二章 美貌の宦官_二




「聞きましたよ、陛下」

 でんそうしよくされたしんだいで、崑国皇帝、龍祥飛はけんみがいていた。

 皇帝のしんしつに踏みこんできたのは、食学博士の周朱西だ。彼は寝台にいる祥飛に近づくと、わずかにとがめる口調で告げたのだ。

 燭台のほのおを映してぎらつく刃から目をそらさず、祥飛はげんな声で答える。

「何を聞いたというんだ」

「後宮で貴妃をいじめたそうですね。その結果、こうやってひとですか」

「いじめたわけではない。あのほうが異国の者がどうのこうのと言うから、教育しただけだ」

「後宮入りした異国のひめかばわれたのですか? 珍しい」

「庇ったわけではない。後宮にいさかいを起こしそうな阿呆に、腹が立っただけだ」

「阿呆阿呆と……。その阿呆は、あなた様のきさきですよ」

 朱西はためいきをつく。すると窓辺から、けらけらと笑い声が起こる。

「いいじゃないか、朱西。阿呆は阿呆だぜ」

 寝室の窓辺に足をかけ、ぎよう悪く座りこんでいるのは秦丈鉄だ。

「おまえのことも聞いたぞ、丈鉄。陛下といつしよになって、宋貴妃の舌を切ると言ったそうだな」

「心外だなぁ、俺は陛下をお止め申し上げたんだぜ」

「宋貴妃の舌を切ると言うことで?」

「俺が代わりにやると言えば、陛下は興ざめしてやる気をなくすのはわかっていたからな」

「陛下といい、丈鉄といい……」

 頭痛がしそうだと、朱西はぼやいた。

 秦丈鉄も朱西と同様、幼い頃から祥飛に仕えている。


 今の彼の身分は禁軍にせきを置くしようである。だが皇帝の護衛の勅任武官として、組織には所属せず、常に祥飛と行動を共にしている。

 丈鉄は、祥飛がまだ七つかそこらの時、先代皇帝と周宰相のはからいで祥飛の護衛となった。彼がどこの何者か、祥飛にも朱西にも知らされなかったが、当時、十四、五歳だったはずの彼は、その若さで相当なれだった。ただ者ではないのだけは、よくわかった。そして先代皇帝がなくなった今、彼のじようを知るのは、周宰相と丈鉄本人だけである。

 丈鉄は今、おおやけの身分を持っている。だが幼い頃から祥飛の護衛として彼の周囲に気を配っていたために、祥飛が直接使うみつたんの性質が強い。

 気心が知れているので祥飛に対して遠慮がなく、同時に、悪友気分がけないらしい。丈鉄は祥飛に、皇帝らしいいをさせようという気がないのだ。

(困ったものだ。陛下はまだ、女性に興味がないとしごろなのだろうか)

 そう思ったが、おのれのことをかえりみて不安にもなる。朱西は昨年二十歳はたちになり、周囲からは妻をめとれとせっつかれている。だが、まったくそんな気にならない。

 そもそも朱西は、女であれ男であれ、だれに対してもこいごころらしきものをいだいたことがない。

(陛下が俺と似た性質であれば、困った事だ。陛下にはおぎを作る義務がある)

 そこでふと、食学博士のさがが顔を出す。

れんあい体質になる食べ物というのは、存在するのだろうか?)

 こんなことばかり考えているから恋愛に向かないのだと、そこはかとなく自覚していた。

 しかし自覚していても、性質が治るわけでもなく。彼に対して女たちが使う色目に気がつかない。色目どころか、はんが目の前でおどくるっていても、まずその踊りの様式に興味を抱き、れつじようは三歩おくれてついてくるような男だった。

 食学博士の周朱西は、朝廷内で恋知らずの博士と呼ばれている。

「それに陛下。夜食もし上がっていませんね」

 たくに置かれた酒器と点心のうつわに目をやる。

「欲しくない。下げさせろ」

「この夜食は陛下の心身に必要なものと、俺が選んだんです。召し上がってください」

 きつく言われると、祥飛は剣を寝台に置き、しぶしぶの様子で卓子についた。

 はしを手にする祥飛を見おろし、朱西はたんたんと告げる。

「明日の夜食は、性欲が増す食べ物を用意しましょう」

 丈鉄がぶっとき出し、祥飛はむせた。祥飛はあわてて酒でのどうるおすと、じろりとにらむ。

「なぜそうなる」

「性欲が増せば、阿呆ととうしている妃のもとへも行きたくなるでしょう」

「それはなかなか名案だな! 朱西」

 丈鉄が、まんの限界のようでばくしようする。祥飛は目をつり上げた。

「なるか! おまえはなぜ、そういうずかしいことを平気で口にするんだ」

「恥ずかしいですか? 人がつうに持ち合わせている欲求で、食欲やすいみんよくと同じです」

 その手のしゆうしんが、朱西には理解不能だ。

「ああ、わかった、わかった。とにかく必要ない。しかもそんな食べ物があるとは思えん」

「あります。つい先頃、自分で実証しました。そこそこ効果はあります」

「で、実証したおまえは、女のもとへしのんで行ったか? 恋知らずのおまえが」

「いいえ。忍んで行ける女性が思いあたらず、新たに探すのも口説くのも面倒でしたので、その気力でてつで書き物をしました」

 朱西と祥飛の会話に、丈鉄は声を殺して笑っている。

「ならば余もおまえと同様、書き物をするだけだ。それはそうと朱西。行方ゆくえは?」

 手にした箸で点心をつつきながら、なにげなく祥飛が問う。気にしていないふうによそおっていたが、祥飛はそくしてからずっと、そのことを気にんでいる。それは気に病んで当然のことだ。

 今まで笑っていたはずの丈鉄の目にも、いつしゆん、期待するようなするどい光が走る。

 しかし朱西は、祥飛を安心させる情報は何一つ持っていなかった。首を横に振る。

「手がかりは、なにも」

「……そうか」

 祥飛の声は、低くしずんだ。

「まあ、そう簡単には見つかりっこないな。気長にいきましょうや、陛下」

 丈鉄の軽口にうなずきつつ、祥飛はおもむろに、点心のかたわらにえてあったシンツーヨウと呼ばれるげきから調味料を、点心にどっとかけた。

 朱西はぎょっとし、「陛下!」と注意したが、祥飛はそのままぱくりと点心を口に入れ平然としやくする。

からくありませんか? 陛下」

「このくらいしないと、味らしい味がしない」



◆◆◆

    


「可愛いなぁ、たまちゃん」

 理美はうっとり、卓子の上でかおりづけかじる銀毛のねずみを見つめる。夜中のちゆうぼうで見つけた銀の鼠は、このひと月の間に、理美のあいがん動物として確固たる地位を確立していた。

 厨房責任者のかんがんには「厨房で銀色の鼠を拾ったが、飼っていいか」と相談した。

 すると宦官は「鼠でもありでもかえるでも、好きなように飼ってください」と言ったので、大手を振って飼っていた。

 珠ちゃんのは細く、小鳥のようにたよりない。四本足には五本の小さなつめがあり、右前足の爪は内側に曲がっていた。その爪に巻きこまれて、しんじゆつぶのようなものが見える。成長の過程でぐうぜん、珠を巻きこんで爪が生えてしまったようで、珠は取れそうもなかった。

 この珠にちなんで、名は珠ちゃんとしたのだ。

 珠ちゃんが食べている皿とは別に、青磁の皿があり、そこにはふるふるとしたかたまりが盛られていた。一口大に四角く切られた、はんとうめいの寒天状のものだ。そのなかには緑色の小さな豆が散っている。ける緑は、春らしい愛らしさだ。

 この半透明の塊の正体は和国の料理、ひやみぞれという。魚の煮こごりなのだ。

 口に入れればほんのりと魚の風味としようの香がたち、体温に反応し、舌の上でとろりとなる。軽くめばさわやかな春豆がほろりとくずれ、食感が楽しめる。

 味覚はまだ、完全にはもどっていない。

 けれど香漬を口にした後の数刻だけは、きちんと味を感じられる。

 だから香漬を口にして、味覚が戻ったわずかの時間で冷煮霙も作った。

 不思議と、和国の慣れた味であれば、香漬を齧らなくても味を感じる。なので自分の手料理だけは、味わって楽しめるのだ。

 後宮に入り、理美は女官として仕事をあたえられた。所属のしようが決められ、毎日決まった時間に、持ち場に向かうことが義務になった。

 しかしまだまだ不慣れで、仕事を覚えるのがやっと。じやものあつかいされ、午後にはしようよくきゆうに戻っていることも多い。

「役立たず!」と追い返された午後、理美は珠ちゃんとお茶を飲む。

 後宮入り初日から厨房に顔を出したおかげで、厨房の下働きの女たちや宦官と顔見知りになった。だから彼らにお願いして材料をわけてもらい、簡単な料理を作ることができた。

 和国の料理は、珠ちゃんの元気を回復させた。

 珠ちゃんは理美の作る香漬をよく食べる。食べれば食べるほど、元気になる。

 その時、数人の女官がかいろうを歩いてくる姿が見えた。彼女らは何事かこわだかしやべりながら歩いていたが、理美のぼうの前に来ると、

「おお、このあたりは、なんだか空気がよどんでる」

ばんな気配がするわ」

「いやいや、はやく行きましょう。こわい」

 と、はしゃいで通り過ぎていく。

(相変わらずだな~)

 宋貴妃はこうてい祥飛に、いさかいを起こすなとくぎされたが、それは逆効果だった。宋貴妃は理美のせいで祥飛の不興を買ったと、さかうらみしたらしい。

 宋貴妃のにくしみは自然と周囲にえいきようし、後宮内に、異国のひめさげすむ空気がただよっていた。

 しかし「彼女のはだはなぜか美しい」、「雪理美はタヌキ顔のくせに、肌だけは美しくてくやしい」とささやく声も聞く。

 理美の肌が美しいのは、生まれもった肌質ばかりが原因ではない。長年、肌に良いものを食べるかんきようにいたからだ。香漬もそうだが、この冷煮霙も肌には良い料理。

 肌に良いとされる料理を、姉さいぐうが好んだ。そのため理美は、それらの料理は何種も作り、毎日のように提供していたのだ。そして残り物は理美の口に入っていた。

 理美は今、香漬を口にしないと味を感じられない状態だ。そのうえられた仕事でも常に四苦八苦。仕事に向かうと、いつも慌ててあせっている。それがさらにヘマにつながっている。そう感じるから、少しでも自分のきんちようやわらげる香漬は必要だった。

 だからその日の夜も、理美は香漬の材料を探しに厨房へ向かった。

 厨房の人々と仲良くなってからは、食材も道具も燃料も、自由に使っていいと許可をもらっている。

(魚の香漬もおいしいのよね。皮目を焼くと、甘いこうばしさが口の中に広がって、まろやかなうまみがあって。身も、しっとりして。白身のお魚があればいいな。でもとりあえずは、定番のはるうりを)

 食材を求めていそいそと、しよくだいを手に厨房へ入った。

 そのしゆんかん、ぎょっとして立ち止まる。

(人がいる!?)

 真っ暗な厨房のすみに、小さなたくがある。厨房の人間が仕事の合間に食事をとるための卓子だが、そこにせて、だれかがぐったりと座っている。服装からすると宦官らしい。

 理美の気配にも、彼はぴくりともしないので、おそるおそる近づいてみる。

「あの、もしもし。死体ですか?」

 生きているか、だいじようかと問いかけたつもりだった。

 すると死体もどきの宦官が、顔を伏せたままぷっと笑う。

「死体ではないよ。まだね」

 やわらかな声とともにたいそうに彼は顔をあげ、ほつれたまえがみをかきあげた。

(わぁ……なに……この人……)

 だるげな宦官の姿に、目をみはる。

(なんて………ようえん……)

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