一章 後宮の草花一輪_三




 しようよくきゆうという小さなきゆう殿でんが、理美が与えられたぼうのある宮殿だった。居室としんしつの二間続きの房が小翼宮には九つあり、そのすべてが、宝林の位をもつ女官たちに割り当てられている。

 理美は回廊のはりりされたちようこくを見あげつつ、ほとほと歩いていた。

 梁の彫刻は、しんせんけいこくに遊ぶ様だ。

 崑国でも和国でも百年前までは、神仙もしんじゆうも、日常的に人の世界に交じっていたという。

 しかし時代と共に彼らの姿は消え、今ではほとんど目にすることがない。

 理美にしても、体をくねらせて飛ぶはくりゆうを見たことがある程度だ。それはゆらゆらとそうてんに揺れる、白糸のようだった。それほど遠かった。遠さのあまり、姉斎宮が龍だと教えてくれなければ、見過ごしていただろう。

(そういえば崑国がこんな大帝国になれたのは、神龍の加護だと。いまだに崑国の皇帝は、神龍とともに生きているとか、いないとか)

 のんびり歩いていると、険悪な声が背中に当たる。

「理美様。お早く。おくれでもしたら、わたしがはじをかきます」

 理美の後ろからついてくるのは、理美付きと決まった老じよだった。年季の入った意地悪い目つきをしている。

「ごめんなさい」と謝って歩みを早めると、聞こえよがしに老侍女はためいきをつく。

「まったく。異国のむすめほうりんなど、不り合いな身分を」

 理美が小翼宮に入って三日目。

 ここ三日、毎日耳にする老侍女の嫌味。それを心の中ではんすうするが、どんな嫌味も崑語で言われると、いまひとつ心にさらないのは幸いだ。いつたん頭の中でほんやく作業をするので、その過程で冷静になるらしい。

(なんにしても急がないと。本当に遅れてしまったら大変)

 これから後宮に、こうてい陛下がおみえになるという。

 後宮のひん百二十人というていさいが整ったらしく、後宮の全妃嬪が一堂に会し、皇帝陛下と対面するというのだ。

 対面の場は、三日前に横目で見て通り過ぎた後宮の前庭だ。

 内門と外門の間にある前庭は、中央にきよだいとうろうがそびえ、白い石がきつめられている。

 その前庭に、位階の順序で北側から妃嬪が並ぶ。

 理美は、庭のなかほどより少し北側寄りに並ぶように指示された。

 内門の正面に、皇帝陛下は姿を現す手はずになっている。

 神仙神獣が姿を消した今でも、神龍と共に生きるといわれ、強大なていこくを統治する皇帝とはどんな姿なのだろうか。皇帝のとしは、理美の一つ下。おん年十六歳の若い皇帝と聞いている。

(あのお方は、いないかな?)

 外門へ続くかいろうには、かんの姿がちらほら見えた。その中に、後宮入りのときに親切な言葉をくれたあの青年の姿を探した。

 あまりにも熱心にその人を探すあまり、一人の武官の青年とぱちりと目が合ってしまった。がっちりとした体に、はばひろけんを身につけている。野性的なふうぼうの彼は理美と目が合うと、にっとがおを見せた。

(わっ、見すぎちゃった)

 理美はあわてて、視線をそらす。

「皇帝陛下のおなりです」

 かんがんの高い声が告げると、妃嬪たちがいつせいにその場にひざまずく。理美もそれにならう。

 じゆくんそですそ、やわらかな領巾ひれが、石の上へと広がる。総勢百二十人の妃嬪たちが一斉に白い石の庭に跪きこうべを垂れる様は、とりどりのしきさいの花びらが散ったように華麗な光景だった。

「顔をあげよ」

 若い声が命じた。その声にうながされ、妃嬪たちは一斉に顔をあげ、息をむ。

 内門の正面に立つ皇帝は、あさつゆれていた若葉のように、みずみずしく美しい。

 銀の龍が、彼のみぎかたから背、左袖へと巻きついている。それは銀糸のせいしゆうだ。刺繡がほどこされているのは、黒と見まごうふかむらさきじようい。高貴な深い色が、彼の瑞々しい美しさに暗さをえる。その対比がまた、一層彼のりよくきわたせているようだ。

(これが崑国五代皇帝。りゆうしよう様)

 皇帝の美しさに目をみはっていたが、理美はふと、彼のひとみの異様なするどさに気づく。

 皇帝祥飛は、確か十六歳のはず。理美よりも一つ年下にもかかわらず、鋭く暗い目には、年相応のてつぽうさもやんちゃさもない。落ち着いているのともちがう。けいかいしんの強い、どうもうな生き物に似た色だ。ぞくりとした。

 祥飛が、居並ぶ妃嬪を無表情に見おろしていると、先頭にひざまずいていたが顔をあげる。

 としごろは十三、四歳。口元や目元に幼さすら残る、可愛かわいらしい顔立ちの貴妃だった。かみかざったはやきのしやくやくの生花をらし、貴妃は小首をかしげて微笑ほほえんだ。顔にあどけなさを残しながらも、微笑には、自分が女であることをじゆうぶん意識している甘さがただよう。

そうれいでございます。後宮を代表し、陛下にはいえつたまわりましたこと、お礼申し上げます」

 皇后がいない後宮では、じんといわれる貴妃、しゆくとくけんが、後宮の最高位の女性である。現段階ではこのそうが、後宮で最も権力を持ち、そして皇后になる可能性の高い女性ということだ。その自信からか、もしくは若さのためか。宋貴妃は親しげな笑みを浮かべ、甘えるように続ける。

「陛下にお目にかかれたことが、麗季はうれしくてなりません。心細うございました。わたしのおしきと違い、後宮には属国のせんの者も住んでいると聞いていますから、おそろしくて。でも、これから陛下にお目にかかれるのであれば、麗季はまんできそうです」

 宋貴妃が言うところの属国の下賤の者が、理美を指していることは明白だ。

 いやなことを言われたと思った。しかし宋貴妃は単純に、理美を引き合いに出し不安をうつたえ、祥飛に甘えたいだけなのだろう。

 祥飛は、無表情で宋貴妃の言葉を聞いていた。しばし貴妃を見おろした後、返答を待つように微笑む貴妃の方へついとみ出す。彼女の前に来るとこしをかがめる。

 くっきりしたふたまぶたの目が、宋貴妃を見ている。まつげが、ほおかげを落とすほどに長い。

「宋貴妃」

 清流のようなすずやかな声に呼ばれ、宋貴妃は「はい」と感きわまったように瞳をうるませる。

「四夫人は後宮を支配し、いさかいなく、つつがなく営むことが務めと心得ているか?」

「はい、陛下。それは当然のことと心得……!」

 宋貴妃の声がれ、その周囲がざわりと浮き足立つ。

 理美は、人の頭の向こうにその光景を見て、あっと口を開く。

 祥飛が片手で、宋貴妃のあごをがっちりとつかんでいるのだ。それは指が頰に食い込むほどの力で、宋貴妃の口は半開きになって動けない。彼女の目は、おどろきとおびえに揺れた。

「後宮を支配し、諍いなく、つつがなく営むことを務めと心得ておきながら、そなたはほうか? 宋貴妃」

 祥飛は無表情で問う。

「諍いなく営む責任がある者が、そつせんし他者をおとしめ、諍いの種を作るとはな。そなたの舌は、よく動く。その舌はわざわいの元になりそうだ。ここで余が、切って落としてやろうか?」

 なみだ目になった宋貴妃はうめき、必死に首を横にろうとする。しかし顎を摑む祥飛の力は強いらしく、もがいているようにしか見えない。

「陛下。もうそのあたりで、いいんじゃないですかね」

 だれもが身動きとれないその場で、ゆったりと祥飛の背後に近づいた武官の青年が、取りなすように告げた。腰にくのは幅広の剣。先刻、理美と目が合った武官だ。皇帝に直接声をかけるとなると、かなり高位の武官なのだろう。

「まさか本気で、貴妃の舌をちょん切るおつもりではないでしょう」

「そのつもりだ」

「こわいこわい、陛下。しかし陛下にそんな真似まねはさせられませんからねぇ」

 武官はおどけてぶるいしてみせるが、ふいに声が低くけんのんになる。

「陛下がお望みなら、このしんじようてつが代わりに切りますが?」

 すると祥飛は興ざめしたように鼻を鳴らし、

「宦官どもは、余の後宮に阿呆を集めてきたのか」

 突き放すように手を放した。

 宋貴妃は石のゆかに上半身が投げ出され、顔をせ、ひぃひぃ泣き出す。

「帰る」

 ぼうぜんとする宦官や女官、おびえるひんの群れと、泣きじゃくる宋貴妃をいつだにせず、祥飛はきびすを返す。かの武官、秦丈鉄は、何事もなかったかのように、鼻歌でも歌いそうな平然とした顔で皇帝の後についていく。

 宦官たちが慌てて、皇帝の後を追う。

 水を打ったように静まった前庭に、すすり泣く宋貴妃の声だけがひびく。

 こうていの姿が消えるまで、妃嬪たちは誰一人動かなかった。動けなかった。

 その場を支配しているのは、きようだった。

 なんという恐ろしい皇帝の後宮へ来てしまったのかと、ことに高位の妃嬪たちの恐怖感は強いらしい。位が高ければ高いほど、あの皇帝のそばはべる機会が多くなるのだ。一様に色をなくしている。

(うわぁ……さつばつとした皇帝陛下。舌を切ると言ったのは、半分本気だった)

 大陸の半分を領土とし、数々の国を属国として従える大帝国の皇帝。どんなぜいたくも思いのままで、現に、百二十人もの妃嬪を、あの若さであたえられている。望めばどんなでもけるし、どんなごうせいな食事だってできるだろうし、どんなれいな衣装だって身につけられる。

(それなのにあのお方は、すこしも幸せそうじゃない。なんでだろう)

 皇帝の振るいが驚きであると同時に、不思議でならなかった。

(まぁ、いいか。わたしが皇帝陛下にかかわることは、まずないはずだし)

 なにしろ理美よりも上位の妃嬪が四十人もいるのだ。自分が皇帝の目にとまることはない。

 そうのんに判断した。

 しかし───いずれ、目にとまるどころのさわぎではなくなるのだが、この時の理美は知るよしもない。

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