃ、俺はあんたの口をふうじに来るぜ」

 それだけ言うと、彼は暗闇にけるように音もなく室から出て行った。その様があまりにもあざやかだったので、まぼろしを見たのかと思ったほどにしばらぼうぜんとしていた。

 そしてそのうちに、じわりとなみだがあふれてきた。

「香床が……」

 あれがなくなれば香漬を作れない。今の理美は香漬を口にしないと、味覚がもどらないのだ。

 味覚が戻らなければひやみぞれも作れない。

 あの顔色の悪いかんがんがやって来ても、料理を作ってあげることもできない。

 この先、このままの状態であれば、料理を味わうどころか、作ることもできない。

 理美の唯一のわざが、奪われたに等しいのだ。

 あの男が何者か、そしてなんの目的で香床を奪ったのか。そんなことを考えるゆうすらない。

 ただ香床が奪われたそうしつかんで、頭も体もいっぱいになってしまう。

 ぽたぽたとの上に涙が落ちる。すると寝台の下から、キュウキュウと小さな鳴き声がして、珠ちゃんが出てきた。珠ちゃんはづかうように理美の肩に乗り、耳元で小さく鳴き続ける。まるでなぐさめてくれているようだった。しかし涙は止まらなかった。

(……どうすればいいの?……さいぐう様)

 理美を支える柱が、とつぜん、引っこかれてしまったのだ。

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