二章 美貌の宦官_一





「う~ん、なるほど」

 皇帝が初めて後宮の妃嬪たちの前に現れた、その日の夕暮れ。

 理美の室に、一枚の紙切れが投げこまれた。

 その紙には見慣れない単語が並んでいた。そこで、和国のつうが持たせてくれたお手製の単語ちようをめくり、読解にはげむことしばし。やっと紙に書かれている内容がわかった。

「『異国からやってきた下賤の女め。けがらわしい商売女め。おまえなんか陛下の神聖なけんで、たたきられるのが相応ふさわしい末路だ』と。だいたい、こんな意味なのね」

 読解できたが、達成感半分、がっかり感半分だ。

 使われている単語は、きたなぞくばかり。ちゃんとした崑語の本にはっていないので、和国の通詞が持たせてくれたお手製単語帖が役立った。

 通詞は、なかなか機転のく人だったらしい。この単語帖を理美にわたすとき、「きっと役に立ちますよ」と言っていたのだ。

 崑国の後宮がどんなものか、通詞は聞き知っていたにちがいない。

 後宮でどんなことが起こるか、理美も事前に、あれこれ予想はしていた。そして、ほぼ想像どおりのことがひんぱつしている。

 百二十人もの妃嬪がいるとはいえ、和国のひめだとうわさばなしの種にされれば嫌でも目立つ。しかも和国から来た理美には、めんどうな後ろだてがないことは明らかで、位はほうりんという女官。

 宋貴妃にとっても、紙切れを投げこんだ誰かさんにとっても。理美は、手っ取り早く引き合いに出したり、安全にさ晴らしできる、格好の標的らしい。

 かごの鳥経験が長い理美は、嫌がらせされるにしても、新発見や意外性があればおもしろがれそうだとは思う。しかし今のところ意外性はかいだ。

「ものすごく独創的な意地悪をされるのも、それはそれで困るんだけど」

 ろうそくの火にかざして紙を燃やすと、づくえから立ちあがりたくの席に着く。

 先刻、老じよが置いていった夜食が、卓子の上でふわりと湯気を立てている。はしを手に取ると、野菜と肉をいためあわせ、とろりとした甘っぱいかおりあんからめてある料理に手をつけた。

 一口、二口。口に運んでみる。しかし理美はすぐに箸を置き、ためいきをつく。

「やっぱり、味がしない……。これ、おいしいのかなぁ……わからない……」

 まったく味がわからない。それはこの皿のみならず、後宮に入ってからずっと、どんな料理を食べても味がしないのだ。味覚がおかしい。

 心細さやきんちよう、不安はほとんど自覚していなかった。そんなものが顔を出しそうになると、意識的に追い出した。だがそれでも、やはり人並みにそれらは胸に奥にまっていて、味覚がおかしくなったのだろうか。

さいぐう様に「緊張感がないっ!」ておこられ続けていたわたしでも、こんなことになるなんて)

 崑国料理がどんなものか楽しみにしていたのに、味がわからなければ、楽しみもへったくれもない。しかも味覚を失えば、理美のゆいいつの取り、料理を作ることすらままならない。

「まあ……料理を食べてくれる人は、いないんだけど……」

 遠い異国に一人きりのさびしさと、自分が座っている場所のごこの悪さにたんそくした。座っているも、室も、どことなくよそよそしく、理美を受け入れていない気がしてしまう。

「わたしは、また居場所がなくなっちゃったわね。ここには、『おいしい』って言ってくれる斎宮様が居ないもの」

 こうやって和語を口にすることすらひかえていても、すぐに崑国人にはなれない。

(だめだ。楽しまないと……。そうだ、あれ。そろそろ、いい感じかも)

 心のすきしのび寄ってくるものを追い散らし、箸を置いて席を立つ。しんしつへ向かう。

 味覚がおかしいと自覚した三日前の夜、理美はあることを試みていた。

 寝室のすみに置いてある小さなつぼを引っ張り出す。それは理美と共に後宮入りした、かおりどこの入ったきの壺だ。ふたを開くと、ふわりとかおる、甘くほうじゆんな酒の香。

「うん。まろやかで、いいにおい」

 むねいつぱいにその香を吸い込むと、壺の中に指をっ込み中をさぐる。とろりとした白くつやのある床からつまみ出したのは、半分に割られた小さなうりだ。

 わずかに水分がけているが、うすみどり色の、上質なすい色は健在だ。

 理美はそれを紙にくるむと、足取りも軽くちゆうぼうへ向かう。

 とつぜん現れた理美に、厨房の下働きたちはおどろいた様子だった。高位女官はつう、厨房に顔を出したりしない。しかし理美が、「瓜をうすく刻んで欲しい」とていねいたのむと、快く引き受け、ぎわよく刻んでくれた。

 薄く刻んだ翡翠色の瓜を白磁のざらにのせ、自分のぼうへともどる。

 並んだ料理の皿を押しやって、白磁の皿から瓜をひとつまみして口に入れた。

 ほんのりと酒の香がし、甘く感じる。そりそりとした軽い歯ごたえがなつかしい。

 白湯さゆを飲むと、こくりとのどを通り過ぎるしゆんかんに良い香がして、白湯すらおいしく感じた。

「これは味がする」

 驚きに何度かまばたきした。そしてほっと笑い、もう一つ口に入れる。

 なにを口にしても味がしないこの時、この味わいを感じることで心がいでいく。

 食べることが好きだ。とりあえずおなかがいっぱいであれば、理美はどんなみじめなじようきようでも、自分を惨めと思わないですむ。お腹がふくれてさえいれば、ふくふくと体の中から温かい力は自然とわくのだ。生き物とはそういうものだ。

「あ、もしかして」

 思いついて、崑国の料理にも手をばしてみた。するとかすかに塩気を感じる。

(完全に味がわかるってほどではないけど、かおりづけを食べれば、すこし味覚が戻るみたい。きっと毎日香漬を食べてれば、そのうち、ちゃんと味がわかるようになるかも)

 そんな予感がして、すこし安心した。

 今は、理美の料理を食べてくれる人はだれもいない。けれど味覚さえ戻って、料理を作ることができれば悲観しなくていい。

 料理さえ作れれば、七歳の時だって理美は居場所を見つけられたのだ。

 崑国でも、いつか居場所を見つけられるはず。そう思えるのは、うましのみやとして十年もの時間をかけて立ちあげた、理美自身を支える柱があるから。

 その真っぐな柱があるからこそ、理美は落ち着いていられる。

 いつか料理を食べてくれる人、「おいしい」と言ってくれる人が現れた時に、味覚が戻っていなければお話にならない。理美には味覚は絶対に必要なのだ。

 そのために香漬が役に立ってくれる。

 後宮入りした日、やさしい言葉をかけてくれたあの青年に、心の底から感謝の念がわく。彼のおかげで香床を手放さずにすんだのだ。しかも崑国に来て、優しい言葉を聞かせてくれたのは、いまだに彼一人だ。

(会いたいな、あの方に)

 名前も知らないあの青年が、なんとなくこいしい。

「夜食を食べないのなら、下げますわよ」

 老侍女が室に入ってくると、つんけんしながら皿に手を伸ばす。そして理美の手元にある白磁の皿に気がつき、毛虫でも見つけたような顔をした。

「なんでございますか、それは」

「食べない? わたしが作ったの。そこの壺で作ったのよ」

「おお、いやだ。うわさに聞いていますとも。理美様は後宮入りされる際、得体のしれない壺を持ち込もうとして、宦官たちを怒らせたと」

「でも許可をもらったもの。食べないのは残念ね。これを食べていると、はだれいになるのに」

「えっ!?」

 老侍女が思わず手を出しそうになるが、その前に理美は、残りの瓜を口に入れてしまっていた。「あ、ごめん」と謝ったが、老侍女はうらめしそうな目で、じっとり理美を見やる。

「確かに。理美様は……肌だけは美しいですが。でも、そんなものを食べたからといって、肌が綺麗になるものですか」

 理美のせいは雪をあたえられている。聞くところによると雪という姓は、理美の肌の白さからつけたらしいのだ。確かに理美の肌は美しい。ほおれると、さらりとしているのに吸いつくようなきめの細かさがあり、やわらかくなめらかなもちのようだ。

 香漬を食べると肌が綺麗になる。

 香床の中には、体の中を綺麗にするせいれいが住んでいると言われている。精霊が体の中を綺麗にし、じよじよに肌が美しくなる。その精霊は火の気をきらい、香床を熱すると消えてしまう。

「壺をこわさないでね。壊したら、ちょっと殺すから」

「こ、殺す!?」

「殺す、じゃなかった? あれ? ぶちかます、だった……?」

 壊したらちょっと許せないと言いたかったのだが、ちがったらしい。

「そんなぶつそうなこと言わなくても、よろしいですよ。まあ、しゆ西せい様のおくちえで持ち込まれたものと聞いていますから。捨てたりはしません」

 理美は、老侍女の言葉に飛びあがった。席を立ち、勢いこんで問う。

「ねぇ、今! 何か言った!」

「捨てませんと申しましたけれど」

ちがう、違う! 口添えと。口添え? 誰の口添え? 名を言ったわ!」

「朱西様ですか?」

「そう、その方。名を教えて! 何者!?」

 それはかんがんが教えてくれなかった、あの青年の名に違いない。

しゆう朱西様のことをぞんなかったのですか。あきれましたね、口添え頂いておきながら」

「周朱西様というのね。何者、そのお方」

れい配下のに所属しておいでのちよくにんかんで、しきがく博士ですわよ」

「食学? それはなに?」

さきごろおこった、食べ物に関する学問ですよ」

「食べ物の学問! そんな学問があるの!? しかも朱西様はその博士!?」

 驚きに、声がさんだんびにねる。

 理美の様子に老侍女は何かを察したらしく、意地悪な目になる。

「朱西様はしようよんぴんろうたいぐうのご身分ですよ。しかもこうてい陛下の幼きころよりの勉強と遊びのお相手で、今も陛下のお近くでちゆうとして相談役をされています。父君はせんていよりちようていにお仕えしている、周さいしようですからね。朱西様もいずれ宰相となられるお方です。理美様がそんな顔をされても、お目にかかれる方じゃございません」

「皇帝陛下のご相談役? でも食学博士と」

「朱西様は政治に興味がないと固辞され、食学の研究をしたいとおつしやるので、博士の身分でいらっしゃいます。ですが陛下は、いずれ朱西様を宰相にえる腹づもりだと、もっぱらの噂です」

(とても身分の高い方なんだなぁ……。でも、会いたい)

 胸にともった小さな明かりをいとおしむように、そう思った。



◆◆◆



(食学博士の周朱西様……)

 その日の真夜中。しよくだいを手にした理美は、朱西のことを考えながら厨房へ向かっていた。

 香漬を口にすると、微かな味覚が戻った。この調子で香漬を毎日食べられれば、きっと理美の味覚は元に戻るはずだ。だから香漬をもっとけておきたかった。

 厨房に行ってみると、時間がおそすぎたらしい。ひとけも火の気もなくなっていた。

 どうしたものかと出入り口から中をのぞいていると、背後からかんだかい男の声で「なにをしている」と呼ばれた。

 ふり返ると、ちゆうぼう責任者を務める宦官らしかった。

 燭台をかざして理美の顔を認めると、宦官は目を丸くする。そこで野菜をわけて欲しいとお願いした。彼は、あれこれ注意するのもめんどうだと思ったのか、かたをすくめ呆れた様子で「どうぞ、お好きに」と答え、行ってしまう。

 許可をもらえた理美はえんりよなく、ひんやりした土間の厨房へとみこんだ。

 厨房の奥に、人一人が入れるほど大きな竹かごがあり、その中に野菜が入っているはずだった。燭台で足元を照らしながら進む。

 柱にくりぬかれた燭台置き場に燭台を置き、竹籠のふたを開く。

 はるうりと呼ばれるすい色の小ぶりな瓜が、香漬にはもってこいだ。

 体を竹籠に突っみ、ごそごそ、ごそごそ、野菜を引っき回していた。

 暗がりでかんしよくだけをたよりに竹籠の中を引っ搔き回し、春瓜を三つほど見つけて取り出す。

 さらに物色を続けていると、ふにゃりとして、ふかふかしたものをつかんだ。

(ふにゃ? ……ふかふか……?)

 みようざわりに、なんの野菜かと摑みだしてみた。

 それは両てのひらに乗る大きさの、もふもふしたどうながの生き物だった。四つ足で、尻尾しつぽが長い。小さなとがった耳と、両耳の間に小さなこぶのようなとつが二つ。

(どう見ても野菜じゃないわ、これ。胴長の……ねずみ……?)

 こんな感じで胴長の、異国の犬の絵は見たことがある。しかし犬にしては小さいし、毛色も銀色で毛足が長い。野菜籠の中にいたのだから、崑国に生息するめずらしい鼠だろうか。

 くったりしている背中をでてみる。ふわふわと気持ちのいい手触りだ。

 すると鼠がキュッと鳴いて、目を開く。

 鼠はまん丸な青い目をぱちぱちさせると、理美の顔を見あげる。

 つぶらなひとみに、胸がきゅんとする。鼠は弱っているらしく、理美の手の上から動かない。丸い目をきょときょとさせているので、一層頼りない愛らしさが増す。

(やだ、可愛かわいい……。飼っちゃおうかな……)

 可愛がって元気にして、自由にしてあげようと思った。こんな可愛らしい鼠をお世話すれば、それだけで生活の張り合いになるだろう。

 菖蒲あやめしやくやくのような高位ひんたちに比べれば、理美は、異国から後宮へ運ばれてきた草花。

 たった一輪。頼りない異国の草花が、この後宮に送られたのだ。

 ここでは、同じ色でいてくれる花はない。

 しかし。ひっそりと咲く草花でも、草花なりの楽しみもおもしろみも見つけられるし、見つけるべきだ。彼女はしようがい、故国に帰ることもなく、この後宮で過ごすのだから。

 理美は春瓜と銀色の鼠をかかえ、うきうきと厨房を後にした。

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