森の朝食

 世界に言語は数多あるが、人間種が主に用いるのは大陸共有語や北方群国の公用語である。

 魔族には魔族の、亜人には亜人それぞれの言語があり、当然ながら異種族がそれを理解し習得するには非常な苦労が要される。

 ましてや根本的な発声器官の異なる種族の言語ともなれば、そもそもの発声表現が不可能であり、可聴域の外でのやり取りすらあり得る。


 だがそれらすべての障害を越える言語が一つ存在する。

 『古き広き音フォートリナ』――それは神々の言葉と呼ばれるこの世で最も古い意思疎通の手段。

 精神に直接伝達されることで知性を持つもの同士であれば種族が違えど対話が可能となる万能の言語である。

 しかし神話の時代から幾世もの時が過ぎ、今伝わる魔術とも異なる世界の神秘を知るものはもはや極僅かに過ぎない。


 今リアンの目の前にいる純白の大猪。声ならぬ声で語りかけてくる彼(彼女?)は間違いなく神秘の時代の系譜に連なる『神獣』と呼ばれる存在なのだ。




『なんだ、随分と痩せているじゃないか。食え、そこの男程度には育て』


「は、はい……」


「人間の子供としては平均程度だとは思うがな、俺を基準に考えない方がいい」


 リアンはモソモソと干し肉を齧る。

 木の皮の如き触感のそれは、唾液を染み込ませながら口の中で繰り返し咀嚼しているうちにじんわりと肉の味が浮き上がってくる。

 

 リアンの隣には同じように胡坐をかいて干し肉を口にするロッケン。

 そして正面には巨大な体を伏せて、野菜をぼりぼりと貪る神獣。


 突然始まった謎の朝食の光景にリアンは思考することを諦めて食事に専念する。

 ちなみに干し肉と野菜はどちらもロッケンが持参したものだ。

 腰の袋にそんなものを下げてあれだけの走りをしていたのかとも思うが、彼が普段身に着けているあの鉄鎧に比べれば荷物の内にすら入らないのだろう。


『人間の作るものは旨いが少ないな。今度はもっと量を持って来るといい』


「お前は確か魔力さえあればほとんど食事は必要なかったんじゃないのか」


『それはそれ、これはこれだ。旨いものがあれば満腹になるまで食らいたいと思うのはどんな生き物であれ共通の欲というものさ』


「ふむ、そういうものか」


 ロッケンと巨猪はごくごく普通に会話をしている。

 巨猪の声はリアンの頭の中に直接語り掛けてくるような響きで違和感が拭えない。

 『古き広き音フォートリナ』というものの存在は知っていたが、それを実際に耳にする(実際には耳ではないのだが)のは初めてであったし、知識にある神代の言葉と緊張感のなさすぎる会話の内容がまたミスマッチでリアンとしては何とも言えない苦い表情を浮かべてしまう。

 

「――む、口に合わなかったか? スープでもあれば良かったのだが……」


 その表情を気にしたのかロッケンが少し声を潜めて言う。

 リアンは勘違いさせてしまったことに慌てて手を振った。


「いえ、大丈夫です! ええと、お二人はどういう関係なのかなと」


 誤魔化しながらも、気になっていたことをようやく尋ねる。

 すると巨猪は呆れたようにフンと鼻息一つ漏らした。


『なんだ、何も教えていないのか』


「……そういえば失念していた。ふむ、何から説明したものかな」


『別に多くを語る程の関係でもなかろう。少し前に人間共とやりあってね、その際にこの男達とも戦っただけさ』


 さらりと放たれた言葉にリアンは大きく目を見開く。

 男達、というのは恐らくジャッククラウンのメンバーのことだろう。


「敵だったってことですか?」


「――元々はイスカの街の住人と森の獣たちの対立だったんだが、街側に俺たちが入った形になるな」


『よくある縄張り争いさ、人間は業突く張りだからね』


 確かに種族間での縄張り争いというのは珍しくもない話だが、そこに『ジャッククラウン』と『神獣』という要素が加わるだけで奇譚に化ける。

 神獣は知性が高いだけではなく、その身に抱く力も桁外れだという。そんな存在と最高峰の冒険者の戦いとあればもはや一つの伝説と言っても過言ではない。

 リアンは思わず矢継ぎ早に質問を投げかけたくもなったが、ふと思い到って懸命に好奇心を抑え込む。


『……まあ、ともあれ我らは敗れてこの森に引き籠ったというわけさ。この男はどういう訳かしょっちゅう押し掛けてくるがね』


「最初に誘ったのは其方そちらだろう。俺はそれに応じただけだ」


 言葉こそ剣呑に響くが、流れる空気は緩やかなものだ。

 先ほどのぶつかり合いとて、力の規模こそ余波で地を砕くほどだったがそこに殺意や敵意は感じられなかった。

 きっと彼らは戦いから時間を経て憎悪を超越した関係を築き上げたのだろう。


 今更第三者の無責任な言葉で過ぎた因縁を掘り起こすことはしたくないと、この中で最も小さな存在である少年は思う。


「……さてリアン、先に戻っていてもらえるか?」


 不意にそう切り出されて、やはり不躾な質問だったのだろうかとリアンは不安になるが、どうもロッケンの表情からして怒っているという様子ではない。

 それどころか、彼としては珍しい笑顔をうっすらと浮かべてこちらを見る。


「あまり遅くなるとまたルシャに小言を言われるぞ? 下手をすれば連帯責任で俺まで叱られてしまう」


「あはは、それじゃあ全速力で戻ります」


 安心したリアンはその軽口に思わず笑って応えて立ち上がる。

 そして今もどっしりと地に伏せたままの神獣の方へと居直ると深々と頭を下げた。


「お邪魔しました、森の偉大なる主と見受けられる御方。先に場を去る失礼をお許しください」


『……子供のくせに律義だねぇ。リアンとかいったか。まあ、また来るといい。食い物さえ持ってくればそれなりにもてなしてやるさ。猪肉でさえなければね』






 小さな背中が遠く木々の陰へと消えていくのを見送ってからロッケンは口を開く。


「珍しいな、初めて会った人間にまた来いなどと言うのは」


『そうかね。まあ嫌いな類の人間ではない。年の割にさかし過ぎるのが気になるがね』


「……やはりそう思うか」


『人の子の癖に我欲が薄すぎる。そして頭が回る以上に臆病で卑屈だ。力がそこそこあるのは分かるが、心はまるで赤ん坊だよ。いびつに過ぎる』


「純粋、というのは悪いことだろうか?」


『良いことさ。しかしあれは無理に純粋であろうとしているようにも見える。放っておいたら遠くない先に砕けるぞ。世話をするならしっかり見てやるんだな』


「――肝に銘じておこう」


『ふん、子育てはいつの世でも苦労するものだ。今も一番下の娘が……ああ、いやこの話は止めておこう。――そちらも話はまだあるのだろう?』


「……ああ、それなんだが――」

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