一章 後宮の草花一輪_一



「今日から、あなたの名はせつです」

 はんとき前。

 美味宮・理子は崑国後宮の門をくぐった。衣装を改めるように命じられ、いくにもきぬを重ねる和国風の衣装から、かろやかなじゆくんへと身なりを変えた。

 それからしゆりの柱が並ぶ堂へと導かれると、数名のかんがんが待ちうけていた。宦官たちはそこで彼女に、これから彼女が名乗るべき新たな名を告げたのだ。

せいが雪、あざなが理美……ということね)

 自らの名を、建物のへんがくえるように、簡単に変えられてしまうことはおどろきだ。

 しかしそのことに多少のかんはあるが、さほどのしようげきを受けていない自分にも驚く。

 結局、扁額を掛け替えても、建っている建物は変わらない。それと同様に自分も、違和感を覚えるだけで、今までの自分と変わりないのだ。

(そうか。名が変わるくらいは、たいしたことじゃないのかな?)

 ふむふむと一人なつとくしてうなずくと、我ながら、こだわりのなさにおもしろみさえ感じて表情がゆるむ。

 宦官たちはしんな顔をした。

「何かおかしなことでもありますか?」

 昔からよく、「時々、きんちようかんが足りない子」と言われていた。

 理子───改め、雪理美はそれを思い出し、あわてて口元を引きめる。

「いいえ。なにも」

 習い覚えたこんで答える。崑国へ渡るための準備期間は、一年近くあった。そのため崑語の聞き取りは、ほぼかんぺきだと自負がある。しかし話すとなると、力があつとう的に不足している。この先の生活では、困った事も起きそうだ。

「あなた様は今日から崑国人です。位はしようろつぴんほうりんとなります。ここからは、しようきゆうの女官がご案内申し上げる」

 宦官の言葉を受け、堂の入り口にひかえていた年かさの女官がするすると理美に近づく。

「ご案内します。こちらへ、せつほうりん

 うながされた理美は、足元に置いてあったきのつぼかかえて歩み出そうとした。

 その壺を目にした女官の顔が、不審げにくもる。宦官たちも、理美が壺を持ち込んでいたことにやっと気がついたようで、とがめるようにまゆを寄せた。

「お待ちください、理美様。それはなんですか。どこから持ってこられた」

「和国からですが?」

「和国のみならず、異国の衣装、装身具は、後宮に持ち込んではなりません」

「あ、だいじようです。これ、食べ物なんです。おいしいんですよ。見ますか?」

 ほわっと笑い、いつたん抱えた壺を再びいしゆかに置きふたを開く。宦官と女官が中をのぞきこむ。

「なんですか、これは」

 げんな声で宦官が問う。

 つやつやと白く輝くものが壺を満たしている。きめ細かいどろのような質感で、かすかに甘く、ほうじゆんでまろやかなかおりがする。米をかもした酒の香だ。ふっと人の気をひくような良い香だったが、崑国の人たちには未知の香だろう。

 これはかおりづけと呼ばれる、食材をけこみ調味するために使用する漬けどこだった。

(そうか。崑国の人たちは香漬を知らないのね。当然、かおりどこも知らないわけで……。つけもの……とこ? あれれ? 崑語で、なんて言えばいいのかな?)

 宦官たちと女官の反応を見て、理美はこんわくした。

こうてい陛下の後宮に、得体のしれないものは持ち込めません。ぼつしゆうします」

 事務的な宦官の声に、理美はとつに壺に蓋をし、胸に抱えて立ちあがる。

「いやです。これは、これは……香の良い、あつぱくする食べ物を作るためのもので」

 知っている単語で説明を試みるが、宦官の顔から血の気が引く。

「圧迫する食べ物? 圧力をかけるとは人を追いめるということで、もしや毒!?」

 圧迫する食べ物とは、漬物をほんやくしたつもりだ。押さえこむ様子からの連想で、『漬ける』の意味と理解して欲しかったが、まずかったらしい。あせってほかの言葉を探す。

「毒ではないです! ちがいました。圧迫ではなく、……めます!」

「埋めるっ!? 人をっ!?」

 何をかんちがいしたのか、さらにぎょっとする宦官。こっちこそ「そんな鹿な」と突っこみたいが、理美の言語能力では、それどころではない。

「人ではないです。埋めるのではなく、これをどこに……? え? 寝床でいいのかな?」

「寝床とは、まさかあなた様は、それを陛下のしんだいにでも、ぶちまけるおつもりですか!?」

「陛下? 陛下は関係ないです。このさい陛下は、どうでもいい存在になりさがられて」

「どうでもいいと!? なりさがるとは!?」

 ていねいに「陛下は関係ない」と言おうとしたのだが、これもまずかったらしい。

(だ、かも? 説明しようとすればするほど、なんだか、おかしくなってくる気が……)

 冷やあせが背中を伝う。とにかく単純な言葉を使う方がいいと判断し、しようさいな説明をあきらめる。

「とにかく。これは……毒ではないんです。安全なんです。食べ物なんです。これといつしよでなければ、わたしは後宮へ入りません」

「ならば説明してください、理美様」

「だから、その……食べ物なんです。毒ではないんです。危険はないんです。食べ物です」

 り返していると、一人の宦官が、高位らしき宦官に耳打ちしたのが聞こえた。

つうを呼びましょう」

 そう言ったようだった。高位の宦官が難しい顔で頷く。

 女官と宦官の視線を浴びながら、理美は壺を渡してなるものかと抱えこむ。

(取りあげられたら、どうしよう。これを手放したら、崑国では二度と手に入らない)

 和国から大切に運んできたのだ。

 七日におよぶ船旅の間も、船のれで壺がこわれないように苦心した。

 建物の扁額を掛け替えるように、名を変えられた。それは受け入れた。名を変えられても、自分という確固とした建物はくずれることはないからだ。

 名を変えられても変わらずあり続ける、自分という確固とした建物の柱は、───食。

 食はゆいいつ、自分の中にある柱だ。

 そしてどのくらい待ったか。わずかな緊張感がただよう堂内に、一人の青年が入ってきた。

 年のころ二十歳はたちをすこししたところか。すらりと細身で、長身だ。その若さにしてはめずらしいほど、ひとみに落ち着いた色がある。

 宦官たちがすがるように、青年にり寄っていく。

だれ? 通詞? それにしては、宦官たちのこしが低いような?)

 青年は、宦官たちと何事か早口で会話すると、理美に近づいてきた。

 急に呼び出されたのだろう。彼が困惑していることが見て取れた。

『あなたから話を聞くようにと、宦官たちにたのまれましたが』

 りゆうちようで話しかけられ、理美はうれしさに声がはずむ。

『和国の方ですか!?』

『いいえ。崑国人ですが、和語は教養として習い覚えました。あなたは和国のひめですね。名は雪理美と聞いています。理美。ぞんですか? 崑国後宮には異国の衣装、装身具は持ち込めない決まりなんですよ』

 青年は、やわらかなものごしで問う。責めているのではなく、説得するおだやかさだった。

『知ってます。けれどこれは衣装でも、装身具でもないんです。得体のしれない危険物でもなくて、食べ物なんです。食べ物ならば持ち込みできるって聞いたので』

『あなたがそれを食べ物だと言い張っていることは、かんがんから聞きました。宦官たちは、とても食べ物に見えないと言っていますが』

『じゃ、よく見てください』

 理美はその場にしゃがむと壺を床に置き、再び蓋を開く。

『和国の香漬を知ってますか?』

『カオリヅケ?』

『野菜や魚、肉なんかの食材を、塩やに漬けこんで食べるんですけど』

『ああ。和国では盛んだと耳にしますが、これがその漬物?』

 青年は壺を覗きこむ。その目に強いこうしんがある。

『いいえ。これは香床といって、香漬を作るためのとこなんです。この中に食材を入れて数日かせると、とってもおいしくなるんです』

『この床は、何でできているんですか?』

『米から造るお酒───しゆの、しぼりかすです。お米と水からできたものですから、ぜんぜん危険じゃありません。食べようと思えば、食べられるし』

『まあ、これを見る限り、宦官たちの反応はじようですね。しかし、わざわざ和国から運び、後宮に持ち込みたいとだだをこねるほど、これが大切なものなんでしょうか?』

『大切なんです。とても』

 ひたと青年の目をえ、答える。

『後宮への持ち込みが許されなければ、今ここで、これに頭をっこんで自害しようと思うほど、大切です』

『なるほど。とにかく大切だ、と言いたいわけですね』

 青年はしんけんな理美の瞳を見つめると、うなずく。

『なかなかざんしんな自害の方法を考案されているようで、その光景はちょっと見たい気もしますが。わかりました。それほど大切ならば……。これを、食べますよ』

 いきなり青年は、白くつやつやかがやく床を指につけてひとめした。

(えぇっ! 食べちゃった!)

 周囲にいた女官と宦官は、わっと声をあげた。「危ない」「なんてことを」と口々に言ってちょっとしたきようこう状態だ。

 だが青年は平然としたもの。味を確かめるりの後、彼の口元は馬鹿馬鹿しいじようだんを聞きいた後のように微かに笑っていた。

「問題ないです。さわぎ立てるのは時間のですよ。これは米を原料としたはつこう食品でしょう。後宮への持ち込みは可能です。異国の珍しいを、後宮で楽しむのと同じです」

「しかし、得体のしれないものを陛下の後宮に持ち込むことは」

 顔を見合わせ、なつとくしかねる様子の宦官たちに、青年は「仕方のない方たちだ」とでも言いたげに、やさしく微笑ほほえむ。その微笑に宦官たちは、どぎまぎしたような顔をした。

「俺が保証しましょう。なにかあれば俺の名を出せばいい。責任は取ります」

 微笑にうながされるように、宦官たちは「……そこまで言われるなら」と、ようやく頷く。

 青年は理美にふり向くと、また和語で話しかけてくれた。

『そのつぼの、後宮への持ち込みは許可されましたよ』

『……説得してくれたんですか?』

 おどろいていると、彼は手を差しだし、理美の手を引いて立たせた。

『お立ちなさい。あなたはこれから、崑国後宮のによにんとなるのですから。それらしく、ゆうってください。二度とゆかに座りこんではいけませんよ』

 背の高い彼を見あげた。理知的な瞳が理美を映している。

『あなたの故国の食べ物、大事になさい』

 いたわるような言葉を最後に、彼はきびすを返し出て行った。

(声が……優しい、お声)

 ぼうぜんと青年の姿を見送り、理美の胸はじわりと温かくなる。

 理美は崑国にとうちやくすると、すぐに和国の従者たちと別れた。崑国の役人たちはみなれいたんで、事務的に理美をこの後宮まで連れてきた。

 きんちようかんうすい理美でも、異国の言葉と見慣れない建物に囲まれていれば、それなりに心細かった。かおりどこを取りあげられそうになって、不安だった。

 そんななかで初めて、崑国の人からかけられた優しい言葉だった。

いたし方ない。それの持ち込みは許可いたしましょう」

 宦官たちはしぶしぶの様子ながら認めると、「早く、行かれよ」と追い散らすように手を振る。

 理美は胸をで下ろし、頭を下げ、女官の後について堂を出ようとした。

 そのときようやく、あの和語をあやつる青年に、頭のひとつも下げていないことに気がついた。

 あわてて足を止め、宦官をふり返った。

「あの! 先ほどのお方は、どなたでしょうか。お礼を言いたいんですけれど」

「崑国一の博士です。今回は通詞が見つからず、無理を願ってお越し頂いたが、本来あなた様のような後宮の女性が、出会うことのない方です。二度とお目にかかることはないでしょう」

 宦官はっ気なく言うと、早く行けとばかりに、さらにじやけんに手を振った。

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