一章 後宮の草花一輪_一
「今日から、あなたの名は
美味宮・理子は崑国後宮の門を
それから
(
自らの名を、建物の
しかしそのことに多少の
結局、扁額を掛け替えても、建っている建物は変わらない。それと同様に自分も、違和感を覚えるだけで、今までの自分と変わりないのだ。
(そうか。名が変わるくらいは、たいしたことじゃないのかな?)
ふむふむと一人
宦官たちは
「何かおかしなことでもありますか?」
昔からよく、「時々、
理子───改め、雪理美はそれを思い出し、
「いいえ。なにも」
習い覚えた
「あなた様は今日から崑国人です。位は
宦官の言葉を受け、堂の入り口に
「ご案内します。こちらへ、
その壺を目にした女官の顔が、不審げに
「お待ちください、理美様。それはなんですか。どこから持ってこられた」
「和国からですが?」
「和国のみならず、異国の衣装、装身具は、後宮に持ち込んではなりません」
「あ、
ほわっと笑い、
「なんですか、これは」
つやつやと白く輝くものが壺を満たしている。きめ細かい
これは
(そうか。崑国の人たちは香漬を知らないのね。当然、
宦官たちと女官の反応を見て、理美は
「
事務的な宦官の声に、理美は
「いやです。これは、これは……香の良い、
知っている単語で説明を試みるが、宦官の顔から血の気が引く。
「圧迫する食べ物? 圧力をかけるとは人を追い
圧迫する食べ物とは、漬物を
「毒ではないです!
「埋めるっ!? 人をっ!?」
何を
「人ではないです。埋めるのではなく、これを
「寝床とは、まさかあなた様は、それを陛下の
「陛下? 陛下は関係ないです。このさい陛下は、どうでもいい存在になりさがられて」
「どうでもいいと!? なりさがるとは!?」
(だ、
冷や
「とにかく。これは……毒ではないんです。安全なんです。食べ物なんです。これと
「ならば説明してください、理美様」
「だから、その……食べ物なんです。毒ではないんです。危険はないんです。食べ物です」
「
そう言ったようだった。高位の宦官が難しい顔で頷く。
女官と宦官の視線を浴びながら、理美は壺を渡してなるものかと抱えこむ。
(取りあげられたら、どうしよう。これを手放したら、崑国では二度と手に入らない)
和国から大切に運んできたのだ。
七日におよぶ船旅の間も、船の
建物の扁額を掛け替えるように、名を変えられた。それは受け入れた。名を変えられても、自分という確固とした建物は
名を変えられても変わらずあり続ける、自分という確固とした建物の柱は、───食。
食は
そしてどのくらい待ったか。わずかな緊張感が
年の
宦官たちがすがるように、青年に
(
青年は、宦官たちと何事か早口で会話すると、理美に近づいてきた。
急に呼び出されたのだろう。彼が困惑していることが見て取れた。
『あなたから話を聞くようにと、宦官たちに
『和国の方ですか!?』
『いいえ。崑国人ですが、和語は教養として習い覚えました。あなたは和国の
青年は、やわらかな
『知ってます。けれどこれは衣装でも、装身具でもないんです。得体のしれない危険物でもなくて、食べ物なんです。食べ物ならば持ち込みできるって聞いたので』
『あなたがそれを食べ物だと言い張っていることは、
『じゃ、よく見てください』
理美はその場にしゃがむと壺を床に置き、再び蓋を開く。
『和国の香漬を知ってますか?』
『カオリヅケ?』
『野菜や魚、肉なんかの食材を、塩や
『ああ。和国では盛んだと耳にしますが、これがその漬物?』
青年は壺を覗きこむ。その目に強い
『いいえ。これは香床といって、香漬を作るための
『この床は、何でできているんですか?』
『米から造るお酒───
『まあ、これを見る限り、宦官たちの反応は
『大切なんです。とても』
ひたと青年の目を
『後宮への持ち込みが許されなければ、今ここで、これに頭を
『なるほど。とにかく大切だ、と言いたいわけですね』
青年は
『なかなか
いきなり青年は、白く
(えぇっ! 食べちゃった!)
周囲にいた女官と宦官は、わっと声をあげた。「危ない」「なんてことを」と口々に言ってちょっとした
だが青年は平然としたもの。味を確かめる
「問題ないです。
「しかし、得体のしれないものを陛下の後宮に持ち込むことは」
顔を見合わせ、
「俺が保証しましょう。なにかあれば俺の名を出せばいい。責任は取ります」
微笑に
青年は理美にふり向くと、また和語で話しかけてくれた。
『その
『……説得してくれたんですか?』
『お立ちなさい。あなたはこれから、崑国後宮の
背の高い彼を見あげた。理知的な瞳が理美を映している。
『あなたの故国の食べ物、大事になさい』
(声が……優しい、お声)
理美は崑国に
そんななかで初めて、崑国の人からかけられた優しい言葉だった。
「
宦官たちは
理美は胸を
そのときようやく、あの和語を
「あの! 先ほどのお方は、どなたでしょうか。お礼を言いたいんですけれど」
「崑国一の博士です。今回は通詞が見つからず、無理を願ってお越し頂いたが、本来あなた様のような後宮の女性が、出会うことのない方です。二度とお目にかかることはないでしょう」
宦官は
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