一章 後宮の草花一輪_二




 和語を操るあの青年は、何者なのだろうか。名すら教えてもらえなかったことを内心で残念がりながら、女官の後について堂を出た。

 ざしは冬の厳しさを失い、微笑む程度の暖かさだった。

(崑国の衣装って軽い。が、すかすかするなぁ)

 慣れないすそから、ひやっとする春の空気が入りこみはだれる。それでもじゆくんごこはいいし、そのかろやかさは気に入った。

 ただ、やはり、少しだけ心細くはある。前を歩む女官の背中は見えるのに、大海の真ん中にほうり出された木の葉のような心持ちだ。

 しかしすぐにかぶりを振って、心細さを追い散らす。かかえていた壺を強くきしめた。

だいじよう。これがある)

 この壺を抱いていると、故国を丸ごと抱いているような、そんな頼もしさを感じられる。

 かすかな風がけるかいろうまわり、後宮の前庭らしい場所へ向かう。白い石がきつめられた庭中央には大きなとうろうがすえられ、さいおうには、内部へと続く内門がそびえている。

 内門を通りながら、案内の女官は告げた。

「ここから先が本当の意味で後宮です。先ほどの外門までは、かんであれば男性も出入りします。しかしここから先に入れる男性はこうてい陛下だけです。ここから先の後宮に、千五百のひんじよ、宦官や下働きの者が住み、百をえる建物があります」

 ほうもない規模だ。

 内門の正面には、馬車がすれちがえるほど太いいしだたみみちが一本真っぐに通っており、その左右には石積みのへいが延々と続いている。その塀の内側には、しゆりのたるが目をひく、すみが弓なりに反り返った優雅な屋根が連なっていた。

 さすがは大陸の半分を領土とする、だいていこくの後宮である。これがたった一人の皇帝のために整えられた場所だという事実が、小さな島国からやって来た理美には信じられない。

(これだから和国は、崑国をそうしゆこくとあおぐ必要があるんだわ)

 崑国は後宮一つとっても、けたちがいの規模をほこる大国なのだ。

 そんな大国にめられたら、理美の故国である和国はひとたまりもない。崑国を宗主国とあおぎ、従属することこそ和国の生きる道なのだ。

(わたしは、そのために送られてきた。従属のあかし……)

 路の正面から風が吹いた。かみかざすいようが、しゃらりと鳴る。さらに風は襦裙のそでらし、通り過ぎていく。こうして広大な後宮を前にして、改めて自分がこの場にみこみ、新たに名をあたえられることの意味を実感する。

 こんれき百十一年。崑国の五代皇帝がそくした。

 新皇帝即位と共に後宮の妃嬪たちはいつそうされ、新たに妃嬪を集めるのが慣例。そのさい崑国を宗主国とあおぐ属国は従属の証として、皇帝即位の祝い品と共に、自国のひめぎみを皇帝の妃嬪として後宮へ差し出す。姫君たちは、平たく言えばみつぎ物。

 和国から貢ぎ物として差し出されたのが、理美なのだ。

 理美が内門をくぐると女官は足を止め、わずかにふり返った。その横顔にちようしようが見えた。

「雪宝林。お気の毒に。わざわざ海をわたられた高貴な姫君が、きゆうかんでございますね」

 皇帝には、皇后をのぞいて百二十人の妃嬪が用意される。そのなかでもないくうと呼ばれ、実質的にきさきあつかいされるのは、高位身分の四十人のみ。

 それ以下の身分は妃嬪とは名目ばかり。宮官と呼ばれ、女官として働くのだ。

 理美の与えられた宝林という位は、高位四十人の身分のすぐ下の位。女官としては最高位。

 しかし結局、女官なのだ。

 ないがしろにされているのはちがいないが、和国の国力を思えば致し方ない。崑国内の有力商人のほうが、和国よりもよほどきゆうてい内にえいきよう力があるはずだ。

 案内の女官はそれを皮肉ったのだろうが、さして気にならない。

 理美は和国で、人とのせつしよくきよくたんに制限されていた。それはうましのみやという立場から致し方ないことだった。しかしだからこそ、女官にいやを言われるというのもしんせんに感じる。

(高位女官というのは、わたしにとっては出世になるのかなぁ)

 空を見あげた。広い空だ。山がちな和国の空とは違い、崑国には信じられないほど広大な平地がある。そのぶん空も広い。春の薄い色の、この高い空は、和国まで続いているはず。

(美味宮と呼ばれるおうじよでありながら、実質、くりやの番人だった今までと比べたら、出世したのかも?)

 遠い和国の地にいるはずの、姉皇女の顔を思い出す。

 くにまもりのおおかみに仕える巫女みこさいぐうであった姉皇女。彼女とは十年もの間、毎日、顔を合わせていた。理美が毎日決まって顔を合わせるのは斎宮だけであり、それがゆいいつの、人との接触だった。そのせいか故国を思い出すと、必然的に姉斎宮を思い出すのだ。

 故国のおくのほとんどが姉斎宮と、食べ物のこと。

(斎宮様は今日も元気に、かんしやくを起こしてるかな? 食事に不平を言っているかな?)

 美しい顔でわめき散らし、れいな衣装のままぜんばす姉斎宮を思い出し、理美は思わず、くふふっと笑う。

 女官はその笑い声に、気味悪そうな顔をした。

 姉斎宮には、「時々、緊張感が足りない子」と言われていた。だがこの立場になってみれば、その自分の性質は幸いかもしれない。

(後宮には、なにが待っているかしら)

 不安と同居するのは、こうしんだ。

 美味宮として十年、かごの鳥のような生活をしていた。だから目にする外の世界のもの、すべてがおもしろく思える。ことにここはみのない異国。見慣れないものばかり。

 異国の後宮に踏みこむきんちようも不安も、理美は楽しめるかもしれない。

 理美は好奇心をかてに、自らをする。

 ──崑国なんて大帝国、おいしい料理はたくさんあるだろうから、あなたなら楽しめるわよ。二度と和国に帰れないのは気の毒だけど、わたしの分までせいぜい楽しんで、ふみでも送ってきなさい。ひまなら、読んであげてもいいから。返事は、書いてあげないけれどね。

 姉斎宮の、嫌味半分の別れの言葉が耳によみがえる。それに心の内でこたえる。

(すべてを楽しんでみます、斎宮様。まず女官に嫌味を言われるなんて、初体験ですもの。あの女官とわたしの間にあるのは、なかなか、おつな緊張感)

 大陸は、空気のにおいからして違う。

 砂混じりの風はからりとかわき、どこか甘くげき的なこうしんりようかおりを感じる。

(この国には、どんな食べ物があるのかな? そして、わたし……ここに居場所を見つけられるのかな? 七つの、あのときみたいに)

 この十年。理美は美味宮として役目を与えられていた。

 神にささげる食事を毎日作り、それは神に捧げられた後に姉斎宮の食事として供された。

 姉斎宮は、神の代理人に相応ふさわしくかがやくばかりに美しかった。そして癇癪持ちで、けんたんで、容易に「おいしい」と言わない人だった。その彼女に「おいしい」の一言を言わせることだけを考えて毎日過ごしていた。それが理美の役目であり、仕事であり、唯一のやるべきことであり、楽しみであり、そして───自分の居場所を得る方法だった。

 崑国後宮に集められた大輪の花のようなたちに比べれば、理美など物の数に入らないはず。彼女の存在はせいぜい、山野にく野の花程度。

 美声で歌うこともできないし、楽器やいが上手うまいわけでもない。

 美味宮だった理美にできることは、だれかに食事を作ることくらい。

 それでも、もし。この場所で誰かに「おいしい」と言ってもらえることがあれば、理美にも居場所ができるかもしれない。なにもかも違う、この遠い異国の地でも。

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