二章 美貌の宦官_一
「う~ん、なるほど」
皇帝が初めて後宮の妃嬪たちの前に現れた、その日の夕暮れ。
理美の室に、一枚の紙切れが投げこまれた。
その紙には見慣れない単語が並んでいた。そこで、和国の
「『異国からやってきた下賤の女め。
読解できたが、達成感半分、がっかり感半分だ。
使われている単語は、
通詞は、なかなか機転の
崑国の後宮がどんなものか、通詞は聞き知っていたに
後宮でどんなことが起こるか、理美も事前に、あれこれ予想はしていた。そして、ほぼ想像どおりのことが
百二十人もの妃嬪がいるとはいえ、和国の
宋貴妃にとっても、紙切れを投げこんだ誰かさんにとっても。理美は、手っ取り早く引き合いに出したり、安全に
「ものすごく独創的な意地悪をされるのも、それはそれで困るんだけど」
先刻、老
一口、二口。口に運んでみる。しかし理美はすぐに箸を置き、
「やっぱり、味がしない……。これ、おいしいのかなぁ……わからない……」
まったく味がわからない。それはこの皿のみならず、後宮に入ってからずっと、どんな料理を食べても味がしないのだ。味覚がおかしい。
心細さや
(
崑国料理がどんなものか楽しみにしていたのに、味がわからなければ、楽しみもへったくれもない。しかも味覚を失えば、理美の
「まあ……料理を食べてくれる人は、いないんだけど……」
遠い異国に一人きりの
「わたしは、また居場所がなくなっちゃったわね。ここには、『おいしい』って言ってくれる斎宮様が居ないもの」
こうやって和語を口にすることすら
(だめだ。楽しまないと……。そうだ、あれ。そろそろ、いい感じかも)
心の
味覚がおかしいと自覚した三日前の夜、理美はあることを試みていた。
寝室の
「うん。まろやかで、いい
わずかに水分が
理美はそれを紙にくるむと、足取りも軽く
薄く刻んだ翡翠色の瓜を白磁の
並んだ料理の皿を押しやって、白磁の皿から瓜をひとつまみして口に入れた。
ほんのりと酒の香がし、甘く感じる。そりそりとした軽い歯ごたえが
「これは味がする」
驚きに何度か
なにを口にしても味がしないこの時、この味わいを感じることで心が
食べることが好きだ。とりあえずお
「あ、もしかして」
思いついて、崑国の料理にも手を
(完全に味がわかるって
そんな予感がして、すこし安心した。
今は、理美の料理を食べてくれる人は
料理さえ作れれば、七歳の時だって理美は居場所を見つけられたのだ。
崑国でも、いつか居場所を見つけられるはず。そう思えるのは、
その真っ
いつか料理を食べてくれる人、「おいしい」と言ってくれる人が現れた時に、味覚が戻っていなければお話にならない。理美には味覚は絶対に必要なのだ。
そのために香漬が役に立ってくれる。
後宮入りした日、
(会いたいな、あの方に)
名前も知らないあの青年が、なんとなく
「夜食を食べないのなら、下げますわよ」
老侍女が室に入ってくると、つんけんしながら皿に手を伸ばす。そして理美の手元にある白磁の皿に気がつき、毛虫でも見つけたような顔をした。
「なんでございますか、それは」
「食べない? わたしが作ったの。そこの壺で作ったのよ」
「おお、いやだ。
「でも許可をもらったもの。食べないのは残念ね。これを食べていると、
「えっ!?」
老侍女が思わず手を出しそうになるが、その前に理美は、残りの瓜を口に入れてしまっていた。「あ、ごめん」と謝ったが、老侍女は
「確かに。理美様は……肌だけは美しいですが。でも、そんなものを食べたからといって、肌が綺麗になるものですか」
理美の
香漬を食べると肌が綺麗になる。
香床の中には、体の中を綺麗にする
「壺を
「こ、殺す!?」
「殺す、じゃなかった? あれ? ぶちかます、だった……?」
壊したらちょっと許せないと言いたかったのだが、
「そんな
理美は、老侍女の言葉に飛びあがった。席を立ち、勢いこんで問う。
「ねぇ、今! 何か言った!」
「捨てませんと申しましたけれど」
「
「朱西様ですか?」
「そう、その方。名を教えて! 何者!?」
それは
「
「周朱西様というのね。何者、そのお方」
「
「食学? それはなに?」
「
「食べ物の学問! そんな学問があるの!? しかも朱西様はその博士!?」
驚きに、声が
理美の様子に老侍女は何かを察したらしく、意地悪な目になる。
「朱西様は
「皇帝陛下のご相談役? でも食学博士と」
「朱西様は政治に興味がないと固辞され、食学の研究をしたいと
(とても身分の高い方なんだなぁ……。でも、会いたい)
胸に
◆◆◆
(食学博士の周朱西様……)
その日の真夜中。
香漬を口にすると、微かな味覚が戻った。この調子で香漬を毎日食べられれば、きっと理美の味覚は元に戻るはずだ。だから香漬をもっと
厨房に行ってみると、時間が
どうしたものかと出入り口から中を
ふり返ると、
燭台をかざして理美の顔を認めると、宦官は目を丸くする。そこで野菜をわけて欲しいとお願いした。彼は、あれこれ注意するのも
許可をもらえた理美は
厨房の奥に、人一人が入れるほど大きな竹
柱にくりぬかれた燭台置き場に燭台を置き、竹籠の
体を竹籠に突っ
暗がりで
さらに物色を続けていると、ふにゃりとして、ふかふかしたものを
(ふにゃ? ……ふかふか……?)
それは両
(どう見ても野菜じゃないわ、これ。胴長の……
こんな感じで胴長の、異国の犬の絵は見たことがある。しかし犬にしては小さいし、毛色も銀色で毛足が長い。野菜籠の中にいたのだから、崑国に生息する
くったりしている背中を
すると鼠がキュッと鳴いて、目を開く。
鼠はまん丸な青い目をぱちぱちさせると、理美の顔を見あげる。
つぶらな
(やだ、
可愛がって元気にして、自由にしてあげようと思った。こんな可愛らしい鼠をお世話すれば、それだけで生活の張り合いになるだろう。
たった一輪。頼りない異国の草花が、この後宮に送られたのだ。
ここでは、同じ色で
しかし。ひっそりと咲く草花でも、草花なりの楽しみも
理美は春瓜と銀色の鼠を
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