選択
その獣は群青だった。
闇の中にあってなお、黒に塗りつぶされることのない力強い群青。
疲労の色が濃いのかその息は荒く、頭を下げて揺らしている。
しかしその足取りは力強く、種としての強さが溢れ出しているようであった。
魔獣と呼ばれる存在がいる。
森に、野に生きる獣らが長い年月をかけて魔力を持つようになり、より強力になった個体。あるいは外的な要因によって突然変異した種族。
それが生まれる理由は様々で未だ全容は掴めていないが、大半の性質は元となった獣のものを受け継いでいることが多い。
その力は強大であり、人間種にとって注意が必要な相手だが、彼らの縄張りを侵さない限りそうそう敵対することはない。
魔物と呼ばれる存在がいる。それらは異界からの侵略者だ。
世界の外縁に存在する魔界と呼ばれる領域。その住人こそが魔物である。
本来は中央世界に居ることはない彼らだが、自らの生息域を広げるため、あるいはただ生命を奪い、暴虐を振るうために姿を現すことがある。
その性質は「邪悪」の一言である。中には善性を有する魔物もいると言われるが、
人間種を中心とした中央世界の敵対者。それこそが魔物である。
そしてそのどちらでもない存在。
かつて森に湧き出し、そこで生活するようになった魔物と魔獣の混血。
何物にも馴染まぬ世界の忌子。
その瞳は怨恨に染まり、黒く淀んでいる。
だが。
(――綺麗だ)
リアンは思わず漏れそうになった感嘆の溜息を飲み込む。
こんなことで気付かれる訳にはいかない。
しかしそれでも視線の先に居る獣から目を離すことが出来ない。
獣が放つ気はあまりにも鮮烈で、氷刃の如く研ぎ澄まされている。
木々の隙間から微かに漏れる陽光を全身に纏う群青の獣毛に蓄えているかのように、その姿は輝いて見える。
魔獣と魔物の血が混ざった放浪する四足獣――グゥシィ。
ただ立っているだけだというのに、その姿は余りに美しすぎた。
野に咲き乱れる花のような華やかさではない。貴人のような煌びやかさでもない。
ただ、生物としての力強さ。その一点においてその獣は完成された美を持っていた。
時間としてはほんの数瞬、しかしそれでも獲物を目の前にして致命的な隙を晒していたリアンは腹部の軽い刺激に我に返る。
見ればフィフィが左肘でリアンを小突いている。
また無様を晒してしまったとリアンが顔を赤くしたり青くしたりしているのを他所に、フィフィは指をそろえて地に向けて掌を下げるような動きを見せる。
冒険者はこのような声を出せない状況で手だけで意思疎通をすることがある。ただし当然だがその為には事前に打ち合わせが必要だ。リアンとフィフィはまだそれを行っていなかった。
しかしそれでも状況的に考えて『待機』の合図だろうと予想して、リアンはその場で息を殺す。
グゥシィは一匹。他に仲間は居ないようだ。
周囲を警戒するように見回しては少しずつ前へと進んでいく。その足取りは重々しく、ひどく鈍い。
どこへ行こうというのか。
進む方向は森のより奥へと向かう側だが、その歩みに何らかの目的があるようには感じられない。
(何をして……?)
リアンは集中してグゥシィを観察する。
グゥシィの呼吸は荒い。足取りも明らかに重そうだ。
見たところ大きな怪我を負っている様子はないが、疲労が色濃いのだろうか。だが、それならばこうして歩き続けているというのは腑に落ちない。
巣を持つ獣であればそこまでは多少無理をしても進むのは分かるが、グゥシィはそれに類するものではない。
外敵への警戒、食糧や水の確保、身を隠せる場所の探索。獣がその場で休まない理由をいくつか考えるが、視線の先のグゥシィの様子にそれらの気配は見られない。
リアンはフィフィの方を視線でチラリと窺う。彼女はいつも通りの凛と落ち着いた様子で、紅い瞳を真っ直ぐに正面へと向けている。
だが気のせいだろうか。リアンには僅かばかりではあるものの彼女の纏う空気に険があるように感じられた。
声掛けたいが、今ここでグゥシィに気付かれる訳にもいかない。
もどかしいような心持ちでリアンがフィフィとグゥシィを交互に観察していると、グゥシィはやがて森の闇に溶けるようにしてその姿を消した。
それから少しだけ間をあけてフィフィは小さく息を吐く。
今までの殺した呼吸ではない、緊張をほぐす様なゆるい息だ。リアンも釣られて同じように息を吐いた。
「……どうしますか?」
リアンは恐る恐るフィフィに尋ねかける。先ほどまで微かに感じられた棘のある気配は既に消え失せている。
フィフィは少しだけ迷うようにしてからリアンの目を見て、覚悟を決めたように――あるいは諦めたように――静かに森の奥を指さす。それはグゥシィが消えていった方角だ。
「この奥に妙な領域がある。魔力のスポットとは違う、多分結界のような何か。何か分かる?」
そう言われてリアンは改めて注意を向ける、がフィフィが言うような『何か』を知覚することはできない。
リアンが申し訳なさそうに小さく首を振るとフィフィは特に気にした様子もなくそれに頷く。
「隠し方が巧妙。私でも違和感を感じる程度、多分魔法使いだと認識すら難しい」
「……世界樹の結界みたいなものですか?」
「いや、それにしては気配を消しすぎてる。明らかに誰かが意図的に隠そうとしている空間がある……厄介かも」
フィフィがそう口にしたことでリアンの緊張が高まる。
この森林は明らかに人が立ち寄るような場所ではない。それもこの辺りは手練れの冒険者ですら躊躇するような危険区域である。
そんな場所にそれほどまでに高度な隔絶空間を生み出すなど、尋常な理由ではあり得ない。
そして何よりも彼女が口にした厄介という評価。
『ジャッククラウン』の『
「……一旦街に戻る、うん、その方が良いか。それじゃあリアン――」
「引き返すんですか?」
フィフィの言葉を遮るようにリアンは聞き返す。今までにない行動にフィフィは少しだけ驚いたような様子を見せる。
だがリアン自身も驚いていた。口を開くつもりなどなかったのに気付いたら言葉が出てしまっていた。
「……不満?」
「……えっと、引き返しても、またフィフィさんはここへ来ますよね」
フィフィは押し黙る。それが答えだろう。
つまりは子守をしながら対応できるような事態ではなくなったということだ。それは理解できる。だがリアンには確認しておかなければならないことがあった。
「それが?」
「……再探索は誰か別の人を連れてくるんですか? それとも……」
もしもこれで他のメンバーや別チームから助っ人を呼ぶという話なら納得せざるを得ない。それが必要であるならば一度引き返すのも止む無しだろう。
「……そういえば意外と聞き分けの無い性格だったね、キミは」
「……すみません」
フィフィが諦めたような溜息をつく。
つまりはそういうことだろう。彼女は一度リアンを街に送り届けてからまた一人で調査に戻るつもりだったのだ。
それは純然たる時間と機会のロスに他ならない。自分のためにそんな無駄な行為をさせてしまうことをリアンはただ甘んじて受け入れることはできなかった。
「街へ戻れというなら戻ります。でも、それなら一人で十分です。馬無しでも一日あれば戻れます」
「いや、それは……」
フィフィはそこで言い淀む。口元に手を当てて、目を伏せて何かを考えているような仕草だ。
(……フィフィさんほどの人でも迷うのか? いや……そうか)
リアンはそこで気付く。彼女は歴戦の勇士だが、自分のような未熟な子供を連れて危険地帯に乗り込むという経験は無いに等しいのだろう。つまりどうすればいいのか彼女自身も分からず、自信を持って行動できずにいるのだ。
今ここに存在する脅威。それぞれの戦力と能力。事態の展開と予想。そして直感。
今彼女の中ではそれらの情報が目まぐるしく駆け巡り、どれが最適の行動なのか必死に選び取ろうとしているのだろう。
リアンも思考する、だが目の前の女性を上回る結論を導き出せるとは思っていない。
(やっぱり俺に出来ることなんてこの場では一つも……いや)
だめだ。思考を止めてはいけない。それだけはしてはいけないと今まで生きてきた中で学び取った。
たとえ無駄だったとしても、己に出来る最良を模索し続ける。それがリアンが手にしたたった一つの生き方だ。
「正直に言えば……俺はグゥシィを追いたいです」
「……何故?」
リアンは必死に言葉を探しながら自分の思考を形にしていく。
「この一帯の生き物の様子は妙です。明らかに凶暴化している。多分グゥシィも同様です」
フィフィはその言葉に頷き、リアンの続く言葉を待つ。
「グゥシィを見て綺麗だと思いました。それと、その生き方に何となく自分を重ねてしまいました。だから、その、このまま放っておくのは嫌なんです」
リアンは自分でもひどく子供じみた、個人的な感情を吐露しているだけというのは分かっていた。しかし、自分に出来ることはこれくらいだと思い、恥をかなぐり捨てて言葉を紡ぐ。
今自分に出来ること、それは自分の思考と感情を全てフィフィに伝え、情報を明らかにすること。
不確定な情報があればそれだけ判断に迷う。人の心情などはその筆頭だろう。
ならば、フィフィが判断する上で少しでも助けになるように不透明な部分を消した方が良い。
たとえそれで自分の評価が落ちようと関係ない。
何故ならば、グゥシィに感情移入していることは紛れもない事実なのだ。
帰る場所を失い、ただ彷徨い歩くあの獣はまるで自分のようだと思った。その獣が何かに狂わされ、汚されているというのならば、それは何とも耐えがたく、出来ることならば助けてやりたいと思ってしまったのだ。
「……だから、帰るのは嫌だと?」
「いえ、フィフィさんが戻るべきだというのなら従います」
リアンは迷いなくフィフィの目を見つめて断言する。
厳しい視線を向けていたフィフィが思わず素に戻って目玉を丸くする。
「俺の意志は全て言った通りです。ですが、フィフィさんの判断には全て従います。俺の心情はただの一情報として扱ってください。そこに異論は挟まないですし、不満も持つことはしません」
しばしの間、フィフィはリアンの言葉の真意を推し量るように難しい表情を見せながら押し黙る。
そしてようやく咀嚼できたのか、難しい表情は変えないままこくりと頷いた。
「……なるほど、キミはそういう子か」
「……ええと」
どう返すべきか分からず困るリアンをじとりと眺めて、フィフィは深い深いため息をつく。
「……私も相当に不器用な性格を自負してるけど、リアンも中々負けてない」
「えぇー……」
思わず漏れた不満の声に鋭い眼光が突き刺さり、リアンはびくりと身を竦ませる。
しかしそれを最後にフィフィの瞳からは険が失せ、いつも通りの澄んだ湖面のような静けさを取り戻す。
「……絶対に指示には従うこと。自分の身を最優先で守ること。危ないと思ったら逃げること。この三つが守れる?」
諦めたように、柔らかく言い聞かせるようにフィフィは指を三本立てる。つまりそれの意味するところは。
「……は、はい!」
「ん、それじゃあ一緒に向かおう。森の奥へ」
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