追いかける者

(――キツい……キツすぎる……!!)


 リアンは必死に目の前の背中を追う。

 今のところ何とか距離は離されずにいるが、少しでも気を抜けばあっという間に置いていかれてしまうだろう。


 前を走る偉丈夫――ロッケンはあれほどの巨体だというのに狭い木々の間を一切身体をぶらすこと無く走っている。

 懸命に目を凝らして足場を見つけながら右へ左へと跳ね回っているリアンとはあまりに対象的な、まるで大岩が転がるような走りである。

 一見大雑把で乱暴な動きに見えるが、少し観察すればそれが全く的はずれな見方であることが理解できる。


 重心がぶれないということは、力の流れに淀みがないということだ。

 リアンの軽く倍以上はあるであろう体重を乗せて力強く振り下ろされる足はがっしりと地を掴み、その巨体を支える。

 更に驚くべきは如何なる力の逃し方をしているのか、踏まれた地面を必要以上に抉り砕くことはなく、普通に歩くよりも少し深い足跡が残るだけだ。

 お陰で後ろを走るリアンは独自に足場を探し回るしか無い。


 ロッケンのそれは言ってしまえばごく普通で自然な走りである。

 ただただ真っ直ぐに走るだけ。

 だが、その動きにあまりに乱れが無さすぎる。

 一体どれだけ走り込めば、この深い森を平地と同じように駆けることができるのか。


(当たり前みたいに走ってるけど、とんでもないことしてるぞこの人……!!)


 リアンとて森の育ちだ。木々の間を駆ける術には長けているという自信があった。

 さらに彼には魔力による身体能力の引き上げがある。

 決して効率的とはいえない強引なブーストだが、強化中は相手が戦士職であっても力負けしないほどの膂力と敏捷性をリアンは得ることができるのだ。


 だというのに、リアンはロッケンに追いつけない。

 ロッケンは速く走っている意識はないだろう。

 単なる体力鍛錬の一環だというのは、先程までの口ぶりから分かる。

 だが、それが身軽であり森に慣れたリアンと同等以上に速い。

 それはリアンにとってあまりに衝撃的だった。


(ただ走るってだけで、こんなにも力の差を感じさせられるなんて……!)


 最初から自分程度の若輩が、ロッケンほどの真の強者に及ぶべくもないことは分かっているつもりだった。だがそれでも、身体の使い方一つからしてここまでして次元が違うとは思ってもみなかったのだ。


 打ちのめされそうにながらも、リアンは歯を食いしばり必死にロッケンに追いすがる。


(魔力の出力を上げれば――いやダメだ、それじゃ意味がない!)


 肉体強化に回す魔力量を増やせば、それだけ強化の度合いは増す。

 しかし強化の度合いには段階があるのだ。

 無理なく長時間強化を維持出来る段階と、負荷が大きいが爆発的に強化される段階。

 いわば長距離用と短距離用の二種類の強化。


 今短距離用の強化に切り替えれば恐らくロッケンを抜き去ることも難しくはないだろう。

 しかし、間違いなく抜き返されてその後にはもう付いていくことすらできなくなる。

 長時間全力疾走を出来ないのと同じだ。


 だから今はギリギリ維持できる限界の強化で無駄を最小限に動くしかない。

 今まで当たり前に動いていた身体が、急に不自由になったように感じる。

 気を抜けば臨界点を超えそうになる魔力のバランスを保ち、飛び込んでくる視界の情報を一切見落とさないように集中力を研ぎすませていく。


 じくじくと脳が痛む。

 足が痺れ、次第に感覚が薄くなっていく。

 肺が熱く、潰れそうになる。


(……ああくそ、怠けてたんだな俺は)


 日々の鍛錬は欠かしていないつもりだった。

 自分で足りないものを考え、埋めるべく必死に努力をしてきたつもりだった。

 そこらの冒険者よりも余程鍛えてるなどという思い上がりさえあった。


 甘い。あまりに甘かった。

 短い時間ただ森を走っただけで、これ以上ないほどに痛感させられる。

 恥ずかしさに自分を殴りつけたくなる。


「――リアン、大丈夫か」

「平気です! 俺に構わずいつも通り走ってください!!」


 気遣うようなロッケンの問いかけにリアンは自分を叱咤するように叫んで答える。

 それはもはや彼にとって最後に残された意地だった。


 聞きようによっては無礼にも取れるその返答に、ロッケンは満足そうに頷く。

 そして巨体が更に勢いを強める。

 

 リアンは少しずつ離れていく背中をせめて見失わないように強く見据える。

 そして限界の縁の縁まで己を研ぎ澄ましていくことに没頭していくのだった。




      ◇      ◇



「――ふむ、到着だ。まずは体を落ち着けるといい」

「……は……はい……」


 軽く肩を上下させるロッケンに対し、リアンはその数倍肩を揺らして必死に呼吸を整える。

 本当ならばその場に倒れこんで手足を投げ出したかったが、鍛錬に連れてきてくれている尊敬すべき人物の前でそんなみっともない姿を見せるわけにもいかない。

 くじけそうになる身体を意志の力で無理矢理に引き起こす。


 森の中を進み、たどり着いた場所は不自然に開けた空間。

 日陰になっている訳ではないが、大きな木はほとんど無く地面を覆う草や苔も明らかに薄い。

 そして地面がところどころ不自然に盛り上がり、場所によっては砕けているのが分かる。


「ここは……?」

「それは見た方が早いだろう、そろそろだ」

「……そろそろ?」


 言葉の意味を掴みかねてリアンは不思議そうな声を返す。

 その瞬間、ぞわりと身が震える。

 

 リアンが反射的に振り向けばそこに現れたのは巨大な猪。


(――でかっ……!? いや、それより気配がしなかった!?)


 リアンは二重の驚きに目を見開く。

 猪の巨大さは異常だ。背の丈だけでもリアンの数倍はある。いつか戦った魔猿トラルエイプの長と同じくらいだろうか。白い毛並みという点も少し似ている。

 だが魔猿と巨猪では形状が全く異なる。猪はその寸胴な体躯の分、同身長の人型の種族よりも体積ではるかに勝る。

 そして何よりもそんな巨大な生物が近づいてきたということに、全く気付かなかったのだ。

 その事実に何よりもリアンは動揺する。


 リアンは一人で冒険をしていた時期に、最低限の索敵技術を習得している。

 いくら疲労困憊しているとはいえ、これほどの巨体が動く振動や音、熱、気配そのものを察知できないなど異常事態と言わざるを得なかった。


 そんな少年の心中を知ってか知らずか、ロッケンはごく自然に広場の中央へと歩みだす。

 純白の大猪もまたロッケンへと視線を注ぎ、がりりと地面を掻くような動作を見せる。


「――ちょ、ま……まさか……!」


 今から起こるであろう出来事を予想して、リアンは引きつった声を上げる。

 だが両者は一切構う様子なく、重心を低く構える。


 ロッケンは右足を大きく踏み出し、両腕を大きく開き、その巨体をさらに広げる。

 大猪は地面を確かめるように何度も掻き、頭を揺らしながら荒い息を漏らす。


 そして爆発。


 猪の姿が掻き消え、一瞬でロッケンの身体へと突き刺さる。

 離れていたリアンですらまともに視認の出来ない突進。


 巨木う結び合わせたかのような超質量の激突の破壊力など、もはや想像すらできない。


 轟音が衝撃を伴って周囲を叩く。

 リアンは吹き飛ばされそうになりながらも、必死にその場にこらえる。


「――ロッケ…………!!!?」


 悲鳴のような声は幾度目かになる心からの驚愕によってかき消される。


 目の前に広がる光景があまりに現実離れしすぎている。

 あろうことかロッケンは、巨猪の猛進を正面からただ受け止めている。


 何の小細工もない、ただの正面衝突だ。

 サイズ差は途方もなく体重差など考える方がもはやバカバカしい。


 それでもロッケンはその大きく広げた両腕で巨猪の牙を鷲掴み、がっぷり組み合っている。

 地面は抉れ、ひび割れ、砕け始めているが、それでもロッケンは一歩も下がっていない。


 それはもはや城壁だ。

 巨大な砲弾にも揺らがない、堅固な城壁がそこには聳え立っていた。

 

 全身の筋肉が膨れ上がり、今にもはちきれんばかりに痙攣する。

 普段穏やかな瞳は大きく見開かれ、がっしりとかみ合わされた歯がむき出しになる。

 

 まさか巨猪を受け止めたばかりでなく、押し返そうとでもいうのだろうか。

 リアンはもはや息をすることすら忘れて、目の前の光景にくぎ付けになる。


 いや、そのまさかだ。

 ロッケンの身体は明らかに前傾し、足は前へ進もうと地面を蹴り始めている。


 だが巨猪も負けじと同様に地面を蹴る。ミシミシと空気が軋むような圧迫感。

 いや実際に軋んでいる。空気ではなく地面がだが。


 走っているときと同じ技術なのか、絶妙な調整コントロールで力を地面へと逃がしていたようだが、その逃がされた地面がついに限界を迎えようとしているのだろう。

 ロッケンと巨猪の足元よりも、さらにさらに広い範囲で地面がひび割れていく。


 そして致命的な破砕が起こるその寸前、唐突に力が静まった。


 まるで示し合わせたかのような、突然の終幕。

 そこで初めてロッケンは大きく息を吐きだし、その場で膝に手をつく。

 対する巨猪も眩暈をおこしたかのように数歩ふらふらと後ずさるとその場にドスンと伏せる。


 リアンは目まぐるしい展開に理解が追いつかず、ただ茫然とするばかりだ。


「――また引き分けか」

『これで四十三度目だ。いい加減折れればいいものを』


 耳朶を打つ会話にリアンは放り投げかけていた思考を再開する。


 前者は紛れもなくロッケンの声。

 では後者は?


『しかも見物人まで連れてきおって。なんだこの小さいのは』


「…………しゃべった」


 リアンはその日、人間は驚きすぎると自分が驚いているのかどうかすら分からなくなるということを学んだのだった。

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